「矢矧」魚雷数本ノ巣ト化シ、タダ薄黒キ飛沫トナッテ四散
吉田満氏著「戦艦大和ノ最期」より抜粋
矢矧は四散。朝霜は離脱。浜風は轟沈。涼月は大破。磯風は処分。霞は処分。
多くの書が、このように書かれております。
「戦艦大和」は知られていても、「駆逐艦霞」は語れることは少ないのが事実です。
冒頭の「戦艦大和ノ最期」ですが、三島由紀夫氏が絶賛したと伝えられております。
この書の中身はすでに「くだまき」で検証しておりますが、吉田氏の表現が「四散」であり、多くの方が「矢矧はすぐに沈んでしまった」と、こうお考えになられても、無理はない。
この言葉を否定したく、「矢矧」については、時間をかけました。
祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 矢矧 一
祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 矢矧 二
祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 矢矧 三
祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 矢矧 四
祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 矢矧 最期
艦長でおりました「原為一」さんは、戦後「帝国海軍の最期」をお書きになられました。
第二水雷戦隊の艦の記録を広く知らしめた本として評価の高いものなのですが、どうしても、この「坊ノ岬沖海戦」は大和を中心として描かれます。
今回の放映もそうでした。
「3時間という長い時間をかけながら、二水戦一つも語れない」これは非常に不満でした。
「巨大戦艦大和」という題名である以上、大和中心で当たり前なのかもしれません。
ですが、一度「坊ノ岬沖海戦」として作成される番組はないものか。
こう考えます。
大和単独の作戦ではありません。
むしろ、帝国海軍を真底から支えてきた「水雷戦隊の最期」(各駆逐隊から構成される戦隊。戦隊としての作戦は二水戦のこれが最後となりました)を多くのに人が知ることこそ、大事なことなのではないのか。
「くだまき」はこう考えながら進めてきたつもりです。
(最前列一番右が「古村さん」一番左が「原さん」です。昭和52年徳之島慰霊祭での記念写真。原さんの渾名「ゴリラ」。わかります)
実際、二水戦の方々は多くを語りません。
あの壮絶極まりない戦闘で、水雷戦隊の誇りをかけて戦っております。
第一遊撃部隊が、徳山沖から出向した際、「最後の水雷戦隊なのだから」という古村司令官の命により「水雷訓練」が行われます。
大和を敵艦に見立てて、雷撃訓練をし、戦闘隊形を確認しております。
「敵空襲が激であるものの、艦隊決戦であれば雷撃は必至」こうしたシュミレーションの元に動いておりました。
冒頭にご紹介いたしましたのが「光人社 NF文庫 『特攻大和艦隊』」著者、阿部三郎氏は海軍航空隊にもおられました。
海軍用語、史実、そして綿密な調査。何にもまして「大和他9隻」の顛末をきちんと描こうとされておられます。
実は、第二水雷戦隊こそ、海軍の最期と言っても過言ではない。最後の最期まで任務をまっとうしていた。
これが酔漢の一番言いたいことなのです。
この顛末は、知っておいて頂きたい。これは願なのです。
「戦後○○周年記念特別番組・・・・」とあれば、その先鋒に来ますのが「大和」です。
未だ、きちんとした形で「二水戦」を語る番組に出会っておりません。
不満です。
もう、各番組は、大和のみを語ることは止めた方がいいのではないか。
「坊ノ沖海戦を二水戦の視点から語る」ことこそ、海軍も日本も、太平洋戦争も見えて来るのではないか。
こう考えてしまいます。
「男たちの大和」では、小滝司令が「司令長官(GF)は前線で指揮を執るべき」と言ったシーンが流れてきます。
他、駆逐隊司令、艦長達が異論を唱える場面は非常に緊張感がありました。
ですが、その後、彼らがどうなったのか・・。
もしかしたら、映画をご鑑賞された方達には疑問と思われた方もいらしたのではないか。
実際酔漢には質問が寄せられます。
「春田純一さんが演じた、小滝司令って、その後どうなったの?」と。(職場部下。三十代女性です。飲み会の席でもって)
「朝霜の最期」をお話しします。
「これって、凄いストーリーだよね」とこう感想を漏らしておりました。
祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 朝霜
よろしければ、上記過去「くだまき」を御高覧下さいませ。
「特攻大和艦隊」(この特攻という言葉はまた別と考えております。前回記事参照)。この著のおかげで、二水戦を多くの方が知ることになったのでした。
前回のくだまきへの「ある友人君」からのコメントを拝読いたします。
彼からのコメントでもって気づいたことがありました。これを、語らなかった「くだまき」だったと、反省いたした次第です。
彼からのコメントをこの場で抜粋、ご紹介いたします。
(略)練度未熟を理由に第二艦隊から第三一戦隊を先に離脱させていますが、いわゆる神風特攻隊や回天、震洋などの特攻では、習熟度の低い少年兵や学徒動員による兵もいたわけですから、特攻が総意ならばわざわざ離脱させる必要はありません。(略)
(「ある友人」君コメントより)
彼の解釈に異論はありません。「特攻が総意ならばわざわざ離脱させる必要はありません」
その視点に立ちますと。まさしくその通りであるのです。
今回の「くだまき」は「作戦である以上、きちんとした理由で持って『離脱』下令である」こうした前提で語ることといたしております。
「少尉候補生退艦」その祭、矢矧を降りた少尉候補生達は「花月」に乗艦し呉へと帰還させられます。
宮城県仙台市エスパル内にあります「板垣フルーツ」を御実家に持ちます「宮城ダイハツ社長」でありました「板垣さん」は大和での少尉候補生でした。
三一戦隊。ある友人君は「練度未熟」を上げておられます。
確かに、最新鋭艦「花月」(月型防空駆逐艦。涼月、冬月と同型)は若い。練度不足は否めないところです。
ですが、「くだまき」ではもう一つ別な視点で持って三十一戦隊の離脱を考えてみます。
平成元年雑誌「丸」六月号。「花月」元水雷長「寺部甲子男」さんの手記を見てみます。(以下青字で記載)
昭和二十年、三月二十三日、米軍の沖縄にたいする攻撃がはじまり、二十六日には早くも沖縄本島の西方一五マイルの慶良間列島に上陸し、連合艦隊司令部は「天一号作戦」を発動した。同日、三一戦隊は第一遊撃部隊に編入され、出撃準備を完成し、佐世保に前進待機するよう命じられた。
上記では「三一戦隊」1YBに編入されております。天一号作戦時では大和以下、第二艦隊に所属となります。
三一戦隊の旗艦はこの「花月」であって、これは最新鋭艦です。ですが、他三隻は丁型と呼ばれる駆逐艦であって、とても、沖縄までの作戦には耐えられるものではありません。
では、「花月」のみ、参加という方にはならないか。
こうおっしゃる方もおられます。
確かに、防空駆逐艦が、この作戦に一隻でも参加となれば、戦力としては大幅増にはなりますが、駆逐隊は鎮守府事の編成であって、それは全てワンチームで動きます。
駆逐隊一編成での行動が作戦の根源になります。「花月」一隻の参加は無理なのです。
酔漢は「この丁型を要する三一戦隊は作戦随行に無理」これが三一戦隊途中離脱の理由と考えます。
1430出港予定の信号あり。定刻一斉に抜錨。予定順序に出港、豊後水道に進路をとった。 1610突然異変が起きた。大和に旗旒信号が揚がり、三井通信士が即刻信号書を開いた。
「大和より信号、31Sは解列反転し、内地に帰投せよ」
艦橋は大騒ぎになった。艦長は「何故か」と声を荒げるし、司令官は「信号に間違いはないか。今一度大和に照会せよ」と叫ぶ。この時、筆者には漸(ようや)く先刻の電報②の意味が朧気(おぼろけ)ながら想像できた。中村 昇先任参謀の「司令官、柳井に行きましょう」との進言に司令官が頷くのをみて艦長が「航海長、取舵一杯」と命令されたので、筆者は柳井の入口の平群島に進路を定めた。ドラマは終わった。帰りの艦上で、艦長の判断を聞いたら「長官は榧、槇の航続距離を心配しておられたからね。朝の入電でいろいろ迷われたのではないか」と話してくださった。榧の岩渕艦長は同艦梶間健次郎主計長(経32期)の質問に対し、前日までの長官の言動からすると「突然の変心としか考えられない」と答えておられる。
関係者悉く鬼籍に入り、真相はこうだと断定できる資料はない。死せる者あり、生きる者あり、人間の運命はかくも変幻自在なものか。
或る禅僧曰く「死生は一瞬の風裡」とはよく喝破(かっぱ)したものだ。
(花月 航海長 山根眞樹生氏 手記より抜粋)
いきなり大和からの信号です。
花月内は大騒ぎとなります。
三一戦隊は四月六日一五二○、徳山沖を抜錨、大和艦隊の先頭を切って南下した。一六一○、速力二○ノット。いよいよ豊後水道だと思っていると、一六二○、突然解列の信号が上がった。そのとき花月は大きく左に回頭し、榧、槇、桐が後につづいた。海上特攻隊はそのまま急吸瀬戸にむかい、やがて見えなくなった。
寺部さんの記憶に寄りますと、花月は大和へ横づけし、燃料を半分渡しております。また冬月、涼月に九三魚雷を二本ずつ移載させております。
ですが、これには、公式記録がありません。上記証言のみでございます。
三一戦隊。
31戦隊
旗艦 花月 航海長 山根眞樹生
43駆逐隊 榧 航海長 濱田 秋朗 槇 航海長 後藤英一郎 桐 航海長 中村 元一 。
(航海長であるのは、手記によるものです。「なにわ会ニュース87号 平成14年9月掲載」より抜粋。
「坊ノ沖海戦」に於いて、忘れてならないこれも歴史だと思うのです。水雷戦隊視点での「坊ノ沖海戦」
これを広く知らしめる必要性がるのではないか。そして早くきちんとしたストーリーを放映して頂きたい。
こう願う。
先だっての放映を見てこう感を強くいたしました。
宇垣の戦藻録と若手俳優の旅に時間を割くのであれば、こうした見方で「坊ノ沖海戦」と「軍艦大和」を語ってもいいのではないか。
次回は過去の大和に関するテレビ放映を軸に「くだまき」との比較を語ってまいります。
吉田満氏著「戦艦大和ノ最期」より抜粋
矢矧は四散。朝霜は離脱。浜風は轟沈。涼月は大破。磯風は処分。霞は処分。
多くの書が、このように書かれております。
「戦艦大和」は知られていても、「駆逐艦霞」は語れることは少ないのが事実です。
冒頭の「戦艦大和ノ最期」ですが、三島由紀夫氏が絶賛したと伝えられております。
この書の中身はすでに「くだまき」で検証しておりますが、吉田氏の表現が「四散」であり、多くの方が「矢矧はすぐに沈んでしまった」と、こうお考えになられても、無理はない。
この言葉を否定したく、「矢矧」については、時間をかけました。
祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 矢矧 一
祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 矢矧 二
祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 矢矧 三
祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 矢矧 四
祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 矢矧 最期
艦長でおりました「原為一」さんは、戦後「帝国海軍の最期」をお書きになられました。
第二水雷戦隊の艦の記録を広く知らしめた本として評価の高いものなのですが、どうしても、この「坊ノ岬沖海戦」は大和を中心として描かれます。
今回の放映もそうでした。
「3時間という長い時間をかけながら、二水戦一つも語れない」これは非常に不満でした。
「巨大戦艦大和」という題名である以上、大和中心で当たり前なのかもしれません。
ですが、一度「坊ノ岬沖海戦」として作成される番組はないものか。
こう考えます。
大和単独の作戦ではありません。
むしろ、帝国海軍を真底から支えてきた「水雷戦隊の最期」(各駆逐隊から構成される戦隊。戦隊としての作戦は二水戦のこれが最後となりました)を多くのに人が知ることこそ、大事なことなのではないのか。
「くだまき」はこう考えながら進めてきたつもりです。
(最前列一番右が「古村さん」一番左が「原さん」です。昭和52年徳之島慰霊祭での記念写真。原さんの渾名「ゴリラ」。わかります)
実際、二水戦の方々は多くを語りません。
あの壮絶極まりない戦闘で、水雷戦隊の誇りをかけて戦っております。
第一遊撃部隊が、徳山沖から出向した際、「最後の水雷戦隊なのだから」という古村司令官の命により「水雷訓練」が行われます。
大和を敵艦に見立てて、雷撃訓練をし、戦闘隊形を確認しております。
「敵空襲が激であるものの、艦隊決戦であれば雷撃は必至」こうしたシュミレーションの元に動いておりました。
冒頭にご紹介いたしましたのが「光人社 NF文庫 『特攻大和艦隊』」著者、阿部三郎氏は海軍航空隊にもおられました。
海軍用語、史実、そして綿密な調査。何にもまして「大和他9隻」の顛末をきちんと描こうとされておられます。
実は、第二水雷戦隊こそ、海軍の最期と言っても過言ではない。最後の最期まで任務をまっとうしていた。
これが酔漢の一番言いたいことなのです。
この顛末は、知っておいて頂きたい。これは願なのです。
「戦後○○周年記念特別番組・・・・」とあれば、その先鋒に来ますのが「大和」です。
未だ、きちんとした形で「二水戦」を語る番組に出会っておりません。
不満です。
もう、各番組は、大和のみを語ることは止めた方がいいのではないか。
「坊ノ沖海戦を二水戦の視点から語る」ことこそ、海軍も日本も、太平洋戦争も見えて来るのではないか。
こう考えてしまいます。
「男たちの大和」では、小滝司令が「司令長官(GF)は前線で指揮を執るべき」と言ったシーンが流れてきます。
他、駆逐隊司令、艦長達が異論を唱える場面は非常に緊張感がありました。
ですが、その後、彼らがどうなったのか・・。
もしかしたら、映画をご鑑賞された方達には疑問と思われた方もいらしたのではないか。
実際酔漢には質問が寄せられます。
「春田純一さんが演じた、小滝司令って、その後どうなったの?」と。(職場部下。三十代女性です。飲み会の席でもって)
「朝霜の最期」をお話しします。
「これって、凄いストーリーだよね」とこう感想を漏らしておりました。
祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 朝霜
よろしければ、上記過去「くだまき」を御高覧下さいませ。
「特攻大和艦隊」(この特攻という言葉はまた別と考えております。前回記事参照)。この著のおかげで、二水戦を多くの方が知ることになったのでした。
前回のくだまきへの「ある友人君」からのコメントを拝読いたします。
彼からのコメントでもって気づいたことがありました。これを、語らなかった「くだまき」だったと、反省いたした次第です。
彼からのコメントをこの場で抜粋、ご紹介いたします。
(略)練度未熟を理由に第二艦隊から第三一戦隊を先に離脱させていますが、いわゆる神風特攻隊や回天、震洋などの特攻では、習熟度の低い少年兵や学徒動員による兵もいたわけですから、特攻が総意ならばわざわざ離脱させる必要はありません。(略)
(「ある友人」君コメントより)
彼の解釈に異論はありません。「特攻が総意ならばわざわざ離脱させる必要はありません」
その視点に立ちますと。まさしくその通りであるのです。
今回の「くだまき」は「作戦である以上、きちんとした理由で持って『離脱』下令である」こうした前提で語ることといたしております。
「少尉候補生退艦」その祭、矢矧を降りた少尉候補生達は「花月」に乗艦し呉へと帰還させられます。
宮城県仙台市エスパル内にあります「板垣フルーツ」を御実家に持ちます「宮城ダイハツ社長」でありました「板垣さん」は大和での少尉候補生でした。
三一戦隊。ある友人君は「練度未熟」を上げておられます。
確かに、最新鋭艦「花月」(月型防空駆逐艦。涼月、冬月と同型)は若い。練度不足は否めないところです。
ですが、「くだまき」ではもう一つ別な視点で持って三十一戦隊の離脱を考えてみます。
平成元年雑誌「丸」六月号。「花月」元水雷長「寺部甲子男」さんの手記を見てみます。(以下青字で記載)
昭和二十年、三月二十三日、米軍の沖縄にたいする攻撃がはじまり、二十六日には早くも沖縄本島の西方一五マイルの慶良間列島に上陸し、連合艦隊司令部は「天一号作戦」を発動した。同日、三一戦隊は第一遊撃部隊に編入され、出撃準備を完成し、佐世保に前進待機するよう命じられた。
上記では「三一戦隊」1YBに編入されております。天一号作戦時では大和以下、第二艦隊に所属となります。
三一戦隊の旗艦はこの「花月」であって、これは最新鋭艦です。ですが、他三隻は丁型と呼ばれる駆逐艦であって、とても、沖縄までの作戦には耐えられるものではありません。
では、「花月」のみ、参加という方にはならないか。
こうおっしゃる方もおられます。
確かに、防空駆逐艦が、この作戦に一隻でも参加となれば、戦力としては大幅増にはなりますが、駆逐隊は鎮守府事の編成であって、それは全てワンチームで動きます。
駆逐隊一編成での行動が作戦の根源になります。「花月」一隻の参加は無理なのです。
酔漢は「この丁型を要する三一戦隊は作戦随行に無理」これが三一戦隊途中離脱の理由と考えます。
1430出港予定の信号あり。定刻一斉に抜錨。予定順序に出港、豊後水道に進路をとった。 1610突然異変が起きた。大和に旗旒信号が揚がり、三井通信士が即刻信号書を開いた。
「大和より信号、31Sは解列反転し、内地に帰投せよ」
艦橋は大騒ぎになった。艦長は「何故か」と声を荒げるし、司令官は「信号に間違いはないか。今一度大和に照会せよ」と叫ぶ。この時、筆者には漸(ようや)く先刻の電報②の意味が朧気(おぼろけ)ながら想像できた。中村 昇先任参謀の「司令官、柳井に行きましょう」との進言に司令官が頷くのをみて艦長が「航海長、取舵一杯」と命令されたので、筆者は柳井の入口の平群島に進路を定めた。ドラマは終わった。帰りの艦上で、艦長の判断を聞いたら「長官は榧、槇の航続距離を心配しておられたからね。朝の入電でいろいろ迷われたのではないか」と話してくださった。榧の岩渕艦長は同艦梶間健次郎主計長(経32期)の質問に対し、前日までの長官の言動からすると「突然の変心としか考えられない」と答えておられる。
関係者悉く鬼籍に入り、真相はこうだと断定できる資料はない。死せる者あり、生きる者あり、人間の運命はかくも変幻自在なものか。
或る禅僧曰く「死生は一瞬の風裡」とはよく喝破(かっぱ)したものだ。
(花月 航海長 山根眞樹生氏 手記より抜粋)
いきなり大和からの信号です。
花月内は大騒ぎとなります。
三一戦隊は四月六日一五二○、徳山沖を抜錨、大和艦隊の先頭を切って南下した。一六一○、速力二○ノット。いよいよ豊後水道だと思っていると、一六二○、突然解列の信号が上がった。そのとき花月は大きく左に回頭し、榧、槇、桐が後につづいた。海上特攻隊はそのまま急吸瀬戸にむかい、やがて見えなくなった。
寺部さんの記憶に寄りますと、花月は大和へ横づけし、燃料を半分渡しております。また冬月、涼月に九三魚雷を二本ずつ移載させております。
ですが、これには、公式記録がありません。上記証言のみでございます。
三一戦隊。
31戦隊
旗艦 花月 航海長 山根眞樹生
43駆逐隊 榧 航海長 濱田 秋朗 槇 航海長 後藤英一郎 桐 航海長 中村 元一 。
(航海長であるのは、手記によるものです。「なにわ会ニュース87号 平成14年9月掲載」より抜粋。
「坊ノ沖海戦」に於いて、忘れてならないこれも歴史だと思うのです。水雷戦隊視点での「坊ノ沖海戦」
これを広く知らしめる必要性がるのではないか。そして早くきちんとしたストーリーを放映して頂きたい。
こう願う。
先だっての放映を見てこう感を強くいたしました。
宇垣の戦藻録と若手俳優の旅に時間を割くのであれば、こうした見方で「坊ノ沖海戦」と「軍艦大和」を語ってもいいのではないか。
次回は過去の大和に関するテレビ放映を軸に「くだまき」との比較を語ってまいります。
写真の公開が1988年以降だったと思います。
そういう意味でも原勝洋さんの功績は大だと思います。
朝霜と断言したのも原氏でした。
彼が何も言わなければ、誰も朝霜だったと分からなかった写真だと思うのです。
重油の海であえいでいるその姿なのですが、砲塔が全部同じ方向を向いてます。
最期まで方位盤射撃を行っていた証拠です。
この事実は多くの人に知って頂きたいです。
『大和特攻』とはよく言われますが、大和とともに出撃して行った二水戦を語らなくて何を語るのか。
そういう思いが最近しております。
私も数年前に「特攻大和艦隊」を読んでやっとこの「坊ノ岬沖海戦」の真実に触れました。
映画などで『大和』が最後の出撃をするシーン、単独ですねほとんどが。
NHKのあの番組でも単独行のように見える表現でした。確かに『大和』は帝国海軍の花型戦艦ですがその陰にひっそりと隠れて顧みられない駆逐艦たちのことを掘り起こしてほしいと思う次第です。
誰にも知られず一人で沈んでいった「朝霜」がことのほか哀れに思えて仕方ありません。