うえぽんの「たぬき鍋」

日々のつれづれ、野球ネタ、バカ話など、何でもありの闇鍋的世界?

人生は演劇である-セネカ(古代ローマの哲学者・劇作家)

2005-01-31 20:10:20 | 雑記
演劇サークルをやっている大学の後輩から、公演のキップが届いた。劇団「The Empty Space」の「Mellow-F ~メロウエフ~」。興味のある方はリンク先をご覧になって、是非2月末に高田馬場へどうぞ。
元々友人・おミヤさんがこのサークルで演出をやっていて、一昨年、おミヤさんに学園祭の手伝いを頼まれて以来の縁だ。昨年春の公演では、まだ承諾する前からおミヤさんに全日手伝い要員に勘定され、劇団員でもないのにキップ売りや看板の取り付け、舞台の片づけなどを嬉々として務め、打ち上げまで混ぜてもらって新宿・歌舞伎町で朝まで呑み、歌い、踊ったという愉快な思い出がある。上下関係のつきあいが少ない私にとって、大変貴重なかわいい後輩たちだ。

なぜか友人知己に演劇畑の人が多い。私自身は特別好きというわけではないし、テレビのドラマなんぞは全く見ないのだが、どういう縁なのか、演劇関係の人間が私の周りに集まってくるのだ。
小・中学校の同級生でオカちゃんという男がいた。彼は近所にあった合唱団に所属していて、子役としてよくテレビに出ていた。NHKの大河ドラマも出ていたはずだ。これは後に知ったのだが、「あこがれの辰徳お兄ちゃん」(元巨人・原辰徳の応援歌)というレコードまで出している。なかなか普通の子役でできることではない。しかし、知らぬ間に芸能活動を辞めて普通の中学生になった。現在は消息がわからないが、元気にしているだろうか。
高校では「おじゃる」という演劇部の友人を得た。「おじゃる」というあだ名は、彼がある劇で山伏を演じた時に、語尾に「おじゃる」をつけてしゃべっていたのが非常にウケたため、私が一人で彼を「おじゃる」と呼んでいたら、それが全クラスに広まってしまったのだった(最初は「ごじゃる」だったかも知れない)。それが縁で、後に彼が入った劇団の芝居を見に行ったのが、小劇場でやる演劇を見た最初である。芝居もなかなか面白かったし、何より小劇場の独特な雰囲気が気に入った。
大学3年でゼミに入り、おミヤさんとその相棒(?)ミュータンス嬢の2人に出会う。2人が所属している学内の劇団(「The Empty Space」とは別)の芝居をちょくちょく見に行ったものだ。もっとも、私が見に行く時の彼女らは裏方が多く、舞台で見ることはほとんど無かったが。おミヤさんも面白い人間だが、ミュータンス嬢もかなり愉快なキャラだけに、惜しかったような気もする。

大学4年の時、友人ながの氏の大学卒業制作でCGを挿入したドラマを作ることになり(彼は当時芸術系の大学にいた)、今度は私が芝居を演じることになってしまった。しかも、準主役級だ。小学校1年の学芸会で「こびとのくつや」の靴屋の爺さんを演じて以来の大役である。私はちょうどその時、応援している横浜ベイスターズの優勝がかかっていたのと、私自身の卒論もあって、役者としての実力を発揮できなかった。そのおかげで、彼の卒業制作は大学で賞をもらった。私が実力を発揮していたら、彼は多分賞をもらうどころか留年していただろう。
その時に主役を務めたのが、私とながの氏の高校の後輩である山本由佳嬢である。由佳嬢は本物の舞台女優で「むっちりみえっぱり」という劇団に所属している。公演を見に行くたびにシュールな芝居で私の笑いのツボをピンポイントで直撃してきたが、現在はほとんど活動休止状態である。本人は女優活動を続けているようで何よりだが、私としては「むっちりみえっぱり」の復活が待ち遠しい。
ちなみに、ハンドルネームの「うえぽん」は、彼女が私のことを「映画「平成狸合戦ぽんぽこ」に登場する、『ぽん吉』(声・林家こぶ平)にキャラ(体型も?)が似ている」と言ってきたのが元になっているのだ。ぽん吉が気に入った私は卒業制作の撮影終了後、麻布十番の「たぬき煎餅」で煎餅を買ってきて関係者諸氏に配り、彼女には同じくたぬき煎餅で買ってきた、たぬきの箸置きもつけたのだった。

演劇の話から私のハンドルネームの由来に飛んでしまったが、要するに「私と演劇は特別好きなわけでもないのに、切っても切れない関係にあって不思議だなぁ」ということが言いたかったのである。おしまい。
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実際に見た人、感想を求む!!

2005-01-30 14:22:17 | 雑記
友人ながの氏が自身のブログで「恐怖の条件」と題した記事を書いていた。彼がTSUTAYAに立ち寄ったことから話が始まっているのだが、私がTSUTAYAで真っ先に思い出すのは「死霊の盆踊り」である。タイトルだけ聞いてもロクな映画ではないということは容易に想像がつく。一体誰がこの邦題を考え出したのだ。アメリカに盆踊りがあるのかと小一時間問いつめたい。大体、パッケージにしてからが
「一度見たら意味不明・二度見ても意味不明・三度見たらトランス状態」
という、投げやりな書かれようである。
私がこのパッケージを初めて目にしたのは確か浪人生の頃、オープンして間もないTSUTAYA・恵比寿ガーデンプレイス店であった。怖そうなホラー映画がずらっと並んでいる棚で、ひときわ異彩を放っていたのがこれだった。見てみたい、でも見たらものすごく後悔しそうな気がする。何度かTSUTAYAに立ち寄るたびに借りようか借りるまいか考えた。しかし、当時の財政状態では「お金払ってまで見る程じゃ…」とためらわれ、結局一度も借りることはなく、TSUTAYAに行くたびにパッケージだけ確認して「ああ、今回も処分されていなかったね。良かった良かった」と胸をなで下ろす日々が続いた。

それから、大学に受かって千葉通いになったため、定期的に恵比寿に行くこともなくなった。ある時、たまたま恵比寿に寄る機会があったのでTSUTAYAをのぞいたが、既に「死霊の盆踊り」は棚から姿を消していた。初めて見た時からパッケージは既に色あせて、中のテープもかなりくたびれた状態だったので、こうなる日が来るのも遅くはないだろうとは思っていたが、いざ無くなると寂しいものである。こんなことなら1度ぐらい借りれば良かったかも、と今さら勝手なことを考えたりもした。

あれから約10年、世の中はインターネットが発達し、情報がいくらでも簡単に手に入るようになった。「死霊の盆踊り」で検索すれば、あっという間に2万件近くヒットする。ヒットした先のプレビューを次々に読んでみた…やっぱり、借りなくて正解だったようだ。
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受験勉強はもう二度とやりたくない。Part2

2005-01-29 21:18:01 | 雑記
先日の記事に関して風爺ぃ様からコメントをいただいたのだが、そのレスで私の高校受験の話になったので、これで1本書かせていただく。

私の世代は、まだ受験戦争も大して激しくなかった。私も、別に進学校に行くつもりはなかった。確かに「大学は行っておいた方がいいかも」という漠然とした思いはあったが、上を目指してガツガツやるというのは私の性分ではなかった。マイペースで生活が送れる学校であることがまず第一の条件である。第二の条件に学力の問題が来て「あまりバカでも困るから、それなりの偏差値があること」。そして第三の条件は「共学であること」(いくらモテなくても、女っ気のない生活なんてイヤだったのだ)。この三つさえ満たしている学校なら、私は十分だった。
この条件に叶いそうな都立校があった。気の合う友人数人もそこを受けるつもりだという。しかも、自転車で通える距離だ。私は、そこの学校と、もう一つ気に入った私立校を軸にして受験するつもりでいた。

しかし、そこに親が口出しをしてきた。もっとレベルの高い高校を受けろと言うのだ。親が、自分の子供に少しでもいい学校に行ってもらいたいという気持ちは当然である。それは私だってわかっていた。しかし、親が「ここを受けろ」と言ってきた学校は、当時の私の学力をはるかに上回る超進学校だった。東京六大学の某校の付属校である。私の両親は私の学力を知っていたはずだ。しかし、そこの学校がよほど気に入ったらしく執拗に勧めてくる。
私としては、レベルが違いすぎてついて行けそうにないこと、家から遠いこと、男子校であることなど、行きたい条件を何一つクリアしていないので受けたくなかったのだが、とても聞き入れて貰えそうにない。結局、中学校での進路相談で、渋々承諾させられた。そのせいで、担任から「滑り止めのランクを一つ下げた方がいい」と言われ、行きたかった都立校を受験させてもらえず、一ランク下である別の都立校を受けさせられる羽目になった。
完全に頭に来た私は、親がノリノリで申し込んでいた某大手進学塾の冬期講習を度々すっぽかした。講習に出ても、まともに話も聞かなかった。面と向かって反抗できない小心者のささやかな抵抗である。今にして思えば「自分で申し込みに行く」と言って、そのまま授業料をパクってしまったほうが進学塾の懐が潤わずに済んで良かったかも知れない。実に悔やまれる。

すっかりやる気をなくして受験に挑んだ。当然のように某付属校には落ち、意中だった私立校(ここも実は付属校)も落ち、最初は受けるつもりのなかった都立校に受かった。合格発表を見に行き、一応進路が決まってホッとはしたが、「こんなとこ受かって当然!」という思いもあって、嬉しさは全然なかった。どこのヤツだか知らないカメラマンが写真を撮っていて「もっと笑って」みたいなことを言われて「人の気も知らないで…!」と怒りを覚えた記憶がある。

フタを開ければ、この高校が私にとっては天国のようなところで、中身が濃くて非常に楽しい三年間を送ることができたのだった。しかし、それはあくまで結果論である。高校受験のイヤな思いがあったから、大学受験に関して親には一切相談しなかった。「あそこがいいんじゃないか」「ここを受けろ」という勧め(強制?)は「ハイハイわかりました」と生返事をし、完全に黙殺した。親の気持ちはわかるが、行くのは私なのだ。だから、あくまで自分の意志を通した。

マジメな受験生ではなかった割に、自分の肌に合っている高校、大学に入れた。ラッキーなことである。もっとマジメに勉強していればもっとランクの高い学校に行けたかも知れないが、楽しい高校、大学生活を送れたかどうかはわからない。ただやみくもに高いところに行くだけが受験じゃない。自分に合った道、自分が決めた道に行くのが一番幸せなのだと思う。

おまけその1
十年一昔(我、かくて大学に合格せり)」の記事を書いた時に、資料として代ゼミの講師紹介を見たのだが、各講師のメッセージを読んでいると、みんなもっともらしいことばっかり書いてあるんですよ、これが。「受験勉強を超えた本物の論理思考力を鍛える」とか「漢文の語法・語彙・文体を、一つの外国語として体系的に学習し、正確に読解する力を養成する」とか。予備校で得た知識やテクニックは確かに受験には役立ったけど、大学入ったらほとんど行使する機会なんてなかったぞ。漢文に至っては大学の「漢文入門」という授業で、やっと目からウロコが落ちたぐらいだし。まぁ、確かにそういうことでも書かないと生徒が集まらないからなんだろうけど「予備校で教える受験勉強と大学でやる勉強は、やっぱり別物だなぁ」というのが正直な感想である。

おまけその2
私が代ゼミ時代に古文を教わっていた、椎名守先生。大変わかりやすい授業が受験に大いに役立った。現在も人気講師なのだが、それもそのはず。彼はもう一つの名字「千明(ちぎら)」を使っていて、國學院大學栃木短期大学で助教授を務めているのだ。國學院大學で講師もしている。私がいた頃はまだ助教授じゃなかったと思うが、大学の先生が受験について教えてるんだから、そりゃわかりやすいですわな…。
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うえぽん、文明の利器に振り回される。

2005-01-28 22:26:07 | 雑記
ついさっき、名古屋から帰ってきたばかりである。本当は、ケータイを使って何か写真付きの記事でも送ろうと思っていたのだが、結果は踏んだり蹴ったりであった。

第1のつまずきは、桑名市内の病院での集金を終えた後、ご当地在住の友人であるファイヤー氏に「今、桑名にいるよ」というメールを送ったのだが、宛先不明で帰ってきてしまったことである。家に帰って調べたら、アドレスが1文字間違っていた。ケアレスミスである。
第2のつまずきは、名古屋北区の病院で壊れたテレビカードリーダーが修理できなかったことである。重度の故障だったからではない。フタが開けられなかったのだ。土俵に上がる前から負けである。どこを探してもねじ穴が見つからない。強引に引っ剥がすこともできない。一体どうやってこれを最初に取り付けたのだろうか。全くもって不思議である。結局諦めて、後日叔父の救援を仰ぐことにした。
そして一番最後のつまずきは、この件で叔父とケータイで相談中に、充電が切れたことである。大して使っていないのに、なぜ肝心な時に電源が落ちるのだ。何のためにケータイを買ったのか、これじゃ意味がない。遠距離通話だと早く電気がなくなるのだろうか。
泣く泣く、院内の公衆電話で叔父に電話しなおした。50度数あったテレカは、通話が終わる頃には14~15度数まで減っていた。1度数減るごとに「カタン…!」とわざわざイヤな音を立てる古い電話だ。ここの病院の職員と同じぐらい感じが悪い。叔父は、この病院とは近いうちに契約を取りやめると言っていたが、その日が待ち遠しい。とにかく、行くたびに故障とか職員の対応とかでイヤな思いをするのだ。普通に事が終わった試しがない。勘弁して欲しいものだ。

名古屋駅に戻ったのは夕方だった。駅前のビックカメラで電池式の緊急用充電器を買い「新幹線に乗っている間には充電も終わるだろう」と、充電器を差し込んで2時間後。電源がつかない。確か対応機種を確認して買ったはずだ。電池もちゃんと入っている。それなのに、ウンともスンとも言わない。一体どういうことだ。奮発して新しい機種買ったのに、もう故障?それとも、充電器の初期不良?

とりあえず、落ち着こう。充電器の使い方が間違っているのかも知れないぞ。そう思って、説明書をよく読んでみた。すると、次の一文を発見したのである。

「電話機が完全放電の場合(電源をONにしてもディスプレイが表示されない時)では、ご使用になれません。」

故障ではなくホッとしたと同時に、「それじゃ今日みたいな時に緊急用の意味がねーんだよぉぉぉぉ…_| ̄|○」と、その場に崩れ落ちそうになったのだった。

今日は散々だった。酒でも飲んでとっとと寝よう。
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受験勉強はもう二度とやりたくない。

2005-01-27 23:15:34 | 雑記
週刊誌を読んでいたら、韓国の人気女優であるチェ・ジウが大学を除籍処分になったことが記事にされていて、韓国の学歴社会のすごさについて書いてあった。
とにかく韓国の受験生の勉強ぶりはすさまじく、夜12時ぐらいになると、進学塾の送迎バスでソウルの街があふれかえるというのだ。芸能界も学歴が物をいうそうで、いくら格好良くても学歴がなければ「あいつは顔だけ」と言われ、有名大学を出ていれば「さすが大学で勉強したヤツは演技力が違う」とちやほやされるのだという。しかも、面白いことに「大学に合格した」という事実さえあれば、それだけで良いイメージが出来上がるので、通っていようがいなかろうが、卒業していようがいまいがどうでもいいらしい。
日本も結構な学歴社会だが、芸能人に高学歴など求めない。学歴でふるいにかけたら日本の芸能界は壊滅寸前まで追い込まれるだろう。魅力さえあれば、中卒の人間だって生きていけるのだ。むしろ、高学歴であればあるほど色眼鏡で見られて「あいつは学歴だけで売っている」とか陰口を叩かれかねない。
入ったら入ったで、きちんと卒業しないとイメージが悪くなるのも韓国とは違う点である。広末涼子は早稲田大学に入って叩かれたが、中退したらもっと叩かれた。こういうことになるから、大学中退の芸能人は結構多いのだが、みんなあまり大っぴらにしないのだ。

韓国の学歴社会の激烈さは、一昔前の日本と似ている。我々がガキの頃はまだ、中学受験とかに関して親は全く関心がなかったし、受験するヤツもクラスのトップクラスの連中に限られていた。塾に通ったのも中学入学以降のことである。しかし、5歳下の妹ぐらいの世代になると、受験戦争はかなり激化していた。妹は小学校高学年から塾で英語などを習い、夜遅くに親が迎えに行っていたものだ。勝てば官軍負ければ賊軍、猫も杓子も受験受験。妹もブームに乗せられ中学受験に挑み、見事に玉砕した(爆)。妹の世代より先は対象年齢がガクンと下がって、いわゆる「お受験」ブームである。この前後が今の韓国にあたるかな?

正直、学歴が高いに越したことはないとは思うが、高いから幸せかと聞かれたら返答に困る。友人に、一流大学を卒業して大手銀行に就職したヤツがいるが、毎年会うたびに体が痩せこけて目に生気がなくなっている。毎日残業の山で、休日出勤当たり前。休暇もろくに取れず、たまの休みは寝てるだけ。ついでに彼女もいない(爆)。経歴だけ見れば立派な「勝ち犬」だが、彼のやつれ方やボヤキはどう考えても「負け犬」のそれだ。不定職の私でさえ「それなりの給料もらってるんだろうけど、彼のような生活するぐらいなら、今の方がまだマシかも知れねーなぁ」と、同情を禁じ得なかった。

私は普通のレベルの都立高を出て、一浪して、二流の大学を出ているが、どの時代の生活もすごく楽しかった。今は不定職で「これじゃイカンなぁ」とは思っているが、自分で決めたことだから後悔はしていないし「負け犬」だとも全く思っていない。要は、本人の問題である。本人が納得ずくの人生なら、お縄を頂戴するようなことさえしなければ、それで十分じゃなかろうかと思う。
もし自分に子供ができたら、単にブームに乗っただけの学校受験はさせたくないものである。もっとも私の場合「子供以前に結婚できる女を探すのが先だろう」と、関係者全員からツッコミを入れられるのがオチだが。
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いい指の運動。

2005-01-26 17:19:28 | 雑記
せっかく一念発起してケータイを持ったので、いくら電話嫌いでも使わないとつまらんと思って、色々な機能を試している。
とりあえず、電話帳をグループに分けて、着信音とイルミネーションを別々にしてみた。私の親類からかかってきた時はドヴォルザークの「新世界より」である。父や叔父がクラシック好きなところと、叔父からの電話は恐らく大半が「テレビが故障したって連絡があったから、修理に行ってくれる?」という内容の、いわゆる「恐怖の電話」であることが予想されるため(母からの買い物を頼まれる電話も十分「恐怖の電話」だ)、出だしがちょっと映画の「ジョーズ」っぽくて怖いこの曲にしたのだ。幸い、今のところは「恐怖の電話」はまだかかってきていない。
友人も「小・中学校関係」「高校関係」「大学関係」「その他」に分け、それぞれ着信音とイルミネーションが違う。ちなみに、高校関係はサッカー好きのGALLEON氏にちなんで「アイーダ」にした。昔、俳優の斉藤晴彦がCMで「♪あ~あ~~、This is スティックタイプ フライドチ~キン~! (女声)日本ハ~ムの、(二人で)チキチキボーン、チキチキボーン、チキチキボォ~~ン!」とオペラチックに熱唱していたのがこの曲である(説明したところでそのCMを何人が覚えているのだろう)。

メールは、自宅と、風爺ぃ氏と、このブログに出してみた。ちゃんと届いているようだが、実はもう一人、ゼミ長おミヤさんにも出したのだ。彼女は先日誕生日を迎えたので、お祝いとテストを兼ねての送信だったのだが、まだ返事がない。ひょっとしたら、前もって向こうにアドレスを教えていなかったので、ジャンクメールだと思われて削除されたのかも知れない(おミヤさん、もしこれ読んでいたら連絡下さい)。

テレビ電話もできるらしいのだが、対応機を持っている人間を知らないので却下。カメラでは、自宅に置いてあったたぬきの置物を写して、プロフィールの欄に置いてある。ムービーは、昨夜試した。寝しなの母を撮ったのだが、ムービーを見るとなぜか顔色が異様に青白く、しかも全てのパーツが引きつっている。まるでビリケンの死体がしゃべっているようだ。私は腹を抱えて笑い転げたのだが、母は「今、ここで消さなかったら、メシ抜き!!」と半ばマジで脅してきたので、この大爆笑映像は日の目を見ることなく消えた。誠に残念である。

どうせ大して使わないくせに、いざやり始めると妙にこり出す。うえぽん一家の習性である。しかし、せっかく買ったのだから、せいぜい元が取れるぐらいは…ね。
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血は争えない。

2005-01-25 16:20:36 | 雑記
友人ながの氏のブログ「【目黒夜話】」で、私の薬による失敗談の記事をトラックバックして下さっていた。「あら、あんなバカ話でも読んでくれてる」と思うと、結構嬉しい。
というわけで、今度は私が彼のブログの記事からトラックバックして、「中毒ネタ」で話を進めてみたいと思う。

私の母は、古い食品に関してはかなり神経質で、たとえ私に食べさせることはあっても、自分では絶対食べない。
母は元々腹が弱く、古いものでなくてもよくアタる。特に、ちょっと高い値段で外食すると、かなりの確率で腹痛を起こす。「そりゃ『貧乏病』じゃないの?」という外野の声もあるが、同じ「貧乏病」でもウチの他の人間は平気なのだ。以前、夫婦旅行で沼津に行った時、ホテルで出た生ものが体に合わなかったらしく、母だけ大アタリして旅行どころじゃなくなったという話もある。
母は「あの事件以来、アタシの腹っておかしくなったのよねぇ」と語る。あの事件とは…。

話は昭和49年の夏にさかのぼる。母は実家で両親との3人暮らしをしていた(2歳上の姉がいるが、前年に嫁いでいる)。母は既に結婚が決まり、地元に本社がある大手建設会社で派遣社員をしながら、秋の結婚式の準備にいそしんでいた。
母は、ある日の夕食にカレーを食べた。当日作ったカレーではなく、数日前の残り物だ。量が少なかったため、母だけ食べた。味に特別異常はなかったと母は言う。むしろ、数日おいてあるから具に味がなじんで美味しかったことだろう。しかし、地獄はその日の夜中にやってきた。睡眠中、強烈な腹痛と吐き気が押し寄せ、母はトイレと寝床を何度も往復する羽目に陥った。「上を下への大騒ぎ」とはよく言うが、母のこの場合、「上も下も大騒ぎ」の状態である。当然、眠るどころではなく、見た目も中身もボロボロだ。
現在なら、当然休むだろう。しかし、天然ボケでも根は生真面目な母は「何としても会社に行かねば」と思った。当時の社会全体が、現代ほど休むことに寛容でなかった、という時代背景もあったのかも知れない。
職場へはバス1本で行ける。何とか身支度を整え、這うようにしてバスに乗った母。あいにく、ラッシュで席が埋まっており、吊革につかまって苦しみをこらえていた。しかし、まもなく目の前の世界が真っ白になった。一瞬意識が遠のいたが、何とかバスを降り、職場までたどりついた。
出社するなり、同僚も上司もその尋常でない姿に驚いた。皆「どうしたの!?顔色が青いよ」「フラフラじゃないか。今日は帰って休んだ方がいいよ」と母を気遣う。もはや母に「それでも今日は働く」と言い返す気力は残っておらず、とんぼ返りして医者に行くと「食中毒ですね」と、あっさりと診断が下った。原因はもちろん、残り物のカレーである。カレーはああ見えて、結構腐りやすい。特に夏場はヤバイのだ。「おそらく、冷蔵庫にも入れないで放ってあったんじゃないか」と母は当時を振り返る。以来、母はちょっとでもヘンなものを食べるとアタるようになったという。数年に一度、原因不明の嘔吐と下痢で救急車のご厄介になっているのも、これと無関係ではないのではないかと私はニラんでいる。

それから長い月日が流れたある夏の昼下がり、小腹がすいた私は前日の残り物のカレーを食べた。しばらくして「私も食べようっと」と、鍋を覗きこんだ妹が叫んだ。

「お兄ちゃん!このカレー、カビ生えてるよ!!」

即座に「古くない」正露丸を飲んだのが良かったのか、幸いにも何ともなかった。しかし、この光景を見た母は「アンタはやっぱりアタシの子ね…」と、深いため息をついたのだった。
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夢が持てません。

2005-01-24 12:48:19 | 雑記
またブログサーフィンをしていたら、「東大にどうしても受かりたい!」という浪人生(女性)の、受験日記のようなブログを見つけた。一応、他の私大も受験するものの、とにかく東大でなければダメらしい。どうして東大に行きたいのかは書いていなかったが、文体からはかなりの切迫した気持ちがにじみ出ていた。
「そこまでして東大に執着するって何なんだろう。東大に受かった先に何があるのだろう」という醒めた疑念と共に、内容云々はともかく「全身全霊を打ち込める『夢』」を見つけている彼女に対する羨ましさを感じた。今までの人生で夢なんて、見つけた試しがないからだ。

私はガキの頃から、かなり醒めた人間だった。夢と現実、どっちを取るかと言われたら、ガキの頃でも現実を選んでいたことだろう。と言うか、夢なんか何にも持っていなかった。かわいげのかけらもないガキである。小学生ぐらいなら「スポーツ選手になりたい」とか「医者になりたい」とか、漠然としながらも何かあるだろう。しかし、頭の悪さも運動神経の無さも、そして現実の厳しさも小さい内にすっかり自覚してしまった私は、夢を持つことに臆病になり、自ずと頭の中で「夢」を持つことを放棄してしまい、そのままここまで来てしまったようだ。どうりでひねくれるわけである。最近やっとそのことに気がついた。
「夢さえあれば苦しいことも耐えられる」なんてことをよく聞くが、夢がないんだから苦しいことなんか耐えられるわけがない。前の職場(古書店)で入社面接を受けた時も、面接担当のKさん(取締役)にはっきり言われた。
「『うえぽん』さんは、見るからに野心がなさそうだね~。仕事する時は野心を持って欲しいなぁ」
野心、すなわち夢である。「出世して出世して、いずれは独立して自分の店を…!」というぐらいの意気込みが、仕事をする上では大きなエネルギーになる。Kさんの言わんとするところはこうだと思う。それはわかっていたが、どうしてもダメだった。厳しいことに耐えられなかった。
直属の上司だった店長のSさんは、毎日朝早くから夜遅くまで働きづめで、私が入社する前年度は休みを1日も取っていなかった。さらに店長だから月に何度もミーティングがあり、その度に前出のKさんから店の運営などに関して厳しい注文、時には激しい叱責も喰らっていた。それでも、凹むことなく現在も頑張っている。Sさんには「人に認めてもらえるような人間になりたい」という夢がある(直接聞いた)し、守るべき奥さんも子供もいる。だからハードな毎日にも耐えられるのだ。
しかし、私にはそんなものがない。あるのは「仕事がうまくできずに怒られる毎日」という現実だけ。1日のバロメーターは「ああ、また怒られた」「良かった。今日は怒られずに済んだ」かのどちらかであった。
Sさんは「お前は臆病すぎるんだ。怒られることを怖がるな。怒られたっていいじゃないか。お前の全部を否定している訳じゃないんだから」と言った。しかし、そんなこと言われても怒られるのは嫌だ。どうしても全てを否定されているような気持ちになってしまう。私は気持ちの切り替えがヘタなのだ。怒られる度に「ああ、またか。もう俺なんかいないほうがいいんじゃないだろうか」と一人で勝手に沈んでいくうちに、再び病気になってしまった。そして、会社を辞めた。
今、社会復帰を目指してはいるが、特にこの先に明確な目標や夢があるわけではない。

正直、もう何もしたくないのである。

苦難に耐えて一生懸命生きている人間からすれば「何を甘えたことを!」と思われるだろうが、これが私の心境だ。せめてこの場では本心を叫ばせていただきたい。
ブログを始めたきっかけには、夢も何もない私がこの先の毎日を凌いで生きていくために、何か細々とでも続けられることをしたい、という気持ちも入っている。こうした心情を吐露する場を設けることで「何もしたくない」状態から少しは抜け出せればいいのだが。
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ケータイで送信テスト(追記あり)

2005-01-23 00:00:57 | 雑記
携帯電話を買って、朝から晩までかけて、やっと先ほど大半のセッティングが完了。ブログに記事が送れるようにもなったので、今からテストします。これがやりたかったのも携帯電話を購入したきっかけの一つなのです。果たして、うまくいくかな?

追記
どうやらうまくいったようであります。せっかくなので、ケータイのカメラで、家にあったたぬきの置物を写し、プロフィールの欄に置いてみました。自分で言うのも何ですが、体型といい間の抜けたツラといい、そのまんま。



そうです、私がうえぽんです。
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医薬品は「使用上の注意」をよく読んで、用法・用量を守った上、正しくお使い下さい。

2005-01-22 18:27:24 | うつ
一昨年の冬から、ずーっと神経科に通っている。私のうつはごく軽度のものなので、もらっている薬もすごく弱いヤツだ。うつの原因になった会社は辞めたし、もう飲まなくても平気と言えば平気なのだが、時折病的に沈むこともまだあるので、お守りの意味もあって、3種類の薬を朝夕2回飲んでいる。
うつの薬は普通の薬と比べて少々特殊だから、服用には一層の注意が必要だ。私はこれを軽視したため、結構ひどい目に遭っている。

最初にもらった薬に「ドグマチール」(以下「ドグマ」)というのがあった。ネットで調べたら副作用に「体重増加」と書いてある。「んな、薬飲んだぐらいで体重なんか増えてたまるかよ」と私は心の中で笑っていたが、後になってその副作用の意味がわかった。元々、「ドグマ」は消化器潰瘍の治療のため開発された薬で、途中からうつに効くことがわかり、現在ではうつ治療の方がメインになった薬だったのである。胃の血行が良くなり、その結果、胃の動きが活発になり、腹が減る。
そうとは知らず、「ドグマ」を飲み始めてから妙に食欲が出てきた私。うつになると食欲も落ちているから「あー、効いてるなぁ。食欲出てきたわ」ぐらいにしか考えていなかった。しかし、気がついた時には、もはや手の施しようがないぐらいに腹がボッテリ膨らんでいた。ズボンのほとんどが使えなくなってしまった。
現在、体重は80kgの前後をさまよっている…。

またある時は、つい間違った時に飲んでしまい、奇妙な体験をした。

昨年暮れのある夜、私は友人たちと酒を飲み、少々酔っぱらっていた。日付が変わる頃に家に戻り、シャワーを浴びた後「あ、薬飲まなきゃ」と思った。
どんな薬であれ、体にアルコールが入った状態で服用するのは非常に危険なことである。しかし、酔っぱらっていたからそんな基本的なこともすっかり忘れて、ただ「薬を飲まなきゃ」という義務感だけが先に立ち、3種類の錠剤を、何の考えもなく水で一気に飲み込んだ。

夢の中の光景である。私は街を歩き、人と話していたのだが、何だか感覚がおかしい。こんな事を書くとマジで引かれそうなのだが、あえて書く。

私は神様になっていた。

相手の考えていることが、手に取るようにわかる。相手が何か言う前に、私はその内容を一字一句間違うことなく、先読みしていた。心の中は青空のように澄み渡り、この世の真理を全て理解していた。そして、ある時は軽々と空を飛び、ある時は深々と海中に潜り、何をするのも思いのまま。そう、完全に「ラリっている」状態だったのだ。
朝方、トイレに行きたくなって目が覚めた。そして、いざ起きあがったら、足がもつれて言うことを聞かない。昨晩は大して酒を飲んだわけではなかったのに、今まで経験したことのないようなヨレヨレの千鳥足である。何とかトイレにたどり着いて用を足し、再び寝た。しかし、再び起きたあとも酔いが抜けない状態で、一日中ボーっとして過ごしていた。

最初にも書いたが、私がもらっている薬はすごく弱いヤツである。これでこんな状態になってしまったのだから、他の薬だったら推して知るべし。大量に飲んで酒でも入った日には、命の保証はない。実際、こうした方法で自ら命を絶つ人間も少なくはなかろう。あんな小さい薬でも、バカにしてはいけないのである。

(酒を)飲んだら(薬を)飲むな、(薬を)飲むなら(酒を)飲むな。
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