オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

効率化・合理化への反発

2009年07月03日 | Weblog

昔、システムエンジニア研修のため実際の開発チームで一年間働いたことがある。

 さすがにソフトウェア開発の職場だけあって、情報収集のためであれば経費はいくらでもふんだんに使えた。16ビットのパソコンがやっと普及し始めた時期にも拘わらずSUNのワークステーションが使い放題であった。A4縦の文書が見開きで鮮明に映し出されるディスプレイは衝撃的であったし分厚いマニュアルは全てハードディスクに収められていたのも驚きであった。パソコン通信も使い放題でインターネットの走りのような試みも始まっていた。パソコンの世界ではやっと20Mのハードディスク(電子レンジくらいの大きさだったろうか)が出始めた頃であった。

気に入った必要な書籍があれば一冊まるまるコピーしていた。

 コピー代を計算すると本を買った方が安いのであるが、本を買うためには申請が必要で手に入れるまでに時間がかかってしまう。コピーはアルバイトのお姉さんに頼んでおけばその日の内に製本されて手に入り自分の手元に置いておけるのである。必要と思われる雑誌や書籍は最新のものが次から次へと手に入れる事ができるにもかかわらずである。情報を扱う職場はこのくらい自由で開放的な雰囲気でないと創造的な仕事ができないんだなあと感心したものである。この部分で制限や規制をかけると雑用に煩わされて枠にはまった考えしかできなくなってしまうのであろうか。

退社前になると不思議な光景を目にした。

 一日の仕事を終え机上を整頓するため要らなくなった文書や資料を床に落とし始めるのである。おびただしい紙束が床を埋め尽くす場合もある。最初の頃は「何て常識はずれなんだ」と思っていたが、退社した後掃除のおばさんが来てみんな片づけてくれ、翌朝は床のゴミは処分されてきれいに掃除されている。まるで床がゴミ箱代わりになっているのである。合理的と言えば合理的ではあるがやはり最後まで抵抗感があった。掃除する側もこの方がやりやすいのだろうか、苦情を言う人もいなかったし、どういう経緯でやっているのか聞くこともなかった。

よく、一日の給料を時給計算して1分がいくらというのを聞く。

 時給1200円であれば1分が20円30秒が10円3秒が1円である。「ゼムクリップを落としたら拾うのは無駄」という教訓がある。拾うのに3秒かかるがゼムクリップは1円以下であり、経営者としては拾う時間を社員に働いてもらった方が得することになる。しかし、この話は何かおかしい。計算上はこうなるかも知れないが、社員は3秒ごとに1円を稼いでいるわけではない。単純な流れ作業であればそんなこともあるかも知れないが、創造的な仕事はそんなことはない。一瞬の閃きで何億円もの価値のある仕事が可能なのである。3秒ごとに1円を稼ぐ考え方ではろくな仕事はできないと思う。それよりも落としたゼムクリップを知らんぷりして放ったらかす心がけの方が問題であり、そんないい加減な気持ちで仕事をするほうが結果に重要な影響を与えるのではないかと思う。

災害の義援金や募金を電話で簡単に済ます方法がある。

 指定された番号に電話をかけると自動的に送金でき、そのお金は後で電話代として請求される仕組みである。ここまで効率化されると私としては何となく抵抗がある。はっきり言うと災害の支援をしたという実感がわかないのである。たとえ無駄があっても贈る人と贈られる人の心の交流が果たせる場面が必要だと思う。最終的には「カネ」ではなくて「心」である。「心」が動かないで「カネ」だけで済ませてしまおうという考え方にはついてゆけない。

コンピュータを動かすソフトウェアを購入する時、

 パッケージを見てみると立派な包装が施してある。中身は素っ気ない言い方をすればソフトを納めたCDと取扱説明書だけである。こんな物がウン万円ウン十万円するのである。「モノ」を買うことに慣れている人にとっては、「ソフト」を買うのに違和感を感じる。よって売る側は「ソフト」を「モノ」に見せかけるパッケージに心掛けることになる。ほとんどが上げ底で、昔なんか別珍の箱に入ってまるで宝物でも入っているような有り難いパッケージもあった。このように「ソフト」を「モノ」として売る状況は過渡期にしか過ぎず、ネットワークが発展すれば将来はパッケージさえなくなり、単なる電気信号がウン万円ウン十万円の時代が来るのであろう。味気ないと言えば味気ない。

「情報」の時代に「モノ」の時代の考え方を引きずるとおかしくなる。

 効率化・合理化の考え方は「モノ」を中心とする考え方である。「情報」は多大な時間と労力をかけても一人の一瞬の閃きでも最終的な価値には関係ない。人・時で計算しても仕方ない部分がある。果たして現在の生産機構、流通機構、販売機構が「情報」中心の考え方に移行しつつあるのか疑問である。「モノ」の時代の考え方を引きずっているとしか思えない。「情報」を一旦「モノ」にして売る時代から「情報」を「情報」のままで売る時代に突入するのであろう。その時こそ「情報」の本来の価値が認められ、これこそ情報化社会の開始地点であろうと思うがどうであろうか。

貨幣の発祥は物々交換に端を発する。

 「モノ」の交換から「情報」の交換になった時、貨幣はどう変わってゆくのだろう。本来、貨幣はAとBを交換するための仲介役として存在している。仲介の部分は時間的・空間的な隔たりである。Aを相手に渡して代わりにその分の貨幣を受け取り、時間的・空間的な隔たりを経た後貨幣とBを交換して目的を達する。ところが現在の貨幣は時間的・空間的な隔たり部分が爆発的に増大してAとBのつながりが曖昧になってしまっている。実体のない貨幣だけの取引が蔓延している。

「情報」の交換には貨幣は必要ない。

 「情報」そのものが貨幣の役目を果たすことができる。貨幣そのものが「Bと交換できることを保障する」という「情報(契約書)」だと考えることもできる。その時に交換すべき対象は明確にしなければならない。実体のないもので取り引きすれば「情報」が消滅してしまう。モノに交換できない貨幣が紙屑になるのと同様である。そして「情報」そのものは時間的・空間的隔たりを必要としない。その場で直接取り引きできる。反対に時間的・空間的隔たりを経ると「情報」は価値を失うことになる。

例えば、甲がAという情報を持ち乙がBという情報を持っていれば、

 二人のニーズが合えば、A情報とB情報を交換して終わりである。ただこれだけである。商売にも何にもなりはしない。ただし、情報交換の場を提供するサービスは存在する。様々な情報を一同に集めて仲介役をするサービスである。しかし、これは情報交換には直接関与していない。あくまで場を提供するサービスである。この場合に必要な設備投資や運営費用に対しては使用料を払わなければならないだろう。これは「モノ」に関連した応分の負担でしかない。「情報」中心の社会では商売がやりづらくなりそうである。

片方が交換すべき情報を持っていない場合はどうであろう。

 交換できる情報を持っていない人は、必要な情報を買わなければならなくなる。貨幣の登場である。しかし、「情報」中心の社会では流通しているものは「情報」であるはずであり、交換できる「情報」を持っていない人は時代遅れの人でもある。いつまでも「モノ」中心の事業で貨幣を稼いでいても仕方ないと思うし、「モノ」と「情報」を交換する(カネで情報を買う)ことは、電気製品を買って海産物のカニや塩サケで支払いするぐらいの違和感がある。

「情報」という言い方をしたが、

 適当な言葉がなかったので「情報」という言葉を使ったが、コンピュータを動かすワープロ、データベース、ネットワーク、表計算、描画などのプログラムも「情報」である。しかしこれは私はコンピュータの一部としか認識しない。どちらかというと「モノ」に近い「情報」である。データベースも書籍データも画像データも音楽データも同じような気がする。「情報」の実体は信用価値であり期待価値であり感性と美学に裏付けされた魅力であると思う。同じ事を繰り返す目的のコンピュータプログラム等は固有の機能をサービスする限りなく「モノ」に近い存在だと思う。

さあてとりとめのない話になって、結論が困ってしまった。

 情報化社会に突入すると言って騒いでいるけれども、真の情報化社会が実現したら、情報の格差はなくなってしまう。これは貧富の格差でもあるし、階級の格差でもあるし、地域の格差でもあるし、技術の格差、文化の格差、国別の格差でもある。このような格差のなくなった世界ではこれまでのような金儲けを最終目的とした商売は非常にやりづらくなるのではないかと思う。情報化社会で金儲けができるのは情報化社会に突入する過渡期だけに過ぎない。情報化の格差を利用して金儲けが可能なだけであり、全てが情報化された社会ではみんな公平・平等の社会になりそうな気がする。当然既成の体制は崩壊し、新たな有志による集団が次々に現れて個人と集団が密接に連携したより自由な社会が生まれるのではないかと思っている。効率化・合理化、高度情報化の行き着く先はより高次の原始社会ではないかとさえ思えてくる。


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