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東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

ミゾを深めるスピリチュアル2

2010-07-18 15:23:47 | m.taizo>スピリチュアリズム周囲
日経ビジネスオンラインで小田嶋隆氏の連載を読んでいます。いくらか投げやりな感もあるけれども、話のスライドのさせ方や言葉の弄び方に遊び心があって、内容以上にその語り口が私には面白かったりします。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20081022/174784/

最新の記事では、過日逝去したつかこうへい氏に対して盛大になされたらしい匿名掲示板上での誹謗中傷(差別言辞)に、スレッカラシの著名ライターとしては今時珍しいほどの直截な批判をわざわざ加えていて、ちっとも“スピリチュアル”ではないけれども、こうした愚直なまでの正義感は、あえて言えば、読んでいて私の“霊的な栄養”になったりしています。

その小田嶋氏による5月7日記事『パワースポットめぐりでパワーを奪われていないだろうか?』もそうだし、mixi『懐疑論者の集い』コミュニティーを閲覧していても感じるのですが、そもそもスピリチュアルな諸事象をハナから信じていないというのが大きいにしても、彼等がスピリチュアルブームになぜここまで反感をつのらせ批判を加えたりするのかといえば、上記小田嶋記事から言葉を借りると「祟り、霊障、因果、除霊、浄霊、供養、宿業のような、より悪質なスピリチュアル恫喝営業にも道を開いている」ようにスピリチュアル系の言説が機能しているからでしょう。理性に反するのみならず良心にも反するスピリチュアル系ということです。

ヤッカイなのは「祟り」や「霊障」のような現象、あるいは「因果」(カルマ)といったものがスピリチュアリズム視点においても必ずしも無根拠ではないところにありますが、近代スピリチュアリズムの基礎的な文献を学べば、それらの現象を正しく位置づけし直した上で「悪質なスピリチュアル恫喝営業」や“破壊的カルト”への道を永遠に閉ざすことが出来るはずです。

そもそも教祖の誕生する余地のない世界観であり、来世の為に現世を捨てろなどという極端な教えでも無く、もちろん現世利益を追求するような教えでもありません。科学によって証明されていない霊魂の死後存続を前提にしていますが、現行の科学を否定しているわけでも軽視しているわけでもありません。

ある宗教学者さんが、おそらく江原啓之ファンに気を遣ってでしょうが、江原氏の求心力に言及したうえで「そこそこの規模の教祖になれるだけのひとだ」みたいな妙な褒め方(あるいは、お茶の濁し方)をしているのを読んだ記憶がありますが、江原氏がご自身が名乗っているようにスピリチュアリストであるならば教祖になりたがるはずもないし、そもそも江原氏はスピリチュアリストである以前にまず霊能者であって、霊能者に一定の求心力が生じるのは自然の成り行きで、もちろんご本人の努力やキャラクター的な魅力もあってでしょうけれど、マスメディアを通じて霊能を流布しているわけですから、たいそうな影響力になったとしても不思議ではありません。スピリチュアリストとして問われるとすれば、授かった霊能や影響力をどのように生かしているのか、という一点に尽きるのだろうと思いますけれども、私のように江原さんを全く経由せずスピリチュアリズムを知り、江原さんの番組や著作に未だほとんど触れることのないまま今に至っている人間には原則論以上の言及をすることは許されません。

江原氏の初期の著作からシルバー・バーチに辿りつく人が未だに多いようなので、勝手なリクエストをさせてもらえれば、その絶大な影響力を行使して、江原さんが折に触れてシルバー・バーチやモーゼズの『霊訓』、カルデック『霊の書』などの重要スピリチュアリズム文献について取り上げてくれると嬉しいなあ、というのはあります。

今、この文章を書きながら先人の業績を手軽に調べなおす為に「クルックス」「スピリチュアリズム」で検索をかけてみたところ、その延長でまたもや江原さん本人を知る前に江原さんついての言及を読むハメになってしまったのですけれども、これも何かのご縁かと思うのでリンクを貼らせてもらいます。
『江原啓之のスピリチュアルな世界とのプチ・スピリチュアルな出会い 江原啓之(スピリチュアル)からシルバーバーチ(霊的真理)へ』
http://www5.ocn.ne.jp/~sl1848sb/newpage30.html

『シルバーバーチ&スピリチュアリズム~ 素敵な死後の世界に向かって ~』
http://www5.ocn.ne.jp/~sl1848sb/index.html
というHP内での言及ですけれども、このサイト作成者さんの「なるべくシルバー・バーチに繋ぎたい」「その繋ぎ役に徹したい」という謙虚で真摯な思いには心を打たれますし、それは私の上記「勝手なリクエスト」と恐らく相通じる願いから発しているものかもしれません。

話を戻すと、霊的生命の存在を一切信じない立場からすれば「妄想を垂れ流している」ことになるのでそうした向きからの反感は逃れられませんが、少なくとも、スピリチュアリズムによって導かれる慎ましい生き方は、本来、懐疑主義者の良心に反発を覚えさせるようなシロモノではありえません。近代スピリチュアリズムにおいて大きな役割を担ってきた人物の多くが懐疑主義者的な知性であったことも、忘れてはいけないでしょう。彼等のしてきたことは、霊魂の死後存続を信じない人間とのミゾを埋める作業であったと言えなくもありません。

今の世にモーゼズやバーバネルのような霊媒、カルデックのような審神者、ウィリアム・クルックスやシャルル・リシェやアルフレッド・ウォーレスのような研究者が居たとして、霊的生命への確信を持つ以前に仮に今のスピリチュアルブームに接したらどう感じるだろう?なんて考えてしまいますね。

たとえば試しに「アセンション」「光と闇」あたりのキーワードで検索してみると、頭がクラクラしてくるようなキラキラのことばが裏の取れない陰謀論などと一緒くたになって溢れかえっていて、もしこうした言説を目の当たりにしたら、彼等の多くは、理性に反発を覚える段階を通り越して、鼻先で笑って終わらせてしまいそうな気がします。

シルバー・バーチは「霊的真理は受け入れる時期が来ないと受け入れられない」という言い方をしますけれども、懐疑主義目線への配慮がカケラも無いようなスピリチュアル系は、人々の「受け入れる時期をいたずらに遅らせている」のだと私は考えているわけです。

スピリチュアリズムに聖典・正典は有り得ないにも関わらず、『スピリチュアリズムと聖典』で書いたように、一部の資料のみを私がスピリチュアリズム文献として限定したくなったりする理由の一つには、こうした「何でもあり」のスピリチュアル系情報の氾濫があります。

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