酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ある友人の手記 その四

2011-05-30 07:21:03 | 東日本大震災

「その一」でも語りましたが、彼のご実家は酔漢実家のそばにあります。塩竈市立第二小学校を御存知の方ならお分かりいただけるかと思いますが、酔漢実家小松崎(「こまつっぁき」)から彼のご実家「北浜」が真下に見えます。丁度リアス式海岸のように、山から海を見下ろす感じです。その北浜のほとんどは海抜ゼロメートル地帯です。

「無線学校」は「無線局」となり今は空き地となっています。彼とは、共有できる時間と空間が数多くあるのでした。

   

地震があった日から三日目、見上げると今日もたくさんのヘリコプターが飛んでいる。自衛隊のものではないから、報道のものだろう。

 こんなに飛んで来るのなら、ついでに何かひとつずつ置いて行けよ、とつい思ってしまう。報道の役割も分かるし、大勢に知らされなければ支援の輪は広がらないから大事な仕事でもある。でも目の前で困っている被災者のひとりに、手持ちの食糧や毛布くらいくれてやればいいんじゃないかとも思ってしまう。それがたった一人にしか行き渡らなくともいい。それは偽善ではなく、単にやれる範囲の善意に過ぎない筈だ。ヘリコプターは時速三百キロ近くは出る。埼玉から飛び立てば宮城まで一時間ほどじゃないか。一人分だけでもあれだけの数のヘリがやれば、きっと誰かが救われるのに。

 そういう話を持ち出すと、取材される側にジャーナリストはどこまでコミットすべきかについて語り出すマスコミ人がいる。たとえばピューリッツァー賞を受賞した日本人写真家のうち二人は面倒な論争に巻き込まれた。浅沼委員長刺殺事件を写した長尾靖は、写真を撮る暇があったらカメラを投げつけてテロをとめるべきだ言われたし、ベトナム戦争を追った沢田教一も撮影した母子はどうなったのかと叩かれた。ちなみにそれらの事実はよく知っているけど、僕はそういう事を言いたいわけじゃない。単に僕はヘリコプターの話をしている。ジャーナリストとは何かとか、その前にひとりの人としてうんぬんとかいう哲学や倫理ではなく、ヘリコプターには人以外もまだ積めるという物理的な話だ。そのスペースを使えばいいだろうと言っているだけだ。

中にはきっとそういう人もいるだろう。

とりあえず僕は僕のやれる事をやるしかない。

 僕はまず水汲みからはじめた。今は問題なく出てはいるが、これだけ余震があれば、公園の水道だっていつ止まってもおかしくはない。相変わらず市の広報がまったくないため、身近で具体的な情報が何もないので、何がいつ頃復旧するか分からないから、身近な水場が壊れない事を祈るしかない。

 店はほぼ閉まっているいる。ドラッグストアだけは開いているが長蛇の列になっていて、売られている物も限られている。すでに補充する在庫すらないそうだ。ある程度買いだめしている家庭なら、当面の心配はないだろうが、そうでない人たちは食糧の確保が大変だろうと思う。買いだめしている人にしても、週末にまとめてというケースが多いので、それほど残ってはいないかもしれない。避難所にいる人も同じようにならんでいるので、相変わらず援助物資も限りがあるらしい。

 僕は水汲みを楽にするため、旅行用のキャスターつきキャリーバッグを天袋から下ろし、その中にペットボトルをいれて、からからと引いて行った。公園の水道では近所の夫婦が食器を洗っているところだった。挨拶をして後ろにならぶと、「時間がかかるのでお先にどうぞ」と譲っていただいた。こちらも汲む量が多いからとお断りしたが、「汲む方が早いですし」と言ってくれたので、お礼を言って先に水を汲ませていただいた。

 旦那さんの方は福島県の小高町の出身だという。五年ほど前の合併で南相馬市に組み込まれた町だが、まだ旧町名で言うのは何だかよく分かる。僕も長く親しんだ旧名で言われないとピンとこない町がいくつかある。ちなみに僕は仕事で小高町に行った事もあるし、福島沿岸の町も比較的よく知っている。その人が「津波で原発がね」と渋い顔をした。福島原発が怪しい状況にあるというのは新聞で少しは知っていたが、詳しくは書かれていなかったし、よく知らなかった。

 僕は原発か、と思った。

 仕事で東北全部を回っていたので、東北にある原発や関連施設はすべて実際に目にした事がある。まさに荒涼とした青森県の下北半島にある東通原発や六ヶ所村再処理施設では広報センターのようなところを見学したし、宮城県の女川原発は大学生の頃から何度も見ている。福島第一原発も第二原発も何度かその横を通り、時に車を止めてしげしげと見つめたりもした。

 仙台から国道六号線を南下すると、南相馬市から先はいわき市に入るまで大きな町はない。浪江町などは人口はそこそこあるけれど、繁華街とか市街地といえるほどのところは見られない。狭い道路沿いに集落が現れ、寄り添うように住宅が並ぶ、田舎ではよく見る風景だ。思いつく限りでは、特に観光スポットも見あたらない。双葉町にはフタバスズキリュウという首長竜の博物館みたいなものがあったりするけれど、それも僕が行った時には閑古鳥が鳴いていた。ブラッドベリの小説にでも出てきそうな、本当に大きな首長竜なんだけれど。

 そこにいきなり広大な敷地と、妙に静かで清潔な原発が現れる。工場というよりは整頓された人工的な研究施設といった雰囲気だ。第一よりも第二の方がよりそんな印象が強い気がする。正直に言えば周囲と比べてとても違和感のある光景である。先入観なく自問自答すれば「どうしてこんなところに?」「もしもの事があれば危険だからさ」と誰もが言ってしまうだろう。それでも原発が見える範囲にも集落はあるから、青森県の六ヶ所村再処理施設よりは人の営みと遮断されているという印象は少ない。

福島県浜通りは昔の原町市、今の南相馬市の原町区あたりから、いわき市の手前になる富岡町や楢葉町、双葉町に大熊町、浪江町など、東京電力とは多かれ少なかれ関わりがある町が多い。特に双葉町や大熊町などは原発を誘致した町であり、東電の下請けや孫請け企業が多く、町民の七割から八割は何らかの形で関わっているという話も何度か聞かされた。その旦那さんの出身である南相馬市であるが、そこにある工業高校などは、不景気下でも就職率が高いまま維持されている。進路部の先生によれば東電関連企業への就職のためだと言っていた。そもそも南相馬市の南部にある原町区は、東電関係の人たちの居住地として人気があり、それによって大型店舗なども進出してきて発展してきた面がある。だからその辺りの町では、原発の危険性について語るのは聞き手を選ばなければならない。下手に「福島にあるのに首都圏の電力でしょ?危険だけ押し付けられたんじゃないの」など言ったら、「原発は正しく理解すれば安全ですよ」と諭されたり、無視されて相手にされなくなったりもするよと親しくなった地域の人に注意された事もある。確かに生き方の選択はそれぞれであり、余所者がどうこう言う事ではない。

 だから僕は曖昧に笑って「大変ですね」と答えた。

 水を汲んで帰ると、妻が新聞と同時に、どこからかラジオを探し出していた。僕はまず新聞を読んだ。死亡確認者の一覧が毎日出ているのだが、どうしてもそれに目を通さずにはいられない。連絡のとれない親戚、ずっと会っていない昔の友達、ちょっとした知人、仕事で会った人たち。その中にそんな人たちの名前がないように祈りながら、恐る恐るひとりずつ名前に目を通す。

 よかった。今日も知った名前はない。

 でももしかしたら、結婚して名前の変わった人や、僕がど忘れしているだけの知人がいるのかもしれないし、僕の親しい人たちと関係のある人たちだって含まれているのかも知れない。仕事で一年以上面倒をみた学生も千人を越える。袖触れ合うくらいの人ならもっと無数にいる。頼まれて講演会をした学生はのべ数千人に及ぶ。彼ら、彼女らは無事だろうか?

 どこかでつながっていた糸が、至るところで途切れてしまっている。

 僕は切なくなって新聞を閉じた。

 それからラジオをつけてみたが、AMはNHKと韓国語の放送しか入らない。被災者が欲しいのは身近な生活情報であって全国放送はあまり意味がない。地元の東北放送ラジオは微かに入るものの、停電による出力不足なのか、安定して受信はできず、ノイズの方が大きくてまったく聞き取れなかった。FMに切り替えるとDATE-FMというローカル局がきれいに入った。

新聞やラジオで知ったのは、未だに被害状況がまったくつかめずにいる事だった。政府は東北道を緊急車両専用にして、自衛隊など救援隊を送っているとの話だ。

 僕は思わず首を傾げた。

 これだけ広域の災害だ。しかも津波被害を受けた沿岸部は何もない状況になっているだろう。行政機能も失われた所が多い。それと同時に地震被害だけの地域もある。それをはじめから分けて対策をしないと、すべてが停滞を起こしはしないかと思った。

 津波被害の地域は生活物資のすべてが失われている。箸の一本もない。地震被害ならば最悪は家屋倒壊だろうが、それであっても貴重品を取り出せる可能性はある。だが津波ならそんなことはほとんど考えにくい。沿岸部にはありとあらゆる様々な物資が、大量に必要になるだろう。

だから一般の物流も大事になる筈だ。阪神淡路大震災の時は近くにある大阪などの物流がそれを手助けした。大阪や京都で物を買い、被災者に持っていけた。それは被災地が百キロ範囲の震災だったからだ。しかし今回は海岸線だけでも直線にして五百キロ。岩手などは入り組んだリアス式海岸だから、実測ならもっともっと長い筈である。

しかし、それをバックアップすべき筈の内陸の都市も、地震被害でライフラインが途絶えている。東北の中核都市である仙台にすら今はものがなくなりつつある。内陸でも地震被害で家屋の損傷や崖崩れの不安などから避難者がいる筈だし、その他にも多くの市民が自宅や車など避難所以外で生活していて、援助物資に頼らず一般物流で生きているのだから、それが入ってこない状態になると、僕たちのような地震による自宅被災者も、避難所の方へと食糧を求める他になくなってしまい、どんなに援助物資があっても足りなくなるだろう。岩手、宮城、福島の三県で約五百六十万人の人口がおり、そのほとんどが地震被害を受けて、その上に沿岸部は津波で壊滅するという二重の災害なのだから、より深刻な沿岸部での物資量を増やすためには、地震被害の地域に関しては一般流通を確保しなければ、すべてが停滞するのは必然に思えた。

 もちろん僕はロジスティックの専門家ではないから分からない事もあるけれど、食べなければ生きていけない事だけは分かる。水もいる。だから東北道の制限はは一般車両だけにして、大型貨物の物流は維持しないと、食糧不足と燃料不足が起こってしまう。東北は車社会だ。それは車があった方がいいという意味ではなく、車がないと生活の一部が滞るという事だ。車で寝るしかない人もいる。大家族なら水を運ぶだけでも車が必要な筈だ。しかもなぜか真冬並みに寒い日々が続いている。あらゆる形で燃料がいる。

 すべて素人の考えだし、僕が思う程度の事は、きっと誰かが気づく筈だろう。国会議員にも、地方議員にも、被災地を代表する者はたくさんいる。また阪神淡路大震災の時の大阪や京都のように、首都圏や様々な都市がバックアップをしてくれるだろうとも思った。たとえば首都圏は震災地に一番近い大都市であり、その経済力も影響力も間違いなく大きいのだから。しかも東北出身者だってたくさんいる。もちろんその声が届くかどうかは別問題だとも思ってはいたが。

 いずれにせよ、ラジオによって沿岸部のより厳しい状況を知り、更にもどかしく、悼まししい気持ちも生まれた。

 たくさんの人生が一瞬で奪われ、それと同時に記憶に残る様々な場所までが失われたのだ。

 僕がその時点で知った事などごくわずかなものではあったが、多くの記憶と重なる場所が変わり果ててしまった事だけは分かった。

僕は岩沼市で生まれ(本当に生まれただけだが)、塩釜市で育ち、多賀城市の高校へ行き、仙台市に住んでいる。そのすべてが津波の被害を受けた地域だ。沿岸部ならば、仕事での訪問を含めると、岩手県の宮古市、釜石市、宮城県は全域、福島県も全域にわたって、数十回も繰り返し訪れている。だからどの町の風景もよく覚えている。親戚もいる。知人もいる。

 手つかずのまま数百人の遺体が浮いているという仙台市若林区荒浜には、仙台市で唯一の海水浴場である深沼海岸があり、妻と二人で行った事もある。僕らの住むところからわずかに十キロ。夏になれば多くの市民が集まるところだし、すぐにでも手の届く距離だが、警察さえ入れない状態のままだ。

同じような惨状となっている東松島市の野蒜海岸は、県内では有数の広い海岸線をもつ砂浜で、海水浴はもちろん、車でのデートコースとしても定番で、僕も子どもの頃から数え切れないほど訪れた。海岸からJR仙石線の駅も近いが、駅舎さえ跡形もなくなった。子どもの頃に家族とどこかへ出かけた記憶はあまりないが、野蒜よりも更に先にある宮戸島(島だが橋で本土とつながっている)の室浜というところの民宿に泊まった記憶がある。僕は海育ちといっても塩釜は港町だから、いつも見ている風景は岸壁からのものだ。その民宿は砂浜のすぐそばで、夜になっても海の波音がうるさくて眠れなかったのを覚えている。今度の津波で唯一の橋が流されてしまったそうだ。もちろん被害は相当なものだ。

やはり津波にのまれた七ヶ浜町にある菖蒲田海岸は、自転車で三十分ほどの距離だったので、子どもの頃は夏は海水浴、それ以外は釣りをしたりと、絶好の遊び場だった。高校からも近かったので、その頃の彼女とデートをした記憶もあるし、妻と訪れた事もある。

また湾内に浮かぶ桂島は塩釜で育った人にとって一番近い海水浴場がある場所だ。僕も夏の度に何度も遊びに行った。市営汽船で二十分ほどだが、島々を結ぶ通勤通学や買い物の足でもあるので、松島へ行く観光汽船とは違い乗船料も安かったし、二百人くらいは乗れる船だけどそんなに込み合う事もなく、のんびりと海に手を伸ばしながら(二階建てで一階は吹きさらしだった)乗ることができた。桂島を含めた浦戸諸島は、函館に行く前に榎本武揚率いる艦隊が停泊したところであり、新撰組の土方歳三もそぞろ歩いたところだ。普段の海は穏やかで、女の子とはじめて海水浴に行ったのも桂島だった。浦戸諸島はおよそ半分の家が流されてしまった。

高校は多賀城市に通った。当時の宮城県では数少ない共学校だった。ちょうど今回津波にあった辺りを見下ろすような高台にある。津波はそこだけを孤島のように残して、周囲をさらっていった。部活の合宿で高校に泊まり込んだ時、夜な夜な屋上の給水塔まで上り、何人かの男女と毛布にくるまりながら、朝まで話をした事がある。夜明けを迎える時間になると、すぐ下にある陸上自衛隊の多賀城駐屯地をねぐらにしている何万羽ものムクドリが一斉に飛び立つ光景は騒々しいが幻想的でもあった。その時、一緒にいた女の子の中には、津波被害のひどかった地域に住んでいた人もいる。多賀城駐屯地も水没した。

鳥といえば仙台市若林区には全国的にも有名な探鳥スポットの蒲生干潟がある。バードウォッチングを趣味にしている僕は、そこではじめて瑠璃色に輝くカワセミを見た。海辺にカワセミがいるとは思わずにとても驚いたが、近くに淡水のため池などもあり、その辺りをなわばりにしていたらしい。干潟のそばには葦原が広がりヨシキリの声が響きわたり、渡りの季節には多くの珍しいシギやチドリが羽を休めていた。すぐそばには乗馬クラブもあり、のんびりと馬が歩いていたりする所だった。僕には興味がないけどサーファーもたくさんいた。しかし干潟は完全に壊滅し、もう再生は不可能だという。永遠に失われてしまった風景のひとつだ。

 東松島市にも僕にとって定番の探鳥地があった。ひとつは野蒜築港跡だ。あまり知られていないが、日本初の近代港湾として明治時代に作られ、わずか三年で台風被害により放棄された港である。今では地元の人にも忘れられたような場所で、赤煉瓦の廃墟がひっそりと残されている。僕は河口と海が重なりあい、小さな養殖用の漁船が係留された静かなその一角が好きだった。ちょっと開けた所にはモズがいたし、漁船の上にはイソヒヨドリやキセキレイがいて、海にはカモ類が浮かんでいた。渡りの季節には日暮れ前に頭上を見上げると伊豆沼辺りに来ていたガンの雁行が、赤い空の一面に広がっていた。東松島市は相当に津波の被害が大きかった場所だけに、どれもこれも跡形もなくなっただろう。また奥松島の塩田跡には地元の鳥好きには有名なミサゴがいた。翼のある鳥たちは生き延びただろうが、人の生活も環境も生態系も滅茶苦茶だ。

 輸送船への積み上げ寸前の車が何千台も全滅した仙台港は、昔から釣りをしたり、ドライブに行く場所だ。ある時、車にのって海を眺めていたら、どういうわけか自殺しようとしている人に間違われて職務質問をうけ、警察官に諭された事がある。実を言えばそこは地元では知られた自殺の名所であり、車ごと海にダイブする人が時々いる。今は逆に生きたいと願った人たちが、無常にも引きずり込まれて海の底にいる。

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ある友人の手記 その三 | トップ | ある友人の手記 その五 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

東日本大震災」カテゴリの最新記事