これまで繰り返し述べてきたことですが、現代の「知」の世界では、「不可視世界」(霊的存在や死後問題)は厳しく“排除”されています。(これは実体験した人にしかわからないかもしれません。)
実際のところ、現在の「アカデミー」世界で、「不可視世界」が語られるのは、宗教人類学や宗教学のごくごくわずかな領域です。ほとんど「数人」レベルで、しかもかなりぼかされてしか語られません。つまり、現代の「知的領域」の99.99...%は、霊的問題を排除して成り立っているわけです。
一方、「不可視世界」との接触は、いたるところで起こっています。それは確かに「稀な」体験ですが、「ごく稀だ」というわけではありません(このブログの「2ちゃんねるのスピリチュアリズム」には一般人のそういう体験が語られています)。
中には、かなり頻繁に「不可視世界」と接触する人がいます。そうした人のうちかなりの部分は、現代の「知的世界」のタブー視圧力によって、それを否定し、なかったことにしますが、「不可視世界」からの働きかけを強く受けてしまう人、つまり「霊能者」「霊媒」は、タブー化圧力に反逆してその働きかけを受け入れざるを得なくなります。
「霊能者」「霊媒」や、そうしたことに強い興味を持つ人々は、タブー化圧力を加えてくる「知的世界」に対して敵対せざるを得ず、敵意や軽蔑を持つようになります。
(霊的な「現実」は既存の知識や理論にはとても収まりきらない広さ・雑多さを持っていますから、その体験者・接触者が既存の知識や理論を「狭い」もの、「空理空論」と感じてしまうことはやむを得ないでしょう。)
ひどく単純化すれば、要するに、現代の世界では、
「知的になろうとすれば霊的な問題を排除せざるを得ず、霊的な問題に踏み入ろうとすれば知的問題を排除せざるを得ない」
ということになります。
これは非常に不幸なことです。
霊的な問題は人間にとって非常に重要なことなのに、それを扱える「知の世界」がない(宗教の問題はちょっとここでは置いておきます)。
霊的な問題と接触している人は、「知の世界」の表現方法やルールを知らない(否定している)ために、自己客観視や公共性志向を持てず、「ぶっ飛んだ」行動・表現に終始してしまう。
これを戯画的に表現しているのが、アメリカの「創造説論争」です。
一方には、生命や精神といった「不可視世界」を徹底的に排除した「唯物論的宇宙(生命)発生説」があり、もう一方には旧約創世記という自己客観視や公共性志向のない「ぶっ飛んだ」言説がある。この間で激烈なぶつかり合いが起こっているわけです。
スピリチュアリズムを知っている人は、どちらも正解ではないことはわかっているわけですが、世の実態はこうした馬鹿馬鹿しい話になっているわけです。(ちなみに日本では、創造説側が存在しないため、唯物論の一人勝ちになっています。)
スピリチュアリズムの基本的志向には、こうした情況を改善しようとする意図も含まれていると私は思います。
霊的問題を、「知」のテーブルに載せたい。
そのために、ハイズヴィル事件以来のスピリチュアリズム運動は、「証拠提出」という活動をしてきました。
「こういった事実がある。だから知的に――客観的・公共的に――語りうるはずだ」と。
何度も言っていますが、これは並大抵の作業ではありません。「知の世界」の住人たち、つまり学者・研究者は、タブー化圧力の中で、自分の名声や信用を危機にさらすことになりました。「霊的世界との接触者」の側は、猛烈な疑いのまなざしを向けられ、時には裸にされ身体検査を受けるという扱いも受けざるを得ませんでした。(私はこうした勇者たちの姿勢に、深い畏敬と感謝を感じざるを得ません。)
けれども、その後、優秀な霊媒が多数出現するということはなくなってしまいました。学者・研究者たちも、せいぜい「ESPとPK」に手を出すくらいに自己規定するようになりました。
「知性」と「霊能」の幸福な共同作業は、残念ながら終わってしまいました。
* * *
今、「不可視世界」を探究しようとする人々は、何をなすべきでしょう。
スピリチュアリストは何をなすべきなのでしょう。
一つは、スピリチュアリズム運動が残してくれた遺産を、しっかりと受け継ぎ、少しずつでも弘めていくことでしょう。幸い、モーゼズの『霊訓』、シルバー・バーチの霊言の一部、カルデックの著作の抜粋などは、「スピリチュアリズム・ブックス」で無料で読めるようになっていますし、マイヤーズ通信やハリー・エドワーズの著作はTSLで公開しました。
ほかにも、いろいろな道はあると思います。
・未紹介の資料・文献を紹介する。
・優秀な霊媒を見いだし、客観的・公共的な証拠を積み上げる。
・自らが霊的体験をし、それを報告する。
・自らの「信仰」による生き方、考え方で周囲に影響を与える。
・関連分野(催眠、体脱体験など)を探り、補強になる事例を示す。
・科学の側からの接近可能性を探る。
・ただひたすら表明を続ける。特に身近な人に伝える。
などなど。
それぞれがやれること(そういう力量があること)、やりたいことをやればいいのだと思います。
(歴史的な経緯を踏まえれば、自ら霊媒能力を獲得すること、あるいは優秀な霊媒を見いだし、支援し協力して、さらなる「霊的世界の情報」を探ることは、最も重要で有効な方法かもしれません。私自身は、そういったことを目指したこともないではないですが、力量が足りず、うまく行きませんでした。霊媒能力は天性の部分が大きく作用するようです。霊媒との協力では、霊媒の側に、知的な方法――証拠作りとか説明とか――を軽蔑する傾向があるようにも感じられました。)
これまでTSLでは、歴史の概説や霊的情報の整理をすること、関連分野での補強情報を紹介すること、そしてそこから標準的・基礎的な知見を引き出すこと、を主にやってきました。もちろんそこには偏りや歪みがどうしても入ってしまうものですが、できるだけ「ぶっ飛び」や個人的思いは抑えるようにしてきたつもりではあります。
どれだけの成果があったのかはまったくわかりません。数人でも参考にしてくれた人がいたのなら、それだけでもいいと思います。
でも、それだけではなく、もう少し足を踏み出した部分があります。それは、「不可視世界」の基礎的な情報を踏まえて、これまで宗教とか信仰と言われてきたものを、捉え直すという試みです。
これはスピリチュアリズムの“哲学”的部分を拡充しようという志向でもあります(周知のように、スピリチュアリズムは「科学であり、哲学であり、宗教である」と言われます)。
個人的な信仰表明や、根拠薄弱な「いいことがあります」の煽りや、神秘的宇宙観ではない、「霊的要素」を含み込んだ世界解釈。これまで不明とされていたことや混乱していたことが、霊的要素を踏まえることで、解明・整理されるようにすること。また、諸宗教の上に降り積もっていた「余計なもの」を取り除き、その奥にある「核心」を探り出すこと。
私がこのところ「霊学」という、普通の人には違和感を覚える言葉を、自覚的に使っているのは、こういう意図があるからです。
で、そうした言説は、できるだけ高い知的水準にあるのが望ましい。多くの人に理解される平易さを犠牲にしても、一定の知的考察手続きを踏まえていること、関連する知見を可能な限り押さえた上で述べていることを、示す必要があるのではないかと思います。別に学者のふりをして人を煙に巻こうとか偉ぶろうという意図ではありません。
いくらそう努めても、「知的世界」の人々がそれを認めるようにはならないかもしれません。ただ、何かの縁で目にした人が、嘲笑や軽蔑ではなく、「ん?」と思ってくれることがあれば、と願うのみです。
これは多くの人がやっている試みでもないし、多くの人が見ようと欲しているものでもないでしょう。
知的なものを求める人にはタブー化圧力が働く(嘲笑・軽蔑といった心理的反応が起こる)し、霊的なものを求める人には「うざ過ぎる」(わくわくしないし、無駄なことに思える)し。
要するに、「空白地帯」なのです。しかも、この空白地帯は、誰かが埋めたら先駆者として注目されるというような「ニッチ」なのではなく、時代の圧力のようなものが相変わらず空白にしようとしている「真空地帯」のようにも思えます。
ただそれも徐々に変わっていくかもしれません。アカデミーの「権威」が衰え、タブー化圧力が少なくなっていくかもしれません。現に、ごくわずかながら、霊的問題を扱おうとする若い研究者が、アカデミーの中に生まれてきているようにも見えます。
かつて(と言ってもそれほど古いことではありませんが)、哲学は「神学」や「形而上学」を排除し、諸学の王たろうとしました。しかしそれは失敗に終わり、哲学は難解で、内閉的で、実効のないものになってしまいました(「現代の知の風景と霊学」参照)。しかし、ずっと未来、哲学は「不可視世界」を視野に入れることで、再び豊かなものになり、諸学の王の地位に復活するかもしれません。スピリチュアリズムはそれを求めているように思えます。
いささか大風呂敷で、霊学、あるいは霊的哲学の試みと思っているわけですが、余計なものを加えたり、ねじ曲げたりしてはいけません。独断・独善に陥っていないか、常に警戒しなくてはいけません。
インペレーター霊が言ったように「単純素朴では満足せず、何やら複雑なるものを混入しては折角の品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをする」ようなことは、避けたいものです。空理空論に陥らないために「それは現実に役に立つのか」という自問も必要でしょう。
こういった試みは不要とする考え方もあるでしょう。
実際のところ、スピリチュアリズムを自らの生きる糧とするには、繰り返し「霊信」を読めば、それでいいのだとも言えます。
インペレーター、シルバー・バーチ、マイヤーズ霊などの霊信は、「不可視の存在」が語っているという信憑性も一定程度保証されていますし、内容の豊かさ、素晴らしさで「これは人間の知を超えたものだ」と確信させるものです。
瞑想で高い境地を繰り返し体験することで自己が錬磨されていくのと同じように、霊信を繰り返し読むことで、魂は純化されていきます。
だから、余計なことはせず、霊信を繰り返し読み、機会があったら人に勧める。それだけでいい。そういう考え方はごく正当なものだと思います。
ただ、人間は野心(いい意味での)を持つことも許されています。やりたいと思うことをやる自由もあります。そういう勝手な試みだと取ってもらっても、全然構いません。
それでも、誰か一人でも「不可視世界」へと目を向けるきっかけとなれば、とは願っていますが。
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