tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

見上げる塔 見下す塔

2006年01月22日 23時58分40秒 | Weblog
大分前の話だが、出身大学の社会学部棟に行ってきた事がある。対して高くもない建築物ばかりがあった大学だが、それはそれで充分に用をなしていたと思う。なぜか、大学当局は、入れ物たる建築物の建設に腐心するようになった。もうここ10年くらいの話である。大阪の郊外で、それなり閑静な住宅地のなかに、高層建築が作られるようになった。その中でも社会学部棟は部分的に10階などというところがある。だが、この部分をつなぐ渡り廊下のような場所が、風の通り抜ける状態であったりして、風のきつい日は恐怖心を感じる事があった。

旧約聖書にはバベルの塔のくだりが書かれている。もう既に多くの人が知っている話だが、その話を書き出すと、人々は神への敬意を失い、それどころか、神の世界に近づき、のぞこうというよこしまな心に満ちあふれた、その手段として、高い塔を建て、神の国への入り口を作り出そうとした。しかし、これが神の怒りに触れ、ある夜、神は人々の言葉を変えた。翌朝、起きた人々は互いの言葉が違い、意思疎通がまともに出来ない事に気づく。その結果、塔の建設はストップし、結局のところ、完成しなかったというものだ。

それからもう、何千年とたち、人々は神の国を目指すべく、高層ビルを建てるなどという発想を持つ事はなくなった。その時点で、人々の関心はより高いところへという「上」よりも高いところから見渡した視点である「下」へとシフトしていく。つまり神の存在そのものへ取って代わる事よりも、神の視点をつかみ、下を見下す「眺望」の方へ傾いていったのだ。

ただし、いかに高い塔を建てたところで、それは足場というポジションを確保しただけであって、思ったよりも眺めが良くないことを知る。かすんで見えなかったり、日差しや雨のせいだったり。それはもう人間の力ではどうにも出来ないことであったと思う。

私は行ったことがないのだが、六本木ヒルズには多くの「勝ち組」企業が入るビルがあるそうだ。そしてまた、よくメディアのやり玉に挙げられる場所でもある。そしてまた、新興の会社組織もまた、自らの実力でこのビルに近づこうとする。ヒルズという丘をのぼり、このビルに近づき、そこのどこかに落ちつくという行為。それはあたかも大学までの受験競争のルートに似ていなくもない。

堀江氏もまた、九州から上京し、安田講堂(東大)というかつての高層ビルに類似した建築物のある場所へと足を進めた。しかし、彼が安田講堂に見切りを付けるのは早かった。何年かの年月が経ち、彼が落ち着いたのは、結局ヒルズの高層建築という、安田講堂の縮図のような場所であった。

見晴らしが良いと思える超高層のビルに入り、そこからの眺めが本当の意味で良いと思える企業経営者がどれほどいるのだろうか。

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