矢矧の奮戦を再び語ります。が、本日、本編としては、いささか時間に制限がございます。
これから仕事です。
ですが、父のアルバムから一枚の写真をご紹介いたします。
この写真、昭和52年4月7日。徳之島で行われました慰霊祭での集合写真です。
写真の題はこのように記載されております。
「戦艦大和を旗艦とする特攻艦隊戦没戦士 第三十三回忌合同慰霊祭参加記念」
「於 徳之島犬田岬 52.4.7」
酔漢父がこの写真最後列左にみられますが、先ずは前列中央の写真をアップでご紹介いたします。
左最前列「古村啓蔵さん 元第二水雷戦隊司令官」
中央眼鏡をかけておられますのが、推察ですが「庭田尚三さん 元呉海軍工廠造船部長」
右最前列「原為一さん 元矢矧艦長」
です。
申し訳ございません。真ん中の女性の方はどなたのご遺族の方か酔漢は存じてはおりません。大変失礼いたしております。
尚、写真がどなたかとは記載されておらず、父から聞き取ったまま記述いたしました。
間違い等ございましたら、お気づきの方は、お知らせいただければ幸いでございます。
あらかじめお断り申し上げます。ご容赦下さいませ。
この日、酔漢父は鹿児島から徳之島まで、そしてこの席上多くのご生還されました方々と話をしております。このメモが大変貴重でして、この「くだまき」の元となってございます。
父は、この日まで「なしてあんだらがけぇって来て、おらいの親父は死んだんだべ」
と思っておったそうです。
ですが、この日、ご生還されました多くの方々(現在確か17名程になってしまいましたが。記憶に違いがあるかもしれません)が、多くの遺族に気を遣い、式を取り仕切っておったそうです。この姿に父が心うたれ、これまでのわだかまりが消えたとも話しておりました。階級もなく、生きてこの顛末をしっかり後世に残そうとされておいでの方達ばかりだと、そう申しておりました。
「俺が生きて帰ってき申し訳ない」との声が聞こえてきたそうです。
涙が出そうになったと父は話しておりました。
「ゴリラが二匹いたんだ」だれともなく出た冗談でしょう。
大和有賀艦長の渾名と古村司令官の渾名。奇しくも同じ。
「そんな感じがしないでもなかった」と翌年、靖国神社での「慰霊祭」に参加した酔漢の感想です。
酔漢にとりまして、古村さんは「やさしいおじいちゃん」でした。
矢矧奮戦そして次回はニ水戦の顛末を語ろうと考えております。
そして、この写真は戦後を語ります祭に再び登場させる予定です。
これから仕事です。
ですが、父のアルバムから一枚の写真をご紹介いたします。
この写真、昭和52年4月7日。徳之島で行われました慰霊祭での集合写真です。
写真の題はこのように記載されております。
「戦艦大和を旗艦とする特攻艦隊戦没戦士 第三十三回忌合同慰霊祭参加記念」
「於 徳之島犬田岬 52.4.7」
酔漢父がこの写真最後列左にみられますが、先ずは前列中央の写真をアップでご紹介いたします。
左最前列「古村啓蔵さん 元第二水雷戦隊司令官」
中央眼鏡をかけておられますのが、推察ですが「庭田尚三さん 元呉海軍工廠造船部長」
右最前列「原為一さん 元矢矧艦長」
です。
申し訳ございません。真ん中の女性の方はどなたのご遺族の方か酔漢は存じてはおりません。大変失礼いたしております。
尚、写真がどなたかとは記載されておらず、父から聞き取ったまま記述いたしました。
間違い等ございましたら、お気づきの方は、お知らせいただければ幸いでございます。
あらかじめお断り申し上げます。ご容赦下さいませ。
この日、酔漢父は鹿児島から徳之島まで、そしてこの席上多くのご生還されました方々と話をしております。このメモが大変貴重でして、この「くだまき」の元となってございます。
父は、この日まで「なしてあんだらがけぇって来て、おらいの親父は死んだんだべ」
と思っておったそうです。
ですが、この日、ご生還されました多くの方々(現在確か17名程になってしまいましたが。記憶に違いがあるかもしれません)が、多くの遺族に気を遣い、式を取り仕切っておったそうです。この姿に父が心うたれ、これまでのわだかまりが消えたとも話しておりました。階級もなく、生きてこの顛末をしっかり後世に残そうとされておいでの方達ばかりだと、そう申しておりました。
「俺が生きて帰ってき申し訳ない」との声が聞こえてきたそうです。
涙が出そうになったと父は話しておりました。
「ゴリラが二匹いたんだ」だれともなく出た冗談でしょう。
大和有賀艦長の渾名と古村司令官の渾名。奇しくも同じ。
「そんな感じがしないでもなかった」と翌年、靖国神社での「慰霊祭」に参加した酔漢の感想です。
酔漢にとりまして、古村さんは「やさしいおじいちゃん」でした。
矢矧奮戦そして次回はニ水戦の顛末を語ろうと考えております。
そして、この写真は戦後を語ります祭に再び登場させる予定です。
拙宅の記事「ウルトラマンが恩人を探しています」に下さった酔漢様のコメントを、勝手ながら渡邊様にご連絡させて頂きました。(これが初情報だったそうです)ご多忙なのは重々承知しておりますが、もし他にもご記憶に残っている事があれば、ぜひ「金城哲夫研究会」のHP( http://bluemorpho.exblog.jp/ )にコメントをお寄せ下さい。
酔漢様、情報感謝であります。
ところで、海軍とは因縁の関係かもしれませんが、私の父は228部隊(ガダルカナル)の陸軍軍医中尉をしておりました。こちらに関しましても、慰霊祭にお呼ばれしておりますので、「自分の父親」の視点でまとめていきたいと思っております。
今回の写真の古村さんも原さんも穏やかな表情ですね。
「やさしいお爺ちゃんだった」という酔漢さんの思い出が、写真からも伝わってきます。
木村昌福さんのことは、酔漢さんもよく御存知だと思います。
南太平洋海戦では鈴谷の艦長。
敵の魚雷が必中コースで迫った時に、毅然として「前進一杯、まっすぐ行け」と命令。
ビスマルク海海戦では三水戦司令官として重傷。
一水戦司令官としてキスカ撤退を成功させ、
礼号作戦では二水戦司令官として日本海軍最後の魚雷戦を指揮しています。
いわば何度も死線をくぐり、困難な作戦を成功させた
生粋の海上武人でした(赤レンガの勤務歴はないそうです)。
戦後は旧部下の人たちと防府で製塩業を営み、
近所の子供たちに習字を教えていました。
自慢の髭もそり落とし、穏やかな風貌。
近所の子供たちは、
この優しいお習字の先生が偉い軍人だったとは
誰も思わなかったそうです。
木村さんといい、小村さん原さんといい、
厳しい戦いを経た方がもつ
一種の風格でしょうか。
長門の初代艦長です。
娘に縁談があった時、
飯田さんは小松の女中頭に小村さんのことを尋ねました。
「あの男、素行は大丈夫なのか?」
それを耳にした周りの人たちは、大笑いしたそうです。
「あいつに人の事が言えた義理か」。
阿川弘之さんの『軍艦長門の生涯』(新潮文庫版)上巻の割と最初の方に照会されているエピソードです。
なおこの箇所の表記は上記の文献に従ったものです。
他意はないことを念のため御断りしておきます。
古村さんは二代目の武蔵艦長で、
昭和天皇の行幸を御迎えしました。
昭和天皇の武蔵行幸のことは
佐藤太郎さんの『戦艦武蔵』(河出書房?)にも紹介されております。
渡邊様へのコメントですが、パスワードの入力が今一解らずこの場でのコメントといたします。
ウルトラセブンの記憶をたどりました。
「キングジョー」が「金城」とは有名なお話ですが、「ウルトラ警備隊西へ」は名作です。
「メトロン星人の四畳半」はやはり欠かせませんし、そんな事を渡邊様からのブログで感じました。
今回の事ではあまりお役に立てず申し訳ございませんでした。
渡邊様のブログへもお邪魔いたしました。
あの映像の後にこのこのような背景がございましたか。新たな思いを感じた「ウルトラの世界」でございます。
おじいちゃん達は孫たちを本当にやさしい目で見てくださいました。
この記憶は本当に大事にしたいと思いました。
いつもながらのご解説ありがとうございました。