酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ある友人の手記 その一

2011-05-29 10:27:43 | 東日本大震災

彼と知り合ったのは大学時代。同じ演劇部に所属しておりました。年は酔漢より二つ下でした。塩竈は北浜の在住(当時)。ですから小学校は塩竈二小です。

一度ご紹介いたしました「宮崎ばっぱ」の教え子でもあります。(ですから、丹治さん酔漢ともつながりがあるのです。「オレたちひょうきん族と丹治さんと酔漢」)

そんな彼からメールが届きました。(コメントを下さいます「猫写真家」さんとも同じです)

仙台で被災した彼が手記をまとめておりましたものを、酔漢に届けてくれたのです。

「何か書かないと・・・気持ちが整理できなくて・・」

彼が何を伝えようと長い文章をしたためたのか。酔漢も考えてみます。

10万字近い長文です。

何回かに分けてご紹介いたします。

すべてにおつきあい下さるのは、大変かと思いますが、少しでも彼の思いに触れていただければ幸いです。

本ブログで紹介することを、彼は快諾してくれました。

    

悲しみを色に例えるならば何だろう?

 僕はなんとなく青色かなと思う。「青の歴史」を書いたパストゥローは、様々な文化の中で、青が忌避されるべき死を象徴するような色から、聖母マリアの衣服にまで使われるようになる歴史を書いている。もし青色がひとつの人格ならば、その毀誉褒貶ぶりに戸惑うばかりだろう。僕は悲しみにはそんな痛みと癒しが混じり合っている気がする。だから放たれる光は海蛍とか、あるいは荷電粒子が見せるチェレンコフ光みたいな青だ。

もしも悲しみのひとつひとつが自らそんな光を放つのなら、大震災後の東北地方は遠くの星からでも分かるくらいに、青白く輝いている筈だ。そういえば四神でいうなら東にいるのは青い竜。やはり青の領域だ。

 僕は大震災の渦中にはいたけど、その中でもとても幸運に恵まれ、苦労が少なくて済んだ一人である。それと同時に特別な技能もなく、やれることも少ない人間だ。自分にできる事をするとすれば、こうして文章にするしかない。

 だからこれは未曾有の大震災を経験したけど、大きな悲劇も苦しみもなかった人間の大して価値のない話だ。ただそれしか出来ないので体験した思いを綴ってみる。主に大震災から一週間の内容と後日談だが、実を言えば妻の記憶やその他の記録で確認すると、最初の四日間に体験したと思っていた事のほとんどが、本当は三日目までに起きているらしい。混乱して長く感じたのか、それだけ密度が濃かったのかは分からない。だがどう思い出してみても僕の中では四日間の出来事なのだ。

 それなのでこれは正確な「記録」ではない。あくまでも僕の「記憶」の話である。しかし出来事はどれも空想ではない。時系列は多少狂っているかも知れないが、いずれも確かに起こった事の寄せ集めである。

時間軸などというものが何の役にも立たなかった日々の出来事だと、言い訳を許してもらいたい。

 

「ついにきたか」

 大きな揺れに翻弄されながら、僕はそう思っていた。来る来ると言われ続けてきた宮城県沖地震がついに来たのだろうと、おそらく宮城県内に住むほとんどの人がそう思った筈だ。なにせ三十年以内の発生確率が九十九パーセントである。いつ来てもおかしくはないと覚悟はしていた。

 揺れが始まった時、僕は家でパソコンに向かっていた。

 はじめはよくある地震と変わらない、ゆっくりとした揺れだった。それがいきなり突き上げるような縦揺れになった。

 大きいと感じた瞬間に立ち上がって、落ちると片付けるのが面倒な小さな鉢植えなどを素早く床に下ろした。その最中に携帯の緊急地震速報が鳴った。震源が近いのだろう。揺れがはじまってからの到着だ。僕は耳障りなそれを止めるより先に、落ちて壊れそうなものを次々と下ろしていった。

僕は前の宮城県沖地震を経験している。一九七八年の六月にあったM七・四の地震だ。日本の都市型地震災害の最初とも言われ、これがきっかけで建築基準法が改正されたほど家屋被害が多かった。震度は五だがそれは当時の基準であり、少なくともその後に震度五以上の地震を三陸南地震、宮城県南部地震、宮城内陸地震などで経験している感じからすれば、それらよりもはるかに激しく大きかった記憶がある。何事も単純に比較はできないものだが、それでも体感するものと計測される震度には確実に差があると思う。観測点と自分のいる場所の環境の違いによるものなのかもしれない。

いずれにせよ、僕はそれらの経験から冷静に震度を考えて行動した。だからこれも震度五強くらいだろうと落ち着いて考えていた。それは宮城県沖地震として想定の範囲だ。

ところがふいに揺れの質が変わった。これまで経験した事のない大きな横揺れだ。足下がふらつき、左右に振り回されるような感覚がある。まるで小さな船で大波によって揉みくちゃにされるような感じだ。あるいは鎖の短いブランコに乗せられて、無理矢理に振り回される感じだろうか。

近くにあったキャスター付きのオイルヒーターがジグザグに居間を動き出した。居間のガラスを破られると困るので、揺れに耐えながらそれを椅子で挟み込むように止めた。そして倒れてしまうと部屋の動線が確保できなくなってしまう位置にある食器棚を手で押さえつけた。

言っておくが僕のとった行動は、あまり誉められたものではないのかも知れない。本当はさっさと逃げるか、テーブルの下にでも隠れるべきだったのかも知れない。ただ現実にそう動いてしまったという事実をそのまま書いている。

揺れはおさまるどころか更に強くなった。台所から何かが割れる音がして、本棚の本や棚の上にあるものがばさばさと放り出され、平積みにしていた本や雑誌が崩れた。飾り物にしていた古いビートルズやジャニス・ジョプリンのレコードが飛ばされたように落ち、洗面所の方からも何かの缶が洗面台の中を転がり、けたたましい音を立てている。テーブルの上のものはほとんどが倒れるか、落ちるかで、結構な重さがある飾り棚までが徐々にせり出してくるのが分かる。確実に二十センチ以上は移動していた。食器棚の隣にある揺れに弱そうなスチール製のオープンラックが、棚の重みで歪み、壊れてしまいそうだったので、右手で食器棚を押さえたまま、左手でラックの揺れを止めた。

とにかく長い。

うんざりするほど長い。

中学生の時に経験した宮城県沖地震も長く感じたが、確実にそれよりも長く揺れ続けている。その時の上下にはずむような縦揺れとは違い、振り回されるような大きな横揺れはは、何とも言えない気持ち悪さと違和感があった。「もういい加減にしてくれ」と呪文のように何度唱えてもおさまらず、とにかく長い間揺れていた。後に知ったのだがおよそ三分の間、揺れ続けていたらしい。

 ようやく揺れがおさまった後、部屋の中の惨状を見渡してため息をついた。まだブラウン管型のテレビを使っているのだが、あんなに重い物が前のめりにラックから落下している。いろいろと接続していたケーブル類がいくつか引き抜かれ、垂れ下がっている。幸い和室に置いてあったし、まだ寒い季節だったので、うまい事こたつ布団の上に落ちてくれていた。見た目には特に壊れている様子はない。本棚のある奥の小部屋は落下した箱や本で足の踏み場がない状況で、結構大きなCDラックが数十センチほど動き、アコースティックギターも倒れている。パソコンはキャスターつきのラックだったせいか、モニターも落ちずに無事だった。

 すぐ立て続けに激しい余震が起こる。

 当たり前のように余震と書いてはいるが、その時点ではまだどれが本震か余震かなど分からないから、もしかしたらまだとてつもない本震が来る可能性も否定できなかった。そんな予断を許さない状況なので、僕はテレビも含め、落ちた物はそのままにしておく事にした。ライフラインはどうせ駄目だろうと分かってはいたが一応確認すると、やはり水は一滴も出ないし、電気はコンポの時間表示が消えていた。ガス漏れの危険があるのでコンロには手をつけなかった。

それからすぐに携帯で妻と実家に電話をかけてみた。もちろんつながらない。僕はとりあえず建物の状況を見るために外に出た。

 大きな余震で足下がふらつく。またも簡単に余震などと言える揺れではない地震で、震度五は確実にある。僕は手すりにつかまり、駐車場の車がゆさゆさと揺れるのを見つめるしかなかった。

 本震ほどの長さはなく、僕はゆっくりとマンションの階段を下りた。

 ふいに、なぜだろう、と思う。

宮城県沖地震の時もそうだったのだが、ライフラインがすべて止まるほどの地震のあとは、町に妙な静けさがある。ここは住宅地だから、もともとにぎやかな所ではないのだが、やはりそれでもいつもよりはなぜか静寂に包まれた印象があった。そのせいか余震で起こる地鳴りのようなものがはっきりと感じられる。電気やガス、水道など、地中や電線に存在するエネルギーも、実はいつも微かな振動や音を出しているのかも知れない。それらが途切れた静けさが町を覆っているのだろうか。

外には同じマンションの奥さん方や管理人が数人ほど並んでいる。僕の部屋は三階だから、普段でもエレベータよりも階段を使っているので、こういう時の上り下りは楽である。住む階を決める時に、こんな事も考慮していたのは事実だし、火事などになれば最悪でも飛び降りて死にはしない高さで、泥棒も(盗むようなものは何もないけど)入りにくいだろうと思って三階に決めた。

外から見ただけでは建物自体の被害はほとんどないようだった。エントランス近くの地面のタイルが割れたりはしていたが、傾いてはいないようだし、火災も起きていない。

そうしているうちに再び激しい余震が繰り返しあり、「きゃあ」と声を上げ、しゃがみ込む人もいる。

 僕は部屋に戻ると、ソファーに腰を下ろし、もう一度、妻にメールを打ってみたがやはり送信できない状態だった。

 またぐらりと来て、僕はあわてて立ち上がる。

とにかくしつこいほどの余震だった。田舎の遊園地にあるお化け屋敷でおどかされる回数よりも間違いなく多い。しかもどれもがかなり大きい揺れだ。その度に僕は食器棚を押さえつけた。気象庁では様々な計測器が壊れたそうで、地震当日からしばらくの間の正確なデータ発表は四月半ばでも行われていないが、それでもこの日は本震後三十分以内に震度五以上の地震が八回起こっただろうとしている。そのすべてが宮城県であったかはともかく、凄まじい揺れの連続だった事は分かるだろう。

 少し揺れがおさまった隙を見て、僕はランタン型の電灯を納戸から取り出して灯りがつくのを確認すると、次にポケットラジオを探した。数年前に入院した際に買ったもので、非常用にいつも分かるところに置いていた筈だった。しかし不思議なもので、こういう肝心な時に限って見付からない。

でも情報は欲しい。どう行動すべきかは自分で決めるにせよ、まずは状況を把握しないといけない。週末に充電するつもりだったので、バッテリーの残量を考えればあまり使いたくはなかったが、携帯のワンセグでテレビを見る事にした。

小さな画面には東日本の地図が出ていて、各地の震度が書かれ、大津波警報が発令されていた。すでに死者の情報もある。マグニチュードは八・八。相当に大きな地震だ。テレビ局側も混乱しているのか、震源が宮城沖とも茨城沖ともつかない報道だった。ただ大津波警報の範囲を見る限り、とてつもなく広い範囲に及ぶ事だけは分かった。

もったいないのでとりあえずワンセグを切ると、もう一度実家に電話してみた。ここは内陸部だから津波の心配はない。しかし両親は沿岸部の塩釜市に住んでいる。二人とも五十一年前のチリ地震津波を経験しているし、今は高台に住んでいる上、据え付けの家具が多いので倒れるものはほとんどない。だから家にいれば心配はないとは思ったが、安易に何か買い物に出たりしないよう釘を刺そうと思ったのだ。

しかし電話はやはり通じない。

妻へのメールも相変わらずまったく駄目だった。妻は仕事で秋保温泉の近くに行っている。山間部なので津波の心配はないが、土砂崩れなどが多い地域でもあるし、交通路が遮断されてしまえば、戻ってはこれないかも知れない。

 ふと窓の外を見たら、天気がふいに急変し、いつの間にか激しい吹雪になっていた。横殴りの風に乗った強烈な雪が、本当にいきなり降ってきた。

 そんな気配は微塵もなかったのだ。

 そもそも東北の沿岸部はあまり雪が降らない。三月に降ったとしても湿った重い雪だ。しかし大きくさらさらとした雪がものすごい勢いで降ってきた。しかも実に奇妙な空模様で、地上付近では吹雪なのに、上空には明るい光が差している。空が二重構造になって晴れと雪を水平に分離したような感じだ。くもりガラスのフィルターが壊れて、合間から光が漏れれいるようにも見える。

 おいおい、何だ、これは。地面だけじゃなく、空までおかしくなったのか。

 僕は本当にそんな独り言を口にしていた。

その光景の不穏さを表現するのは難しい。

 きっと村上春樹でも困ってしまうだろう。ましてや僕なぞに表現できるわけがない。ただノストラダムス世代の僕としては、この日が世界の終わりであっても納得できただろうと思う。そう思わせるのに十分な光景だった。

 ともあれその日が最後の審判であろうと、神々の黄昏であろうと、僕にはどうしようもない事なので、とりあえ部屋を簡単に片付ける事にした。片付けるとは言っても、大きな余震がひっきりなしにあるので、落ちたもの、落ちそうなものはすべて床にならべた。前の宮城県沖地震の時は一番早く復旧した電気でも、二日くらいはかかったような記憶があったから、暗くなっても安全なように明るいうちに動線の確保だけはした。ついでにもう一度ラジオを探したが、やはり見付からない。

 ふと水の確保が頭をよぎった。飲み水も下水用の汲み置きもない。風呂の残り湯は、気を利かせたつもりで午前中に浴槽を洗い、栓を抜いてしまっていた。いつも通りの怠惰な自分なら良かったのにとため息だ。

 


コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 3月11日のくだまき 親父殿与... | トップ | ある友人の手記 その二 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
それぞれの体験 (ひー )
2011-06-07 13:32:52
私も当日のこと、または4月7日のことを書きましたが、あの瞬間一人一人が恐ろしい体験として記憶されたことでしょう。
自分もここで死ぬのか・・・自分の運命はここで終わりだったのかと、あの揺れの間に考えていました。
一日に150回の余震は異常でした。

続きを読ませて頂ます。
暫く訪問していなかったのですね。纏めて拝読します。
返信する
ひー様へ (酔漢です)
2011-06-09 09:24:17
彼が何をどう伝えたくて手記を書いたのか。
「この状況を共有したかった」とメールにございました。
彼の思いを多くの人に知っていただきたくて、くだまきに掲載いたしました。
ご拝読に感謝です。
返信する

コメントを投稿

東日本大震災」カテゴリの最新記事