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酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

山桜の咲く頃

2011-05-06 13:08:49 | 東日本大震災
最初の写真は三年前夏。同性寺前の田圃の風景です。
文中の写真はクリックしますと大きくなります。
宮城県七ヶ浜町の状況。五月二日の様子です。


「浜の山桜が咲く頃にや。でけぃ鰈がのっこんでくんのっしゃ」
この時期、父はそぞろに釣竿の手入れを始めます。
「吉田浜さぁ行ってでけぇい石鰈さぁ狙ってくっさ!」
酔漢は、5月2日。七ヶ浜を歩いて半周ほど尋ねて来ました。
父の言葉を思い出しました。
「そうか、ゴールデンウィーク。本来ならば代ケ崎。吉田浜は釣りっこする人達でにぎわっていたはずだ」
釣り人はおりませんでした。

ようやく、故郷の惨状を確かめる事が出来ました。
二か月近く経ってようやくです。
「もう二か月」
「まだ二か月」
両方の思いが交差します。

小松崎の実家を出て、北浜の階段を降り、本塩釜からまだ開店していない「ガマックス」の前を通り、丹治さんご自宅近くから貞山通を多賀城方面へ向かいます。
貞山橋手前では、歩道に乗り上げている漁船がありました。

貞山橋です。春の日差しが暖かく、このあたりからの海風はなんら酔漢の記憶と変わったところはありませんでした。
左へ曲がります。まっすぐ進んで、セブンイレブンを右に折れて、汐見台を見渡せる道路へでます。
「雉が鳴いている」「山桜が咲いている」「うぐいすの声も聞こえる」
懐かしい風景です。
歩いて浜へ行くのは、ほぼ三十年振りでした。
ところが、最初に目にいたしましたのは、そんな酔漢の懐かしさを打ち消すものに十分すぎる程の光景でした。

少し高台になっているところには家がありますが、その先は。
普段見ることのできない海が見えます。
昔の昔。この道がまだ舗装されていない頃は当然山でした。
そこが団地化され家々が立ち並び最近までの風景でした。
しかし、遠目に見て「菖蒲田」は何も残されていないのが解ります。
町役場方面へ進みました。
途中の山桜が少し散りかけてはおりますが、咲いておりました。
最初にご紹介いたしました父の言葉は、このあたりで思い出しました。

役場要害浜を素通り、東宮浜を遠目に見て、代ケ崎漁港へ向かいました。

途中の家です。まだこのような状態のままです。

本来、このあたりは大きな家が多く、海など見えないのです。
ところどころで重機による解体作業を行っておりました。
父と釣りをした場所へ向かいました。

丁度、このあたりに「釣具屋さん」がありました。
このあたりのテトラポッドへ釣竿を立てて投げ釣りをします。
当然、テトラは流されて、防波堤も壊されておりました。
土嚢が延々と続きます。
「今度、津波が来たら・・」
早期の復旧を望まざるを得ません。
回りのランドマークがなくなっております。
道に迷いました。
火力発電所へ向かいます。多門山の桜は「ばるえさん」のブログで拝見いたしました。
先を急ぎました。
吉田浜へ行きました。

チリ地震津波では、このあたりの被害は少なかったのです。
波の向かう方向が今回は違っていたのです。
目の当たりにいたしますと、それが実感できます。
吉田浜これも「ばるえさん」のおすすめ「浜心」でラーメンを食べました。
お店から眺める風景は確かに春の海の香がします。
吉田城史跡の脇を通り、花渕へ。

馴染の建物です。
この建物の脇。丁度漁港へ回り込みますと、よく秋にハゼ釣りをしたところでした。
ポイントの目印にしていた建物です。
もう感想など思いもつかない酔漢でした。
「どうしたものか・・・」
途方にくれながら歩いて行きました。
花渕にヨットハーバーが出来る前、まだテトラが残っていた場所で、最初の釣りを覚えました。その場所です。

確かに、ここは、チリ地震津波でも、一番近い家は相当の被害があったと聞きました。が、それも海側から三軒までで、あの津波でもそこまでしか届かなかったと聞いております。波がここから上がった、そして道伝いに流れて行った。これは同性寺ご住職から聞きました。まさしくその跡が残されておりました。

このような看板はあちこちにあったのはよく知っております。
「無防備な町」ではなかったはず。
「防災マップ」も「過去の経験」をも凌駕する災害だったと。これを見てそう思いました。

初夏の風景。三年前のものです。
この田が、瓦礫の山になるのです。
その恐ろしさが解ります。
盆の頃。祖父の墓前へ向かう途中。蛙の鳴き声だけがあたりに響いておりました。

丁度、菖蒲田へ向かう道側から同じ田を写しました。
正面の小高い山に父、祖父が眠る墓前があります。同性寺は写真の丁度左にあたります。
道の両側の大きな、そしてりっぱな家が全て無くなっておりました。
もう写真を撮る気力も失せております。
親戚の家の前と通りましたが、無人。「半壊」との診断でしたが、もう限りなく「全壊」状態です。まだ「避難生活をしておられる」と聞きました。
「鼻節神社」「外人浜」方面の案内坂を左に見て、サーフィンの聖地「小豆浜」です。

流れついた大型コンテナが転がっておりました。
ふと、足もとを見ますれば・・・。

丁度僕らの言うところの「外人」へと続いております。
「あそこなら幾分高台だな」とは思うものの、果たして今回の津波の規模ではどうだろうか。想定外は、本当に「想定外」なのです。
酔漢自身、あの日、あの時この場所にいたら・・。本当の安全だったところまで行くという発想があったか。これは、おそらく「なかった」ことです。

菖蒲田浜へ入ります。
津波の瓦礫の中、たくましく咲いていた「すいせん」を見つけました。
そして・・。

菖蒲田の桜並木の一部だと思いますが、やはり「桜」が咲いておりました。
その桜を通り過ぎますと。



風の音に混じって、建設機械の音。しかし、機械は見えません。
「何もない・・・・虚無感に襲われます」
確か、このあたりには叔母の親戚の家があったはずだけど・・。
目標物が全くなく、解りません。
この道のY字路にはお店屋さんがあって、その左には確か床屋さんがあった。
青い大きな瓦の家があったはず・・。
酔漢、道に迷っております。
松林から海岸へ向かおうとしましたところ。
「立ち入り禁止だ」と注意されました。
「愛知県警機動隊」と書いてある車両が止めてあります。
遺体捜索の最中でした。



「西友まで行ってみよう」
と道づたいに歩きます。
4月30日にオープン。
工事中の中。しっかりオープンしてました。

スタッフと話をして、津波が来た際の話を伺うことができました。

この場所で生活されていらっしゃる方々を思うとき、「どうやって復興できるのだろう」と本気で考えてしまいました。
「やらなければならない」
「一つづつやって行こう」
ですが、直後のお気持ちを察するとき、
「何が起きたらこうなるんだろう」
と信じられないのだったろうと思うのです。
「『盆までにに仮設住宅』だと!本当だろうな!」
怒りがまたそぞろに顔を出して来ます。

「歩かなければ、分からない」
こう思ったことは最初に語りました。
「遠くから来た人間が、何を言うのか」
こうお叱りを受ける事も覚悟の「くだまき」でございます。

汐見台から逆方向へ歩いて、塩竈三中前「本当にクロさんはどうしたんだろう」
ご実家を過ぎて、花立から塩竈市街へ入りました。
「塩竈桜に少し早いかな」
塩竈神社へ行きました。

少しばかり花を咲かせておりました。

さまざまなことおもひだすさくらかな 芭蕉

この句が今年は一際心に沁みいてまいります。
葉書をしたため、親戚、知人に送りました。
「今年の桜ほど色鮮やかな桜はなかった」
自分の記憶はこうなるのでしょう。


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7 コメント

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Unknown (すず)
2011-05-06 13:45:04
 桜の種類は塩害に強いのでしょうか?うちの周囲でも、葉を落として枯れる木々が多い中、桜は変わらず咲いてくれました。

映像や画像では、あの臭いや廃墟を吹く風は感じられませんもの・・立派な家や家具だった残骸や、緑だった地面が乾いた泥になった風景を実際にご覧になって、さぞや落胆されたことと思います。

仮設住宅ですが、ご承知の様に沿岸部には高台にある平地があまり無く、用地の工面が進まない事と、津波の被害に遭われても、その場所に住み続けたいと仰る年配の方が多くて、予定どうりには進んでいないのが現状です。行政としては、危険を承知で沿岸に仮設住宅を建設するのはあり得ないでしょうし、故郷を離れたく無い皆さんのお気持ちも判ります。被災者の私でさえ、一筋縄ではいかない難しい問題だと思います。

我が家は大規模半壊と認定されましたが、それでもなんとか住める家が残ったのは、幸運でした。でも、今度また、大きな地震がきて津波がきたら、遮る物が無くなったいま、もっと内陸まで被害が及ぶだろうと思うと、家の片付けもままなりません。いまでも、一階の床に物を置くのはためらわれますし、貴重品はリュックに入れたままです。しばらくは様々な事に耐える日々が続きそうです。
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瓦礫になっても (ひー )
2011-05-07 16:53:05
甦る想い出は昔のままです。

瓦礫の中にいても眼を閉じれば、懐かしい想い出は 昔のままです。
ただ、昔からの看板や電信柱、松ノ木などなど・・
消えてしまったのは残念ですね。
私の親戚もいるのですが、やはり同じ場所に家を建てるのか!?
決断が難しいですね。
自分も、建て替えるつもりでいます。
でも荷物の量が半端じゃなく、どのようにしたらいいのか… 新しい部分を壊すのは無念ですが更地にして土留からやり直しです。
参りました。


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ゆっくり桜を見る間もなく。 (ゴエモン)
2011-05-07 21:35:56
菖蒲田は息子がサーフィンに年間を通して行っていました。かれこれ5年になります。私も送迎を兼ねて浜にシートを敷きボッーと海を見たり昼寝したり大好きな場所でした。
お世話になったサーフショップやワカメを買っていたお店は跡形もなくなり、そんな景色を見ると石油コンビナートが爆発して、もう終わりだと思った夜のこと、翌朝、自宅から見たあり得ない塩釜の風景、色々な思いがよみがえります。

庭の桜は葉桜になっています。来年は皆がゆっくり桜を見られるといいなと思います。

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すず様へ (酔漢です)
2011-05-08 11:16:16
「大規模半壊」からですね。生活基盤を失ったわけですから、そのご苦労たるや大変なものだと思います。
親戚の家は土台だけでした。
仮設住宅の建設が七ヶ浜中学校校庭で始まっておりましたが、需要を満たすのにどれだけの時間がかかるのでしょう。
多くの事を知った今回の帰省でした。
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ひー様へ (酔漢です)
2011-05-08 11:20:25
先の記事にもコメントありがとうございます。
6時間かけました。
車や自転車では知る事の出来ない風景を目の当たりにいたしました。
歩くことはあまり苦にしない方ですが、塩竈に着いたとき、「鹽竈様へ」自然に足が向きました。桜に出会えたのは久しぶりでした。
「ここにまた住む」
「ここはもう住めない」
人それぞれでございました。
何がベストなのか。
答えは見つからないまま帰京いたしました。
母には「こっちに来たら」とは話せませんでした。
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ゴエモン様へ (酔漢です)
2011-05-08 11:24:49
ゴエモン様のご自宅の下を通ったのですよ。
小学生の頃以来でした。
サーフィンは下の息子が片瀬の海岸でやってます。「小豆浜でいつか」とは昨年話しておりました。
叶わないこととはなりましたが、出来る日もあろうかと思います。
五月の日差しと海風の香だけは「何も変わってなかったのに・・」との思いばかり心に残りました。
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塩竈桜 (猫写真家)
2011-05-10 00:40:33
七ヶ浜の現状報告ありがとうございました。小さな頃も、学生時代も七ヶ浜にはよく遊びに行きましたし、外人浜で花火をしたり、菖蒲田海岸に泳ぎにいったことなどが思い出されます。写真のような現実をなかなか受け止めきれない状況です。テレビを見て震災後は泣いてばかりいます。故郷から離れて、20数年たつのですが、それゆえに思いも強いのかもしれません。今でも仙台駅から東北新幹線に乗って東京方面に向かう時には、後ろ髪を引かれる思いがします。酔漢さんも今回は特にそんな思いがしたのではないでしょうか。故郷の復興を祈り、願うばかりです。
先日、塩竃神社の塩竃桜が見頃になったと全国放送で伝えていました。震災がなければ、全国放送で話題にされることもなかったのかもしれません。塩竃桜は、ゴールデンウィーク時に実家に帰った時にはかならず見に行きます。というか、塩竃神社には必ず帰郷したらお参りをします。塩竃人は塩竃神社にいかないと何となく落ち着かないものです。東京にも塩竃神社があって、そこには本家の塩竃神社から移植された塩竃桜が植えられていました。酔漢さんの塩竃桜の写真を見てそんなことを思い出しました。
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