スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

スピリチュアリズムは宗教か (高森)

2010-07-26 00:28:54 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学
 スピリチュアリズムは宗教か、宗教ではないのか。この問いに関しては、「宗教」という言葉の定義自体ができていないので、答えは様々になるだろう。
 前にも触れたように、宗教を「不可視の知性的実在や超越的な世界を模索するもの」とすれば、スピリチュアリズムはもちろん宗教である。
 (http://blog.goo.ne.jp/tslabo/e/577ae65a40d3ac49261cbfe269123ba4)
 ただし、不可視のものに関しての態度は、実は様々ある。
 a 不可視・不可計測の実在を認めない…………………唯物論
 b 実在論議を捨象する……………………………………一般諸学問
 c 不可視・不可計測の機械論的実在を認める…………一部の心理学、「気」などオカルト諸派
 d 不可視・不可計測の知性的実在を認める……………宗教
 この c をどう見るかは微妙で、しばしば「宗教くさいもの」と非難されたりするが、宗教とは言えないだろう。

 しかし、その他の多くの点で、「それは宗教ではない」とも言える。
 宗教の定義としてよく持ち出されるのが、
 ①教祖
 ②崇拝対象
 ③教義
 ④信者
 ⑤組織
 ⑥儀式
 といった諸要件である。確かにうまく整理されている。神道などは「教祖・教義」がなく「信者」も曖昧だが、それは「自然宗教」の特徴だということで、逆に見方がクリアになる。
 だが、これを適用すると、スピリチュアリズムはまったく宗教ではない。
 まず「①教祖」はいない。「情報の発信元」としての「霊」はいるが、それは固定化されていないし、崇拝の対象ともなっていない。インペレーターやシルバー・バーチに畏敬や敬愛を抱くスピリチュアリストは多いだろうが、その像を作って礼拝するようなことはない。単独の霊や霊信を神格化・絶対化する立場はスピリチュアリズムとは乖離する。
 また霊の側も「自分たちは単なる使者」「自分たちの言葉を絶対化してはならない」「崇拝は神に対してだけなせ」と言っている。モーセやイエスやムハンマドを「神の言葉を託された者」とするイスラームの考え方(ただし現実にはムハンマドを神格化している)に相通じるところがあるが、スピリチュアリズムの場合はそうした存在はあくまで「霊」であり、人間ではない。通訳である霊媒はあくまで通訳に過ぎない。人間を礼拝するのは愚行であるとスピリチュアリズム霊学は捉える。
 「②崇拝対象」は一応「神」であるが、その定義も描写もないし、崇拝の仕方もまったく定まっていない。神は人間には理解不能なのであって、ぼんやりと崇敬することはできるかもしれないが、具体的な対し方が決められるものではない。祈る対象として「守護霊」が挙げられているが、「崇拝」という言葉はそぐわない。
 「③教義」というものもはなはだ曖昧である。スピリチュアリズムの最低要件として言われる二つの事柄、「(1)人間個性は死後も存続する、(2)死後世界と現実世界は交渉可能である」は最小・固定的な「教義」と言えるかもしれない。しかしこの二つでは、他の宗教までが含まれてしまうので、これをスピリチュアリズムの定義とすることはできない。それ以上の詳しいことは、漠然とした合意はあっても、明文化されるようなものではない。様々な霊信が告げる「情報」「メッセージ」のどれを受け取るかは自由である(ただしスピリティスムでは、カルデックの著書を基礎教典、聖典と見なす傾向がある)。
 「④信者」は漠然といるが、把握はできない。いくつかの国には「教会」や「協会」があり、そこに所属する信者もいるが、スピリチュアリズムの霊信は「組織」の必要性を説いていないので、そういった組織や信者はむしろ例外的な存在であると言える。スピリチュアリズムの霊信を好んで読み、それを何らかの形で糧にしている「潜在的信者」はかなり多くいるだろうが、スピリチュアリズムの本質から言えば、それだけでいいことになる。
 「④組織」については、スピリチュアリズムの本質的な考え方からすれば、積極的ではない。大英スピリチュアリスト協会などといった古い組織や、各国の「スピリチュアリスト・ユニオン」や「教会」、さらに霊媒や交霊会のグループなど、様々な任意団体があるが、それは情報提供機関とか親睦団体といったようなもので、どこかが権威を持っているわけではない。新興宗教のように会員数や支部数を増やそうといった強烈な志向もない。一部の組織では霊媒養成や青少年教育などを行なっているが、細ぼそとしたものであるように見える。スピリチュアリズム自体、霊的認識の獲得や霊的成長のための実践といった個人的な活動に主眼を置き、教条主義・形式主義・権威主義を否定しているので、組織形成は重視されない傾向がある。
 「⑤儀式」についても否定的である。多くの霊信が推奨するのは「祈り」であるが、形式や言葉はまったく問題にされない。「集団での祈り」に意義を認めるメッセージもあるが、義務ではない。宗教に付きものの諸儀式は無意味だとしている。壮麗な施設や荘厳な儀礼などは全否定。儀式や宗教建築を好む人は多いのでこの点スピリチュアリズムは人気がない。

 要するにスピリチュアリズムは、ほぼ「教義」(それもいまだ整理・体系化されてはいない)だけのものであり、その他の要素に関しては否定的である。その意味では「宗教」とは言えないし、「宗教」たろうともしていない。そこにはスピリチュアリズムがこれまでの諸宗教に対して持っている独特なスタンス、全否定ではないがかなり強烈なアンチテーゼが影響しているように思われる。

      *      *      *

 宗教批判(特にキリスト教批判)と普遍的宗教論(比較宗教学)を前面に押し出した霊信が、ステイントン・モーゼズによる『霊訓』(インペレーター霊を中心とするメッセージ)である。そこからいくつか引用してみる。(同書はhttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/imp-teachings1/に公開されている。)

 《そなたらは己の本能的感覚をもって神を想像した。すなわち、いずこやら判らぬ高き所より人間を座視し、己の権威と名誉を守ることにのみ汲々とし、己の創造物については、己に媚び己への信仰を告白せる者のみを天国へ召して、その他に対しては容赦も寛恕もなき永遠の刑罰を科してほくそえむ、悪魔の如き神をでっち上げた。そうした神を勝手に想像しながら、さらにその神の口を通じて、真実の神には身に覚えもなき言葉を吐かせ、暖かき神の御心には到底そぐわぬ律法を定めた。》

 《いかなる宗教にも真理の芽が包含されているものであり、同時に誤れる夾雑物も蓄積している。》

 《宗教上の問題につきて、理知的思考を禁ずることほど精神を拘束し、魂の発育を歪めるものはない。それは思考の自由を完全に麻痺させ、魂の生長をほぼ完全に阻害する。》

 《いかなる宗教といえども、地上の一つの国の民族に訴えることはあっても、唯一その宗教のみが神の啓示の全てを包含すると考えるのは、人間の虚栄心と思い上がりが生む作り話に過ぎぬ。いま地上にて全盛を誇る宗教も、あるいは曾て全盛をきわめた宗教も、どれ一つとして真理を独占するものなどは存在せぬ。完全なる宗教などはどこにも存在せぬ。その発生せる土地、そしてまたそれを生み出した者の必要性を満たすそれなりの真理を幾つか具えてはいても、それには同時にそれなりの誤りも多く含まれており、精神構造も違えば霊的必要性も異なる他の民族に押しつけらるべきものではない。それは神よりその民族のために与えられた霊的栄養なのである。それをもって絶対性を主張すること自体がすでに人間らしき弱点をさらけ出している。》

 《神が人間の受容性に応じて啓示を垂れるということは、これまでも度々述べてきた。当然そうあらねばならぬ。神も人間の霊媒を通じて啓示する以上、その霊媒の受容能力に応じたものしか啓示されぬのが道理である。神につきての知識が人間の受容度を超えることは有り得ぬ。仮に今われらがより完璧に近き神学を述べたとしよう。それはそなたには奇異に響き、理解することは不可能であろう。》

      *      *      *

 今、巷に流行っているらしいスピリチュアルというのは、この視点から見るとどうなるか。
 スピリチュアルと呼ばれるものはいろいろなもののごった煮で、おそらく定義不能だろうけれども、そこには、冒頭の「不可視のものに関しての態度」において、二つの区分がある。
 一つは、「不可視・不可計測の機械論的実在を認める」
 もう一つは、「不可視・不可計測の知性的実在を認める」
である。
 ストーン・ヒーリングとかいったものや、「気」「波動」を主題にするタイプが、前者である(これはもともと「ニューエイジ」と言われていたものの一派が、「スピリチュアル」に混入したとも言える)。このタイプは、霊的存在を言い立てない。
 もうひとつは、まあスピリチュアリズムの大衆版とも言うべき、過去世リーディングやチャネリング(これも実は「ニューエイジ」の中にあったが)を主題にするタイプ。(過去世は別に不可視・不可計測の知性的実在とは関係ないが、生まれ変わり死に変わりする「私」を認めるという意味で、霊的存在=魂の実在を示唆している。)
 前者は「宗教くさい」と言われるが、宗教ではない。後者は、宗教と言えるか。
 まあ、このあたりは微妙だろう。スピリチュアルと呼ばれるものは全般的に、断片的で、即物的で、現世利益的である。「不可視・不可計測の知性的実在を認める」という意味では超越論的であるのだが、その志向や実践は、かなり「反超越的」=現世至上主義的である。ここには宗教全般が孕む陥穽があるようにも思えるが、これについてはもうちょっと慎重な考察が必要かもしれない。

      *      *      *

 もう一つ触れておきたいのは、「儀礼」の問題である。
 どこかで「宗教とは儀式である」という言葉を見たことがある(場所を失念)。
 スピリチュアリズムの立場からすれば、とんでもない謬見であるけれども、非常に面白いところを衝いている見解である。
 けっこう多くの人は、宗教的儀礼が好きである。見ていて美しさを感じさせるものもあるし、自らやっていれば、なかなか面白いし、不思議な心理的効果がある。
 というか、この世の現実として、宗教はほとんど儀礼で成り立っている。ミサ、読経、拝礼……。それを自らやったり、それに参加したりすることが宗教なのだと思っている人は確かに多い。
 おまけに、日本では神道というものがあって、これは外形的にはほぼ儀礼・祭礼だけの奇妙な宗教である。教祖はいないし、崇拝対象もよくわからない。教義はあるのかないのか不明。信者組織も祭礼のためだけにあるようなもの。(しかし、神道は見えない存在・世界を認めるし、かなり現世利益ではあっても、超越志向を保っているので、立派な宗教である。)
 しかしスピリチュアリズムの霊信は儀礼をほとんど認めていない(せいぜい集まって祈るくらいである)。形骸化に対する痛烈な批判からだろうし、何らかの行為で霊的存在を操作して現世利益を得ようという「オカルト的志向」を排除しているからであろう。
 ただ、儀礼がないと宗教はなかなか一般には浸透しないようにも思える。何か頼りない、面白みがない、と思われてしまう。
 私自身は、実は神道の儀礼を一通り勉強しているし、小さな儀礼を司式したこともある。やったということは、霊的な意味があると思っているわけだし、実際あると思っている(ただし全然現世利益的なものではない)。だから儀礼を全否定するつもりはない。
 スピリチュアリズムは、時代や文化・風土にあった信仰の展開を否定するものではないから、形骸化、現世主義化しないものであれば、そして本末転倒にならなければ、儀礼は許容されるものだとは思う。まあ、このあたりはちょっと議論の余地があるかもしれない。

      *      *      *

 いろいろ脱線したが、結局のところ、スピリチュアリズムは、「これまでの宗教を刷新しようとする“宗教改革運動”」だと言える。だから、宗教が宗教たるための一番の核(超越的存在・世界の実在)を前面に押し出し、これまでの宗教が依存してきた(むしろ核を隠すためのものになった)外形的様態を、厳しく否定する。
 ただそれが、どうやったら社会に根付くのか、これまでの形態に代わる何らかの社会的表現を持つのかは、まだまだはっきりとわからないと言えるのかもしれない。

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
宗教の核心 (へちま)
2010-07-31 22:16:11
宗教は内面的なものだと思います。
死により肉体という外面的なものを脱ぎ捨て霊となります。
さらに、スエデンボルグによると、その霊も外部と内部を持っており、死後1年以内で外部は眠りにつくということです。
外部と内部を持っていることは、考えていることや願っていることとは全く異なったことを話したり、行ったりするペテン師やおべっか使いから、また偽善者から、私たちは非常によく知っています。
人間は自分自身では内面を変えることはできないため、神による救いが宗教の核心となるのだと思います。
返信する

コメントを投稿