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厭世主義について ③厭世と芸術

2012-09-21 00:07:27 | 高森光季>その他

 文学と厭世主義というのは深い結びつきがあります。
 日本だとすぐに頭に浮かぶのは『平家物語』『方丈記』の誰もが知っている冒頭、「祇園精舎の鐘の声」「行く川の流れは」ですね。仏教の影響を受けた「無常の文学」の系譜があります。中世の説教節などもその流れで、果ては近松あたりまで行くのでしょうか。近代だとこれが「個の絶望」といった様相になっていく。(梶井基次郎の「冬の日」などはその頂点なのではないかと私は思ってますが。)
 西洋では「悲劇」の系譜があります。遠くギリシャに遡るものが、ルネッサンス以降様相を変えて甦った。よくよく考えてみると西洋文学は悲劇的色彩が強いですね。そしてそのどん詰まりが、実存主義文学でしょうか。カフカの「変身」、サルトルの「嘔吐」、カミュの「異邦人」とか。
 西洋は現世主義が強い分、文学はその反動として反現世主義、厭世主義の色合いが強くなる、そんなこともあるのかもしれません。実存主義文学は、もはや神もなく現実(存在)も敵になった個の絶望の叫びと言えそうです。

 「悲劇」というのは何でしょうかね。
 ニーチェがあれこれ言ってますが、それは置いておいて。
 悲劇は、人間の悲惨を描きます。また社会や運命の不条理を描きます。
 それを好んで鑑賞することで、何か歓びが、感動が生まれる。
 変です。
 幸福な物語を読んで一緒にハッピーになった方がいいではないか、と。
 何を好き好んで悲惨な物語を読まなければいかんのか、と。
 アリストテレス以来の「カタルシス」論というのがあります。よくわからない話で、ネガティブな感情を発散させることで心を浄化するのだとか、畏怖や憐憫の情を起こさせるのだとか言いますが、どうもすっきりしない。
 「人の不幸は蜜の味」で、自分の恵まれた境遇を再発見させるから、などといういささかお下劣な見方もある。
 そうじゃないですね。

 悲劇というのはもともとギリシャでは「神の讃美」だったということをヒントにすれば、その本質がわかるのではないでしょうか。
 悲劇では、人間の悲惨さ・卑小さが描かれ、現世の不条理が強調されます。見る者読む者には、激しい悲しみ、怒り、絶望が湧き上がります。
 そうすれば、光への希求、救い手への希求が生まれます。
 それらを解決し、救ってくれる神への思い、その偉大さが強調されます。
 実際のところ、古代から悲劇には「解決者」としての神が登場しました。それはしばしば「機械仕掛けの神=デウス・エクス・マキーナ Deus ex machina」として批判されました。「おめ、そこで簡単に神が出てきて問題解決しちゃ台無しだろ」と。まあ黄門様の印籠みたいなものですか(笑い)。
 それはともかく。
 悲劇は、人間の、この世の悲惨を徹底的に描きます。「もういやだ」と叫ぶまでに。
 つまり厭世に導くわけです。
 そしてそこに「超越」がかすかに顕われるようにする。

 悲劇は目を上げさせるためにある。

 上にあるのは何か。神か、壮大な歴史か、イデアか、宇宙か、実存か、永遠か、それとも虚空か。
 それは何でもいい。とにかく、この世にとらわれている目を、上に上げさせることだ、と。
 魂はその時、この現世を離れてかすかに浮き上がる。

      *      *      *

 なんかよくわかりませんけど、最近は上質な悲劇が少なくなっているような感じがします。
 特に大衆的な映画や文学では、悲劇的なものは「ネクラ」とか「鬱」とか言われて避けられているような。あるいは単なるお涙頂戴に成り下がっているような。
 奇抜な設定とど派手な物語展開、そして苦難が克服されたり正義が苦戦の末に勝ったり、といった物語カタルシスが求められているのではないでしょうか。
 そこには、“超越”を拒否する現代のメンタリティが投影されているような気もします。目を上げたくない。この水平視線の中に新奇なものを出現させてほしい。そんな要求があるのかも。

 「文学青年」という言葉も最近は死語になっているのではないでしょうか。
 青年(若い男性という意味ではなく)が文学に、特に悲劇的な文学にのめり込むのは、ごく自然なことでしょう。幼児的ナルシシズムの延長である「自己肥大」ないし「理想憑依」と、目の前にある「糞な現実」とのぶつかり合いがそこで起こる。そして現実に圧倒されかかる。理想は傷つき美は踏みにじられる。そこで現実を根底から覆してくれる文学を求める。
 哲学(観念的哲学)あるいは思想も、その点は同じですね。昔の若者はニーチェやサルトルを読んで世界に対して王となろうとした。
 哲学青年、文学青年、芸術青年があちこちにいた。まあ内実はともかく。

 こんなことを言うと老人の繰り言になるかもしれませんが、今の若者はゲームやアニメに絡め取られて、現世に飼い慣らされてしまっているような感じがしないでもないです。音楽なんかも、体制内的なものになってやしないか。
 (村上春樹が文学青年を作るか、ドゥルーズやデリダが哲学青年を作るか、初音ミクが芸術青年を作るか、というようなことを憂うのはアナクロなのでしょうかねw)
 もっとも、2ちゃんねるなんかには、けっこう厭世主義者がたくさんいるような気もします。「ねらー」には社会不適応の引き籠もりニートも多いですから、当然かもしれません。
 ただ、そういう人たちが、哲学や文学や芸術に行くかどうかは、いささか疑問です。
 どこもかしこも現世化、世俗化されていて、厭世主義者予備軍は行き場所を失っているようにも見えます。

 芸術、哲学、宗教は、人間社会に「超越」を供給する通路だった。その通路は消滅しつつある。

 今細々と超越を供給するのは、怪しげなオカルト、スピリチュアルくらいなのかもしれませんね。このブログも、怪しげに超越を言い立てる点では同類か(笑い)
 しかしこんな状態だと、“思想”すらそのうち消滅するんじゃないでしょうかね。
 ……と、これは厭世主義者の悲観的な見方でしょうか(笑い)。


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