酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ある友人の手記 その二

2011-05-30 07:04:37 | 東日本大震災

「くだまき」というには、彼に失礼かと・・・そうメールを送りました。

酒を飲みながら語るというわけではなく、語っている風でもありません。

彼は一気に書き上げたのかと、そう拝察しております。

前回からの続きです。ここで三月十一日の彼の出来事が終わります。

本日、何回かに分けて全編ご紹介いたします。

  

とにかくコートを羽織り、財布を持って近くのコンビニまで早足で行ってみたが、すでに店の前は長蛇の列。電気が止まっているため、コンビニも手作業のためらしい。吹雪の中、雪だるまのようになりながら、皆並んでいる。僕も並ぶしかないかと思ったが、「水と電池は売り切れ」という声を聞いて諦めた。効率のいい販売を目指すコンビニだから、無駄に量は置いていないらしい。

 ふと子どもの頃は非効率も楽しかったなと思う。酒のやまやという宮城県では大手の酒類の小売店があるけれど、そこはかつて小さな寂れかかった酒屋だった。次男が僕と同級生で、家も近くだったから遊びに行く事もあった。するとキャップが錆びて商品としては出せなくなったジュースを出してくれたりした。またその近くのケーキ屋の息子も同級生で、日持ちしない期限切れ間近の菓子を差し入れたりもしてくれた。経営としては非効率なのだろうが、子どもとしては悪い思い出ではない。その辺りは塩釜でも低い地域だし、海も近い。もしかしたら津波が押し寄せているかもしれない。

 ふいに携帯にメールが入る。

妻からだ。とにかく無事らしいので心からほっとする。

 僕はまだ災害の状況について一端しかつかめていなかったが、道を歩きながら見渡すと、瓦が落ちた家はあるが、倒壊している建物はなかった。地震が多い宮城だから、耐震構造はしっかりした家が多い。そんな状況と過去の地震被災の経験からして、少なくともこの周辺は二、三日である程度の復旧するだろうと勝手に甘い予想し、今は無理に買い走る必要もないだろうと思ってしまった。

 家に戻ると、下水用にとバケツに加湿器に入っていた水を移し替えた。大型の加湿器なのでそこそこの量にはなった。それから台所の足下を応急的に片付けた。何かが割れる音がしていたので、暗くなってから踏まないようにするためだ。見ると電子レンジの下で回っているセラミックの皿が飛び出して割れていた。僕は大きな破片をビニール袋に集めて入れ、床を掃いた。

 それからもう一度情報を確認するため、携帯のワンセグをつけた。

 飛び込んできたのは、津波の光景だった。

僕は沿岸で生まれ育ったから、津波の恐さは子供の頃から繰り返し聞かされている。両親が塩釜市で経験したチリ地震津波の事も、海からはそこそこ離れた道路に巨大な船が乗り上げたとか、恐いのは強い引き波で僕も顔を知っている近所のおばさんが電柱にしがみついて助かったとか、そういう話を聞いていた。地球の裏側で起こった地震によるものだし、まったく揺れもしなかったから、最初は津波といっても大した事はないだろうという感じがあったそうだ。なので地震の揺れの大きさでは津波の大きさは分からないとよく言われた。二十数年間、海から直線距離にして五十メートルほどの平地に住んでいたので、そこそこの地震や津波警報があれば油断する事なく、小学校のある山の方に逃げたりもしていた。

 映像は茨城県のものだという。

茨城沿岸でこの津波?

リアス式の三陸海岸ならともかく、茨城ならば海に面して平坦な地形だ。津波は入江などの狭まった所で高くなるのが常識である。地理的な条件から考えて、湾さえない茨城ならば、津波が内陸に何キロも入り込むような事態はちょっと想像出来ない。誤報じゃないのかとさえ思った。

テレビは全国放送で、東京がキー局のせいか、関東の状況ばかりが映し出されている。

 やはり震源は茨城沖なのだろうか?

 しかし、あれだけの揺れだ。いずれにせよ海でのプレート型の地震なら、こちらの沿岸部にも大きな津波が来ているだろう。あるいは茨城よりもっとまずい事になっているかも知れない。

 そんな嫌な予感がした。

 すると速報が流れてくる。テロップには「壊滅」の文字。

 どこが?

 陸前高田市や気仙沼市が壊滅。

 一番津波被害が予想される三陸のリアス式海岸の港だ。前者は岩手県で後者は宮城県と県は違っているが、いわゆる気仙郡と呼ばれ、歴史的にも文化的にも共通する一帯である。陸前高田市は人口約二万三千人の小さな市だが、気仙沼市は約七万三千人だ。それが本当に壊滅したのだろうか?

 更には宮城県第二の都市であり、人口十六万人の石巻市、自分が育った塩釜市に、通った高校のある多賀城市、他にも名取市や岩沼市、仙台市の沿岸までもが津波で甚大な被害だという。

多賀城市が津波で大きな被害?

確かに沿岸部ではあるが、七ヶ浜町という小さな半島が防波堤のようになっているし、確かに海抜が低い地域は水害に弱いという話は聞いていたが、津波で深刻な被害が出るなんて想像していなかった。チリ地震津波でも大きな被害を出した北限は塩釜だ。しかも海岸線からかなり内陸にある国道四十五号線を越えるなど誰も想像していない。

仙台新港に十メートルの津波で若林区と宮城野区の広範囲に被害?

 仙台から南側の海岸線は、リアス式ではなく、平野部であるがゆえに津波に強いと言われている。事実、昭和三陸津波や明治三陸津波、チリ地震津波でも大きな被害は出ていない。江戸初期の慶長津波で大きく浸水した記録はあるが、今と違って防波堤も何もない時代の話だし、海岸線も今とは違う。だから仙台にそれだけの波がくるなんて信じられなかった。そして理解できなかった。

 宮城県に四十五年以上住んでいるし、地誌にも興味がある方だけれど、この地域に来る津波は、狭い範囲に高く大きなものが来るか、あるいは広い範囲に低く小さなものが来るものだと思っていた。もちろん僕の知識なんてたかがしれているし、常識だって案外あてにはならない。しかし、そこそこ長く生きてくれば、プロ野球で四割打者は出ないだろうという事や、もう三十勝投手は出ないだろうという事は「分かっている」のだ。そのごく当たり前の「分かっている」事が根底から覆された感じがした。

 ふと僕は子どもの頃に見た日本沈没の映画を思い出した。

 本当に世界が終わったり、日本が沈没したりする事はないとは思っていたが、壊滅という文字は、ひとつの人生、ひとつの町、ひとつの世界の終末に思える。

 僕は失われたであろうものの大きさに心が震えた。 

 両親は大丈夫だろうか?二人が住む塩釜は市とはいえ面積はとても小さい。東北では一番小さい市である。東京の新宿区よりも小さい。平地の六割は埋立地だから、当然海抜は低い。多賀城の状況からすれば間違いなく津波に襲われているだろう。実家は高台にあるといっても僕の足なら徒歩十分ちょっとで海だ。もともとチリ地震津波でも大きな被害を受けた沿岸地域に住んでいたから、親戚や知人を心配したりして、ふらりとそこまで出かけたりしているかもしれない。心配なのはかえってチリ地震津波の経験が予断を与えてしまう事だ。この津波は経験などほとんど役には立たないように思える。

姉も宮城県内にいるが、利府町という内陸部だから、とりあえず津波の心配はない。もちろん一家四人がどこにも出かけていなければの話だ。曜日や時間を考えれば、それぞれがどこかへ出かけているだろう。

 バッテリーはあまりなかったし、これだけの被害ならば今後の事態に備えて、唯一の連絡方法である携帯は必要に思えた。僕は気になる思いを抑えつけてワンセグを切った。

 あとで知った事だが、東松島市から南側沿岸の市町は軒並み三十パーセント以上の面積で浸水したのだという。つまり塩釜市、多賀城市、仙台市宮城野区、仙台市若林区、名取市、岩沼市、亘理町、山元町までに至るすべてが、三分の一を越える浸水をした。ちなみに僕の実家がある塩釜市は三十四パーセント、仙台市の若林区に至ってはなんと五十六パーセントだ。東松島市の市街地浸水率は六十五パーセント、七ヶ浜町の農地は九十三パーセントが海水につかった。まさに沿岸部は壊滅的だ。

津波は川を遡り、その周辺にも及んでいる。今、僕が住んでいるのは仙台市太白区というところで海から十キロ近く内陸にあるが、名取川がすぐ百メートルもないところにある。名取川は神田川の三倍は幅がある大きな河川だ。上流に釜房ダムがあるため、普段は川幅のわりに水量は少な目だが、そこも波が逆行し、一キロちょっと手前までが浸水するほどに増水した。そのため海に面していない太白区でも、若林区を横断してきた津波のせいで八百世帯以上が浸水している。ほんのわずかな差で自分が住む辺りも浸水していた可能性があった。石巻市は北上川沿いに大きな被害が出ているし、陸前高田市では川を伝い、十キロ奥にある山間部の集落まで達している。東京ならば新宿あたりまで浸水した事になるだろう。高さも岩手県の宮古市では三十九メートルに達していたそうだ。本当にありえない範囲まで到達する大津波だった。

死者数も行方不明者数も、一ヶ月たってもはっきりとは分からない。ただ分かるのは関東大震災以降では最悪の災害である事だ。

 本当に多くのものが失われてしまった。

 マンションの隣には去年できたばかりの新しい小学校がある。ベランダから見ると荷物を持って体育館へと避難する人たちの姿が見える。しかもその数は徐々に増えてきた。建物は大丈夫そうだが、かなり大きな余震が間断なく続いている。ライフラインも駄目だし、ニュースの状況からしても、とりあえず避難するのが賢明な選択だろう。

 僕は迷ったが、とりあえず妻を待ってみる事にした。交通機関はいつも地下鉄を使っているが、当然動いてはいない。こういう時はタクシーを拾うのも難しいだろう。けれど彼女の性格ならば市内からなら歩いてでも帰ってくると分かっていた。街灯も点かない事は分かっているだろうから、夜遅くになるようならさすがにどこかへ避難するだろう。なので夜の九時くらいまで待ってみて、帰らなければ避難所に行こうと決めた。

 こういう時に一人というの心細いものだ。頭の中でいろいろな事を考える。妻はもちろん、両親や姉一家、親戚に知人の事。でも自分の事も考えないといけない。それがどうにもうざったい。自分はこうして無事にいるのだから、できれば他の誰かの事を考えたいのだが、考えたところでどうにもできない。仕方なく自分がどうするかを考えるにしても、あまりに情報が少な過ぎた。いずれにせよ避難所に行けば、多少は情報があるだろうと思い、気持ちを落ち着かせるしかなかった。

 辺りがすでに暗くなった午後七時近くになり、妻が帰ってきた。案の定、吹雪の中を二時間かけて歩いてきたそうだ。市の中心部から七キロくらいだから、歩くのが極端に遅い彼女にしたら随分と頑張ったのだろう。吹雪になるし、何だか頭の中まで真っ白だったと後で彼女は言っていた。でも彼女のように全身が雪だるまのようになりながら、黙々と歩く人たちが他にもたくさんいて、それが妙な安心感になったそうだ。

 僕らは取りあえず避難所に行ってみる事にした。彼女の携帯はすでにバッテリーが切れていたし、やはりほとんど情報を持っていなかった。貴重品と毛布を数枚、それに電灯を持って、すでに真っ暗なマンションの階段に出た。すると二戸隣に住んでいる奥さんが不安そうに声をかけてきた。十年住んでいて初めて顔を会わせた人だが、旦那さんは会社から戻れそうになく、懐中電灯もない状況なのでひとりで不安だから、一緒にいてもいいかと尋ねてきた。こんな時だしもちろん構わない。道も真っ暗なので電灯をつけ、三人で小学校の体育館まで行った。

 体育館はすでに満員だった。

暖房はまったく何もない。配られた段ボールを床に敷き、毛布にくるまっても、とにかく冷える。情報も全然入らず、わずかな枚数の毛布が子供とお年寄りを中心に配られただけだ。それでも発電器による明かりがある分、まだましではあった。一応、食事も緊急用のアルファ米が用意はされたが、避難者からカセットボンベを集めないと無理な状況で、数もまったく足りていない。自主的に子どもとお年寄りを優先にという雰囲気があったのに、空気が読めないスーツ姿の体力もありそうな中年男が先に食っているのを見て、妻が呆れたように鼻で笑った。

 一緒にきた奥さんは気仙沼市の出身だと言う。ふいに壊滅というテロップが思い浮かぶ。しかし幸いなことに一応両親とは連絡がとれた(携帯での通話も地震直後は比較的通じたと、後に他の人も言っていた)そうだった。しかし沿岸部はひどい有様だと聞いたという。妻も職場で津波の被害がとにかく大きいとは耳にしたそうだ。気仙沼は大きな漁港であり、風光明媚な唐桑半島に隣接している。そういえば唐桑町には津波体験館があり、僕も入った事がある。短い時間だが音や振動なども体験できた。近隣の人はそれを生かす事ができたのだろうか?気仙沼では仕事で行った高校の先生と、名物のフカヒレラーメンを食べに行ったのを思い出した。観光客向けではなく地元の穴場という店だったが、あの先生やその食堂はどうなったのだろう?

 何の情報もないまま、ただ時間だけが過ぎて行った。

 雪が降っていたくらいなので、とにかく底冷えがする。一度トイレに行くため体育館を出たのだが、解けた雪が凍り付いて足下がすべる。すでに緊急用の仮設トイレが建ててあるもののこの人数では到底足りない。プール脇のトイレは小用なら使えるそうなので、真っ暗な中、ランタン電灯を頼りに往復した。体育館に戻ると、妻の様子が落ち着かない。妻は最近安定しているとはいえ、難病の潰瘍性大腸炎であるために冷えには特に弱い。

「これはちょっと寒すぎるかも」

 そう妻が言い出した後に、一緒に来た奥さんも旦那さんが車で戻ってくるというので、とりあえずマンションに戻ることにした。少なくともこの寒さの体育館よりは、布団もある部屋の方が間違いなく暖かい。

避難所の外には車がずらりとならんでおり、その中にいる人たちがたくさんいる。避難所とはいえ体育館には重量制限がある。それは仕事の関係で教員とのつきあいも多かったのでたまたま知っていた。それで入りきれない人や、寒さに耐えられず車の暖房とラジオで情報を得たい人が、車の中で一夜を過ごすらしい。

 例の奥さんも旦那が来るまで車の中にいると言った。まだ大きな余震が続いているし、海中電灯がなければ、部屋にいる方が間違いなく危険だ。僕らは何かあれば声をかけて下さいと言い残して、まっくらな部屋に入った。

 気密性の高い建物だから、やはり体育館とは比べものにならないほど暖かい。それにしても本当に真っ暗で、ランタン電灯を消すと一センチ先の自分の指先さえ見えない。少し危険は感じたが、こんな時に体調を崩してしまうのも最悪だ。かつて妻は体調を崩して、何かに少し触れただけで毛細血管が切れてしまう症状となり、抱える事さえままならないまま、激痛で叫ぶ中を病院に運んだ事がある。この状況では救急車を呼ぶ手段もない。とりあえず暖かいところで休むのが一番に思えた。

 不気味な余震は続いている。数えていたわけではないが、本震以降は数分に一度は有感地震があったと思う。僕らは何かあればすぐに逃げられる格好のまま布団に入った。しばらくすると二時間歩いた疲れからか彼女は寝息をたてはじめた。僕は余震のたびに目が覚まし、状況をうかがっていたので、ほとんど眠れなかった。

 そうやって三月十一日は終わった。


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