tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

久世光彦氏死去

2006年03月04日 00時26分19秒 | ニュース
小学生の時に読んだ江戸川乱歩の少年探偵団から脱却すべく、中学生になった私が読んだのは、彼の作品の文庫本として収録された作品だった。とはいっても、小学生の間は、名探偵ホームズと怪盗ルパンを押さえるのにせい一杯だったから、少年探偵団はだいぶんと後回しになった。とはいえ小学4年生の時点で、少年探偵団をしっかり押さえていたのは、クラスのインテリ層(たった一名!)くらいしか知らない。当時は、金曜の7時くらいから少年向けのドラマとして、「少年探偵団」を放映していた。しかもスポンサーは阪急電鉄や阪急百貨店などの阪急グループだ。とはいえ、当時でも私はまだ金曜の7時に放映されていた「ドラえもん」を見ていたくらいだ。

さて、中学に入ってあのポプラ社から出ていたハードカバーの「少年探偵団」買う気が薄れ、その結果として、手を伸ばしたのが、ミステリーで定評があった角川文庫だ。横溝正史の作品が有名だが、江戸川乱歩の作品も収録している。余談だが、横溝は若い頃、編集者で、江戸川乱歩の担当だったそうだ。この辺の話をもじったのが、1995年公開の「RANPO」という映画だ。しかし、背伸びして文庫に手を伸ばした結果、とんでもない事実に遭遇することになる。

江戸川乱歩のミステリーの本当の姿は、人間の愛欲に根ざしためくるめく官能の世界なのである。おかげで、二、三冊読んでおしまいとなった。あまりいいとは思えなかったからだ。もう一つ付け加えると、少年探偵団ははるかにグレードを落としたまさしく「子供向け」の話だったわけだ。

それから6年以上がたち、江戸川乱歩の作品から遠のいた私はある文芸書に興味を持つ。それが久世光彦氏の『一九三四年冬ー乱歩』という作品だった。当時私はこの本を、新聞の紹介で読み、新刊書を本屋で求めた。ハードカバーだったから、結構な値段がしたと思う。

内容は、乱歩の出奔から、逗留した旅館で作品を書くというもの。乱歩の行動と、作中で書かれる乱歩の作品という形を取ったもう一つの作品が同時並行で進行し、次第に現実と虚構の世界が入り乱れるという内容になっていく。煮たような話では、先ほど挙げた映画もそうだし、筒井ひとみの『月影の市』(新潮社 1991?)もそのような内容になっている。かくも乱歩に興味をもったのは、乱歩と言う人物を通じて見た、東京と言う街、すなわち都市論としての方面だった。話を久世作品に限れば、やはり乱歩の筆調をまねたエロスの世界であった。まあ、趣味と実益をかねていたと言うのも事実かもしれない。(「何の」というツッコミはおいとくとして)

久世氏の作品を読んだのは、後にも先にもこの本が最初で最後だ。しかし、その前後の彼の活躍は、私の中に結構、根付くこととなった。彼はもともと小説家ではない。本業はテレビのドラマの演出家だ。

実はここがすごいことなのである。少なくとも現代の我々にとっては、テレビの演出など、ありふれたことのように思える。しかし、戦後30年間は、完全にテレビよりも映画のほうがはるかに大衆の娯楽として認知されていた。従って、テレビの将来性などほとんどわからなかったし、映画の演出よりも軽視されていたと言うのが本当のところだろう。だとすると彼の選択は地道な部分を歩いたと言うことでもある。話はかわるが、昭和40年代、雨後のタケノコのようにぼこぼこ設立された会社の一つが広告代理店だった。当時はある意味、注目を集めた職業なのだが、今日で言うところの、IT企業だから、胡散臭い目で見られたのも事実だ。テレビも同様であったと思う。

しかし、それにもかかわらず、新しいフィールドを求めて、多くの若い脚本家、演出、プロデューサー志願者がテレビに殺到した。今日では随筆家として知られる故向田邦子もそのひとりだ。向田の才能を見抜いたのが、久世氏である。彼は始めて向田に会ったとき、脚本の内容に驚いたそうだ。それもそのはず、シーン1で食卓を囲んで家族で会話、シーン2でも同様の演出を行う。以下、向田の脚本には各所でちゃぶ台を囲んで食事のという風景が描かれるのだが、これを読んだとき、久世氏は「アヴァンギャルドではないか」と思ったそうだ。しかし、向田の主張もはっきりしていて、家族とはいえ、集まって話をするのに、不自然ではない情景は、結局ちゃぶ台を囲んで食事をすることであった。以降、この演出は向田邦子が不幸にも航空機事故でなくなった後も、久世氏によって引き継がれる。

久世氏の演出方法は二通りあったように思われる。一つは向田邦子作品を演出する際の、非常に澄んだ空気を切り取るような映像の見せ方、役者への指導法などだ。昔は、正月の向田邦子ドラマがよく放映されていたが、それはどこかでみた方法論ながら、確実に人物の誠実さをも封じ込めるような、映像の「切り取りかた」であった。もう一つは、コメディーの追求である。今日の奇をてらうような大げさな演出ではなく、普通の日常生活にあるような、人物の特徴がにじみ出てくるようなおかしさであった。だが、作品の方向性が違っていても、彼の底流に流れる世界観、すなわち「昭和」の面影を語れる人間としての哲学があった。私でも、少し懐かしいとさえ思えるくらいだ。もう私たちが昭和という時代の特徴を知る最後の集団かもしれない。

だいぶん前になるが、彼は小説を書くに至った動機について、自分が死んだとき、新聞の訃報欄でテレビ関係の業績だけをかかれるのも嫌だからという理由を書いていた(話していた?)その結果、本日の朝日新聞の記事を読むと、作家としての活動紹介のほかにも、作曲家、書評委員の業績まで紹介されている。

さぞかしあの世で喜んでいるだろう。

最新の画像もっと見る