酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ある友人の手記 その三

2011-05-30 07:18:49 | 東日本大震災

彼の細君の顔を思い出しました。

大病をされていたことは知りませんでした。

本当に無沙汰してました。

  

翌日は当然、朝早くから起きだした。明るいうちにやるべき事がたくさんある。

報道のヘリコプターだろうか、早朝から何機も何機もぶんぶんとうるさい。これだけの数は経験した事がない。それで災害の大きさを改めて感じさせられた。

朝起きて、一応水道と電気を確認してみるが、やはりどちらも駄目だった。前日の昼以来の食事は、買い置きしていた食パン一枚だった。水がないので顔も洗わず、トイレだけは前日に確保した加湿器の水で流したが、汚物をためて流さないと水が足りなくなるので、そうした。

 まずは水と食糧の確保だった。避難所の様子ではそのどちらも到底足りていない。あれだけの地震があった翌日だから、それは当然とも言える。少なくとも自力で頑張れる部分は自力に頼るしかない。ミネラルウォーターは前日の時点でほぼ売り切れたと考えていい。とりあえずペットボトルのお茶やスポーツ飲料など代替品はあるから、最悪は我慢するしかない。トイレ用の水としては歩いて十分くらいのところに笊川という小さな河川がある。とりあえずそこから汲めばいいと思った。二リットルのペットボトルを三本抱え、僕はその川へ、妻は買い物に行くために一緒に外へ出た。

開いている店はドラッグストアと生協くらい。どちらも長蛇の列だ。レジが使えないため、店頭販売や入場を限定し、電卓で会計をしている。それでも誰も不平を言わずに、静かにならんでいる。宮城県沖地震が三十年以内に発生する確率は、ここ数年ずっと九十九パーセントだった。いつきてもおかしくはないと言われ続けてきたから、きっと皆、それなりの覚悟や準備をしていたので、意外に冷静なのかも知れない。

 僕は笊川で水を汲んだ。水は思っていたよりもきれいだった。それからふと思いついて近くの公園をのぞき込んだ。公園は緑化のためだけでなく防災の意味もあって設置されている。僕が子どもの頃には夏に水不足で断水するのはよくある事だったが、特定の公園では水が出ていたような記憶がある。本当かどうかは知らないが、防災上、水道の本管とつながっているとの話も聞いた事があった。

すると案の定、公園の水飲み場で水を汲んでいる人がいた。僕は急いで家に戻ると、空のペットボトルを三本袋に入れて公園に急いだ。ペットボトルは、週末にまとめて潰し、リサイクル用に生協へ持っていく事が多かったので、運良くたくさん空のペットボトルがあった。

 公園の水はこの状況が嘘かと思えるほど勢い良く吹き出した。僕はその後も家にある大小のペットボトルやバケツにも水を汲むため、何度も何度も公園を往復した。

 妻は三時間以上かかって、何とかいくつかの食糧を手に入れていた。簡単に食べられるものはお菓子までほとんど売り切れていたそうだ。ライフラインが止まっているのだから、当然すぐに食べられるものでなければ意味がない。前日から物流も止まっている。百万人の町だから、ひとりが一食でおにぎりを一個としても三百万個が無くなる計算だ。避難所にも食糧は入っていないから、取りあえず誰もが自力で調達しなければならない。近所の酒屋さんは「こんな時だから」と端数を切り捨てて飲み物を売ってくれたそうだ。

 驚いたのは妻が買った物と共に、投函されていた新聞を持ってきた事だ。何と地元紙の河北新報は号外程度の薄い紙面ではあったが、朝刊を刷り、ちゃんと宅配していたのだった。紙面には新潟日報の協力で準備したとあった。それは情報のない僕らにとてもありがたい事だった。新聞はやはりなかなか骨太なメディアだなと改めて感じた。

 新聞を広げて、すぐに衝撃を受けた。

 そこで初めて震災の概要を知ったのだ。

 大きなカラー写真が見知った風景の惨状を知らせてくれた。

 南三陸町の志津川がすっかり消えてしまった姿。津波と火災で見る影もない気仙沼市街。多賀城の産業道路沿いは店も車もあり得ない様相となり、亘理町の坂元駅や福島県新地駅は完全に瓦礫になっている。すべて平常だった姿を覚えているだけに、そのギャップに目眩がした。

 こんなにもあっさりと景色は姿を変えてしまうものなのか?

 こんなにもたやすく日常は消えてしまうものなのか?

あまりの被害に言葉を失い、愕然としながら記事に目を走らせた。

津波被害のエリアは常識では考えられないところにまで及んでいる。想像を絶する広域の災害だ。せめて生き延びた人だけでも早急に助けなければならない。自分には何もできない苛立ちを静め、それらの地域を思った。特に入り組んだ地形のリアス式海岸は、入江ごとに集落がある形だし、人が暮らす島もたくさんあるから、孤立している人たちが相当数いるだろうと予想できた。当然、海沿いをつなぐ国道四十五号線は使えない。かつて自分もその国道沿いに住んでいたが、海抜が低い事もあり、とにかく災害には弱い路線なのはよく知っている。そうなると内陸部に物資を集めて、沿岸に送り込むしかないし、一部はヘリを使うしかないだろうと思った。でも東松島市が津波でやられたのだから、その海沿いにある航空自衛隊の松島基地はきっと使えない。

松島基地は有名なブルーインパルスの基地である。毎年開催される航空祭の時にはアクロバット飛行を見る事ができる。間近で見ると三菱T2の機体は本当に美しい。仙台市でも津波の被害が大きかった宮城野区苦竹には陸上自衛隊の駐屯地があり、そこで戦車を見せてもらった事があるけど、個人的には飛行機の方が好きだ。僕の通っていた小学校は小高いところにあり、そばには今は廃校だが高等無線学校というのがあった。僕はその麓の港側に住んでいた。その辺りは訓練空域に入っていたのか、よく低空飛行の練習機が家ごと揺らすほどのものすごい騒音を上げて飛んでいた。夜間はやらないし、慣れてもいたので、別に悪い感情はもっていなかったし、逆によく手を振ったりしたものだ。そうするとたまにだが翼を軽く上下に揺らし、明らかに挨拶を返してくれる事がある。後にニュースで、松島基地の自衛官が浸水したヘリコプターが無事だったら、何人かでも救えた筈なのにと泣いていたのを見た。そして本来は行政がやるべきようなきめ細やかなサービスまで、東松島では提供したようだ。

仙台空港もひどい状況らしい。滑走路は泥と流されてきた車に埋もれている。コントロール室は全滅。妻は仙台空港に国際線が通ってすぐの頃、マレーシアからシンガポール経由で仙台に来た事があるのだが、その頃は国際線ターミナルがプレハブ小屋だったので、またそこから始めなきゃね、とため息をついていた。

交通網は至る所で寸断されているし、二次災害も考えられるため救援作業は大変だと感じたが、それでもその時点では、きっと内陸の都市に物流が集まり、そこから支援はどんどん広がって行く筈だと思っていた。

 妻は公衆電話が災害に強いのを知っていたらしく、気をきかせてコンビニにある公衆電話から塩釜市にある僕の実家に電話してくれていた。それでとりあえず両親が無事なのは確認できた。ちなみにそれ以降、その電話には何時間も人が並ぶほど殺到して、挙げ句に故障してしまい、ずっと使えない状態だった。

 そうこうしているうちに昼過ぎにメールがあった。それは前日に妻が出した筈のメールだった。その後も彼女からのメールが次々と入ってくる。どうやら送信が新しいものから送られてくるようで、彼女が地震直後に出したものはほぼ丸一日遅れで届いた。彼女は前日にそれが着いていたものと思っていたようで、それを前提に話をしていたから、道理で話がかみ合わないところがあったわけだと頷いていた。いずれにせよ災害時での携帯メールの脆弱さを感じた。しばらく後にテレビで災害に強いメールといった特集をやっていたけれど、通信会社によるのかもしれないが、小さな町や市ならばともかく百万都市の仙台ではあまり役には立たなかったというのが実感だ。

 更に通信制限のせいか、メールは届くもののなぜか送る事は出来ない。そうしている間に僕の携帯もついにバッテリーが切れてしまい、完全に連絡手段を断たれてしまう事になった。僕は諦めて、まだ日が残っている間に夕方までに消費した水を補充した。

 結局、水のために一日で公園まで何往復しただろう?

 朝六時から日が暮れる夕方六時まで、その半分近くは水汲みに費やした。運動不足も祟ってか、三階までの上り下りだけでも足ががくがくになった。人は思っていたよりも水を使う。二人分で節約してもそうなのだ。お年寄りには大変な作業だろう。あるいは家族四人になればその倍になる。大きなポリタンクがないと困るし、それを運ぶにも車が必要だろう。

 飲み水だけならば、ふたりでペットボトル二本で済む。だが衛生面で下水用がいる。この事態なので可能な限り汚物をためておき、最小限の水を使うようにしたが、詰まらせてしまえば自分の所だけでなく、マンション全体に迷惑をかけるので、やはりそこそこの量は必要となる。家庭用のトイレでタンクにためられている水の量は大きなバケツ一杯分、およそ六リットルだった。しかし常にそれだけの量を使っていたら、とんでもない労力になるため、そのおよそ半分くらいが妥協点だった。とはいえ手も流水で十分に洗えるわけではないから、あまり続けていると感染性の胃腸炎などにやられかねないので、時には綺麗にすべて流したり、しっかり手を洗ったりしないとまずい。ちなみに後で知ったのだが、別に話し合ったわけではないのに、衛生のため妻も僕もインド人がやるように、作業によって使う手を変えていた。

 水への依存度は食事面に目が向かいがちだが、もっと衛生面で必要とされる。たとえば百人の避難所でひとり一日一リットルだけ使ったとしても、それだけで百リットルだ。その確保は水道が出ない限り無理な話で、衛生面の悪化は想像に難くない。学校や屋上に貯水槽があるビルやマンションならば多少はもつだろうが、それも時間の問題だ。

 だから自由な水源が近くにあるだけで、僕らはかなり恵まれた方だった。

水場に鳥や動物が集まるように、公園には近所の人たちが水を求めてやってくるため、貴重な情報交換の場にもなった。中にはラジオもないし、新聞もとっていないため、まったく状況が分からないと困惑している人もいた。地震翌日で、見る限り建物や道路に深刻な被害が見られない地域なのに、市の広報はまったくない。避難所にいる人にも広報はないとの事だったし、食糧もやはり自主調達だと言っていた。

 たまたま車で走っていてその公園を見つけたという人は、多くの給水所では何時間も待ってようやく手に入れる状況だと言っていた。僕の住む所は仙台市水道局が近くにあるためか、水の出るところが点在しているらしく、もう一カ所の公園も水が出るし、水道局でも給水できるそうで、人も適度に分散して、相当に恵まれた状況のようだった。

 夕方になると避難所近くには、また車が集まって来た。行ける範囲で買い出しをしていたのだろう。暖房のない体育館の寒さに耐えられない人や、入りきれなかった人が、車の中で暖房をかけてしのいでいる。当然だがそれはガソリンを消費する。食料品、水、燃料。海外などの災害の本を読むと、こういう時に不足するものの定番だ。とはいえ日本はどんな災害も三日目までは自力で、それ以降は国が援助できる公言している国である。しかるべき措置はとられているのだろうと、みんな思っている筈だった。

 僕らも暖房がないので、厚着をして、毛布を二枚ほど身体に巻き付けて部屋にいた。日中はまだしも、夜は真冬並みに寒い。こんな時期なのに天気の神様は本当に嫌な奴だ。

ランタン電灯用の単一電池は手に入らなかったので、とにかく出来るだけ節約して使う事にした。マンションは気密性は高いが、その分、トイレなどは扉を閉めると昼でも真っ暗だ。昔の一軒家ならばトイレに明かり取りの窓があったなあと思いながら、日の明かりがある間は扉を少しあけて用を足した。

 妻はバースデイケーキ用についていたろうそくをどこかにしまっていたらしい。ボールペンほどの長さはあるけれど、楊子をひと回り太くした程度のものと、長さはクレヨンほどだが、太さは割り箸ほどのものとそれぞれ数本ずつあった。すっかり辺りが暗くなってから、それらを点けてみたが、長く細い方は約十分、短く太い方は約三十分ほどもつ。昼は食べていなかったが、食欲はあまりない。食べたり飲んだりすると、どうあれ用を足すのが人間だ。水が不足していると、飲むのも使うのも、ついつい制限してしまう。妻はそれが良くないといって、少しだけガスが残っているカセットコンロでお湯を湧かし、温かいお茶を入れてくれた。それから冷蔵庫も止まっているので、傷みやすいものは食べてしまおうと言って、卵とソーセージに最小限の火を入れ、残っていたパンにはさんで食べた。

ただそれだけの作業なのだが、ろうそくがすぐになくなってしまうので継ぎ足しをしながらというのは、なかなか手間だった。ランタン電灯がなければこの真っ暗な中では、そのろうそくさえ点ける事さえ難しい。いくら目が闇に慣れても、どこにも光源のないところでは本当に何も見えやしない。時々、車の中にいる人たちのヘッドライトで、少し明るくなる事はあるが、ろうそくにも限りがあるので、さっさと眠る事にした。

 日の出と共に起きて、日が暮れたら寝る。当座はそれしかない。

 この夜もすぐに逃げられる格好で布団に入ったが、日中の水汲みに疲れたせいか、相変わらず続く余震で何度か目を覚ましたものの、そこそこは眠れた。


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