tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

書評:橋川文三 『昭和維新試論』 

2006年01月17日 23時54分20秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(書誌データ:朝日新聞社 1984年 現在版元品切れ)

著者は、1983年11月に死去し、この本が事実上の最終出版物になった。しかし、この本に収録された内容は、この本が上梓される10年も前のある雑誌での連載が中心となっていて、しかも、それだけの時間を置きながら、各項目のタイトルの大部分は、著者の死去に伴いつけることができず、出版元が過去の著作から想定されるタイトルをつけたそうだ。そもそも、雑誌掲載の当時から、とにかく簡単に資料を集めて(本腰ではない)書いたとかで、文章は読みにくくはないが、内容的に少し荒削りの部分があって、本当に資料として採用できるかどうかと言うところである。

さて、昭和維新とは何か。これの対照内容として、教科書でも習う明治維新が挙げられるし、そのほうが多くの人にも馴染み深いだろう。しかし、昭和維新の思想は、太平洋戦争を行った軍部の思想への直結した部分が存在する思想である。

かつて、マルクスはヘーゲルの言葉を借りて、「歴史上の偉大なる事件は二度起こる。一度目は偉大なる悲劇として、二度目はみじめな笑劇として」言った。しかし、この言葉を安易に用いて説明するには、あまりにも言葉の方が貧素であるという事件が起きている。明治維新と昭和維新の間にもこのことは言える。

少なくとも、明治維新による民間人の死亡者は、太平洋戦争のそれよりもはるかに少なかったはずである。だとすると、二度目の維新は、多くの犠牲が払われたから、歴史的に見てはるかに「おろかな」行為をもたらしたのだが、その底流には、政治的指導者の思想よりも、市井の人々の見方や考え方が多く流れていたのが、タチの悪い部分である。

言い直せば、明治維新の原動力には、下級とはいえ、特権階級の武士が多く含まれていた。むしろこういった人しかないのだが、昭和維新は特権階級(もうすでにそのような身分の区分が存在しないという前提での)の政治運動ではないという地点からスタートしている。これはこれで面白いのだが、この本を読んでいると、その四民平等の状況で、どんな人間の「政治運動=ファシズムへの源流」が重要な問題となる。言い直せば、橋川がどんな社会的立場の人間の行動を研究の対象として採用しているかが問題となるのである。

まず作者の経歴について書こう。橋川文三は1922年長崎県で生まれた。胸部の疾患により徴兵を免除され、1945年東京大学法学部を卒業。戦後の混乱により、学者養成コースである大学院進学を行わず、編集者の道を歩む。その傍らで、丸山真男が行う研究会に参加。1957年から59年にかけて雑誌に発表した『日本浪漫派批判序説』で自己の文学体験が戦争や右翼的思想の土壌となっていた事の事実を丹念に調べ上げた。発表当時からその論文が高く評価され、61年に明治大学専任講師となり、後に政治経済学部教授まで昇格する。丸山とは全く違った視点での日本ファシズム論は評価が非常に高い。指導学生の中からは、猪瀬直樹を輩出している。先にも書いたとおり、1983年に死去した。

完全な学者畑を歩いた丸山とは少し違う人生を歩んでいるが、実際のところ、旧制高校から帝国大学へ進学した事から、エリートコースを歩んだ人物である事は事実だ。さて彼は、日本ファシズムの源流の一つとして、本書では渥美勝という人物を分析している。渥美もまた、旧制高校から京都帝国大学へ進学した人物であるが、後に大学を中退。中学校教師、鉄工所作業員、土工、人力車夫、映画館の中売、夜回り、下足番などの職を転々とし、最後にはいわばホームレスに近い生活を送っていた。しかし、この人物は、大正のはじめから街頭演説で「親政維新」の概念で持って、維新の概念を用いた社会改革を訴え始めた。その活動の最中に北一輝(二.二六事件の責任を問われ処刑された思想家)や大川周明(東京裁判で東条英機の頭をたたいたあの人)などの知古を得たが、極端な革命思想を持った訳でもなく、また後に起こる昭和維新への参加も出来なかった(年齢のため)から、後に事件を起こした北や大川の思想を用意しただけの人物であったという事が出来る。

しかし、橋川の分析指針は、草の根的社会改革運動が日本ファシズムという極端な軍事国家の建設をもたらしたということであり、これが彼の研究の最大の特色であるのだが、それは同時に最大の弱点を持っているともいえる。何よりも、草の根的な行動を行っている人間の属性がどこにあるのかという事である。そう考えると、渥美はドロップアウトしたといえ、その出自は完全にエリートのそれであった。市井のどこにでもいる人間とはやはり異なるのである。

ただ、こうした人物を分析の対象に選ぶこと自体、橋川自身もまたエリートコースを歩んできたことの証である。そしてまた橋川はこの事に対して、自覚的であったとは思えないのである。

そしてもっと問題なのは、丸山のファシズム分析の中核が誰も責任を取らないところで行われたあの「戦争」であったのに対し(「超国家主義の論理と心理」)、橋川の分析は草の根的社会改革運動の一つの結束点がファシズムという考え方であるから、その責任は軍部や天皇に押し付けるのではなく、国民のすべてに押し付けられるのである。勿論私自身これに対しては、何の異存もない。ただ、問題なのは、その草の根的思想の源流に置かれた人物の選択が、実は本当に草の根的とも言える人物であったのかという疑問の方なのだ。

良く書かれた本だが、前にも書いたように少し荒削りなのが残念であり、作者が故人である事がもっと残念な事でもある。ただ、もう少し時間をかけてこの橋川の著作については読んでみたいし、それについてもまた報告が出来るだろう。

戦後思想(1945-90くらいまで)の「本質」とは何であったのか

2006年01月03日 01時21分38秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
昨年の終わりくらいから、丸山真男の「超国家主義の論理と心理」(『現代政治の思想と構造』未来社 1964)を読んだ。体裁は、一つの論文でA5サイズの紙に18ページくらいの量である。日本ファシズムの研究としては非常に重要な論文であり、その文体もけっしてややこしいというものではないが、読み流すと論旨がつかめない恐れがあり、実際ここのところで手こずって、4回くらい読み直すハメになった。このくらい読んでも、本当に論旨を正確に把握しているように思えず、いつもの書評ではこのくらいでも、軽く流して書くのだが、今回はそれが出来なかった。

なんで今頃こんな本論文を読まなければならないかと言うと、戦後の思想空間におけるテーマの大半を占めていたのは「なぜあんな戦争が起こったのか」という疑問と、「資本主義にはアイソ付かしたからマルクス主義」の二本柱だった。その前者である「戦争=ファシズム」の研究がその後のナショナリズム研究の流れへつながるのだが、このファシズムの研究の原点とも言えるのが、丸山真男の研究の一角である。そして同時に彼の弟子筋、いわば「丸山シューレ」と言われる人々へ継承されるのだが、今日、本当の意味で、彼の「弟子筋」と言われる人で優秀な研究を行った(現在完了である、この弟子達の大部分も既に鬼籍に入った人が多い)人は、丸山とは異なったアプローチをかけている事が多い。本当はこの弟子達の研究の方が魅力的だが、その前に予習的な意味合いで、この師匠の研究も見ておこうと考えた事に始まった。

先の「丸山シューレ」は完全に大学のゼミのようなスタイルだったようだが、同時期、「個人個人で行っていた研究」スタイルを超えて、多くの人と一つのテーマを追いかける研究スタイルが確立した。その結果、「○○研究会」というのが雨後のタケノコのように設立された。

しかし、

こうした戦後の研究を見ていると、よくも悪くも集団で研究を行う「共同研究」というスタイルがあまりにも鬱陶しい存在に映ってくる時がある。行っている当人達はそれで良かったのかも知れないが、後々、その研究を参照する私たちにその人間関係や派閥、思想勢力の関係の予備知識や学習まで強要するのである。あの研究会は共産党系だとか、右翼的だとか、保守系とか。研究によって何らかのことを明確にするという目的以前に、組織の性格やイデオロギーが、自ずと問題や結論をゆがめたようにすら思える。そうでなくとも、こうした組織の性格や人間関係を念頭に置きながら、研究成果を読むのは非常に苦痛だ。

参加するにしても、個人的にはあまり感心しない研究方法でもある。それでも、大学院の時は、こうした研究会に無理にでも参加させられたし、研究の内容までごく一部の人間が規定する場面もあった。

それはさておき、昨日くらいから、久野収・鶴見俊輔・藤田省三『戦後日本の思想』(岩波同時代ライブラリー 1995)を読んでいると、戦後日本の思想の本質を語るように見せかけて、結局のところ、どこそこの研究会の主張がこうであって、そこには誰それがいて、誰それのお弟子さんがこういったみたいな内容を再確認しているだけの内容で、本当の問題がどこにあって、それに対する回答(あくまで一つの)が見えなくしている、あるいは複雑にしているように思えてくるのである。

1990年代も後半に入って、こうしたある問題の本質を追いかけるように見せかけた研究会を発足させ、その実、大学や派閥、主義主張を根底に置く人間関係の把握や確認といった形式を改めるという動きが出来てきたが、依然として上記のような研究会を理想とし、「ムラ社会」を形成するような研究会を作ろうとする研究者も非常に多い。

研究の方法と言う意味においてではあるが、おそらく戦後思想の最大の功罪であったのだろう。

書評:松田素二 「呪医の末裔』(講談社 2004)

2005年12月26日 14時42分51秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(副題:東アフリカ オデニョ一族の二十世紀)

恩師、松田素二先生の最近作である。先生は中学か高校生のころ、友人との会話から、次のような疑問にぶつかった。「フランスやイギリスの歴史が盛んに研究されている半面で、なぜアフリカの歴史がほとんど紹介されていないのか」と言う内容である。この若き日の先生の疑問に対して、友人は次のように喝破した。「アフリカ人は固有の文字を持たないから、歴史を記述できない。したがってアフリカには歴史が存在しない」と。

しかし、実際にはアフリカにも歴史があって、それは欧米重視の学者の偏見にも近い意図から取捨選択されていたのである。また欧米の歴史観を通じてもたらされる、アフリカ人像は「野蛮な人々」のイメージであった。先生はこのイメージを打破し、本来の姿を伝えるべくアフリカの歴史を伝える本を編んだ。『新書アフリカ史』という本である。新書にして596ページというボリュームは、「アフリカに歴史が存在する」ということを伝えるのに十分な量であった。

しかし、この本はマクロな視点で歴史を捉えることを目的とした結果、先生が本当に考えている、というよりも研究の中で実践している方法を追及するには不満の残る部分があった。彼は研究者的マクロな視点よりも、地元の人々と会話をするような、ミクロな視点を重視するのである。しかし、ミクロな視点を重視するから、研究のスケールにダイナミックさを書くという意味ではない。むしろ、個人の小さなひとつひとつの行動が、マクロな「歴史」へつながることもあるのだ。

本書は、アフリカ・ケニアに在住するひとつの家族の歴史について追った内容となっている。その始まりは、実に百年前にまでさかのぼる。しかし、その始祖ともいえる人物に彼はインタビュー調査を行ったわけではない。その子供たちや、孫たちを中心にインタビューを重ね、構成していった。

確かにケニアはイギリスに支配された土地であった。そこには植民地的収奪も確かにあったが、彼らがただ、力を前に屈服していたのではない。むしろ支配を受けることによる困難を、その支配の力を逆に利用することで、乗り切った部分もあることを明らかにしている。たとえば、白人の強制労役に対して、これを逃れるべくキリスト教の宣教師の修行を行ったとか、兵役に対して、自ら志願して、軍隊の中でもより安全な技術者的ポジションに付くとか、そうした白人の技術を習得することで、のちのち工業化していくケニアで非常に役に立ったとか。白人のサーバントという白人でもないが、黒人のエリートである意識を根付かせられる過程などが描かれている。

その半面で、この一族の開祖が持っていた原始宗教を土台とした呪術に拠る医術(誰かに呪いをかけられている故に、病気や怪我をしたりするから、取り除くと言った)という、いかにも「アフリカの神秘性」の部分にも深く言及しているが、それは彼がこの部分に関心を持つのではなく、むしろオデニョ一族をはじめとする、ケニア人の日常的な生活の一光景であることを伝えている。それを非文明的な文化だと断じれる人間がどこにいようか。

植民地支配は、村の中という非常に狭い共同体の中で一生を送るというライフコースを崩壊させ、都市や白人農園に出稼ぎに行くという新たな習慣を根付かせた。しかし、今日首都ナイロビという都会へ出て行っても、仕事がなく、農村へ帰っても暮らしが難しいという非常に困難な状況に多くのケニア人が直面していることも書いてある。アフリカだから、広大な土地を耕せば誰でも暮らせると言うのは、日本人の無理解からくる浅はかな知恵であることに気づくだろう。実際のところ、日本人の無理解と偏見はここまで進んでいるのだ。それを欧米のせいだと責任を転嫁するのは、もう間違いであり、ただ自己責任を全うしていない人間であることを自ら証明することにもなる。

今日、こうしたエスノグラフィーがどのような方法で書いても、欧米的な学問に依拠した「偏見」であると批判され、それが文化人類学への逆風となっているが、本書は、そこにとらわれることなく、同じ人間の異なる生き方を追いかけると言う視点で書かれた一級のエスノグラフィーであることは間違いないであろう。

書評:杉本淑彦『文明の帝国』(山川出版社 1995)

2005年12月17日 23時01分28秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(副題:ジュール・ヴェルヌとフランス帝国主義文化)

あまり知られていないが、今年はジュール・ヴェルヌがなくなって、100年が経つ。今年のお正月あたりに、ドラマかなんかの特集をBSで行っていたと思うが見ていない。というよりも、彼が亡くなって100年というのを知ったのは、11月も終わりであった。そこで良い機会だから、夏場に買っておいた本書を読んでしまおうと思った。古書市で買った本であり、この事は確か6月か7月のブログでも書いたと思う。

定価が非常に高い本(5300円)だから、本屋で買う事もためらっていた、一度大学の図書館で借りて読んだ事があるが、非常に良い本だと思った。若かったのと出たすぐという時期的なものがあったのかも知れない。

しかし、今読み返してみると、知識の浅かった(今もそれほど変わらないが)当時、本当にこの本の持つ本質が理解できたのかどうかわからない。少なくとも、当時関心を持っていた、ヨーロッパの「社会史」の観点から「面白い」と思ったに違いないのである。その後、大学院を出て多少なりとも、勉強していると、本質的な問題点とその問題点を明らかにするにあたって自分の姿勢や立脚点をどこにおくのかという倫理の問題にぶち合った。言い直せば、それまでただ、現象を素朴に理解し解釈する研究風潮の中で、「この文章はこうした問題点を持ちます」という「問題性の突き上げ」あるいは「提示」が研究者の新しい方法論であった時代はとうに過ぎ、その問題とどう向き合っていくのかということでもあった。

具体的には「この文章のこの部分には、ジェンダーの観点から見て問題があります。」という事をただ報告する時代から、「この文章を間違った解釈のまま放置していていいのですか」という行動(アクション)の部分を重視する時期へと移行していったと言えるのである。

本論から外れた。

大学の2,3年次になると、仏文科においてどのような作家を卒論として取り上げるかという質問を受ける。かっちりとした作家を挙げるものもいるが、友人の一人はジュール・ヴェルヌを挙げていた。比較的冒険小説や童話で卒論を書く者が私の周りでは多かったが、彼は最終的にアレクサンドル・デュマの『三銃士』で書いた。ざっと見渡してみてもヴェルヌで書く人間はいなかったし、ルブランの『アルセーヌ・ルパン』で書く人間もいなかった。子ども向けの冒険小説と思われているようだ。

書評として取り上げた本の作者の杉本先生(大阪大学教授を経て現在、京都大学大学院教授。一度授業を受けてみたかった・・・)も子どもに読ませる本を選んでいるうちに、その内容の問題性に気づいたところから、分析が始まったそうだ。

本書の視点は、イギリスに比べ質や量のにおいて劣る部分が多かったフランスの「帝国主義的支配」が国家政策のレベルから一般大衆の認識に移行する課程に使われるいくつかの「装置」をジュール・ヴェルヌの小説に見いだし、その内容面にわたる分析を行う。

そもそも、ヴェルヌの小説には、旅行ものが多い。『気球に乗って五週間』や『80日間世界一周』、あるいは『地球の中心への旅』や『地球から月へ』など。こうした世界を舞台とする内容である事は、既に世界を把握(支配)したい心性の発露でもあるが、そこから踏み込んで、表象の中に現れる人種差別について言及している。白人を中心に据え、黒人やアフリカ人を周縁に位置し、その人種の本質を考えないまま、アフリカ人は、白人に劣り、野蛮であり、啓蒙すべき人種として考えられている。中には、カニバリズム(人を食べること)も描き出されている。特に分析の中で納得したのは、『二年間の休暇』だ。あれは日本では『十五少年漂流記』というタイトルで出版されており、その少年の一人が、黒人なのだが、仲間で行う勉強会に参加させてもらえないばかりか、台所番として食事の用意をさせられ、寝るところも台所という扱いを受けている。とても他の白人少年とは同じ扱いを受けているとは言い切れず、少なくとも白人の少年達の間では、黒人が劣る人間だという認識があったのだ。また、本書では、イギリス人やフランス人の少年たちの所帯で、「勇気も知恵もある」存在が、フランス人であり、他方イギリス人の少年は、やや陰気な役どころを与えられている。

ヴェルヌの小説は、フランス人に多く読まれた。と、判断するのも、同じフランスの童話集であるラ・フォンテーヌの『寓話』(1670年代に成立、文体は韻文調、tyokutakaの友人が卒論で取り上げた事から知っているような本)が50年で最大75万部しか出ていない事に対して、ヴェルヌは、その生涯の間に、160万部も売ったと言われている。いわば、子どもの本で、この数字は、時代を考えても「お化け」的であると言われている。またヴェルヌの本は、クリスマスのプレゼントとしてよく使われたそうだ。

また、ヴェルヌは、同時代への言及を常に作品の中で漏らしている人でもあった。イギリスがフランスを出し抜くような政策を行えば、作品の中のイギリスの表象は、それまでどれほど好意的であっても、悪意に満ちたものになるし、これはロシアやドイツに対しても同様であった。他にも、カトリックとプロテスタントの違いも差別的である描き方を行い、科学への姿勢も同様だ。
しかし、こうした差別への心性が、国家指導層のレベルにとどまらず、大衆の中に降りてきている事を指摘して本書は終わっている。

本書の内容は、フランスの植民地主義成立過程にも言及しているが、実質的にはヴェルヌの作品が発した「帝国主義的側面」の分析に多くの部分が割かれている。もう少し発展性を望むならば、「帝国主義的側面」発した作品やヴェルヌ以前の問題、すなわちヴェルヌがどのような方法で、人種や科学の知識を得ていったかというメディアの側面にも広がっていくであろう。ここから歴史学と社会学の協力が生まれていく。

いずれにせよ、19世紀に対するノスタルジーを喚起する存在(私自身が社会史として提示される研究結果にノスタルジーを感じていたのだが)として読むと失望するかも知れないが、ヴェルヌの作品の魅力が併せ持つ悪意に関して解説された本としては一級である。発刊から10年近くたち、少なからず研究の視点の部分では新鮮さを失ったが、その反面、初心者が押さえなければならない本としての重要性が高まった希有な研究書であると私は考える。

飲み込まれるということ(3)

2005年12月04日 23時07分43秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(使用テキスト:橋川文三「昭和超国家主義の諸相」(筒井編『昭和ナショナリズムの諸相』名古屋大学出版会 1994 所収)、
宮本又郎『日本の近代11 企業家たちの挑戦』中央公論新社 1999)

1999年10月初旬。東京都文京区本郷。
私は、学会で東京へ来て、午後から始まるその会に出席する前に、東京大学の安田講堂を眺めていた。印象とは異なり、かなり低さを感じるが、間近で見るその威風にただ圧倒される。

1969年1月。すでに閣議は大学紛争で混乱した東京大学の入試は不可能であるため、東京大学に対し、入試中止の勧告を行っていた。東大側は、これに反発。総長代行であった加藤一郎教授は警視庁にバリケードの排除を要請。警視庁は警備部(機動隊)を投入し、これの排除に取り掛かった。各学部の校舎の排除は比較的よういであったが、東大の象徴ともいえる安田講堂の封鎖の解除に際し、強力な抵抗が行われる。あのテレビの映像でもよく見かける攻防戦である。1969年1月19日午後5時46分、安田講堂の封鎖を解除。多数の逮捕者を出した。世に言う東大紛争の終結である。ただし、翌20日の閣議了承として、官房長官は1969年度の東大入試の中止を決定している

ところで、この安田講堂こそが東大の象徴であり、同時に日本資本主義の象徴でもあった。しかし、そのような巨視的な部分から研究するように、「ナショナリズム」もまた、見ていくと見逃すところに注目し、別な視点を切り開いた研究者の論に注目したい。

ところで、なぜ、東大の安田講堂から話を始めたのか?

権威の象徴として見なされた安田講堂は、その設立計画の当初から資本主義的権力の手垢にまみれた存在であった。

そもそもこの講堂そのものが、安田財閥の創始者、安田善次郎の寄付で作られた。安田の事業は金融業であり、この事業はその後、安田銀行や安田明治生命保険などの事業に発展していくが、その人間性すらも捨てた合理的な手法、特に今日の不況下で銀行が行っている手法は、当時の評者の間ではもっぱら不評であった。その帰結かどうかは、少なくとも経済学者の間では判断の埒外におかれる結末として、1921年9月28日、安田は大磯の別邸で朝日平吾という青年右翼に刺され横死する。享年84歳。朝日もまたその場で自殺している。経済学者の宮本又郎はこの時の状況を以下のように書いている。

朝日は社会的義憤のため事に及んだと見られたが、善次郎に寄付を申しこんで拒絶されたという金銭的トラブルもあったらしい。後年、プロレタリア作家の宮嶋資夫は善次郎をモデルとして『金』という作品を書いたが、大正デモクラシーの代表的文化人吉野作造は『中央公論』誌上にこの感想を書き、善次郎の生き様に批判を加え、朝日平吾の行為に一定の理解を示した。吉野にしてみても善次郎的企業家は私利のみを追求する伝統的商人としか映らなかったのである。

ところで、都市文化が栄えた1920年代から30年代にかけて、その華やかな文化の反面で、暗殺や暴力が多く起こった。そのその流れの最終的な終着点として、日本ファシズム、すなわち戦争を行うという思想へとたどり着くのだが、その初期とも言える時期に起こったこの事件を、朝日本人の心理的な部分から分析を行った政治学者がいた。橋川文三(1922ー1983)である。橋川の朝日を分析する前提にあったのは、社会的義憤と金銭トラブルによる怨恨の二分化によるどちらか一方の取捨選択ではなく、むしろ両者の折衷型であった。それによると朝日のパーソナリティは不幸な人生(実母と死別し、継母には冷遇された。)を送る事で作られたと言われる、感傷性とラジカルな被害者意識の混合であった。そして、彼の不幸感はしばしば周囲の人に対して理不尽異常な攻撃衝動となった。

しかし、朝日自身のライフコースを見る限り、決して貧しいだけの人ではなかった。それは当時の人間としてはかなりの高学歴指向であったことである。学資が続かず、多くは中退しているが、鎮西学院、早大商科、日大法科などの学校へ入学している。そして同時にコテコテの思想に固まった過激派とは異なった「生半可なインテリ」が政治と思想の、そしてテロリズムの最前線に浮かび上がる先駆的な存在であった。

その半面で、彼の行動の一つには有名人に異常なまでに近づきたいという欲望があった。彼は当時の実業家の多くに面談の申し入れを行い、渋沢栄一などはこれを受けいれた。勿論朝日が傾倒した実業家であったことは言うまでもない。しかし、多くは断られ、その結果として朝日の勝手までの好意が憎悪に転換する事が多かった。安田の暗殺はその延長線上にある。ちなみに、彼は事件を起こす少し前に、名だたる右翼の指導者達に対して、遺書を送っている。その一部が漏れる事によって、感化された人間、すなわち模倣犯(テロに走る人々である)が生まれるのだが、今のところこれらに対する言及は見送る。

その上で、こうしたテロに走る若者の背後にある心理的な部分はどのように構成されているのか。
政治学者ラスウェルは、政治的暗殺や類似行動の分析を行う際に用いるのが、「父親への憎悪」という概念である。
今までのところをまとめて、橋川の論文から引用してみよう。

(父親憎悪とは)例えばある少年が母を失い、継母が来てからその学業成績が悪くなり、家庭の期待を裏切るような兆候が現れたとする。その場合、少年の意識にはまず継母を憎むという反応が生じる。しかし、「深層レベルでいえば、実母が死んだのは父のせいという意識が認められる。」しかも父と権威への反抗は(精神分析学の公理にしたがえば)少年期において罪障感を呼び起こす最大の原因である。そこへ「少年は自分の気持ちをうまく処理できないという事に猛烈に気がとがめ、無意識のうちに自らを懲罰しようと感じる。」
(中略)
報いられない父への愛から生じる憎悪は「君主とか、資本家のような身近とは言えない抽象的なシンボルに向かって置き換えられ、その破壊へと駆り立てる」ことが多いとされる。
(pp.,14-16)

しかし橋川は、朝日がどのような感情で事件を起こそうとも、安田刺殺前に書き、その後のテロリズムに大きな影響を与えた「死の叫び声」という一文と朝日の行動の背景とは、全く相容れないものがあると結論つけている。言い直せば、その文章を公開されることによって、本来、朝日個人の本当の目的であった父親殺し(パリサイド)を、社会的正義から行った暗殺というように塗り替えてしまったのである。朝日が昭和ファシズムの先駆的存在として考えられる所以である。しかし、加害者の自殺によって、朝日の暗殺にいたる動機は上記のようなわかりやすい理由にまとめられた反面で、きわめて難解な部分を持つ。それは、少なくとも動機という点で、朝日自身が最も説明しにくかったものではなかったのだろうか。そのうえで、この動機を分析した橋川の視点は非常に斬新である。

大学院にいた当時の、わたし個人の心情もまた、朝日の行動に似たような部分もあった。指導教官に対する造反と迎合の入り混じった感情。何故大学を出たのかと言う理路整然とした理由を探していた。これは、「生半可なインテリ」であるところの朝日がしたため、その後のテロリズムに大きな影響を与えた「死の叫び声」を作る課程に良く似ている。そして、そこに書かれた理由とはまったく違う動機を抱きながら、朝日は暗殺に向かった。橋川の説明によれば、思想やイデオロギーとは全く異なった理由や背景を背負ったテロリズムである。そして、精神心理学の答えに見られるような「父親殺し」の代替行為としての暗殺。言い直せば、その行動を用いて、自らの存在を誇示するようなまったく私的な理由から出た行為。私の感情に直せば、指導教官に対する好意と憎悪の入り混じったあの感情だ。単に「父親殺し」の視点は、心理学の研究ではもはや一般化した概念である。しかし、それは同時代の社会的背景が重なる事によって、より多くの他者に対する牙を持つようになる。

現にここにいる私は指導教官やその他の有名人に危害を加えることなく、すごしている。だが、私と朝日はそれほど違わない。
しかし、華やかな都市文化の栄えた1920年代から30年代の日本においては、貧しさがその傍らに存在し、そこから反社会的、反政府的な活動を胚胎していた。この二者は「同時代的」とさえ言えよう。
私は幸いにもテロにも宗教にも沈む事無くやり過ごす事が出来た。

すなわち、飲み込まれると言うことがなかったのだ。

だが、今の状況はあの時代と大きく変わるものではないし、人間の弱さにつけ込むような社会的な危険性という点に関しては、より危険度が増していると思うのだ。

飲み込まれるということ(2)

2005年11月26日 23時47分26秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(使用テキスト:マックス・ウェーバー『職業としての学問』尾高邦雄訳 岩波書店 1936、1980改訳
浅羽通明 前掲書)

前回のブログでは、まるで小林よしのり氏がまるで何もわかっていない人のように描かれている(引用した部分では)が、そもそも、こんな強い自立した「個人」の追求は小林氏のオリジナルな発想ではない。少なくとも私の知見では、その流れの一つは、1919年1月にドイツのミュウヘンでマックス・ウェーバーが行った講演に由来すると見なすことが出来る。その内容は、現在岩波書店の『職業としての学問』で読むことが出来るのだが、表紙の解説にあるような内容になっていないように思われる。その解説を引用してみよう。

第一次大戦後のドイツ。青年達は事実の代わりに世界観を、認識の代わりに体験を、教師の代わりに指導者を欲した。学問と政策の峻別を説くこの名高い講演で、ウェーバーはこうした風潮を鍛えられるべき弱さだと批判し、「日々の仕事に帰れ」と彼らを叱咤する。

とあるが、どう読んでも、ウェーバーは、自分たち教師が指導者でないことを証明しても、各個人の「日々の仕事へ帰」ることまでは発言していないように思われる。ちなみに本書は、現在、ジェンダーの観点から見た場合、かなりの問題を含んでいる。ご確認願いたい。

さて、誰を指導者とするのか。この人選と言う微妙な行為はある人間にとっては、容易く行うことも出来るし、そうでない人もいる。もっとも、宗教の勧誘に誘われて入っていく若い人々に、あのオウムのような「極端な」指導者を欲する部分があったのかどうかは定かではないが。

ところで、大学時代における私個人の指導者は大学の教授であった。しかし、大学の学部生の頃に触れた文学研究は、大学院までいってやることではなかった。「講読」「作品研究」「演習」などと多くの授業名称を用いるが、読んで訳すだけの日々。卒論の時期になってようやく浮上する別な能力としての解釈と論の創作。この乖離は、教員の提供する授業を通じて見た文学研究の世界に対して不信感を募らせるのに充分であった。そこで、大学院では教育学を勉強していた。

大学院に入ってしばらく、修士論文用の関心を聞かれるが、どれだけ言説分析の方法を力説しても「教育の現場へ入れ」の一点的な圧力。これに従わなかったので、論文の指導は受けられないことになった。形式上は私の方からの指導拒否となっている。またもや指導教官に対する不振。そのとき思った、指導教官は研究の何に関心を持っていた人なのか。本は何冊か出しているが解放教育関連の本ばかり、この出発点は、20世紀初頭のシカゴにおける都市問題の調査を源流におく「シカゴ学派」の手法だと聞いた。だったら、その関連の社会学的論文がどこかの研究雑誌に転がっているはず。

図書館の書庫で延々論文を探した。しかし、出てきた答えは、論文など存在せず指導教官が大学院で書かれた修士論文の題名のみ。その時始めてわかった。論文らしきものを書かなかった人なのだと。偶然にも今の地位に就いている人だとも。
ところで、学者の世界は「指導教官は誰ですか」と聞かれることが多い。その場に立つ人間の能力以前に、出自が非常に重視される世界なのだ。私も聞かれた。そして「知らないなあ」と笑われることが多かった。指導教官に論文が無い以上、笑われて当然である。そのような人物を指導教官に選んだ私の「自己責任」が問われただけであった。

そもそも、教育の社会学を専門にしていた人であるだけで、選んだ指導教官だった。

解放教育には関心が無かった。昔、差別者を糾弾する集会を見たことがある。「差別は悪いぞ」の一言で、他者の意見を封殺(圧倒)しているだけの集会であった。啓蒙という手段を用いて野蛮に墜す。そんな光景だった。
しかし、ここからが本論なのだが、自ら拒否した人物に対して、何らか信じたい部分もあった。実は、このアンビバレントな感情に対して、うまく説明できなかった。この大学院を出た後、他の大学へ聴講生の身分で入り、そこで尊敬できる新しい「指導教官」に出会えたが、根本的に私の中では自分のせこさ故に、指導教官を変えて出直すという部分を否定できなかった。
この点において、新たに大学院に誘ってくれた、新しい「指導教官」に泣いて土下座してでも謝るしか無かった。
でも、事実に向き合うために元の大学院に戻ることは無かった。そして私は大学という組織を後にして、社会に出た。

当時の私(同時にココロに余裕などなかったのだが)にとっては、指導教官の方針に従い、言われるままに調査し、その方面で書くというのが、ただ「飲み込まれる」という行為に思えた。そうやって「飲み込まれる」ようにして書いたものに対しては責任をおえない人もいるし、修士論文だけ書いてその後何も出て来ない人間だっている。だったら、これから先も追求できる(同時に半永久的に責任の取れる)課題と方法論で書くということを考えていた。それはとりもなおさず、異質な部分から出発し、正統性のポジションを揺さぶり、自らが新たなる中心に立つことの普通の行為のように思えたし、それが成功するかどうかで、既に将来が決まるとも思えた。あくまで思えただけだが。
しかし、そうした感情もまた誰かを振り向かせたいという意思が働いていたのだ。
この感情そのものが、実は私をここ数年悩ませてきた本質であった。
最後に、浅羽氏が小林氏を批判した別な文章を引用しよう。

『新ゴーマニズム宣言 第6巻』第75章は、そんな彼の困惑(若者が別な運動に組み込まれていくことに対して・・・ブログ執筆者注)を見て、「小林さんはつくづく普通の人の気持ちがわからないのだな」といった私、浅羽通明の慨嘆とそれに対する小林の反応を描いている。小林はこう書いた。「その一言がわしにはショックだった/反省して視点を変えるきっかけになった/そうだった!普通の人々が/個を安定させ/美しいたたずまいを/つくれる思想が/必要なんだ/そこからわしは/「個の確立」という/考えを捨て/『戦争論』を描く/モチベーション/を高めていった」と・・・

先の指導者不在こそが、常態であることを喝破したウェーバーは本質的に専門的職業性に裏打ちされた「真の自立した人間」であったのかというと、私はこの問いにたいして否定する。おそらくは本質的に弱い人間であって、責任が負えないことを告白した、または自分の弱さをも吐露した文章なのではなかったかと考える。
結局のところ、ウェーバーもまた、本来は「指導者」を待望する可能性を多くもった個人であったのだ。「強さの裏返しは弱さ」であって、また「弱さの裏返しは強さ」でもある。

だとすると、小林氏もまた本質的に「弱い個人」であったことを指摘しなければならない。実は「普通の人の気持ちがわからない」という言葉にショックを受けたことよりも問題とするべきなのは、自分と「普通の人」を分けていたことへ反省し、「普通の人」へ近づいていくことで、既存の決してリベラルとは言えない思考へ接近していく危険性の方ではなかったのかということである。

実際には、その後小林氏は弱い個人と彼らに対してアイデンティティを供給する集団の賛美肯定へと向かうのだが、ここではこの程度にしておく。なぜなら彼の肯定した集団にはオウムや新しい歴史教科書の団体も含まれるため、今話したいことからずれていくからだ。ただし、こういった集団と次以降で話す内容とは、それほど大きなずれも無いので、少し念頭に置いておいてほしい。それは、こうした集団からアイデンティティを与えられた人間の行動と私を比較するからである。

飲み込まれるということ(1)

2005年11月18日 23時03分29秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
(使用テキスト:浅羽通明『ナショナリズム』ちくま新書 2004)

1990年代の初頭、私は受験生だった。そんな時代、Z会で有名な増進会出版から月刊の小冊子が発刊された。タイトルは『セリオ』。スペイン語で「まじめ」の意味を持つらしいこの冊子は、バブル末期からその崩壊後にかけての大学を詳しく紹介した雑誌としてごく一部の人々に記憶されている。しかし、当時のバブルを背景した金にまみれた都会の学生の生活の一部を切り取って紹介するのではなく、むしろ大学生の等身大の生活を紹介したり、学問の様子などをレポートしていた。インタビューを行った大学の先生方は、後にその学問分野の最前線にたった人も多くいるし、大学院生の中にはその後非常に注目された人もいるくらい「先見性」のある本だった。

そんな特集のなかで、非常に独自の視点で文章を書く浅羽通明氏がいた。
簡単に彼のプロフィールを言うと,浅羽氏は23歳のときに司法試験に合格しながら、弁護士や法曹関係に職を求めなかった人であり、むしろ思想家として、多くの本を書く人である。受験生の頃、私は彼の書く文章を非常に優れた文章として評価し、好んでいた時期がある。

彼は、昨年ちくま新書から『ナショナリズム』という本を出した。私が今読んでいる本である。

本屋で手に取って中身を少し読むと、少なからず「毒」のある文章だと感じた。長く離れていたから、彼の文章に対する私のスタンス自体、ほとんど初期設定に近いのだが、読者を取り込むように話し言葉を用いて書かれたその文章は、内容と合わせて、「この本は本当に買うだけの価値があるのかな」と思わせた。

そのため、とりあえず図書館で借りてきた。
文章の展開に少し無理があって、論を積むよりも本当に自分の意見を出しまくっているような印象があるが、その中で、「ゴーマニズム宣言」で有名な小林よしのりを解説するくだりに少し強い印象を受けた。そのところを少し引用してみる。

(1980年代末から)反原発やエコロジー運動に学生など若者が関心を寄せ始め、深夜討論番組「朝まで生テレビ」がヒットする。こうした布石を経て、93年頃から『ゴーマニズム宣言』が十代、二十代から「僕たちの論壇」として圧倒的な注目を集めるに至った・・・。
自らの存在理由をめぐる不安を解消したくて、社会問題に関心を寄せ、正義の側へ加担することで安心したがる若者たち・・・。
小林よしのりが、そんな実情に思い知らされたのは、薬害エイズ訴訟支援を『ゴーマニズム宣言』で書き続け、ついに厚生省による謝罪を勝ち取った後、小林の訴えに応じてボランティアに駆けつけた学生らが、共産党系の組織に次々と勧誘(オルグ)されていく事態が生じた際である。
フリーランスの人気マンガ家である、小林がそれまで理想とした人間像は、プロフェッショナルとして職能への誇りこそをアイデンティティの基盤とする、自立した個人といったものであった。ゆえに、社会運動は、そうした個人達の自由な参加で盛り上げられ、目的を達すれば参加者は日常の持ち場へ戻ってゆくものであると考えられた。
しかし、それは甘かったのである。
いまだ、職能も持ち場も無い学生など純粋まっすぐな若者達は、社会運動へ参加してそのやりがいの味を占めると、あたかも新宗教へ依存していく信者そのままに、次なる抗議対象を与えてくれる左翼系組織へやすやすと洗脳されていったのだから。
プロフェッショナルである誇りのみで、正義を掲げる組織や教祖の勧誘などでぐらつかない個を自立させ得る人など、実のところ小林のような才能ある自由業者などごく少数でしかいない。(pp,16-18)

受験生のときや、大学に入って当初は私も、浅羽氏のような「強力な」意見を発する、いわゆるカリスマ的な指導者を待望したときもあった。しかし、希薄な人間関係から学んだのは、結局のところ、何らかの理由をつけては他者を信頼できないという側面であったと思う。実は絶対的な影響力を持つ他者への依存(あのオウムに入信していった若者に代表されるような)と徹底した他者の拒否はその両極に位置しながらも、ともに同質的ともいえる。従って、拒否という形で他者との接触を拒み、孤独を選択した人間が、他者への依存を強めた人間たちよりも「強い」かというと、決してそうではないのである。

言い直せば、私は他者を拒むことで、宗教や怪しげな政治団体に入るようなことをしなくてすんだのである。大学では原理研がうろついていた時期でもあるが。

ただ、多くのものを拒み続けた結果、私には中核となるものが欠落したという感覚につい最近まで付きまとわれた。実はこの欠落が研究者としての修行をやめたこととの直接の原因なのだが、それに関して説明が長いこと出来なかった。

ただ、意外にも最近、ナショナリズムの勉強を通じて、このことへ一つの回答が用意できそうな気がしてきた。それに関しては、長くなったのでまた今度。

日本の薄くのばす文化

2005年10月27日 14時51分15秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
いつもお世話になっているタミアさんのブログ。タミアさんは、タミアさん自身の画才を認める方から和紙の提供を受けてイラストを製作しているらしい。その和紙が非常に良いそうだ。

妹が紙すきに挑戦したことがある。水を使って作る作業だから冬場は非常につらい仕事らしい。飛び込みの素人が行うと、どうしても均一の薄さにならない。そういえば、妹がすいた紙もボコボコだった。

日本には薄くのばして作る文化がある。和紙もそのひとつだし、ほかにも金箔を作る作業がある。昔、肌用クリームの宣伝でも取り上げられていた。あれは一センチ角の純金を薄い紙のような形態になるまでたたく作業だ。石川県で行われていて、伝統工芸のひとつでもある。

伝統工芸まではいかないけど、そばやうどんの製法もそのひとつだ。あれも熟練技がないと、長い棒でのばしていっても、均一の厚さにならないと聞く。

何事も修行なのだ。

教育と市場

2005年10月16日 23時29分10秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
少し古くなるが、金曜日の朝、いつも時間を知るためにつけているテレビで、公立中学校の学校選択制を導入した結果、極端に生徒数が減少した学校の様子が流れていた。何故減ったのかまでは言及されていなかったが(学校が荒れているのか、進学実績が低いのか)、それにしても極端に少ない。

1990年代の半ばから終わりにかけて、教育学では盛んに、公立中高一貫制の導入と学校選択制の是非が議論されていた。かく言う私も、そうした議論に乗っかって、駄文をかいた末端の大学院生の1人だった。

「教育と市場」と書くと、公立の学校教育まで民営化するのですか?と聞かれることがある。そうではない。民間市場の競争原理を学校教育に取り入れて、画一化された学校教育に個性を持たそうという試みのことである。勿論、「競争」にさらされるのだが、そうすることで教育そのものがよくなると考えられたことがあった。すべての試みがうまくいくとは思えなかったが、私自身もよくしたいと考えたと思う。でも、当時の私は、少なくとも「お上」が用意する学校教育に対して不信感があり、少なくとも教育と市場のなかに、学習塾を組み入れるラディカルな考えであった。それ以上に、この図式を用いて学校教育を批判したいだけであったのかもしれない。しかし、長く続けていると、ただの批判は疲れてくる。

言い直せば、そこに本当の「問題」などなかったのである。

あの後、当時議論された「ゆとり教育」「完全週休2日制」「公立中高一貫制」「学校選択制」がどんどん導入されて、ほころびが見える時期になってきた。あのころ盛んに発言した人々も、いまではすっかり、なりを潜めた。でも今日の「ほころび」は昔から指摘されていたことで、テレビを見て、「ああ、すっかりあの(議論の)通りになったな・・・」と思った。

何かを良くしようとして、結局何も良くならなかったかもしれない。

書評:猪木武徳『日本の近代7 経済成長の果実 1955~1972』

2005年10月02日 23時25分01秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
書誌データ:中央公論新社 2000年

例によって、古本屋経由購入。定価は2400円だが、一回1250円に設定して、それに斜線を引き1050円にしていた。この本はシリーズものだから、他にも何冊かあった。オビが付いていて、付録(月報)が付いていて、安心して買った。半額以下だから嬉々としていたが、本文を読み進めて、付録を読んでいると、その付録は真ん中で織っただけで、ホチキス止めもしていないから、中身の数枚が抜けている。だから読めない部分が存在する。久々に「やっちまった」という感じだ。しかも、対談で1960年代の韓国における学生紛争の影響で韓国経済が大混乱がおこった、いわば「面白い」状況をこれから説明するところだったから、なおさらがっかりだ。図書館かどこかで探してコピーしておこう。

さて、肝心の書評だが、大抵戦後に付いて書かれた本は終戦の1945年を起点としている。しかし、この本は1955年を出発点とし、戦後の10年間は前の巻に入っている。ちなみに前の巻の年代は1941~1955年となっている。前の巻は完全な戦争中心の内容であり、同時に戦後処理に付いても書いてあるようだが(入手はしていないので憶測)、この巻は経済成長、すなわち高度経済についての解説となっている。実際には、通史を書くことが、この本の内容だから、政治にも言及がされている上に、日常生活にも書かれているから、内容は多く、その分読みにくい部分もある。相対的に、経済中心の内容で書かれているのは、作者が経済学の人だからだろう。本当は20年にも満たない時間の取り方だが、その時代の変化はこれほどまでに大きかったのかと思う反面、その大きさをうまく表現できなかったようにも思える。ミクロ(日常生活の内容)とマクロ(生活に影響を及ぼした政治や国際経済の変化)がうまくシンクロしていないように思える。もう少し細かく章や項目を分け、解説すれば良いのに、一つの項目にミクロとマクロを同期させるから、漠然とした書き方の印象になる。

でもいろいろと面白い視点を提示してくれていて、この時代の自民党政治は、結局金権問題を見えるように行っていたこと。少なくとも隠すべきなのにね。それがあまりにも見え見えだから、田中角栄はスッパ抜かれたのだ。でもこれは田中に限る事ではなかった。この事件に先立つように起こった、黒い霧(1966年)で当事者の議員達は、出直しの総選挙でも自民党の公認を受ける事無く、当選している。猪木も次のような表現を用いて書いている。

「利益誘導の政治が、当然と思われる程度に定着してしまったということであろう。」

また、田中角栄の退陣については、

「国家意識が希薄になるということは、裏を返せば私的関心のみが高まり、個人が私的生活へ没頭する傾向を強めるということである。1970年段階で、我々日本人は公と私のバランスに確たる配慮をすることもなく、その中間的な概念の模索を始めていたわけでもなかった。私的利益の無制約とも見える追求で政治という公共の利益実現の仕事が歪み、74年晩秋、ひとつの内閣が倒れた。これは戦後の日本社会が、自由と平等を謳歌したことの避け難い帰結であったと筆者は感ずる。」
とも書いている。

日本人が未熟だった時期、そして同時にまだまだ成長できた時期だったのかも知れない。