うえぽんの「たぬき鍋」

日々のつれづれ、野球ネタ、バカ話など、何でもありの闇鍋的世界?

「Mellow F」後記

2005-02-28 17:16:46 | 雑記
以前からちょこちょこ書いていた、大学の後輩たちによる演劇「Mellow F」が無事に3日間の全日程を終了した。当初は一観覧者の予定だったが、一昨年から関わっているから慢性人手不足の内情を知っている私。「もし良ければ手伝うよ」と連絡したら案の定、「お願いします…!」との返事が来て、まんまと首をつっこむことになった。むしろ「そろそろお芝居の季節じゃん。お手伝い参加の要請こねーかなぁ」と、手ぐすね引いて待っていたというのが正しい。

一つのものを大勢の仲間で作り上げていくという作業は、多くの困難も伴うが、いざハマるとなかなか楽しいものだ。己の学生時代は面倒くさがりだったのと、元々集団行動が苦手だったこともあって帰宅部に徹していたのだが、いざ卒業するとそういう経験がなかったことがちょっと寂しくなるから勝手なものである。だから、「お手伝い」に名を借りて学生時代の埋め合わせをしているわけだ。「いつもいつもありがとうございます」と毎度感謝の言葉をいただくが、埋め合わせの機会を与えて貰えたこちらこそ、感謝せねばならない。

受付業務がメインだが、5回の公演中2回は前説(開演前の諸注意)をやらされた。芝居経験者じゃないから、小劇場とは言え、場内に声が全然通らない。おまけに2回とも噛み噛みだった。2回目にいたってはカンペを読んでいたにも関わらず噛んだ。正直、消えてなくなりたいほど恥ずかしい。他の3回は他のお手伝いさん(芝居経験者)がやったが、やはり声といい落ち着きといい全然違う。固辞すれば良かったか。しかし、人前に出ることにちょっとしたマゾ的快感を感じ始めているのもまた事実であったりする。役者も上演中、そんな気持ちを感じるものなのだろうか。是非今度聞いてみたい。

3日間の公演が終わり、ちょっとしたセレモニーや記念撮影を終えると、舞台の「バラシ(=撤去作業)」がある。バラシのための特別要員も集結し、劇場の貸し切り時間ギリギリまで、上を下への大騒ぎだ。まさに戦場である。学生にとっては追加料金を取られるのと取られないのとでは死活問題なのだ。テキパキと作業が行われ、ついさっきまであった舞台がうそのように、ただの一空間に戻る。夢から覚めるような感覚だ。この瞬間がなぜか好きである。説明に困るのだが、極論すると「舞台はバラシのためにある」とすら思っている。

新宿・歌舞伎町での打ち上げにも招かれ、混ぜてもらった。いろいろ話を聞いていると、もう10歳も年の離れた後輩がいることに愕然とする。そりゃそうだよな。今年で30歳だし、もう大学出て6年目になるんだもの。しかし、昭和60年生まれの子がもう大学生なんだねぇ。何か、変な気持ちである。自分の妹がもう25歳であることがまだ飲み込めないのに、さらに5歳下か…う~む。時の流れを痛感せずにはいられない。自分が大学生の頃は、30歳前後の人はみんなしっかりしていて頼りがいがあり、脂の乗った大人のオーラが漂うイメージがあったが(悪く言えば「オッサン&オバサン」なわけだが)、いざ自分がその年齢になると、己の不甲斐なさに情けなくて涙が出そうになる。みんな、こんな頼りない先輩でスマン。

1次会が終わったのは午前1時。今から帰ろうにも電車がないから2次会にもなだれ込み、カラオケボックスで朝5時まで歌い倒した。実は昨年の今頃もこの劇団の手伝いをやっていて、ほとんど同じ展開でやはりカラオケボックスにいたのだが、演出担当のHくんが1発目に歌ったのが「マツケンサンバⅡ」だった。場の全員が腹を抱えて笑い転げ、ノリノリ状態になったのだが、その直後これが大ブレイクするなど誰が予想し得たであろうか。単なる偶然か、それともHくんに先見の明があったのか…まぁ、単なる偶然だろう。
みんなと別れを惜しみつつ、家に帰ってきたのは朝6時。もっとヘロヘロになるかと思いきや、意外と体が保つものだ。おそらく、今まで勤務してきた会社が不規則勤務のところばかりだったから、体の奥底で適応能力が働いているのだろう。もっとも、徹夜なんて何度もやるものじゃないが。

学生時代に何をしたというわけでもなかったはずなのに、今でもこうして大学の人間と交流があるというのも、ありがたい話ではないか。良き師良き友良き先輩良き後輩に恵まれ、幸せなことである。うつ持ちで、ちょっとしたことでも厭世的になりがちな私にとって、こういう人間のつながりは生きる上での貴重な糧だ。「まだ捨てたものでもないかもね」という気にさせてくれる。これからも、こういう縁を大切にしていきたいものだ。

※動画は、開演前の一光景。一同がやっている怪しげなアクションは劇中に出てくる「蛇の舞い」である。皆さん、黙って撮っちゃってゴメンナサイ。面白かったもので、つい…。
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大学行ってりゃいいってもんじゃねーぞ、バカヤロコノヤロめ!

2005-02-27 10:02:13 | 雑記
この時期、河○塾の「フレーフレー塾生」というポスターを見るたび「お前ら懐が狭いな。受験生全員を応援するぐらいのこと言えや!」と怒りを覚え、早○田塾の「現役高校生のための予備校」という肩書きを見るたびに「へぇ~、浪人生は用なしかよ、ケッ!」と一人でいじけ、東○の「ハッキリ言って講師陣が自慢です!」というキャッチフレーズに「講師が良くて合格すんなら苦労は要らねーんだよ。受けるのは講師じゃなくて生徒だろ!」と心がすさむ、浪人経験者で代○木ゼミナール出身、生まれついてのアマノジャク・うえぽんです。もちろん、代○木ゼミ校舎のいたるところにある「日々是決戦」という貼り紙にも「お前ら受験生から金巻き上げて『日々是決算』だろうが!」と毎日ツッコミを入れておりました。


友人・おミヤさんは、故郷の大学で非常勤講師をしている。作文の書き方を教えているらしいが、一昨日久々に会ったとき、一枚のハガキを持ってきた。
そのハガキは、おミヤさんが教えているある学生からのものだ。彼は出席率が悪く、これ以上休んだら単位を落とすところまで来ていた。そこでおミヤさんは正月に「単位を落としたくなかったら、返事をよこしなさい!」というハガキを彼の元へ送りつけたのだが、その返信である。

中身は全て、鉛筆書きで字が汚い。小学生じゃあるまいに、しかも単位がかかっているのだから、せめてペンでしっかり丁寧に書いたらどうか。既に私の頭の中で「コイツはアホだ」と思い始めている。
続いて、宛名を読む。おミヤさんの下の名前が書いていない。「○○(おミヤさんの名字)先生へ」。オイオイオイオイ、これじゃホントに小学生じゃん。後で本人に聞いたら「下の名前を知らなかった」と来たそうだ。おミヤさん、こんなヤツ落としちまえよ。
さて、本文。最初に返事の遅れを詫びているが「遅れて」が「送れて」と書いてある。うぎゃあああああ。「一応」が「いちよう」と書いてある。どわあああああ。読めば読むほど、この男のアホぶりが私に向かって襲いかかる。来るな、来るんじゃねぇ!
「一生のお願いです、単位下さい。」私がおミヤさんの立場だったら容赦なく斬り捨ててやるところだ(て言うか、救済のハガキなんか出さん)。しかし、おミヤさんによると「学生の大半はこんなヤツらばっかり」なのだそうで、「普通」の尺度で考えたら全員落第させねばならないようなレベルなんだそうな。さすがに全員落第はまずいだろうな。
何だか全国で頑張っている真面目な受験生、大学に行きたくても行けなかった人たちが不憫になってきた。こんなんでも大学生になれるのか。私も他人のことをとやかく言えるようなレベルじゃないが、いくらなんでもひどすぎる。「ゆとり教育」なんてとんでもない。英語だ何だという前に、国語教育を何とかしろ。親も子に文章の書き方ぐらい教えろ。大学まで来て「作文の書き方」なんて授業があること自体おかしいじゃないか。大体、日本の教育は…(以下、長くなる上につまらないので省略)。
ちなみに、おミヤさんによるとそいつは「今まで作文を書いたことがない」という。他人の文章を丸写しさせてもらったりしてここまで来たそうだ。色々な意味で呆れて言葉も出ない。
しかし一番のツッコミどころは、一応最初に返事の遅れを詫びて年始の挨拶も書いているが、消印が「1月28日」であったことである。もはや大笑いだ。一緒にハガキを見ていた後輩・ミサコちゃんは爆笑しながら「ここまでアホだと逆にかわいいですよねー」と言っていたが、確かに、ここまで突き抜けていると「もういい、お前はこの道を突っ走れ!」という気持ちになってくるから不思議である。でも、大学生としては、どうかなぁ。

近年は、私のような浪人経験者もグッと数が減り、ブランドさえ選ばなければ誰でもすぐに大学生になれる時代だ。でも、この状況って、何か違うんじゃない?
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重症神保町中毒

2005-02-26 10:14:14 | 表へ出ろ
以前、「人生は演劇である-セネカ(古代ローマの哲学者・劇作家)」で、後輩の芝居を見に行くという話を書いたが、いつの間にやらまた手伝いをすることになり、昨日、今日、明日と高田馬場行きである。昨日は、夕方からの公演だったので時間があり、高田馬場に行く前に神保町に寄ることにした。約半年ぶりである。

神保町は活字中毒患者の聖地だ。あそこへ行けば、大概の本は手に入る。私が購読しているバスの雑誌はどうしたわけだか、近所の本屋では売っていない。それで、以前は二月に一度は神保町に通っていたのだが、ここ最近は何かとタイミングが合わず、ご無沙汰になっていた。今回、神保町の隣の九段下から高田馬場方面へ「飯64」系統の都営バスが走っている点に目をつけ、「これはちょうどいい!」と、神保町行きが決定したのだった。

私の神保町詣でが始まったのは、高校に入ってのことである。中学まではお小遣いも乏しく、また一人で遠出する習慣というものがなかったが、高校に入って、それまで潜んでいた思いが爆発するかのように、毎日寄り道癖がついた。行きは普通に行くとして、帰り方を毎回変えてみたのだ。あっちへフラフラこっちへフラフラ。わざと家とは逆方面の電車に乗ってみたり、バスの定期を使って、1本の路線で帰れるところをわざと2~3本使って大回りしてみたり。
そんな中、ふと「神保町へ行こう」と考えついた。昔から本の街として有名な神保町、本好きとしては一度は行ってみたい…高校からなら、地下鉄新宿線直通のヤツに乗れば1本だ。ヨシ!
そして、初めて神保町に行ったときの感激といったらなかった。書店にある本がみんな私に「おいでおいで」しているようだ。まさに聖地である。書店というのは不思議なもので、普段興味のない分野でさえ、本棚を見ているとやたら面白そうに見えるのだ。最初の頃は、それでつい買ってしまい、家に帰ったら興味が冷めてあまり読まなかったという失敗も多かった(面白さに目覚めたこともあったが)。しかし、書店の楽しみはまさにそこであり、通販じゃこうはいかない。特に目的を定めずにあらゆるジャンルの棚を見て歩き、波長の合う本を見つけたときの喜び!活字中毒者ならきっとおわかりいただけるかと思う。
毎回神保町の空気を満喫した後は、当時お茶の水駅から神保町経由で渋谷駅行きのバスがあったのだが、それに乗って帰るのがまた楽しみだった。何せ渋滞する道路ばかり走る路線で、時間通りに走った試しがないのだが(そのせいで後年廃止された)、そのおかげで地下鉄と違って空いているし、車内でゆっくりと買った本が読めたのだ(爆)。現在は、自宅の最寄り駅から地下鉄三田線直通の電車に乗ればすぐ行けるので便利になったが、あのバス路線の廃止は昔の思い出がなくなるようで寂しい思いもあった。
大学の前半2年間は千葉通いだったが、それでも二月に一度の神保町詣では欠かさなかった。そして後半2年間は、大学に行く日=神保町詣でだった。なぜなら、校舎が九段下にあったからだ。こうして神保町で私の活字中毒はより一層悪化し(爆)、現在に至るのである。

半年ぶりだったので、本屋に入った途端「棚にある本全部欲しい症候群」に襲われ、財布を固く握りしめて「いかん、いかんよ。ビンボーなんだから。散財しちゃダメー!」と自らに強く言い聞かせるのに大変苦労した。…それでも、5000円ぐらい一気に使ってしまった。やはり、適度に神保町詣でしてガス抜きをしておかないと、反動が怖い。ある意味、麻薬的な魅力の街である。
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超偏食的活字中毒患者のほざき Part2

2005-02-25 12:56:29 | 雑記
私の家には、私専用の独立した部屋がない。一応自分用のスペースはあるが、広さは微々たるものである。元々二世帯同居住宅で、1階に祖父母と父の姉が住み、2階にうえぽん一家が住んでいたが、祖父母は他界し、父は現在台湾に単身赴任中。妹は彼氏と実質同棲状態で、現在は1階に父の姉、2階に私と母の3人暮らしだ。だから、一時よりは窮屈でもなくなったが、それでも狭い。
台所・風呂は兼用である。ちなみに、電力は1世帯分の30アンペアしかないため、この時期にオーブン等を使う場合はどちらかの階の暖房を止めないとブレーカーが落ちる。時折、ブログを書いている最中に停電し、悲鳴を上げることも度々だ。とにかく、我が家は何もかもがコンパクトなのである。
そんな私の悩みは、本の置き場所。元々物を捨てられない人間である。これは母譲りの性格で、母も雑誌が捨てられず、あらゆるところに平積みにしては父に「いい加減に捨てんか」と怒られているのだ。私も昔は机の上や横に本が平積みになり、ただの物置状態になっていたことがあった。この前、古本の山の重みで床が抜けたアパートの話があったが、あれに近い物がある。
ここ数年、心を鬼にしてその山を撤去し、多くの本を売りに出したり捨てたりして、やっとまともな状態になってきた。それでも、押入などには本や雑誌が山積みになっているのだ。困ったものである。
それに対する私の防衛手段…極力本を買わない。図書館で読めるものは図書館で。欲しいかどうか迷った本は、3回書店に立ち寄って、それでも欲しいときには買う。これは、ビンボーな私にとっては節約の意味もあるのだが、ある意味拷問でもある。3回目に行ったら既に置いていなかったなんてことがある。これは悔しい。結局別の書店をあさっているうちに、また別の本に心惹かれて混迷の無間地獄に陥るのだ(それもまた楽しいと言えば楽しいのだが)。図書館だって、行ってその本があるかどうかの保証はない。予約殺到で待たされることだってある。それに最近、区の財政難のために本の購入を減らす方向に向かっているらしい。けしからん。
最近、また活字中毒の様相を呈してきている。風呂に入るときでも、何か必ず一冊持っていく。たまにうっかり浴槽に落としてガビガビにしてしまうこともあったりする(そういえば、受験生だった頃「風呂で覚える英単語」なんて持ってたなぁ。特殊な紙を使っていてぬれても平気、というヤツです)。
本は買いたしスペースはなし。もし将来お金が貯まったら…書庫が欲しい。地下でも何でもいい。ドーンとスペースを設けて、書庫&書斎を造りたい。作家の立花隆氏はネコビルという超巨大な「書庫」を持っているが、その存在を知ったとき、もう「ハハーッ」とひれ伏すような気持ちになった。あれこそ活字中毒患者の夢の具現化みたいなものである。あそこまではムリとしても、自分だけの世界に浸れる空間が、何としても欲しいのです!
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母なる自然は性悪女だ。-マーフィーの法則

2005-02-24 19:42:52 | 雑記
私の家のすぐそばに、このあたりの大地主であるA家の大きな敷地があった。敷地のほとんどは高い木々が生い茂る林で、ちょっとしたランドマークでもあった。私が客人を家に呼ぶときは「右手に林があるから、その林の先端で右に曲がって…」と説明すれば、まず間違いはなかった。
小さい頃はキャッチボールでよく林にボールを放り込み、金網を乗り越えて「うわぁ~、草ぼうぼうでどこにあるかわかんね~よ~」とボヤキながらボールを探したものだし、私は昆虫嫌いで参加しなかったのだが、通称「ライポン」と呼ばれる刺さないハチ(正式名称・トラマルハナバチ)の採集にも最適の場所で、まさに自然が残された貴重な一角だったのである。

話が少し脇道に逸れるが、ライポンという通称は共通のものだと思っていたので、隣のS区の住民である友人にライポンの話をしたら「何それ?知らない」と言われて大いにとまどったことがある。彼の住んでいた地域でもトラマルハナバチ採り自体はあったのだ。ただ、ライポンとは呼ばず、「キグマ」と言ったそうである。よく考えたら、「キグマ」という通称の方が「黄色いクマンバチ」の略称で、まだ理解のしようがある。なぜ我々の住んでいた地域では「ライポン」だったのか。検索しても、出てくるのは「洗剤」と「そういう通称のハチの存在」ばかりで、由来が全くわからない。ライポン採りも昭和末期に爆発的に流行り、あっという間に廃れていった。何もかも謎だらけのライポンである。

それはさておき、数年前にA家の主が亡くなった。そして相続上の問題で、A家はこの林を手放すことになった。我々は「え?ひょっとしてあの林、なくなるの?どうなるの?」と話をしてすぐ、林は国の管轄下に置かれたらしく、「売地」の看板が立った。そして買い手が付き、とうとう林がなくなる日がやってきた。高くそびえていた木が次々に切り倒されていく。土はならされ、家から向こう側が丸見えだ。何とも妙な眺めである。反対に、向こう側から家方面を見ると、六本木ヒルズが見えた。これはこれでなかなか新鮮な景色である。どうせならこのまま公園にしてもらいたいぐらいであった。しかし、いつの間にやら区割りがなされ、あっという間に分譲住宅が次々に軒を並べ、せっかくの景色も再び見えなくなってしまった。
「どうせこんなとこ売れないよ。ギチギチに家建てて、庭もないし狭いじゃん」なんて我々は呪いの言葉を吐いたが、現在も2~3件売れ残っている。

自然がなくなり、以前より殺風景になってしまった感がある。しかし、あの林がなくなって以降、毎夏あんなに悩まされていた蚊がいなくなり、ゴミをつつきまくっていたカラスも数が減った。もっとも、これは動物の生態系が変わったということで賛否両論あろう。素直には喜べない。
しかし、それより何より、毎日のように薬を飲み続けていた慢性アレルギー性鼻炎&花粉症が、林が消えて以降、パッタリと収まった。今冬は一度も鼻炎薬を飲んでいない。これは、個人的にはものすごく喜ばしいのだが、果たして…。
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名古屋駅弁・びっくりみそかつ

2005-02-23 18:28:18 | 表へ出ろ
見た目、ハンバーグにちょっと似ている。とんかつをナイフとフォークで食べるなんて、なるほどびっくりだがや。

私はみそかつは全く抵抗なしに食べられる。というより好きだ。しかし、私がいくらみそかつのうまさについて力説しても、両親は頑としてみそかつを拒絶する。なぜだ、なぜなんだ。母はハマッ子だから、まぁしょうがないと言えばしょうがない。しかし、名古屋人と大阪人の「ハーフ」である父がみそかつを認めようとしないのは納得いかん。
両親は食べ物の好き嫌いがほとんどないのだ。苦手な物はあっても、食べることはできるのだ。しかし、みそかつはNO…。両親は納豆やもずくが大好きなのだが、私にとってはあれこそ「食べ物」として認めたくない存在である。あの類が食べられるなら、みそかつなんて容易いはずだと思いきや、事実はそう簡単ではない。人間の味覚とは、不思議なものである。
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名古屋にて

2005-02-23 17:46:40 | 表へ出ろ
ななちゃんも 全裸にて説く 火の用心

以前、「サカエの中心で、ひつまぶし(゜Д゜)ウマー!!とさけぶ」でも触れた、ななちゃんの最新映像である。風に吹かれて寒そうである。待ち合わせの人も少ない。「火の用心」ののぼりを持たせるなら、ついでにハッピぐらい着せてあげればいいのにね。
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ミステリアスタウン・横浜中華街。

2005-02-22 22:49:09 | 表へ出ろ
今朝、母が突然「中華街で昼ご飯を食べよう」と言い出した。雑誌で「これは…!」という店を見つけたと言うのだ。今日は火曜日。ちょうど横浜でコンピュータ講習がある日だ。「では関帝廟前で午後1時」というわけで、私は一足お先に講習へ(後からわかったが、母の真の目的は元町の「チャーミングセール」であり、中華街はそのおまけだった)。12時30分に講習が終了し、根岸線で石川町へと向かう。

石川町駅には、ちょっと怖い思い出がある。まだ小学生だった頃だからかなり昔だ。ある土曜日に横浜へと繰り出し、石川町駅で祖父たちと待ち合わせをしていた。私と父は駅の前で「時間なのに、じいちゃんたちはどうしたのかねぇ…」とひたすら待っていた。石川町駅は高架で、駅前から見上げると、電車の車輪部分が少し見えるようになっている。そこへ何回も何回も電車が行き来しているのに、来る気配は全くない。当時は携帯電話なんて便利な物などないから、ヘタに動くこともできずに駅前にたたずんでいたが、そのうちにまた電車がやってきた。「今度こそ…」しかし、その期待はまたしても裏切られ、駅から祖父たちの姿は現れなかった。
ここで、ちょっとした異変が起こった。下から見える電車が発車しないのだ。いつまで経っても止まったままである。父と「どうなってるんだろうね」なんて話していたが、状況はさっぱりわからない。そのうちに、やっと祖父たちがやってきた。何かの勘違いで、祖父たちはホームでずーっと待っていたのだという。「観光客でごった返しでねぇ。参ったヨ」祖父たちも、なぜ電車が止まったままなのかはホームが大混雑でわからなかったという。「まぁ、いいか。行こうや」我々はようやく歩き始めた。
翌日、叔父の家に遊びに行った私と父は、新聞を見て仰天した。昨日のあの時間あの場所で、以前から親子仲の悪かった女が、混雑のどさくさに紛れて母親を線路に突き落とし、その母親は入ってきた電車にはねられて即死したという事件が載っていたからだ。あの止まった電車がそうだったのか…ガクガクブルブル。

怖い話はさておき、横浜という街自体は大好きである。生まれた都市ということもあるが、海沿いの空気がたまらなくいい。こればかりは理屈抜きであり、同じ東京湾でも隣の川崎市や、東京都、千葉県の海沿いの空気とは全然違うのだ(あくまで比較の問題で、川崎や東京や千葉の空気が気持ち悪いと言っているのではありません、念のため)。
かつて東急東横線が桜木町終点だったころ、電車が反町駅を過ぎて高島山トンネルをくぐると、それまでのイマイチあか抜けない空気がガラッと一変して、理由もないのにワクワクしたものだ。逆に、帰りの横浜駅のホームに佇んでいる時は、なんとも名残惜しく、寂しかった。まるで、夢から覚めて現実に引き戻されたような気分。あれは一体何だったのだろう。
みなとみらい線直通になって中華街などへは行きやすくなったが、東白楽駅の先から地下になってしまい、あのワクワク感が薄れてしまったのは非常に残念である。地下には、風情がない。

さて、中華街である。子供の頃はよく連れられて行ったものだ。私の父も、祖父によく連れて行ってもらったという、なじみの地だ。父の青年期、祖父から自宅に「今中華街でメシを食ってるから来い」と電話がよくかかってきたそうだ。で、弟(双子)とかと出かけていくと、着く頃にはラストオーダーは締め切られ、祖父はたらふく食って飲んで一人上機嫌。結局何にも食わせてもらえずガッカリ、ということが度々あったという…。
母一族は代々ハマッ子で、特に祖父は長者町の生まれだから、中華街はもはや庭に近い。昔の人だから「中華街」ではなく「南京町」と言う。母も若い頃は南京町と言っていたそうだ。
父と母が結婚する際には、ここの「同發」という有名なレストランで結納代わりに食事をしたぐらいで、大変縁の深い場所である。
何度行っても飽きない。あの狭い敷地、細い道路を中国の濃いテイスト一色で埋め尽くす、ゴチャゴチャした雰囲気が良いのだ。あれがみなとみらい地区のような広い道路の大きい土地にあったら魅力半減どころの騒ぎではない。

我々の今回のターゲットは、関帝廟通りにある秀味園(しゅうみえん)という店である。見た目、メチャメチャ狭い。ガラスはスモークがかかっていて中の様子が全く見えない。ヤバイ店じゃないだろうね、これ。ドアを開けてみると、外見よりさらに狭い。4人がけのテーブルがスペースギリギリで2つ、カウンターなし。えー!?こりゃこぢんまりどころじゃないよ。しかも誰もいないぞ。店員までもいな…あ、奥にいる。我々に気付いて出てきた。奥は普通の居間かと思いきや、座敷席だ(一応、店内は40人まで収容できるらしいが)。それにしては随分と商売っ気のない座敷席である。なんか道具が置いてあったし、おばちゃんがそこで何か作業してたし(ワンタンを作っていたのかな?)。
母は焼きビーフン(700円)を、私はこの店の超人気メニュー・魯肉飯(ルウロウファン)(500円)をそれぞれ注文、母があまりの安さにワンタン(500円)を追加した。魯肉飯とは、「秀味園」のリンク先を見ていただくと写真と説明が出ているのだが、煮付け玉子、豚の角煮、ひき肉とネギの味噌炒め、高菜をご飯が隠れるほどたっぷりとのせたボリュームたっぷりの丼飯である。豚肉が軟らかくて、高菜の辛さがさらに食欲を湧かせるスグレモノ。昨年秋に行った台湾の美味しい味が、横浜で楽しめるなんて。しかも500円ですよ、500円。いつもなら行列ができるほどの名店なのだそうだが、我々は1時過ぎに来たのが良かったのか、すんなりとありつけた。横浜・中華街へ観光の際は、是非チェックしていただきたいお店である。

ちなみに動画は、秀味園の並びにあった豚まん屋脇の「豚まん之像」である。正体、由来共に全くの謎。検索しても、ほとんどヒットしなかった(リンク先は「豚まん之像」のクリアな画像)。豚まん屋に聞けば良かったかも知れない。中華街、まだまだミステリアスな街だ…。
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「これはもう、ご婦人には分からない痛みでありまして・・・」-野球解説者・小西得郎

2005-02-21 20:32:06 | 雑記
※今回は下ネタが入っております。しかも、ちょっとグロいかも?心してお読み下さい。

燃えつづけろ!ライター高田!」というブログが、私の笑いのツボを直撃した。筆運びの軽さとライター高田という名前から、てっきり物書きの方のライターかと思ったがさにあらず。プロフィールを見ると、「私をモノで例えると…火をつけるライター。いつでも①熱く②明るく③人から見て便利な存在として皆の心に火をつけていきたい。友達は、自分の生きる燃料になってもらいたい。」ということなのだそうだ。なるほど。

一連の「熱湯コマーシャル」シリーズ(「熱湯コマーシャルをやってみよう!」「寒い夜だから・・・」「元気タマ」「ジ・エンド・オブ熱湯コマーシャル」)に大爆笑したのだが、「元気タマ」の「まずい!精子が!!」以降のくだりに笑いながらもドキっとした。「タマ」の話になるとつい食いついてしまうのは、何を隠そう私が片タマ男だからだ(堂々と言うことでもないのだが)。

日本三大片タマ男といえば、田中裕二(爆笑問題)堀内健(ネプチューン)、そしてこの私である(今勝手に制定したが、他に片タマ男を知らないのだ)。15年前の秋、突然の病により摘出を余儀なくされた。病名、右睾丸捻転

あれは中学3年の頃、ある秋の日の午前4時のことだった。就寝中、何だか股間に違和感を感じて目が覚めた。違和感は徐々に痛みに変わり、その痛みは時間を追うごとに強くなっていく。今まで感じたことのない痛みだ。小学校1年の頃に車にはねられて頭部を強打した時だって、ここまで痛くはなかった。変な病気をうつされるような覚えなどないのに何なのだ、これは。人間の三大疼痛は「陣痛(お産)」「結石」「ガン」と言われるらしいが、それを言い出したのはきっと出産経験のある結石持ちのガン患者だろう。タマの痛みも加えて四大疼痛にしてもらいたいぐらいだ。
1時間ほど寝床でのたうち回り、氷で冷やしたりもしてみたが、痛みが治まる気配は全くない。タマはまさに、信楽焼のたぬきの置物のごとく肥大している。もう、ダメだ。観念した私は親を起こし、救急車を呼んでもらった。
近所のS大学病院に着いたのはよかったが、担当医がいないということで、しばらく待たされた。結局、手術は10時からということになり、手術前の検査で車いすに乗せられて院内をあちこち移動していたのだが、何とも間の悪いことに、同じクラスのの女子・かっきぃに出くわしてしまった。かっきぃもたまたま体調不良でこの病院にかかっていたらしい。車いすに乗っている私を見て、かっきぃも驚いただろうが私も慌てた。
「どうしたの、うえぽん!?」
「い、いや、まぁちょっと具合悪くてね…あはは(引きつり笑い)」
タマの具合は最悪だったが、このシチュエーションも最高に具合が悪い。相手が男ならまだしも、思春期真っ盛りの男女、本当のことなんか恥ずかしすぎて言えるわけがない。言われた向こうだってリアクションに困るだろう。今でこそ笑いのネタにしているが、当時はまだウブな私だった(爆)。

手術なんて生まれて初めての経験だ。しかし、この痛みさえ何とかしてくれるのならと、腹をくくる。ストレッチャーに寝かされて準備室へ運ばれた。そこでまずは剃毛だ。同級生のKという男がかつて盲腸の手術で剃毛された時、思わず「ぞうさん(©クレヨンしんちゃん)」が元気になってしまい(爆)看護婦に笑われたらしいが、私は痛む場所が場所なのでそれどころではない。麻酔注射を3本ほど打たれたが、この内の1本が、背中から何かを引っこ抜かれるような痛さだった。麻酔薬を「注入」するのだから、「引っこ抜かれる」というのはおかしいのだが、とにかくそんな感覚である。
手術は下半身麻酔であり、意識ははっきりしている。徐々に腰から下にしびれが来て、何とも妙な感覚になった。麻酔医が何分おきかに腰のあたりを何かでつつき「痛い?」と聞いてくる。つつかれている感覚はあるが、痛みは全くない。不思議なものだ。
「それでは、術式を行います。よろしくお願いします」執刀医のあいさつから手術開始。カチャカチャ音はするが、何をしているのかは全くわからない。途中、麻酔の効いていない部分がズキズキ痛み始め、痛さのあまり気持ち悪くなり、麻酔をもう一本打ってもらった上、横に袋を用意してもらって吐いた。
手術は1時間ぐらいで終わると聞いていたのだが、終わる気配がない。どうなっているのだろう。私の両腕には点滴や血圧計がつながっており、女性看護士が何分かおきに血圧を医師に伝えるのだが、その数値が徐々に下がっていた。そして、それに付随するがごとくまぶたが重くなってきた。このまま寝たらそのまま目が覚めないんじゃないかという恐怖もあって、医師に「眠ってももいいですか?」と聞く。「大丈夫だよ」というので目をつぶるのだが、まぶたは重いのに頭の中はさえていて、とても眠れない。どうしたものかと思っているうちに手術は終わった。

結局、2時間かかった。右のタマが2回転しており、30分ほど揉んで蘇生を試みたがすでに手遅れで、摘出された。また、左側を固定する手術もしたということだった。
親は「待たせておいて手遅れとはどういう事だ!?」と未だに怒っている。私は親ほど気にしてはいないのだが、一つ悔やむところがあるとすれば、摘出したタマを見せてくれなかったのが残念で仕方がない。いわば私の「分身」である。最後のお別れぐらい、したかった!

一応、初めのうちは「盲腸」ということにしておいたが、退院して中学校に戻ってきたら「うえぽんガンだったんだって!?」とかなんとか情報が錯綜していた。ガン患者が10日そこいらで退院するかっちゅうの。思春期を過ぎてからは、むしろバカ話のネタにするようになり、年寄りの病気自慢よろしくベラベラしゃべっているから、今じゃ私の友人のほとんどは私が片タマであることを知っている。

もう片方が潰れたらまずいからと、たまに草野球をやってもキャッチャーは絶対やらない。テレビのプロ野球珍プレー特集で、キャッチャーがファールチップを股間に当てて悶えているのを見ると、大笑いしながらも「人ごととは思えんなぁ~」という同情心を禁じ得ないのである。
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敵か味方か!?中の人

2005-02-20 18:58:43 | 野球
楽天に強奪された? ハマの大スター
(ニッカンHPより)

グラウンドでの派手なパフォーマンスで人気者だったマスコット「ブラックホッシー」の中の人が、この度楽天イーグルスに移籍するそうだ。彼はもともと阪神タイガースのマスコット「トラッキー」として絶大なる人気を誇っていたが、突然クビになってしまい、その後ブラックホッシーとして蘇ったのだった。私も横浜スタジアムで彼の活躍ぶりを何度も目撃しているだけに、あの愉快なキャラクターがいなくなってしまうのはちょっと寂しい。
ただ、気になるのは、彼のトラッキー時代といい、ブラックホッシー時代といい、そのチームは暗黒期にあったことである。彼が去った年の秋、阪神は優勝した。そして、彼をシーズン途中に雇い入れた横浜は、その年も翌年も最下位だった。彼が去った横浜は最下位を抜け出せるのか、そして彼を「引き抜いた」楽天はその「ジンクス」を打ち破ることができるのか、注目したいところである。
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