先日も常磐街や高松OPA跡のことを書いたけど
高松OPA跡に仕事プラザや高齢者向けのクリニックでも入ったらと書いたけど、OPAがあったときに5階にハローワークみたいなのがあったらしいですね。
とはいえハローワークがOPA跡にあるといいというのは今でも間違いないと思います。
ダイエーがあったころは常磐街には空き店舗は1件もなかったらしい。
そもそも、常磐街の調子が下がってきた理由が世間でどう言われているのかは断片的にしか聞いていない。
個々の店舗の商品力や店舗力が落ちたのだろうか?
うどんジムは、新しい瓦町駅舎ができて、改札が常磐街入り口の正面にあったのが、北側に移って、中央通に向かう人々が常磐街を動線としなくなったことが一番でないかと思う。
これは郊外店の進出よりも大きいのでは(世間でもそういわれていますか?)?
公共スペースができても店舗の販売力が上がらないと意味がないと軽くジャブのようにうどんジムに反撃された方がいらっしゃいました。
うどんジムは、通行量が減って弱ったのなら、店舗力や商品力よりも通行量の回復をするのが先だと思った。
血液のめぐりが悪いのに、努力をせよといっても限界があるし非効率な消耗をすると思う。
瓦町と中央通間の主動線の地位を回復すれば、終電近くまで商売をできる余地があるが、今は夜に田町の交番から東を眺めるとまるで闇のトンネルのようになっていて通るのが気持ち悪い感じさえするだろう。
改札の位置が変わったことで常磐街の通行量が激減したのかどうか確かめたわけでもないけど、当時の関係者も改札の位置のみで大きな影響を受けるとは思っていなかったと思う。
改札の位置を変えることと公共スペースを設けることで回復の下地はかなり整うのでは?
改札の位置を変えることは難しいと思うけど、あの駅舎と常磐街をつなぐペデストリアンデッキ内で動線を変える工夫はありえそうな気がする。
動線が変わったら、副作用で通行量が減るところもできるけど、常磐街という本体に空きが減って賑わいができる方が周辺全体にも好影響ではないだろうか?
なぜ、常磐街にこだわるかというと。
若い人が美容や服飾など、好きなことに一生懸命取り組んでいる店舗が多いから。
そういう人たちの挑戦に何らかの追い風を吹かせたい。
あれだけ空きがあるのだから今入ってるところにも逆風が吹き続けていることは想像に難くない。
「地域の魅力」って言いますが、若い人に「新しいことをやっても高松ではどうせだめ!」って言われるようでは魅力的にはならないと思う。
また、都市計画法の改正や環境意識の高まりにも見られるように、車中心の郊外立地から公共交通機関利用回帰への社会的合意ができつつある。
高齢化社会でもあるので、常磐街のような交通至便の地に高齢者から若者まで引き付けることは社会全体の要請に沿うものであると思う。
高松の社会資本全体の効率からしても常磐街に元気がないのはもったいない気がする。
こないだ、豊かさとは、1に金銭や物質、2に生活環境の快適さ、次に郷土愛とかいってる記事について書きましたが、うどんジムは3番目か全体をつなぐものとして「可能感」を挙げたい。
外国に旅行をしても言葉がわからない人や障害で歩くことができない人は、受け取れるものの量や幅が違う、芸術もわかる人とそうでない人ではそこから受ける豊かさが違う、新しいことに挑戦したいと思ってそれができるのと初めから無理だと思うのではやはり豊かさが違う。
豊かさには、その人が可能なことや可能と思える範囲の広さや深さが大きな意味を持つと思う。
これはうどんジムがよく使うアマルティア・センの影響による考え方です。
これは能力開発によって人々がより豊かさを享受できることを意味するので、国連やODAなどで途上国で学校を建てたりする活動と相性がいいと思うし、学んだり努力することに意味を与え、教育などに予算をつけることについて、マスメディアや政治に訴えやすくするものとも思う。
若い人の挑戦を応援したり、応援しようとする人がその地域にたくさんいるか、そしてそれが力を持つかどうか。
そういう地域全体の可能性を広げる努力や気持ちこそが、地域の豊かさや魅力の大きな要素であるとかなり思っている。
トマス・ホッブスだったか、「世の中が自然状態では万人が万人に対して狼である。だから王様に権力を預けなければいけない。」とかいって、王様の権力を擁護したとか、聞いたことがありますが、「万人が万人に対して応援団である。」というのがこれからの地域づくりに大切な感覚でないかと思う。
「万人が万人の応援団」の感覚は、可能感と郷土愛を強める考えだと思うし、無関心と対極の考え方なので生活環境も高めると思う。
さて、これが金銭や物質的な豊かさも高めるものでしょうか?
これは机上ではイエスだけど、うどんジムはそうなればいいと思うけどかなり疑わしさを感じています。
これがイエスと言い切れるなら、いいんですけど、やはりパイから先に奪おうとする人や自分に得をもたらす人を囲い込もうとする人の方がよりうまくいっていることがままあるような気はします。
どうでしょうか?
高松OPA跡に仕事プラザや高齢者向けのクリニックでも入ったらと書いたけど、OPAがあったときに5階にハローワークみたいなのがあったらしいですね。
とはいえハローワークがOPA跡にあるといいというのは今でも間違いないと思います。
ダイエーがあったころは常磐街には空き店舗は1件もなかったらしい。
そもそも、常磐街の調子が下がってきた理由が世間でどう言われているのかは断片的にしか聞いていない。
個々の店舗の商品力や店舗力が落ちたのだろうか?
うどんジムは、新しい瓦町駅舎ができて、改札が常磐街入り口の正面にあったのが、北側に移って、中央通に向かう人々が常磐街を動線としなくなったことが一番でないかと思う。
これは郊外店の進出よりも大きいのでは(世間でもそういわれていますか?)?
公共スペースができても店舗の販売力が上がらないと意味がないと軽くジャブのようにうどんジムに反撃された方がいらっしゃいました。
うどんジムは、通行量が減って弱ったのなら、店舗力や商品力よりも通行量の回復をするのが先だと思った。
血液のめぐりが悪いのに、努力をせよといっても限界があるし非効率な消耗をすると思う。
瓦町と中央通間の主動線の地位を回復すれば、終電近くまで商売をできる余地があるが、今は夜に田町の交番から東を眺めるとまるで闇のトンネルのようになっていて通るのが気持ち悪い感じさえするだろう。
改札の位置が変わったことで常磐街の通行量が激減したのかどうか確かめたわけでもないけど、当時の関係者も改札の位置のみで大きな影響を受けるとは思っていなかったと思う。
改札の位置を変えることと公共スペースを設けることで回復の下地はかなり整うのでは?
改札の位置を変えることは難しいと思うけど、あの駅舎と常磐街をつなぐペデストリアンデッキ内で動線を変える工夫はありえそうな気がする。
動線が変わったら、副作用で通行量が減るところもできるけど、常磐街という本体に空きが減って賑わいができる方が周辺全体にも好影響ではないだろうか?
なぜ、常磐街にこだわるかというと。
若い人が美容や服飾など、好きなことに一生懸命取り組んでいる店舗が多いから。
そういう人たちの挑戦に何らかの追い風を吹かせたい。
あれだけ空きがあるのだから今入ってるところにも逆風が吹き続けていることは想像に難くない。
「地域の魅力」って言いますが、若い人に「新しいことをやっても高松ではどうせだめ!」って言われるようでは魅力的にはならないと思う。
また、都市計画法の改正や環境意識の高まりにも見られるように、車中心の郊外立地から公共交通機関利用回帰への社会的合意ができつつある。
高齢化社会でもあるので、常磐街のような交通至便の地に高齢者から若者まで引き付けることは社会全体の要請に沿うものであると思う。
高松の社会資本全体の効率からしても常磐街に元気がないのはもったいない気がする。
こないだ、豊かさとは、1に金銭や物質、2に生活環境の快適さ、次に郷土愛とかいってる記事について書きましたが、うどんジムは3番目か全体をつなぐものとして「可能感」を挙げたい。
外国に旅行をしても言葉がわからない人や障害で歩くことができない人は、受け取れるものの量や幅が違う、芸術もわかる人とそうでない人ではそこから受ける豊かさが違う、新しいことに挑戦したいと思ってそれができるのと初めから無理だと思うのではやはり豊かさが違う。
豊かさには、その人が可能なことや可能と思える範囲の広さや深さが大きな意味を持つと思う。
これはうどんジムがよく使うアマルティア・センの影響による考え方です。
これは能力開発によって人々がより豊かさを享受できることを意味するので、国連やODAなどで途上国で学校を建てたりする活動と相性がいいと思うし、学んだり努力することに意味を与え、教育などに予算をつけることについて、マスメディアや政治に訴えやすくするものとも思う。
若い人の挑戦を応援したり、応援しようとする人がその地域にたくさんいるか、そしてそれが力を持つかどうか。
そういう地域全体の可能性を広げる努力や気持ちこそが、地域の豊かさや魅力の大きな要素であるとかなり思っている。
トマス・ホッブスだったか、「世の中が自然状態では万人が万人に対して狼である。だから王様に権力を預けなければいけない。」とかいって、王様の権力を擁護したとか、聞いたことがありますが、「万人が万人に対して応援団である。」というのがこれからの地域づくりに大切な感覚でないかと思う。
「万人が万人の応援団」の感覚は、可能感と郷土愛を強める考えだと思うし、無関心と対極の考え方なので生活環境も高めると思う。
さて、これが金銭や物質的な豊かさも高めるものでしょうか?
これは机上ではイエスだけど、うどんジムはそうなればいいと思うけどかなり疑わしさを感じています。
これがイエスと言い切れるなら、いいんですけど、やはりパイから先に奪おうとする人や自分に得をもたらす人を囲い込もうとする人の方がよりうまくいっていることがままあるような気はします。
どうでしょうか?