うえぽんの「たぬき鍋」

日々のつれづれ、野球ネタ、バカ話など、何でもありの闇鍋的世界?

うえぽん版「お葬式」・第2話「悲しむには早すぎる」

2005-03-15 21:15:36 | 雑記
(『うえぽん版「お葬式」・第1話「魂抜けて日が暮れて」』の続き)

病院に着き、祖父の入院していた5階に行くと、ロビーのソファーでヒロコおばさんと、先に着いていた妹が、目を真っ赤にして座り込んでいた。既に死後処置の最中だという。
ヒロコおばさんは午後に一度見舞いに来ていた。「息づかいがいつもより少し荒いような?」とは思ったそうだが、特に問題もなさそうだったので、一旦洗濯物を持ち帰り自宅で洗っていたのだ。その最中に病院から電話が来たそうで、私の家へ連絡を入れてすぐ病院に向かい、慌てて祖父の枕元へ駆け込んだ直後、あっという間に息を引き取ったということである。死に目にあえたのはヒロコおばさんだけだった。
我々が着いてしばらくすると、死後処置が完了したということで、病室に入った。ヒロコおばさんによると、亡くなる時は黄疸の症状が出て顔が真っ黄色になっていたそうだが、我々が見た祖父はまるで普通に眠っているようだった。呼吸しているような錯覚さえ感じる。頬は痩けてしまっていたが(もともとやせ形だったんだが)、84歳にして入れ歯なしであったため、口元はキレイに締まっている。ヒロコおばさんと母が「鼻筋がキレイだ」とか眠っている祖父の顔を褒めまくる褒めまくる。その昔、ヒロコおばさんは祖父と鼻の形が似ているのをコンプレックスに思っていたそうなのだが「痩せたらこんなにきれいな鼻筋だったのねぇ~」としみじみつぶやく。
しかし、母が布団をめくって手や足を見ると、別人のようにむくんでいた。やはりガン細胞が全身に巣くっていたということなのか。ただ、最期まで痛がったり苦しんだりした様子が全くなかったのが救いと言えば救いである。
もっとも、祖父は他人につらいいそぶりを見せたり世話をかけさせることを極端に嫌う人であったため、ひょっとしたら壮絶な「やせ我慢」をしていたという可能性も否定できない。昨年夏に胆管炎で倒れた時も、手術室に向かう時はベッドから手を振るなどして余裕綽々な顔をしておきながら、退院後に初めて「ありゃ本当に痛かったヨ…!」と白状したぐらいなのだ。しかし、今回に関して本当のところはどうだったのか、もはや本人に問いただすこともできない。ともあれ今は、安らかな最期だったと信じるしかない。
この間、母も妹もヒロコおばさんも従兄弟(ターちゃん・トーゴちゃん)も泣いていたが、ヒロシおじさん(ヒロコさんのダンナ)と私は涙は全く出なかった。ヒロシおじさんはわからないが、私にはあまりにも展開が急すぎて、現実として飲み込めなかったのだ。未だに飲み込めていない。

ヒロコおばさんが葬儀屋に連絡を入れた1時間後、寝台車が祖父を迎えにやってきた。実はここでちょっとした問題が発生していた。祖父をどこへ連れて行くのか。本来なら、鶴見区の自宅に帰らせてあげるのがスジなのだが、衛生上の問題があったりして(火葬場の空きが最速で4日後だったのだ)、自宅や斎場をたらい回しにするのも具合が悪い…。ということで協議の結果、横浜における葬儀場のメッカ、久保山の某斎場に安置して、そのままお葬式もやってしまおうということになったのだった。久保山なら火葬場も近いし、密葬だから弔問客の交通の便の心配をする必要もない。それより何より、祖父一族の菩提寺&墓が久保山にあるんだから、ここでやらずしてどこでやる、というものである。

祖父は最初から東戸塚の病院に入院していたわけではなかった。伯母夫婦が東戸塚近辺に住んでいるため、行き来しやすいように、祖父のかかりつけだった地元・鶴見のS病院から転院していたのだ。そのため今回、病院側からS病院に「経過報告書」を渡すことになり、たまたま仕事でS病院に関わっている私がそれを持っていくことになった。何気なく宛名を読んだところ「ふむふむ、経過報告書、S病院院長、○○○K吉様」…K吉様?院長はそんな名前ではない。「吉」ではなく「吾」である。黙って向こうに渡しても我々は困らないが、さすがにまずいだろうと思って書き直してもらった。看護士さんが参考にした書類にはK吾院長が手書きで名前を書いていたのだが、走り書きみたいで確かに紛らわしかった。ちゃんとわかるように丁寧に書いてよK吾院長。

準備が整い、病院から出発と相成る。数人の看護師さんや主治医のN先生(めっちゃ美人。母も妹もうらやましがっていた…何を?)が深々と頭を下げて見送る中、寝台車の後を追って久保山へと向かった。その某斎場では地下1階と地下2階でそれぞれ葬式をやっている最中だった。別の入口から、祖父は地下2階に安置され、我々は地下1階の控え室でお葬式の打ち合わせである。これがまた大変なのだ。祭壇や花のランクにもピンからキリまでこまごまある。あまり安くてショボいのも格好悪いし、かと言って密葬なんだからあんまり派手にやってもしょうがない。何せお葬式に関しちゃ素人の集団だから、あれこれ迷ってしまいスパスパ決められないのだ。
26年前の祖母のお葬式は、祖父が一人で何もかも取り仕切った。母や伯母は、万が一のため祖父にノウハウを聞いておこうと思っていたらしいのだが、延ばし延ばしにしている内にとうとうこんなことに。何事も、聞くべきことは早い内に聞いておけ、という教訓である。
そこへ行くと、うえぽん一族は「ダンドリくん」揃い。14年前の祖父のお葬式は祖母と伯母・父・叔父の三姉弟がサクサクとコトを進めて盛大かつスムースに執り行われたし、6年前のお祖母の葬式は密葬だったが、これまた三姉弟のチームワークで見事なものとなった。伯母は会社員時代の42年間、経理畑一本だっただけにお金の計算に強く、父は常に冷静な判断力があり気配り上手、叔父はイベントの企画や進行の経験が豊富で機転が利く(おまけに経理部出身で、伯母同様計算力抜群!)。いっそ三姉弟で葬儀屋を始めたら、結構儲かるんじゃないかしら。
しかし、こちらの一族は自分たちでお葬式を出した経験が全くないビギナーだから(お葬式のベテランというのもなんかイヤだが)、勝手がわからない。だから、私の叔父などにも力を借りることとなった。なんだかんだで打ち合わせが終わったのが午後10時前。ヒロシおじさんは「えー!?まだ8時ぐらいだと思ってたぜ。この後お寺に相談に行こうと思ってたんだけど、ムリだなぁ」とため息をついた。

伯母一家の車で保土ヶ谷駅まで送ってもらい、駅前の中華料理屋でやっと食事にありついた。すごく美味で、ひいきにしたいぐらいなのだが、惜しむらくは保土ヶ谷駅を使う機会がほとんどないことだ。帰りの横須賀線は本数が極端に少なく、隣の横浜駅まで乗るだけなのに20分以上待たされた。家に帰ったら日付が変わっていて、寝たのは1時半だ。とにかく疲れたXデーだった。

(以下次号)
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うえぽん版「お葬式」・第1話「魂抜けて日が暮れて」

2005-03-15 19:24:37 | 雑記
Xデーは、突然訪れた。

先週の土曜日に見舞いに行った時の祖父は、手足はむくんでいたが顔色は良く意識もあり、まともな会話こそできないものの「痛い?」と聞けば首を横に振り、「大丈夫?」と聞くと「うん」と言うような感じできちんと反応していたのである。日曜に従兄のターちゃんが見舞いに来た時も同じような調子だったという。確かに数日前から面会謝絶の病室に移されてはいたものの、まさか月曜日にこんな事になろうとは、誰も知る由もなかった。

月曜の夕方4時過ぎ、話は急転直下の様相を呈し始める。私の家に、ヒロコおばさん(母の姉)から電話がかかってきた。私が先に電話をとり、すぐ母に取り次いだ。私は、いつものように「今日はこんな感じだったよ」という報告をしているのだと思っていたのだが、ヒロコおばさんの話を聞いていた母の顔色が変わり、声が上ずり始めた。「わかった、すぐ行く!」と言って電話を切るなり「おじいちゃん、危ないって」と支度を始めた。私の家から、祖父が入院している横浜・東戸塚の病院へはどう頑張っても1時間はかかる。それまで頑張ってくれるかどうか。妹にケータイですぐ連絡し、台湾の父へはメールを送った。母と私、道中で半分諦めたような会話をしながらも、内心は二人とも「何とか間に合って!じいちゃん頑張って!あわよくば一山越して!」と思っていた。

こんな時に限って電車の接続が悪い。乗り換えの特急が来るタイミングがワンテンポ早くて間に合わない。普段は「まー、しゃーないしゃーない」とのんびりとしたものだが、こんな時ばかりはダイヤの組み方のまずさを罵る我々。勝手なものだが、この気持ち、きっとわかっていただけるかと思う。
5時前、横浜駅にようやく到着。東戸塚へはここから横須賀線で2駅であるが、またしても目の前で逗子行きの電車に逃げられた。つくづくツイていない。ダメな時は何やったってダメなのだ。こんな時は酒でも飲んで寝るしかない…って、そういう場合じゃねんだよっ!
さっきから、ちょくちょくケータイの着信をチェックしていたのだが、電車待ちの間にパカッと開いたら「着信あり」の表示が出た。て言うか、着信あった時点で気付けよ自分。その瞬間、思わず天を仰ぐ私。

終わった…全て終わったよ…orz

留守電メッセージには「午後4時32分に亡くなりました。病院で待ってます」というヒロコおばさんの涙声が残っていた。我々が家出る頃にはもう亡くなってたって事じゃん。色々な意味で脱力し、魂の抜け殻状態で横須賀線に乗る我々…って、我々が魂抜けてどうすんじゃ!?東戸塚はいつもよりも遠くに感じた。東戸塚駅改札からただでさえ長い歩道橋を歩いて病院に行くのだが、これまたいつまで経ってもたどり着かないんじゃないかと思うぐらい長かった。

(以下次号)
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急告・生命の誕生と終焉

2005-03-15 00:33:02 | 雑記
13日、この世に新しい命の灯がともりました。風爺ぃ様、第2子ご誕生まことにおめでとうございます。

そしてその翌日である14日、命の灯が1つ、まさに入れ違いのように静かに消えました。

療養中だった祖父が16時32分、亡くなりました。享年84。臨終の瞬間には間に合いませんでしたが、末期ガンであったにも関わらず、痛みや苦しみの全くない安らかな最期でした。妻(祖母)の急逝から26年1ヶ月と1日。祖母の命日はバレンタインデーの前日、それなら祖父はホワイトデーを、と狙ったわけでもないのでしょうが、見事な幕引きだったと言うしかありません。

通夜は17日、告別式は18日に行われる予定です。悲しいことです。今でも信じられませんし、信じたくありません。しかし、私はこのブログを使って、記録をできるだけ克明に残してみたいと思います。あえてそうすることで、祖父の死をしっかりと真正面から受け止めたいのです。
でも、できるだけユーモアを交えて書こうと思います。目指すは伊丹十三!そう、うえぽん版「お葬式」です。
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