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純粋な唯物論者は多いのか (高森)

2010-07-16 00:31:55 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学
 現代の支配的世界観が、唯物論であることは明らかである。そしてそれに抵触するものは、大きな圧力に遭う。言論の世界にいると、それははっきりと実感する。

 ところが、「唯物論」という言葉を口にすると、不思議なことに、「霊」というような言葉と同じような、一種の反発の空気が返ってくることもある。「私は唯物論者ですよ」とあからさまに言う人は、そう多くはない。

 この世の中に物質に起因しない現象は存在しない、というのは、ずいぶん狭い考え方である。理性の力や科学的知識を身につけ始めて、それを喜んで誇示したがっている若い人たちなら、「そんなものがあるわけない」と言うのも不思議ではない。また、マルクス主義に親近感を抱く人たちが信条としてそう宣言するのも仕方がない。ただ、どうも成熟した大人が躍起になってそういうことを言うのは、ちょっと変な感じがしないでもない。

 唯物論は正しいと証明されたわけではない。それは一つの仮説でありイデオロギーである。そして、それを選択する自由は誰にでもある。
 ただ、それを本気に選択している人は、いったいどのくらいいるのか、といささか疑問になる。自分自身が「偶然に生まれたヒトという生物の、脳内の電気信号である」というふうに、ほんとうに思っているのだろうか。
 私自身は、昔はやはり科学的実証主義を重視していたし、かなり唯物論に近い考え方を持っていたと思う。けれども、「物質に起因しない現象は存在しない」とまでは思っていなかった。生命や人間の精神活動は、漠然とそれとは異なる何かなのだと考えていた。人間の思いや感情は、物質世界とは異なる「大きな河」となって残り続けると考えたこともある。その頃、もし「お前は唯物論者か」と聞かれたら、少なくとも「イエス」とは答えなかっただろう。
 だから、私自身は本当の意味での唯物論者の考え方は、よく理解できないのかもしれない。
 唯物論者は、何らかの「意味」や「価値」を見いだすのだろうか。それらは「電気信号である私がそう思う」からそうだというだけなのだろうか。身の毛もよだつ残虐な殺人も、魂が震えるような崇高な善行も、同じ物質現象で、前者はヒトという生命システムが持つ「自己および社会維持のための機能」が反発し排除しようとする行為、後者は積極的に評価する行為、というだけなのだろうか。

 そんな馬鹿なことはなく、唯物論者も、たとえば「宇宙の本質としての多様性の開花」とか「宇宙の本質としての知性・合理性」とか「生物進化の本質的志向としての人類の成長」といった「価値」を設定しているのかもしれない。そうした「価値」からは、たとえば、「知性・理性を駆使して、宇宙の謎を探究し、より多様で豊かな知を獲得しようとする人」といった理想的人間論も生まれてくるのかもしれない。確か、科学者がそういったことを賞揚し、それに邁進している自分たちを讃美している場面を見たことがあるように思う。
 でもちょっとそれ、狭すぎないか。もちろん、知性・理性を駆使することや、真理を探究することは、われわれ「非・唯物論者」も価値だと認める。しかし、それだけが人間の生きている意味や価値ではなかろう。
 いささか意地悪く類推すると、ここからは次のような恐るべき思想が生まれてこないだろうか。つまり、「知性もなく、何も生み出さない人間は価値がない」という思想が。昏睡状態、痴呆、老衰、精神障害、といった状態の人間は、「生きている価値はない」。殺してしまうのは、「人間に備えられたある倫理システム」に抵触するから避けるにしても、まあ、できればいなくなっていただきたい、と。そこまで行かなくとも、「知性・理性を駆使せず、宇宙の真理を探究することもなく、多様な存在形態も生み出さない」普通の人間は、あまり価値のない人間、ということにならないだろうか。科学者こそが人類の存在価値を体現する人間であり、それ以外の人間はおまけのようなもの、という恐るべきエリート意識がそこにはないだろうか。
 いや、これはけっこう冗談ではない。科学主義、唯物論、物質的功利主義、理性偏重といったものは、かなり通底する精神であって、そういったものをベースに、老人差別、障害者差別、能力主義、さらには成功至上主義や拝金主義までが、生み出されているのではないか。

 ところで、われわれ「非・唯物論者」は、物質の存在や、物質的法則の正しさを否定しているわけではない。お湯は普通は100度で沸騰するものだと思っているし、インスタントラーメンを食べるために念力でお湯を沸かそうとするわけではない。進化論やビッグバンといった仮説に関して疑問符を投げることはあるけれども(だからといって聖書の創造説を持ち出すわけではない)、おおかたの物質的真理は、そうなんだろうなと認めている。
 ただ、それは「世界の全部」ではないよ、と言っているだけである。まあ、暫定的にはいわゆる「二元論」で、物質の世界と精神の世界は違うよ、と。世界を一元的に説明できれば簡単だし、美しいかもしれないが、世界が一元的にできているという保証はない。二元論は「二つの原理の間がどうなっているのか説明できないじゃないか」と批判されるが、関係はあるのかないのかわからないのが二元論で、どちらかがどちらかで説明できたら二元論ではない。説明できないからあり得ない、というのは単なる理性の傲慢である。

 まあ、真剣に「世界は物質一元論か、二元論(ないしは多元論)なのか」などと考えている人は少ないだろう。ほとんどの人はそんなことは思ったこともないだろうし、多少考えている人も、心底考え詰めているわけではないだろう。
 だから、あまり事を荒立てずに、ぼんやりとしておけばよい、ということになるのかもしれない。それはそれで大いに結構なのだが、しかし、近代社会(近代の知が大きな幅をきかせる世界)では、「物質一元論に抵触する言説は不可」という変な偏りが強いのであって、それはちょっと変だろう、と思うわけである。
 われわれは、「人間の個性は死後も存続する」とか「見えない存在・世界はある」と思っていて、それは真実だろうと捉えているわけだが、世の中の人すべてにそう思ってもらおうとは考えていない(絶対的に正しいと証明されてはいないから、現状では一種の世界観・イデオロギーにしかなりえないのはやむを得ない)。どちらもあり、でよい。いや、もっと慎ましやかに、「昨日、死んだおじいちゃんが夢枕にたってさあ」とか「あなたとは向こうでまたお会いしましょう」といった言葉が、特に不自然でなく語れるようになれば、この世の豊かさも増すのではないだろうか、と思っているわけである。

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