うえぽんの「たぬき鍋」

日々のつれづれ、野球ネタ、バカ話など、何でもありの闇鍋的世界?

電車ん中で(二題)

2005-03-31 18:52:57 | 表へ出ろ
その1「いくらやってもムダなものはムダ」
今日の仕事帰り、武蔵小杉で東横線から目黒線に乗り換えたら、いきなり溶剤のような臭いが鼻を突いた。「何じゃこりゃ!?誰かシンナーでも吸ってんのか!?」と思わず辺りを見回したら、「行列のできる法律相談所」に出てくる住田裕子弁護士の似顔絵を目隠しして描いたような顔のオバハンと、その娘とおぼしき鬼瓦みたいな顔のオネエチャンが堂々と化粧をしてやがった。娘は不自然なぐらいに長い睫毛の同じ所ををえんえんと手入れしており、オバハンはマニキュアを塗っていた。臭いの正体はそのマニキュアだ。
本当なら隣の車両にでも移りたかったのだが、こっちも疲れていたし、最寄り駅の出入り口に一番近い車両だったので「まぁ、ちょっとの辛抱だから」と思って我慢していた。電車は発車し、駅毎に客が乗ってくる。その間にもその親子は化粧をやめようともしない。アンタらには「恥じらい」ってものがないのか、ああオイ!?「この親にしてこの子あり」とはまさにこのことである。マニキュアの臭いのおかげでまだ頭が痛いよ、もう。
もっとも、「悪事」の報いか、オバハンは途中で手を滑らせてマニキュアの瓶を買い物袋の中に落っことして慌ててたけどね。ザマミロ!

その2「人を見かけだけで判断してはいけません」
おととい、これまた仕事帰りにJR埼京線に乗っていた時のこと。ドア付近に立っていたのだが、十条駅で怖そうなオニイチャンが2人乗ってきた。私の頭の中で「危険人物センサー」がピキピキピキーン!と反応する。彼らは革ジャンもズボンも真っ黒で、いたるところにシルバーの鋲やらアクセサリーやらがギラギラ光っている。いわゆるパンクロッカーというヤツか?頭も金平糖のようにトゲトゲが立っていて、ボディピアスもしている。私にとっちゃ、もはや彼らは「宇宙人」である(ものすごい偏見だ)。できることなら逃げたいのだが、あいにく夕方の埼京線は混んでいるし、私も大きい荷物を持っていて簡単には移動できない。そうこうしている内に彼らは私と反対側のドアの前に陣取ってダベりはじめた。怖いながらも「宇宙人」たちが一体どんな会話をするのか興味があり、耳をそばだてたら…。

メッチャメチャ訛っとるや~ん♪

しかも、声がまた見かけによらずかわいいこと!よく見たら、二人とも顔から「いい人オーラ」が出ている素朴そうな青年たちだった。私の中の「センサー」は反応を止め、見かけだけで判断してしまったことを、心の中で深く反省したのだった。でもやっぱり怖いよう。
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教員なんて、ならんで良かった。

2005-03-30 12:46:52 | 雑記
大学教員のフラスコさんのブログ「大学教員の日常・非日常」で「ここじゃ先生じゃないの!」という記事が載っていた。確かに学校以外でお互い出くわすと、気まずいものがある。私も中学時代、地元の某スーパーで担任が一家で買い物しているのを見かけ、何か見てはいけないものを見てしまったような気がして、目をそらしてその場を足早に去った経験がある。向こうも学校では「怖い先生」を演じていたから、あんな所で声をかけられたらたぶんイヤだったろう。
高校の時には、結構学校の近所に住んでいる先生が多かった。私の担任シラさんは隣町の古いアパートに住んでいたのだが、みんなそのアパートのことを知っていて「つぶれ荘」とか「倒れ荘」とか呼んでいたものだ。シラさんは温厚で飾らない人柄(&酒飲み)だったから、その住まいがまたシラさんらしくて親しみを感じさせたのだが、嫌われ者の先生だったら「あんなボロアパートに住んでいるくせに!」とか絶対攻撃対象になっていただろう。教員にとって学校と自宅が近いことは、結構リスキーである。

私の友人知己にも教員が多い。「こいつらが先生やってんのか…」と思うと日本の将来が心配になってくるのだが(ウソウソ、冗談です)、それぞれの職場では私たち友人には見せない「教員の顔」で授業をしているのかと思うと結構興味深い。

静岡で社会科の教員をしているタニーという友人がいる。
その昔、伊豆地方の某高校にいた時、地元に住んでいたせいで行動がまるわかりになってしまって非常に困ったと言っていた。

「タニー先生、昨日の夕方○○の○○スーパーで魚と肉買ってたでしょ」
「えー!?どうして知ってんの?」
「ウチのお母さんが見たって」
「…(滝汗)」

当時、彼はまだ本採用ではない臨時教員だった。それにもかかわらず生徒の親にまで面が割れている…。小さい町の恐ろしさをヒシヒシと感じた、とタニーはしみじみ語るのだった。
本採用となり別の高校(やっぱり伊豆地方)で教鞭を執っている現在は、学校と離れたところに居を構えたか…と思いきや、隣町の教職員住宅に住んでいる。離れたところに住むだけの余裕がないのか、それとも開き直ったのか、どっちなのだろう?
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新規参入企業は大変だ。

2005-03-29 18:51:30 | 野球
いよいよ球春!パ・リーグが一足先に開幕した。今年は楽天ソフトバンクという今をときめくIT企業2社が球団経営に参入し、新時代到来といったところである。楽天は開幕戦で見事に歴史的勝利を収めたが、翌日は26点差1安打完封というこれまた歴史的敗戦を喫し、なかなか前途洋々とは行かない。寄せ集め集団の悲しさ、これからの努力が期待される。一方ソフトバンクは、既存球団の強豪・ダイエーホークスをそのまま買収したから、チーム力の面では全く問題がないと言って良い。しかし…。

ある日のこと。テレビでオープン戦中継をやっていた。巨人対ソフトバンクである。ボンヤリ見ていたのだが、そばにいた母が「巨-ソ」というテロップを見ていきなりこう言った。

「巨人対ソ連?」

がんばれ、ソフトバンク(&楽天)。皆にその名を認められるためには、並大抵の努力じゃ足りないぞ!
もっとも、この場面で自信満々に「ソ連」を持ってくる母の豪快なボケっぷりには、誰も太刀打ちできないのだが。
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季節の好きずきが飲食物と連動しているのはオレだけじゃないはずだ!

2005-03-28 22:08:54 | 雑記
またまたネタに困ったのでトラックバック練習板からお題をいただく。

「あなたの好きな季節を教えてください」

何といっても春!暖かくなって、花は咲き葉は茂り鳥は歌い、何にもなくてもワクワクするような気持ちが味わえるのは、この季節を置いて他にない。いよいよ春!きれいな桜を眺めながら一杯やりたいもんだ。…最近やたらに酒飲みたくなってるのは、祖父が取り憑いているのか…?

逆に、あまり好きではないのが、秋。生まれた季節(10月17日生まれ)なのだが、順番で行くとドベだ。夏が終わって、日没が早くなっていくのがどうにも寂しい。秋の夕暮れになると理由もなく憂鬱になって涙が出そうになる。

あとは…夏は、多汗症気味の私にとってはちょっとキツイのだが、日が長いしアイスがうまい季節だから許す!冬は寒くてたまらないが…鍋のうまい季節だから、これも秋よりは上だな、うん。
秋も苦手ではあるが、過ごしやすい気候ではあるし、サンマがうまい時期だから大嫌いとまではいかない。なんだかんだ言ってどの季節もそれなりに楽しんでいるわけだ。四季の風情が味わえる日本に生まれたことに感謝せにゃならん。

よく考えたら、結局どの季節も「あれがうまいこれもうまい」って、だから太るんだね…。
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騙されません、勝つまでは(シーズン中)。

2005-03-27 22:56:17 | 野球
セは横浜が1位、オープン戦が終了
(日刊スポーツHPより)

フフッ…フハハハハハ!!!!今年はこの勢いで優勝間違いなし!!!!…言ってみたかっただけとです…。

オープン戦の成績が当てにならないなんてのは、横浜ファンを20年もやっていれば基本中の基本的事項である。毎年必ずと言っていいほど裏切られ続けているのだ。もっとも、負けが込んだら込んだで「ああ、やっぱり今年もダメか…オープン戦は現実をまざまざと見せつけてくれるわ」と、前言を翻すのがオチなのだが。どっちにせよ、マイナス思考なのである。何でこんなチームのファンになっちゃったんだか。

小学校5年頃、野球にハマりはじめた当初は、周囲がみんな巨人ファンだったこともあって巨人になびきかけていたのだ。しかし、それを許さぬ人間がいた。父である。うえぽん一族は昔からアマノジャクなのだが(余談だが、母の旧姓は「アマノ」だったりする)、父もご多分に漏れずそういう性格なもんだから、巨人人気が隆盛だった時代にもかかわらず、アンチ巨人だった。
「お前、あんなひどいチームはないんだぞ…」と、「江川問題」を皮切りに過去の悪事をえんえんと説明し、「あんなチームを応援するのはやめろ」と、こんこんと息子に説いたのだった(巨人ファンの皆さんごめんね)。
私も単純だから「へー、じゃ巨人ファンはやめよう」と鞍替えすることにしたが、これから一体どこを応援したものか困った。そこで、選手名鑑をパラパラとめくって、適当なチームを探すことにした。実は、巨人以外のチームをよく知らなかったのである。ある球団の欄にさしかかって、ページをめくる手が止まった。

「横浜大洋ホエールズ」

えっ…?生まれた土地に球団があったの…?知らなかった!よし、今日からここを応援することにしよう!本当に、本当に単純な動機である。しかし、この軽はずみな決断を後悔するのに、さほど時間はかからなかった。この時大洋は珍しく出だし好調で、ファンになった時点(開幕してすぐ)ではたしか2位ぐらいにつけていたはずだ。ところが、ファンになった途端、悪夢の13連敗を喫してあっさりペナントレースから脱落、最終的には青息吐息で4位に食い込んだのだった。見切りを付けるならここだった。
しかし、私を大洋ファンに踏みとどまらせる事態がオフに起こった。広島東洋カープの名監督だった古葉竹識が、新監督に就任したのだ。今思えば、名監督が来たって選手のレベルが上がらなければ優勝なんてできるわけないのだが、幼い私はすっかり舞い上がってしまい、鞍替えをするチャンスを失った。
果たして、古葉大洋は潜水艦のごとく下位をウロウロし、3年目にはドベになり、5年契約であったはずの古葉監督はドベになった責任をとり(とらされ)、チームを去っていく。就任当初「古葉監督よ覇者になれ」という曲が作られたが、結果的には「覇者」ではなく「敗者」になったのである。
この頃になると、負けることに耐性が付き、ペナントレースに関しては「負けて当然、勝てば儲けもの」と常にマイナス思考になり始めていた。そして「負けたけど、屋鋪のファインプレーが見られたからいいや」とか「ポンセのホームランすごかったなぁ、試合はボロ負けだったけど」とか、負けの中にも明日への光明を見いだそうと、試合における観察眼を磨くようになっていった。勝ち負けだけにとらわれない野球の見方というものを、この頃から学んでいたように思う。ドラフトに興味を持ち始めたのも、アマチュア球界で評判の選手を見聞きして「ああ、コイツがウチに来てくれればチームも少しは強くなろうに…」という気持ちからであり、もし私が巨人ファンだったらこうはいかなかっただろう(負け惜しみじゃなくってよ!)。

こうして耐えに耐えてきたから、1998年のリーグ優勝&日本一は心底嬉しかったのだが、何せ優勝経験がないから、喜び方がわからなくて困った。リーグ優勝の時は、ながの氏の大学卒業制作に参加中で、ながの氏の地元の住区センターにいた。ラジオで優勝の瞬間を聞いて思わず飛び跳ねたら、同じく制作に参加していたミキ姉に気味悪がられてしまい、トーンダウン。その後、何だか訳もわからぬまま横浜に出てみたが、騒ぎは一段落したあとで、何となく白けた気持ちで家に帰ったのだった。
日本一の時は、渋谷の焼鳥屋で中継を見ながらGALLEON氏や風爺ぃ氏らと一杯やっていた。あの時、なぜか脳裏に「今日ウチが勝って日本一!」という確信めいたものがあったのだが、あえて口には出さずにいた。言ったらはずれちゃいそうな気がしたから。それが長いこと横浜ファンをやっている人間の奥ゆかしさである(自分で言うな)。
西武ライオンズ最後のバッター・金村が併殺打に倒れ、日本一が決まった瞬間、ファン仲間であるGALLEON氏とがっちり握手を交わして乾杯した酒は、それまで飲んだ中でも格別にうまかった。まさに勝利の美酒である。優勝パレードの紙吹雪もきれいだったなぁ。あの頃はまるで夢の中だった。

あれから早7年。優勝を機に黄金時代突入だ!とはいかないのがこのチームであり、すっかり昔の大味なチームに戻ってしまった。でも、もはや見捨てることはできない。出来の悪い子供ほどかわいいって言うではないか。そりゃ勝つに越したことはないし、強くなってくれたらくれたで嬉しいけれど、トホホな横浜が私は好きだ。野球は勝ち負けばかりが全てじゃないのである。野球だけではなく、人生もそうだと思う。「勝ち組」「負け組」なんて言葉は嫌いだ。世の中そんな簡単に2分化できるもんじゃないんだよ。

かつて、サックス奏者の坂田明はこう言った。

「勝負というものは、勝ち負けではない!」
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私は昔、太眉コンプレックスでした(笑)。

2005-03-26 23:08:36 | 雑記
センバツ球児「まゆ毛事情」 高齢者ら「スポーツマンらしくない」アウト!
(Yahoo!ニュースより)

「手入れしている子を見ると応援したくなくなる」とか「イメージが壊れる」なんてこと言う人もいるが、とかく外野の言うことは勝手である。
ある2年生選手は「丸刈りにするのだから、せめてまゆ毛くらいはおしゃれに決めたい」と漏らしたそうだが、私としてはこちらの言い分を支持したい。でも、手入れしているヤツの大半は、やりすぎるあまりにそこだけ浮いてしまって、逆に格好悪いのだが。

昔は高校球児のみならず、学校における「きまりごと(校則)」は非常に厳しいものであった。ちなみに私の中学時代、男子の髪型は「スポーツ刈りに準ずる」というもので、服装にも細々した取り決めがあり、「下着は白」なんて項目もあった。
私は規則をきっちり守るようにしていた。先生を含む周囲からは「マジメなうえぽん」として通っていた。頭はスッキリ、スポーツ刈り。準ずるどころか坊主に近いところまで短く刈っていた。じゃあ規則大好きなのかと訊かれたら…本音を言えば規則なんか大嫌いなのである。何事も自由な方がいいに決まっているではないか。何でイチイチ下着の色まで学校に決められにゃイカンのじゃまったく。規則を守っていたのは、マジメな気持ちもあるにはあったが、反抗して先生と衝突するのが面倒だったのと怒られるのがイヤだったからである。髪の毛を短くしていたのは、洗ってもすぐ乾くし、手入れが楽だったから。「伸ばしてもいい」と言われても、当時なら迷わず短くしておいただろう。

昨日、母の写真を載せてごまかしたが、今日は腹をくくって、今から15年前(中3時代)の実物をお見せしましょう。ちょっと実物と違うなぁ、この写真写り。現在と体重が約30キロ違います、ハハハハハ(乾いた笑い)。



この頃は、マジメすぎて融通の利かない少年だった。今、同じクラスにこういうヤツがいたら絶対からかって(いじめて)いただろう。「もうちょっとはじけても良かったよなぁ」と、ちょっぴり後悔もしている。
だから、規則のそんなに厳しくない都立高に進んだのは、願ったり叶ったりであった。中学時代の私を知る人間からしたら、ちょっと意外に思われるかも知れない。同じスポーツ刈りにしているのでも「スポーツ刈りに準じなければいけない」と言われてするのと「髪型は自由でいいよ」と言われてするのじゃ気の持ちようが全く違う。
そんな暮らしだったので、他校の生徒が規則通りにキチンとした格好をしているのを見ると、何となく「窮屈そうだよなー」とか思ってしまったものだし、昔は高校球児は坊主が当たり前だと思っていたが、次第に「坊主にしてりゃいいってもんでもなかろう」と考えるようになっていった。
みんな好きで野球をやっているのだろうが、行動や服装などの自由はかなり制限されてしまう。そういうストレスを少しでも発散できるのなら、眉毛いじりぐらいさせてやりなさいな。陰湿ないじめに走ったり、集団万引きとか事件を起こしたりするのに比べたらずっとマシでしょうが。
明らかに度を超した茶髪や長髪はイヤだが、昔のイメージで単純に「高校球児はみんな坊主で自然な眉にしろ!スポーツマンらしくない」なんて言うセリフを聞くと、「それはちょっと違うんじゃないの?」という気持ちになる。
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己の顔をさらせ。

2005-03-25 21:02:19 | 雑記
なごやんさんから「『たぬき鍋』のたぬきとは、筆者の顔を指すのか、それとも体型を指すのか」というご質問をいただいた。それに対して、私は「体型です」と答えたのだが、そういえばここで顔をさらしたことがない。だから、この場を借りてご披露させていただく。



私、こんな顔です。





え?何で白黒なんだって?失礼いたしました。さすがに自分の顔をみすみすさらすのは抵抗があるので、私と縁が非常に近い人物の、子供の頃の写真を使わせていただきました。私の顔をご存じの方ならたぶん爆笑されるでしょう。ご存じでない方は、全体にもうちょっと肉を付けて頭髪のボリュームを減らした顔をご想像いただくとよろしいかと。東京都目黒区界隈で、こんな顔したあか抜けない服装の出っ腹男がウロウロしていたら、たぶんそれは私です。気軽に声をかけ…ないで下さい。人見知りなのでおびえて逃げます。

この写真を初めて見た時、あまりの酷似ぶりに驚いた。そして、「正直、ビミョーだな」と思った。この子は男ではない。私のである。
ちなみに、現在は面影こそ少し残っているが、顔が痩せたり化粧のテクニックが向上したりして、だいぶ様変わりしてしまった(さすがに整形まではしていない、らしい)。だから私は全く気付かず、ずーっと父似の顔だと思っていたのだが、実は母の「完コピ(完全コピー)」顔だったのだ。

実は、母にはこれを載せる許可を取っていない。言ったら「やめてよ!」と絶対拒否するに決まっている。だから、もしバレちゃった場合、この記事はある日忽然と消えているかも知れません。
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タメ口叩いてたちつてと

2005-03-24 21:07:17 | 雑記
先週、大学時代の友人リューちゃんの紹介でミクシィというサイトに加入した。どういうサイトかというと、リューちゃんの言葉を借りれば
「匿名性のない2ちゃんねる」
というヤツだ。ここはコミュニティ内の人からの勧誘によってのみしか加入できないというシステムになっていて、それだけ匿名性が薄く「荒れ」にくいわけである。話によると40万人以上が加入しているらしい。話のタネにと思ってさっそく入ってみたら、ハマったハマった(実は、加入した数時間後に祖父の容態が急変して亡くなった。ミクシィ加入記念日=ホワイトデー=祖父の命日だ。ウワァ━━━━━。・゜・(ノД`)・゜・。。━━━━━ン!!!)。
母校や趣味や仕事、ジモティ(死語)などのコミュニティ(=BBS)がいっぱいあって、現在10個以上のコミュニティに参加している。

実はここまでは長い前置きであって、本題はここからである。

そのミクシィで、大学の1コ先輩である花菊師匠と知り合いになった(「花菊」という名前は彼女が落研時代に付けていた高座名である。だからここでは「師匠」と呼ばせていただく)。師匠は先輩であるのだが、私は1浪なので年は一緒…というか、師匠は1976年の早生まれだから、1975年生まれの私の方が少しばかりジジイだ。

そう、大学は高校までとは違って、同級生が同い年とは限らないし、後輩が年下とも限らないし、先輩が年上とも限らないのである。ちなみに私と同級生の友人には、3浪してたオニーサンとか1浪して入ったけどダブっちゃったオネーサンとか、私よりも年上の人間が数名いた。
大学入学の直前、悩んだのはこの点である。同い年でも先輩であれば敬語を使うとして、年上の同級生に果たしてタメ口をきいていいものかと。今考えたら、タメ口でかまわないんだよね。こっちだって1浪で周りの大半は年下になるわけだけれど、ヘタに敬語使われたら逆に不安だし、ことによっては「バカにされてんのか?」という気にもなる。しかし、当時からかなり神経質だった私は悩みすぎるあまりに人と話すのが怖くなり、入学してからかなりの長期間、友人ができなかった。

ひとたび友人ができれば、私もつきあいは割と良い方なので、交流もドーンと広がっていくわけだが、妙な現象が起こったことがある。
当時、私の友人数人が専門学校に行っていて、そこの同級生であるミッチとスマイルという2人と友達になった。ある時、私の通っている大学の話題になって彼らが「そこ、俺らの同級生がいるよ」と言いだしたのだ。彼らは、現在は統廃合されてしまった某都立高出身なのだが、その時の友人であるサソリマンという男が、私と同じ大学にいるのだという。「へぇ~面白いつながりがあるもんだねぇ。今度一緒に遊ぼうか」なんて話になり、後日サソリマン氏たちと麻雀をしたのだった。サソリマン氏は現役で入ったので1コ先輩である。だから最初は一応敬語を使っていたのだが、途中からは「いいよぅ、かしこまんなくて。同い年じゃん!」と言われたこともあって、以降はすっかりタメ口になった。
その話を同級生の友人ウッチー&イソちゃんにしたら「え~っ?うえぽん、サソリマン先輩知ってんの?しかもタメ口?」と向こうが驚くので、こっちも「何だよ?何でお前らがサソリマン知ってんの?」と聞き返したら、なんとそいつらのサークルの先輩だったのだ。
交流が巡り巡って一周するという、世間の狭さを思い知らされた出来事であった。

2年への進級を控えた初春、あの頃を思い出して「あんなつまらんことで悩んでたなんてオレぐらいのもんだよなぁ」と思っていた。ところが、である。ある日の夜、中学時代の同級生・チュウアンからいきなり電話がかかってきた。彼は私よりもう一年遅れて、この度めでたく大学合格を勝ち取っていた。
「チュウアンどうしたの突然?何かあったの?」
「ちょっと相談したいことがあってさ…オレって2浪じゃん?入学したら、先輩や同級生相手に言葉遣いどうしたらいいのかと思って…」

オレだけじゃなかったんだー!

私は心の中で快哉を叫び「んなもん、どうってことないってばさー!」と、ちょっとばかり先輩風を吹かしながらチュウアンを励ましたのだった。
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パイとカードの日々

2005-03-23 21:54:55 | 雑記
みおさんのブログの『大好き。でも、今は読めません。---『コマのおかあさん』鷺沢 萠』という記事に触発されて、鷺沢萠のエッセイを図書館でたくさん借りたは良かったが、その直後に祖父が亡くなってしまい、ゆっくり読むどころじゃなくなってしまった。それでも何とか時間を見つけては読み続け、今日の名古屋出張でやっと読み終わった。主に、出先の行き帰りの電車やバスで読んでいたのだが、あまりのおかしさに笑いをこらえるのが大変だった。それでも思わず読みながらニヤニヤしてしまい、ハッと我に返って辺りを見回すこと度々。
やべぇ、面白すぎるこの人(と、その周りの人々)。なんでそんなに早く逝っちゃったのさ。もっともっと、面白いことたくさん書いて欲しかった!今さらながら憤りを覚える私である。

たくさん借りた中でも特にツボを突いたのが「酒とサイコロの日々」。彼女の大好きな酒とギャンブル(特に麻雀)に関する抱腹絶倒のエッセイを集めた一冊である。私は「これは絶対面白い!」と中身を読む前から確信し、わざと一番最後にとっておいたのだ(私は、目玉焼きの目玉は一番最後に食べる人間です)。そしてその確信はまんまと的中し、名古屋市営地下鉄桜通線の車内で私は思わず「クーッ!」と吹き出して、周りから白い目で見られてしまったのだった。

思えば私も、サルのように麻雀に明け暮れた日々があったのだ。時は高校時代に遡る。
休み時間や放課後に、教室で見慣れないカードを持って遊んでいるグループがいた。すごく楽しそうだったので、ギャラリーになって覗いていたら、カード麻雀だ。「うえぽん、麻雀のルール知らねーの?何なら教えてあげよっか?」と甘くささやき、私を「悪の道」に引きずり込んだヤツは一体誰だったか、未だに思い出せない。それはともかく、これが麻雀との運命の出会いであった。

「やりながら覚えていった方が早い」なんて事を言われて「卓」に放り込まれ、一枚カードを引いて来るたびに後ろのギャラリーに「これってどれ切ったらいいの?」とか「これって役あるの?」とか訊きながらノロノロやっていく内に、自然と手作りの仕方や役を覚えていった。でも、未だに点数計算はできない。あれだけはどうしても覚えられなかった。
レートは他愛のないもので、役一つにつき10円。しかし、一役10円ったって「塵も積もれば山となる」で、毎日サルのようにやってて負ければ、貧乏高校生にとっては結構シャレにならなかった。休み時間はもちろん、放課後もえんえんと。ヘタすりゃ授業中にもこっそりとやっている一団もいた。私のいた学校は定時制もあったため、我々全日制の生徒は午後5時という早い下校時間であったが、その分集中して密度の濃い闘いが繰り広げられていたのである。

しばらくすると学校だけでは飽きたらず、友人の家で卓を囲むことが増えてきた。やはりカード麻雀と本物の牌でやる麻雀は別物だ。当然、本物でやった方がいいに決まっている。毎週土曜日の放課後、桜新町に住んでいる友人ダティの家で卓を囲むことが雀仲間の恒例になった。学校のある下高井戸から世田谷線で世田谷まで乗り、そこからはみんなでバス通りをゾロゾロ歩いてダティの家まで行く(ダティは自転車で一足早く帰り、準備をして待っている)。みんな「今日は勝ってやるぜ!」と目は輝き、心は弾み、足取りも軽い。でも、数時間後には一部の人間を除き、死んだ魚の目をして足取り重く「今日はやめときゃ良かった…」と呟きながら家路につくのがオチだった。
当時、土曜日の私は行きたくもないのに親から半強制的に○々木ゼミナールに通わされていた。最初の方は一応マジメに通っていたが途中からはアホらしくなり、よくサボってはダティの家に行くようになった。それが2~3回ほど続いた時、何とチューターから自宅に「最近出席していないようだけど、どうしたの?」という電話がかかってきて非常に焦ったことがある。ちゃんと出席チェックしてたのね。そこで私は非常に面倒くさい対策をとらねばならなかった。下校後に下高井戸から京王線で新宿に出て、そこから歩いて○ゼミまで行き、出席チェッカーにカードを通してから渋谷に出て、そこから電車かバスを使ってダティの家に行っていたのだ。

本当にバカである。わざわざ学費を出してくれた親に申し訳ない。そんなにしてまで麻雀がしたかったのかキサマ!この親不孝者!!と、当時の自分を小一時間問いつめたい。おかげで大学行くのに1年遠回りしたし。でも、バカやってて充実した楽しい時代を過ごせたのもまた事実だし、今にだって生かされている面も少なくはない。実際、こうやってブログのネタにもなってるし(そりゃちょっと違うか?)。
どこぞのお菓子の広告ではないが「若さとは、バカさだ!」というのは本当のことだと、三十路を目前にした私は痛切に思う。むしろ、若い内にバカやった方がいいのかも知れない。そういう経験がないと人生寂しいと思うし、若い頃の経験がなかったばっかりに、世間で許される境界線を踏み越えるような大バカやって道を踏み外すヤツだっているのだ。

話を麻雀に戻そう。今考えたら脂っこいメンツばっかりだったなぁ。ダティは理論派でダマテン主義の不気味な男だったし、シゲは派手な役が大好きで、ツボにハマった時の破壊力が半端じゃなかったし、ハマーは地味だったけど地力があって結構強かった。それに、忘れちゃいけないのはサントーだ!コイツは本物のギャンブラーでまさに「鬼」だった。「オレはヤツの金庫か…?」と思うぐらいに負けまくったものだ。サントーの友人たちの強さもシャレにならなかった。卓が立つ度に私とGALLEON氏は、当時で言うところのベイスターズタイガースのごとく、常にドベ争いをしていたのである。
散々痛めつけられておいて、よくイヤにならなかったものだと今さらにして思う。とにかく勝とうが負けようが牌を握ってみんなとやりあうのが面白くてたまらなかった。あんなにまで一つのことに打ち込んだ期間というのは他に記憶がない。あんなに負けたのに楽しかった。高校時代の思い出の半分以上は麻雀だ。それもまたよし。友情や教訓など、麻雀に教えられたことは数多い(「授業料」は非常に高かったが)。私に麻雀を教えてくれた諸氏に感謝したいと思う。でも、サントーとは現在連絡を取っていない。

おまけ
私が麻雀を覚えたと聞いた父は「まぁ、ほどほどにしとけヨ」と言ってニヤリと笑った。父はパチンコ競輪競馬競艇など、ギャンブルは一切やらないマジメな男なのだが、あの笑いが妙に気になって、当時存命中だった祖母に「うちのオヤジって、昔っから賭け事しなかったの?」と訊いてみた。すると祖母は「とんでもない!あの子はね、大学時代は麻雀で生計立ててたんだから。雀荘から年賀状が来るほどだったのよ。亡くなったお父さん(私の祖父)が『マジメに勉強しろ!』っていつも怒ってたんだから」だと。母にも訊いたら結婚してからもしばらくは毎日のようにやっていて、終電帰宅は日常茶飯事だったという。
そういえば、昔父に何気なく「大学で何かサークルとかやってたの?」と聞いたら
「中国古典文化研究会」
と答えたので「オヤジ、確かコテコテの理系(東京電機大学卒)だったはず…?」と不思議に思っていたのだが、そういうことだったのか!お父さん、私は間違いなくアナタの子です。
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「あなたの故郷(出身地)を教えてください。」

2005-03-22 13:33:06 | 雑記
ネタに困ったので、トラックバック練習板今週のお題から話を引っぱってみようと思う。

そもそも、出身地というのはどこをもって出身地とすべきかが、昔から気にはなっていたのだ。生まれた時に住んでいたところを指せば良いのか?だとすれば、神奈川県横浜市瀬谷区ということになる。ただ、1歳ちょっとで現在地に引っ越したので、全然記憶がない。横浜生まれだから一応は「ハマッ子」だ。江戸っ子は「三代住まないと真の江戸っ子ではない」なんてことを言うが、そこへ行くとハマッ子は「三日住めばハマッ子」といういい言葉がある。何という懐の広さ。だから私も堂々と「ハマッ子でした!」と名乗ることができるのだ。
でも、瀬谷は横浜の西の端だもんで海がない。そもそも、世間の人が持っている「ヨコハマ」のイメージは、極端な話、中区西区の一部だけで作られたものであり、その他の区ははっきり言って「おまけ」みたいなもんだ。特に瀬谷なんか、元区民だから言わせてもらうが「ド田舎」である。大人になってから何度か訪れてみたことがあるが、特徴がまるでない。生家のそばには鬱蒼とした林があって、墓地がある。今あそこに住んでいたら、夜は怖くて出歩けない。駅から遠いは、近所に店はないはで不便極まりない場所である。でも、そんな瀬谷が私は好きだ。高い建物がないから、歩いていて空がとても広い。あののんびりした雰囲気がたまらなくいい。覚えてもいないくせに愛着たっぷりである。そうじゃなければ堂々と「ハマッ子」だなんて言わない。

ちなみに、出生地は同じ横浜の鶴見区である。先週亡くなった祖父の家のそばにある病院で生まれた。そこの近所には某大手製菓会社の工場があって、その風下にいると、時にものすごく甘ったるい香りが漂ってきて、気分が悪くなったりする(爆)。母は幼少時、近所に住んでいた工場のパートのおばちゃんに、形が悪かったりして商品にならなかったいわゆる「キズモノ」のお菓子をよくもらったらしい。あの近辺は「港ヨコハマ」のイメージとはまた違った一つの世界である。

一番長く住んでいるのが現在地・東京都目黒区である。芸能人がたくさん住んでいたり高級住宅街があったり、皇太子妃の実家がある土地でもあるため「目黒に住んでいます」と言うと大概の人間はイメージが狂うらしく「えっ、コイツ目黒区民?」みたいな目で私を見る。10人中6~7人の割合で「北関東~東北地方出身だと思った」と言う。確かにやることなすことあか抜けないが、北関東~東北出身の方に申し訳ない。おミヤさん(中国地方出身)あたりは未だに「キミが目黒区民だなんて認めたくない」とか冗談半分に言って笑っている。
だぁかぁらぁ~、目黒区民ったってピンからキリまでいるんだって。みんながみんなハイソな訳じゃないのよ。オレみたいなヤツだっていっぱいいるんだってば。ウソだと思ったら、一度住んでみるといい。敷居の高さはほんの一部の地域で、大半はなかなか庶民的な町なんだから。

我が家は二世帯同居だったし、母の実家は横浜だから、お盆や年末年始の帰省ラッシュとは全く無縁だ。楽と言えば楽だが、それもちょっと寂しいものがある。その代わりに、家でのんびりニュース映像を眺め、高速道路の渋滞や新幹線の混雑ぶりを見ては一家でニヤニヤしながらお茶を飲むのが楽しみだったりするのだ。イヤな一家だなぁ。
コメント (8)
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