tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

寂しき法学の大学院

2006年04月04日 22時58分45秒 | ニュース
二年前、鳴りもの入りで各地の大学に設置された法科大学院という異様な教育機関。この3月で初の修了者を出したそうだ。

そもそも、法曹資格者を増やす目的で行われた司法改革。その一環として、大学院に於ける法学教育の重視と、司法試験受験時の一部科目免除と合わさって、比較的容易に弁護士・裁判官・検事の資格を得るように考えられた制度だ。しかし、大学にとってみればもう既に冬の時代を迎えた場所だから、お客である受験生や院生を呼び込めるまたとない機会とばかりに、あちこちで設置された。その中には、この大学、過去に司法試験の合格者を出した事があるのとも疑いたくなるような大学もあるが、それについてはこれ以上言及しない。

法科大学院以前の法学部から大学院の進学ルートは極めて異質なものであった。そもそも大学院は研究機関であるから、どこにでもある私学の大学院は学部の延長で勉強すると行ったノリだが、法学の大学院は、研究者養成機関と司法試験受験者の受け皿と、公務員受験者やモラトリアルの人間のたまり場だった。見方をかえれば、法学という学問が本質的に専門的な研究者を必要としないのかもしれない。われわれ一般人が驚く事実として、あれだけ困難な司法試験を乗り越えて弁護士・検事・裁判官になる人間がいる一方で、大学院で3から5年も教えれば、自動的にこれらの資格を得る事が出来るという不可解な制度がある。しかし、かつて大学の教官が弁護士になるというのも少し頼り無さげな印象がある。

話を戻して、これらの「新しい」法科大学院は本当に司法試験に有利なような教育システムを持っていたのかと言うと、そうでもないみたいだ。今回の修了生と入学生の比率を取ると、入学者の96%が修了していったみたいだ(朝日新聞4月4日朝刊)

ここは、いかにも日本の学校システムを踏襲しているともいえる。すなわち入るときに難しくして出る時は比較的容易というパターンだ。これについては嫌になるほどの議論が続いた。曰く、「入るとき簡単、出るとき困難」とか「どちらも困難」とか。しかし、今を持ってほとんど変わらないところを見ると、よっぽど変えたくないシステムなのだろう。どう言おうとも日本の大学院の建て前に近い本質は「研究者養成機関」なのだと。

さて、本来のふるいにかけて、修了者の厳選に入れば、司法試験の合格者は7から8割であった。しかし、どこの大学院もほぼ全員を修了させてしまったため、5割にまで落ちたそうだ

国立大学に対して、私立大学はほぼ入学者の全員が修了している。国立の方が厳しいかと言うとそうではない。国立の場合、途中で退学する人がいて、その中には現行の司法試験にうかった人もいるくらいだからだ。

さらに驚くのは、私学の一部において2名とか3名しか入学していない大学もあるという事。一体どういう教育を行っているのか分からないし、少人数教育といっても教育の不平等という考え方がそっくりそのまま使える。どういうことか? 学部は50人で一人の先生の授業を受けるが、大学院では3人でその先生の授業を受ける。年間の授業料が学部と大学院で同じであるすれば、この不平等は歴然である。確かに年間の授業数や取得単位数は大学院の方が少ないが、それでも不平等は残る。

最近の大学院は法学研究科以外でも、研究者以外の進路を取る人間が増えてきた。そのために、進路の取り方が一つのイデオロギーを持ち始めて、その確執がおこり、大学院生同士がいがみ合っているという話をよく聞く。ただ法学研究科は、その状況をかなり以前から作り上げていた。

大学院が何も得られない場所になりつつある。在籍者の不安さえ掻き立てるような寂しい組織へと落ちていっているのである。

映画『サイレン』

2006年04月01日 23時55分06秒 | 映画
去年だったか、このブログでも紹介したプレステーション2ゲームの『サイレン』。ゲームそのものに関心があるのではなく、その世界観やインパクトに興味があった。世界観は広がり続け、映画としても製作される事が決定されていた。公開が2月11日。なぜだか知らないし、偶然だと思うけど、この種のホラー映画が公開されるのは、2月の寒い時期である事が多い。ハリウッドリメイク版の『呪怨』もこの時期公開だった事を覚えているだろうか。蓋を開けてみれば、それほど興行に成功しているとは思えないが。

さて、2月の半ばと言えば、こちらも死にそうなくらい忙しい時期であった。おかげで映画を見に行く余裕など無い。見たい映画だったが。
スピルバーグの『ミュンヘン』はまだ上映されているみたいだ。こちらの社内における人気は高く、見に行ってきた人が多い。さしあたって見に行きたいとは思わないが、『サイレン』が思いのほか早くに上映終了となったのは少し悔やまれた。
さて今週の水曜日くらいか、新聞の奈良版の映画館の案内を見てみると、まだやっている事が分かった。上映時間を調べるために映画館のホームページを見てみると夕方の一回だけ上映しているとか。「よしっ!」という感じで行く事にした。しかもホームページをのぞいたおかげで、割引のクーポンを印刷して持っていくと安く見れる事がわかった。早速印刷するが・・・・これが無駄に終わった。

本日一日は「映画の日」でどの映画も1000円で見る事が出来るとか。窓口まで行ってようやくわかった。席指定でありながら、いい位置に確保する事が出来た。でも、客席は結構がら空き。おかげでゆっくり見る事ができたが。

映画の良いところは、家では再現できないような大音響が楽しめること、特にこの映画の重要な「音」であるサイレン音がものすごい音響で鳴り響く。しかし、映画が始まった当初のBGMの選択は必ずしもシーンにうまくマッチしたものではなかった。

出演者達の顔部分がアップする事が多い。これは微妙な表情を逃さないための方法であるが、それゆえ出演者の演技力が非常に大きな要素を含む。主演、市川由衣はこれが映画主役として初めてであるが、「恐怖におびえる少女」という役どころの演技は素晴らしい。だが、後は個人的で主観的な実感なのだが、アップになって映し出される彼女の顔を見るたびに、私の昔の彼女を思い出す。まるっきりピッタリなのではないが、どことなくそっくりなのである。

内容は確かにゾンビ映画の範疇に入るホラー映画なのだが、サスペンスとしての仕上がりも持っている。暗闇、雨、伝説、血。アメリカの映画や『バイオハザード』などは、ほとんど大運動会のノリであり、話の背景も極めて単純だが、日本のホラー映画は、その背景を煮詰め、技巧的にも暗闇を巧みに使い、この異形の人の全貌を明らかにする事なく、見る者を恐怖へと誘い込む、陥れるのではない。ゲームの再現として映画を見るとおそらく批判しか持てないのだろうが、そういった背景知識を持たない私にしてみれば、ラストが「悲しみ」で締めくくられる映画とも言えよう。こういった体系は欧米の映画ではなかなか作れない。そこをうまく作れたのが「ホーンディング」や「アザーズ」であったと思う。

世間の評価に惑わされることなく見れば、非常に良い作品だ。