tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

ぼちぼち論文が完成します。

2005年09月19日 23時27分54秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
前に報告した懸賞論文の件ですが、ぼちぼち完成します。
いま、修正用の原稿を印刷しながら、ブログを書いています。
最終的に、本文部分で60枚近くまで書けました。
おかげで、この3日の連休はつぶれましたが、かなりの充実感を
味わっています。
内容も、むかしは、最初書いたことと、最後に書いてあることにずれがあった
ものですが、今回は安定して書けました。書いた本人もびっくりしています。
結局、今回は、ワープロソフトを用いず、AdobeのInDesignというソフトに原稿用紙を作り、そのまま書き込みました。
ノートタイプのパソコンから発する熱に悩まされましたが、乗り切りました。

これから赤字修正を行って、本印刷を行います。
明日の消印有効で、締め切りです。
もうひとがんばりです。

夏目漱石

2005年08月29日 23時43分34秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
ぼちぼち学校関係者の夏休みもおしまい。というわけで、夏休みの宿題に追われていると思う。その中にある読書感想文。私は今も人権作文と一緒で、どーやって書いたらいいのかわからない。

ケーススタディー:Tyokutakaの小学校2年生の時
教科書で、かえるを擬人化した物語が出てきた。一方のカエルは憂鬱な顔で外を眺めている。その友人のカエルがたずねたところ、手紙がこれまで来たことがないことが悲しいという。そこで友人のカエルは家に帰って手紙を書くが、その手紙の配達ををカタツムリに頼む。結果、配達に手間取り、一騒ぎが起こるが、一週間かかって、ようやく配達され友情が確認される「心温まる」ような(はずの)お話。・・・・

これに対して、私はどのように感想文を書いたか?
「私はカエルが嫌いです。」
と書いた。これには先生もどのような答えも返してくれなかった。
いまでこそ、カエルが好きでもなく、嫌いでもないが・・・。
このように、教育上作文を書くという行為は、しかるべき態度を養成するという、強制的な装置としてはたらいているのだが、それが修士論文にまで付きまとったのには閉口した。

会社の同僚が、最近夏目漱石を読んでいるらしい。
『坊ちゃん』からスタートしたらしい。まだまだ若い人だから、何を順に読むのか迷っていた。とりあえず、夏目漱石の話はどれもはずれがないから、どれでもいいのだが、別の人は『三四郎』『こころ』『道草』を勧めていた。
しかし、私の予備校時代ですでに、『こころ』の本質が理解できない人が多かったから、今じゃもっと難しいかもしれない。

本当は夏目漱石は難解で、いまだに論文がかけるほど内容が豊富だ。
そういえば、私も『三四郎』が途中だった。

「ストレイシープ、ストレイシープ」

母校の図書館

2005年08月27日 23時50分22秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
で、体力を温存して本日大学図書館へ行ってくるつもりだったが、飲んで帰ってきて、論文の大体の構想を考えていたり、必要な資料、調査の展開方法を考えていると夜中の2時になってしまって、起きるのが7時半だったから、かなりぼろぼろだ。
用意もそこそこに家を出る。

ちなみに、今回提出する論文の募集要項はこちら

同志社大学関連の歴史について自由に書けというものだが。調べるほどにあまりに展開しにくいことがわかる。というのも、この大学の創始者、新島襄の功績があまりに大きく、ほとんど神格化したような内容の文章が多いからだ。この大学の「百年史」なんか読んでいても、最初の項目は新島に関する内容に偏っていて、当時の学生や、大学の様子も、どうしても新島の眼を通してみたものという内容に偏ってしまっている。ちなみに、母校の百年史を見てみると、その当時の息吹が非常に軽快書かれていて、なかなか読ませるルポルタージュになっている。

ちなみに今回も、これまでと同様「社会学的考察」になる。すなわちただ調べて、歴史的に書きましたという内容ではなく、そういった事実が、当時の社会とどのようにつながっていたのかという「カラクリ」を明らかにしなければならない。だとすると、集めてきた同志社関連の資料の大部分は、明らかに個人の業績を追うという内容で、今回書きたい内容からは外れてくるのだが、分析軸を複数用意することで、その社会との接点を見つけることは可能なはずである。早い話が、「ひきずり出す」ということになるのだと思う。ある意味スリリングな試みだ。

さて、母校では今日、オープンキャンパスを行っていた。だから受験生らしい人でいっぱいだ。少しうるさかったが、まあいいだろう。図書館の中に蝉が入ってきて、鳴きだすシーンもあった。受験生たちは、面白おかしく見ていたみたいだ。
オープンキャンパスということは、学食が開いているだろうと14時ごろ行くと、営業は13時半まで。ガックリ。

本日の入手コピー枚数160枚。もっと資料が必要なのだが。時間との勝負だろう。
断っておくが、私は研究者でも大学院生でもなく、社会人だ。

書評:遠山 他『昭和史』岩波新書 1955

2005年08月16日 23時51分00秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
昨日も書いたように今年は、終戦60年。十年ごとの節目の歳に何らかの企画が各メディアで行われているし、本屋でもフェアを行っている。だが、戦争を知る世代がだんだんと高齢化してきて、次の70年、80年が重要な節目を迎えるだろう。
本書の出版は、終戦から10年目の1955年に書かれている。太平洋、あるいは大東亜戦争の歴史ではなく、まさしく昭和史であるが、書かれた当時の感覚では、まぎれも無く、昭和という時代が戦争ばかりをやってきた時代という感覚であったと思う。

だが、私にとっての昭和という時代の感覚とは、戦後の復興を遂げた高度成長の時代である。従って、戦争だけを行ってきた時代という認識はない。

ところで、よく歴史認識という言葉がメディアで使われるが、平たく簡単にいうと、歴史をどのように切りとって見せるかという事であろう。それゆえ、その認識が間違っている、合っているなどという事は誰にもできないはずだ。

本書の「歴史認識」、すなわち歴史の切り取り方は、労働運動や左翼の活動と、国粋主義の拮抗であるところから始まる。不況に始まった経済の混乱が、海外への植民地政策の強化につながり、実質的な行動部隊たる軍部の独走が始まり、あげくの果てには戦争が起こり、日本が負けて、振り出しに戻ったというような書き方になっている。どうせ書くなら労働運動の内容に統一すれば良いのに、最初はそういったネタでお茶を濁して、だんだんと国家中央部の政策という点に持ち込まれる。その頃には、労働者の存在など影も形も無いというような書き方になっている。やはり、昭和が始まって30年くらいしか経っていない時期でも、新書でまとめるのが無理なのかとさえ思ってしまう節がある。

話が変わるが、私が大学院生の頃、教育の社会学の範疇で歴史を研究する人が多かった。かく言う私もそれに憧れた一人であるが、後々冷静になって考えてみると、そのテーマ本来が持つ閉鎖性に、いうほどの面白みがないこと気付いた。ところが、研究を行っていた人々の間で、この本がよく参考文献として用いられることが多かった。なぜだか知らぬが、新版と称した、内容を改訂したのか項目を増やしたのかわからない本が出ているにもかかわらず、旧版の方を欲しがる。しかし、今回読んでみてもそんな関連項目がない・・・というより、退屈になってきて100ページくらいしか読んでいない。仕方なく、目次を見てみると、やれ政治の話だ、経済の話だという中に、「日本文化の特徴」という項目がある。少し浮いた存在だ。
開いてみて見るとケッサクな内容があった。どうやらこれを目当てに欲しがるらしい。少し引用しよう。

日本の文化が、国民に共通する基盤を欠いているという点は、この時期には「講談社文化」と「岩波文化」の対立という形で問題にされていた。「講談社文化」は講談社出版の娯楽中心の出版物に代表される文化で、国民の圧倒的部分に受け入れられていた。「岩波文化」は、岩波書店刊行の教養書に代表される文化で、国民の小部分の文化人に限定されていた。前者は一般人の思想・生活感情の停滞的な側面をつかみ利用し、卑俗な娯楽・実用と忠君愛国・義理人情思想とをないまぜにしてそそぎこむ内容のものであった。後者は外国の最先端思想をとりいれながら、それが生活にむすびつかず、国民にも広く普及せぬような形でのあり方の文化であった。そしてこの両者の間にはまったく通路をもたぬ断層があった。このことが文化人を国民一般の層から孤立させ、ファシズムにたいする国民的抵抗の武器を生み出すことのできぬ理由であった。

あっはっは・・・。岩波の持つ本質的な弱さを、他の出版社のせいにして、それも自社の新書の中で批判する。汚いというよりもケッサクだ。
確かに改訂版が出るはずだ。先にかいた教育の社会学における歴史の研究の本質とは、帝国大学卒業生が主体となる「知識人」の研究であったのだけど、どことなく自虐的な部分も存在した。その背景にはこうした見解もあるのだろう。
それにしても、学者をあいてに本を出していた岩波は、講談社に比べて、書籍販売という商売では、はるかに負け組の存在である事を認めていたのである。それも終戦10年目の時点である。

書評:松村昌家編『『パンチ』素描集』 (岩波文庫 1994)

2005年07月20日 22時56分08秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
もともと私は西洋史を勉強しようとして大学進学を考えていたが、そのイメージとなったのは、19世紀のイギリスである。更に詳しく見てみると、政治史や経済史ではなく、文化史的な方面に興味を持っていた。そのような背景には、1990年の前後に日本の学界で盛んに取り上げられるようになった「アナール学派」の影響が非常に大きいが、更に根本を見ていくと、小学生のときに読んだ、「シャーロックホームズ全集」の影響のほうが大きいかもしれない。後年、NHKで実写版をみるが、あれも面白いものだった。

私が抱いていたイメージがぶち壊されたのは、大学に入ってからである。いろいろ本を読んでいると、イギリスは完全な階層社会であるが、ロンドンなどは大多数を占める最下層の作り上げた町だけあって、非常に汚く、不衛生な都市であった。後年、歴史人口学とジェンダーを専門にされている先生から直接講義を受けることが出来たが、人口の移動の最終目的地が都市である場合、年齢が若ければ若いほど早死にしやすく、年齢が高くとも、すぐに死ぬような場所であったそうだ。早い話が、都市へ死にに行くようなものだとも言われていた。19世紀のロンドンも同じく、この町は数度のコレラの発生で、人口の急激な減少を経験している。

本書は、1841年に創刊し1992年に廃刊となった大衆雑誌『パンチ』に取り上げられたイラストを、初期の30年に限って掲載し、解説を加えている。本誌は、日本で言うところの「フォーカス」や「フライデー」に相当するものであるが、世間のあり方に批判的な文章は、当時、どのような光景が広がっていたのかを非常に良く伝える。子供の情景という項目がある。絵が主体の本なのでニュアンスが伝わりにくい中、これが一番文章になっている。
「おじいちゃんモクもっている?」
「え、なんだって坊や?」
「モクだよ。つまり葉巻タバコだよ」
「いや、とんでもない。そんなものは今まで口にしたこともないよ。坊や」
「ああ!それじゃ今さらはじめない方がいいよ。」

対して、今の日本と変わらないかもしれない。

翻訳の問題

2005年07月07日 22時39分17秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
仕事柄、いろんな言語の翻訳を目にする。外国人相手に配布するパンフレットの翻訳だから、メジャーでない言語もある。しかし、こうした言語は、内容が正確かどうかなんてわからないから、そのままで組み版などを行う。

私の専門言語はフランス語。

今日は、上司が頭を抱えてパンフレットのゲラを持ってきた。昨年も同じものを作ったのだが、今年作ったものと去年作ったもので、まったく同じ箇所の翻訳が、少し異なっている。他にも冠詞を書き換えたりしている。これは正しいのかと聞かれた。

文章の体裁は異なっている、でも言わんとするところはまったく同じだ。文法的にも間違いではない。冠詞の問題なんて、いまだに学者が研究の課題としているから、何が正しいのかなんて一概にいえない。ただ、習った範疇の知識で読む限りは、正しいといえる。このように改訂版を出すたびに同じ箇所の書き換えが起こることに対して、クライアントがクレームをつけてきたらしい。「本当に正しい翻訳を行っているのか」と。同じ文章ならば、確かに毎年同じ翻訳が出されるはずだとも主張する。

この文章は、フランス人に依頼して書いてもらったものだから、内容的には完全に正しい。ただ、その都度、こう書いた方が理解されやすいというような、意識も働いて、訳の誤差が生じてくる。翻訳というよりも、説明の方法という問題に話がすり替わってきているのである。

人間は、機械じゃないから、当然精度が高く、毎回同じ訳を行う機械でもない。必ず「ゆれ」というものが生じるし、ことばはそれが起こって当然だ。

ネイティブでもない日本人が、フランス語の訳をめぐって、衝突している。何か違うような気がする。

これを受け取った人間が、本当に読みやすいものだと判断してくれる方が、もっと重要なことなのだけど。

ヒマな文化(書評:ピエール・ロチ『お菊さん』岩波文庫 1929)

2005年06月21日 22時57分47秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
今回のタイトルは「ヒマな文化」である。社会学者が好みそうな「暇の文化」ではない。なぜ、このタイトルにしたのかというと、「暇の文化」だと結果的に、暇そのものを文化の一側面として研究し、その文化を礼賛する文章が社会学の論文に多い。しかし、そもそも日本の文化そのものが、ヒマであるとすれば、その本質を罵倒していると断じられても、礼賛していることにはならないだろうと判断したからである。

さて、ヒマとは何か。よく何もすることない時間のことと定義される。これだけならばいいが、暇だから、何かを行う。その行動の一つが「遊び」であろう。しかし、ヒマが遊びに転換できるのならば、そのヒマの本質は暇ではなかったということが出来るのである。言い直せば、ヒマの本質とは絶望的なくらい「何もすることなく過ぎ去っていく時間」なのである。

もはや現代の日本において、そうした空間の創出は不可能になった。

しかし、明治初期ぐらいの日本の様子を、『お菊さん』に見ていると、そうした空間が本当に広がっていたことを知らされる。なにもすることない、ただ時が過ぎていくだけ。

本書のストーリーはフランス海軍の軍人が、日本に来て「ヒマだからとりあえず現地の女性と結婚でもしてみようか」という発想から、2ヶ月ほど長崎で暮らしたというもの。要は、ヨーロッパ的な人間観(白人は世界でもっとも優秀な民族である)から、未開の土地の女性にはどのようなことをしても良いという発想から、女性を「買った」という内容になっている。ずるいのは濡れ場的なシーンがなく、ただ仏軍人が「良い人」を演じているように読めること。

まあ、行動の是非はともかく、100年近く前の日本は、ただ日常の生活を送ることがひたすら苦痛なくらい変化のないものとして描かれているくらい、ヒマが根付いていたことだ。実際読み手である私が、苦痛すら感じるのである。

この本を読んでわかったことは、日本文化の本質が、人に対して感動や怒り、悲しみを呼び起こさせるものではなく、ただひたすら「ヒマ」を感じさせるものであることだ。すなわちヒマ=文化なのだ。こんな淡白な文化、世界的に見ても、そう見当たらない。

書評:フィリップ・コンタミーヌ「祖国のために死ぬこと ー10世紀から20世紀まで」

2005年06月12日 23時59分34秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
出典:(ピエール・ノラ編『記憶の場 3』岩波書店 2003)

靖国の問題があって、合祀されている戦犯をたたえるとか、それがけしからんとか、サンフランシスコ条約で示した立場に違反しているとか、いろいろ言われている。しかし、靖国にまつられている人の中には、戦犯以外の人もいるし、ごく普通の人の方が多い。
つまり60年以上前、近所から送り出したおじさんの中には、「国家のために」死んでいった人々がいた。しかし、そうして死んでいった人々を説明する方法として、この「国家のために」という表現を使うことは、間違いではないにせよ、正確に現した言葉でないことは確かだ。あの戦争で死んでいった人々は、「国のため」であった人もいれば、「家族のため」であった人もいる。研究者はこうした思考の枠組み(言説という表現を用いる)を分類したがるが、いまの私たちが、彼らを「わかりやすい表現」に当てはめて説明することは、少しばかり、研究を行ってきた人間としては、偏見に満ちた行為になるように思う。

本書はフランスにおける概念の歴史に関する報告である。

「祖国の防衛」という概念そのものは、既に11世紀からあった。それよりも大きな概念、すなわち、十字軍に代表されるキリスト教の危機という命題から、わざわざ外国にまで命をかけて戦争に行く人間もいたが、それは他国の領土や財産があわよくば取れるという欲目が付いて回った
人の欲目は国外へ出かけていく戦争のみに見られた心理ではない。本書では、「祖国の防衛」という語の「祖国」が自分の土地という狭い認識の上に成り立つものであったとし、その自分の土地が守れるかどうかの単なる欲目から出た概念であったと断じている。この概念は、本論の趣旨とは少し離れるようだが、「祖国の防衛『以前』」の概念を説明するものしては妥当である。

その「祖国」の概念が出てくるのはいつか。フランスにおいては、百年戦争というフランス対イングランドの紛争の時代であったとしている。本書では、いくつかの「祖国の防衛とそのために死ぬこと」の意義を説く教会や法学者、思想家の言説を分析しているが、その部分が面白いのではなく、その行為によって、死んだ人々をいかに記憶し、まつるのかという制度が確立していく状況と、その死を評価していく心性の成立について書いてある部分である。
いわく、もともと戦争で何らかの大義を背負って死んでいった人々を評価するような制度どころか、心性もなく、ただ死んでいった不幸な人という評価だけが下されていたと。シャルル7世は、このように王や国家のために死んでいった人々に対する関心が薄く、態度を改めるよう進言する匿名の文書によって、ようやく改めた。

「宗教」を守ることが「国家」あるいは「祖国」を守ることという概念図式からスタートするが、「国家」「祖国」イコール「宗教」だった時代が終わると、宗教の部分が強化されていく王権にすげ変わった。しかし、それまでの祖国という概念が、身近で実体を持ったものだとすれば、抽象的な形を持った概念に変化していくのは1789年のフランス大革命である。この革命以降、王政復古によって王位に就いたときの王ですらも、自らの名前のもとに命令を出すことが出来なくなり、ルイ18世はレジオン・ド・ヌール勲章の認可の際も「名誉と祖国」のもとに出していた。

しかし、真の意味での愛国心、すなわち「祖国のために死ぬ」ということの概念は、1871年の普仏戦争によってフランスがプロイセンに負けたことに対する国民的な復讐心から生成していったと書いている。

本書の解説にもあるように、「祖国の為に死ぬ」という概念を追いかけているが、それをいかにして記憶していく装置を作り出すかというところまでは踏み込めてない。この装置に関する部分の研究としては、工藤庸子氏『フランス文明批判序説』(東京大学出版会 2003の中で、文学史・文学教育・ナショナルヒストリーの観点から書かれている。「資料」をもって定義を語らすというフランスの歴史家がよく行う記述形式が取られているが、「資料」で状況を語る以前に明確な「祖国」の定義が欲しかった。ナショナリズムの流行が19世紀後半であるから、祖国という概念定義は今日と全く異なっているはずで、そこから埋めていくのが、普通の方法と思うからである。

希望成就格差社会

2005年05月19日 22時45分31秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
東京学芸大学の山田教授は家族社会学の立場から、フリーターの行動について分析し、論座や中央公論などにレポートを寄せていることが多い。つい3、4年前だと思うが、フリーターに関する彼の批評はかなり厳しいものがあった。「フリーター200万人に明日は無いぜ」みたいな論文を投稿していた時期がある。

彼は曰く、仕事に対する熱意ややる気が無いのだという意見だ。確かに、フリーターの人々の中にはそうした人々がいたのかもしれない。しかし、まじめに就職活動を行っても希望の職に就けず、働いていても辞めざるをおえない社会の状況を知ったのか、あるいは彼の大学の卒業生の状況をつぶさに見る機会が生じたのか、『希望格差社会』における最近の彼の論調も穏やかになってきた。何よりも社会学者が分析を行っても社会が変わらず、そのことによってある意味混乱に陥れることの重要性に気付いたのかもしれない。しかしこの調査分析という手法が混乱すら招くことは『不平等社会日本』で佐藤東京大学助教授がすでに2000年ごろ指摘していた。山田教授が派手に批判を行っていた頃、私個人がその対抗言説としてとらえ、なおかつ共感を持っていたのが、東京大学の玄田助教授が書かれた『仕事の中の曖昧な不安』である。最近は「ニート」という言葉を提唱した人物として知られるが。

さて、AERA2005年5月23日号に、バブル期入社組の社会的な評価とメンタルな部分に付いて書かれていた。社会が浮かれていた時期に、人をよく見て採用しなかったとどこの会社も、この時期の採用者に対して、良い評価を出していない。しかし、もっとビックリしたのは、その後バブルがはじけ、団塊ジュニア世代と言われている人々の採用を抑制した結果、この世代の会社社会における就業人口が少なく、どこの会社も今現在、補充したい世代だと言われている。

いわれてにわかに信じられる話ではない。なぜなら、私を含めたこの世代の人口は突出して多いのは知っていたが、その大部分が正社員として会社に属していないと言われたからである。じゃあ、友人達はいったいどんな状態なんだとさえ思う。

友人の消息はそれほど多くを知っている訳ではないが、薬剤師で2人の娘を持つ者、やっと結婚した者、信用金庫でそこそこのポジションにいながら、未だに新卒採用のホームページで社員紹介のメンバーとして顔を出している者などがいる。後、中学校の先生をしている者もいるが。女性を含めて、結婚している人間は驚くほど少ない。これをミクロな視点として見ると、マクロな視点として、私達の世代が社会でどれだけ活躍しているのかのという視点で見る。確かに人の数は多いのだが、デザインとかで活躍している人間は、ほとんどいない。みんな、1975年以降生まれのような気がする。あるいは50年代、60年代前半とか。

バブル期入社組とわたしたち団塊ジュニア世代との間には、確実に線が引かれた。終身雇用や年功序列が信じれたか、そうでないか。しかし、団塊ジュニア世代が、それよりも後に生まれた人々と同じ風景を見たのかと言うと、そうでもない。私たちジュニア世代のすぐ後くらいに、また線が引かれたように思われる。この線は、IT関連の技術を深く学習できたかどうかという面でもある。いわば、我々は「従来の方法論を継承しなければならない」位置にいながら、確実に「従来の評価システムの外部である、新しい評価システムで生き残ること」を考えなければならない、という事態である。

いわゆる、青年起業家の多くは、1975年以降生まれが多いような気がする。彼らは肩の荷が降りたように従来の企業と距離を置いたように会社を設立し運営している。勿論苦労もあるのだろうが。彼らにはもともと、よりよい就業機会も従来の方法論を学ぶチャンスも少なかったのだから、当然の成り行きなのかも知れないし、彼らの世代共通のパラダイムなのかもしれない。しかし、見方を変えれば彼らこそ、年齢その他の面で、将来の「希望」を成就することの出来る「格差」では勝ち組と言えるのである。旧来の方法論しか持ち得ず、様々な手段で得た、新しい方法論を試そう(すなわち希望成就に導くこと)にも中途半端に歳を取った私たちは、世代というかなり明確な区切りにおいて、「格差」の負け組を感じるような気がするのである。

「奈良学派」の誕生

2005年05月17日 21時58分09秒 | カルチュラルスタディーズ/社会学
奈良において

・女児誘拐事件
・警官から盗んだ拳銃が発見
・元プロ野球選手が関与したタクシー強盗
・隣の家に長年にわたって騒音を流し続けた迷惑主婦の逮捕

など、多くの犯罪が起こっている。思えば、奈良も大犯罪都市になったと感じずにいられない。
20世紀の初頭のアメリカ・シカゴは急速な都市化にともない、社会不安や犯罪が増加した。
こうした都市の問題を考えることから、ジャーナリスティックな面を伴った調査等を行って、
学問に発展させた社会学の集団がいた。社会学史のなかでは、この集団を「シカゴ学派」と呼んでいる。
しかし、こうした問題の前提にあったのが、「都市」の問題であるから、大阪や京都などから見ると、奈良も地方都市で、「田舎」の方がはるかにあっていると思う。あるいは「郊外」か。
いまや一級の犯罪が起こる可能性を持ちつつある奈良〈いいたくはないが・・・)
社会学研究の皆さん、いかがでしょうか。