厭世主義というのは、いろいろとよくないところがあります。
不行動、不活性になる。停滞し、萎縮する。現実逃避をし、へたをすれば薬物依存になる。
現世が嫌いなのだから、どうしてもそうなる。
「超越」の中に居続けられればいいのでしょうが、「超越」とはそういうものではない。肉体を持った人間は、どうしても現世に引きずり下ろされ、縛られる。
耽美主義というのは、この「超越の中に居続けたい」という欲望ですね。
どうでもいい自分語りですが、私は若い頃、耽美主義者でした。美に浸っていたい、美に埋もれたい、そう強く願っていました。
ポーやドビュッシーや世紀末芸術の画家・文学者たち、あるいは日本の新古今とそれに続く幽玄の美の世界、そういうものに埋もれていたかった。願わくは自分でも何か美を創り出して、早々にこの世を立ち去りたかった(笑い。ま、そんな才能はなかったわけで、ずるずると現実の社会生活へ滑っていった。でも今でも、何か素晴らしい「美の結晶」を創ることができたらと夢想しないでもありません)。
美の至悦を知ってしまったら、この世は苦痛になるのは当然でしょう。それとも、それは病気でしょうか。
現実を生きることを拒否する。それは人間としてのあり方をネグレクトしているとも言えます。
だとすれば、厭世主義は治療すべき「死に至る病」なのでしょうか。
* * *
「そんなにいやならとっとと出て行けば?」という意地悪な言い方もあります。
まあそうは行かないわけで、一般的には厭世主義者と言えども死は怖い。自殺に対する倫理的・本能的な忌避感もある。そしてもちろん、霊的に見れば自殺は原則的には義務違反の重罪です。そもそも自殺というのは実行するにはかなり特殊な情動を必要とするようです。
とはいえ、アルコールやタバコや薬物に溺れたりするのは、あるいは荒れた生活を送るのは、「緩慢な自殺」と言えるかもしれません。だとすればそれは相当非難されるべきものなのでしょう。
ジミ・ヘンドリックスとかジャニス・ジョプリンとかバド・パウエルとか(古いかw)は、絶頂の音楽を求めて薬物を用い、そしてその悪影響で早死にしました。美への殉教なのか、厭世自殺なのか、そのあたりは微妙です。賞揚されるものではないでしょうが、私はあまり非難する気にはなれません。何度かある人生の一つなら、それもありかなとすら思います。霊師様たちからは怒られそうですが(笑い)。
「厭世主義は先天的な鬱病であり、脳の機能障害である。薬を服用すべきだ」と主張する人もいます。
これは難しい問題です。そもそも鬱病は解明されているわけではないし、脳のホルモン異常問題も証明されているわけではない。鶏と卵ではないですが、魂の方が先だ、という可能性もあるわけです。
アメリカなどでは鬱体質の人が抗鬱剤を常用して人生が変わったというようなケースも報告されているようで、それを否定するわけではありませんが、私は、生命の危機およびそれに準ずる事態がない限り、向精神薬は控える方がいいと思っています。ごく特殊なケースを除いて、心の問題は心と魂の問題だと考えているからです。
というか、基本的に、厭世主義者は厭世主義者として生きていくしかないだろう、と思います。
ほとんどの場合、それは魂そのものの色合いであって、外的状況が変わっても、脳内環境(笑い)が変わっても、それは変わることがないのではないか。
色合いそのものを変えるのではなく、それがあまり悪影響をもたらさないように、善いところとして働くように、地道に努力するのがよいのではないか、と。
* * *
前にも書きましたが、スピリチュアリズムには厭世主義はありません。
この世は確かに、「粗雑な世界」「肉体や物質に限定された不完全な世界」であるとしながらも、「それが魂の成長に不可欠なものだ」と言います。
これは、謎、神秘です。
マイヤーズ霊は、次のように述べています。
《霊とは、個我の奥底に潜む精神(mind)のことであり、そこから分岐して進む数々の魂をその光の下に養っているのである。それは神の一思想である。しかしこの思想は人間的な意味での個別性というものを持たない。それは創造者、すなわち生命の本源である一者からは分離したもの、という意味での個別化なのである。
〈大精神〉(Mighty Idea)が生み出したこれらの無慮無数の想念、ないし諸霊たちは、互いに個別な存在である。これらのほとんどすべては、物質の中に顕現し活動する以前においては、粗雑で、無知で、不完全な胎児のごときものであった。彼らが自らを完成し、完全な智恵と真の実在に到達するまでには、数知れない経験を積み、また無数の形態の中に自己を現わし表現し続けなければならないのである。しかしひとたびこれが達せられるや、彼らは神の属性を身につけ、〈彼岸〉に辿りつき〈至高精神〉の下に同化して、〈全体者〉の一部となるのである。
それゆえ、これらの諸霊が宇宙に出現し、様々な外観を持ち、また人間としての地上生活の悲喜こもごもを経験する理由は、皆ことごとく、「霊の進化」ということばの中に見出されるのである。霊の進化は幾多の制約を忍びつつ、また形態的表現を繰り返すことによって達成される。この表現を通してのみ霊は胎児状態から成長し進歩する。またこうした形態的顕現を通してのみ完成に至るのである。
この目的のためにこそわれわれは生を受け、またこの目的のためにこそ無慮無数の世界と状態を経験するのである。かくして物質宇宙は常に成長し、拡張し、精神(mind)にさらに一層十全な表現を得させようとするのである。
それゆえ、地上にあることの目的は次の一句に集約される。すなわち、「精神は物質の段階的で多様な変化の中で進化する」ということである。精神は物質への顕現を通して進歩し、拡大する宇宙の中で無限にその力を増大し、それによって実在についての真の観念を獲得する。神の無慮無数の想念、すなわちあらゆる形態に生命を賦与する諸霊たちは、皆、神の最も低位の顕現である。それゆえにこそそれらのものは、神の似姿に近づいて、全体の有効な部分となることを学ばなければならないのである。》
(『不滅への道』第一章 生存の目的――永遠の謎)
わかるようでわからない、すごい文章です。
大枠はぼんやりわかっても、なぜこんなに鈍重で制約の多い世界で、苦しみながらでないと成長できないのかは、すっきりと納得できません。
「現世が苦しいのはわかるよ。それは苦しいものだよ。でも、だからこそ成長があるのだよ」
諸霊信はそう告げているようです。
もっと端的に言うと、
「苦しみこそが成長の糧だよ」と。
これはある意味、慰めの言葉でもあり、叱咤でもあります。
* * *
厭世主義は、現世から上へと目を上げるという意味で、よきものです。
しかし、「苦しみのある現世」の意味を肯定し得ないという点では、未熟なのかもしれません。
苦しみながら苦しみを愛し、世を厭いながら世を愛し……それが真の道だということでしょうか。
苦悩すること。苦悩し続けること。幸福を味わわないということではなく。
悲劇がそうであったように、苦しみは何かを導くということを信じて。
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先日メールを再送したのですが、やはり届いていませんでしょうか?そうだったら私のほうの環境に原因があるのかもしれないし、ひとまず諦めて、コメ欄に書けるだけのことを書かせて頂きます。
こちらの記事の冒頭の、「厭世主義の良くない点」の話は耳が痛いです。私もこの数年で、すっかり停滞に陥っているので。
問題をぼかして説明すれば、私にとって大事な事柄が台無しにされてしまった上、半永久的に貶められてしまうであろうことへの絶望です。本来の姿に愛着があり、世間からも正当な評価を受けた上でそれを共有したいという想いが消えない以上、苦しさや世の中への失望も変わりそうにありません。
これは後天的な厭世主義だから魂そのものの色合いとは違うと思うのですが、現世が嫌なら来世に行けば解決するとも思えないのが困ったところです。自分の中の拘りが消えるとは思えないし、記憶や記録という形で問題を持ち込んでしまったら同じではないかと。すでに起こった事実や、他の人の中の認識までは変えられないわけですし。結果「現世から上へと目を上げる」ことすらない、ただの世の中嫌いとなっています。
高級霊からすれば私の悩みは他愛無いものだとしても、譲れない想いを「成長の糧」と納得して割り切れる時が来るとは思えないし、今と同じ感性を持ったまま、今の私に理解できる幸福が得られそうにないというのはやはり絶望でしかないようです。
それでも「絶望を抱えたまま消える」よりはその後があった方がマシだと思えるし、だから苦しみの真っ只中でスピリチュアリズムに惹かれたのかもしれないのですが。
ITに疎いものでよくわかりません。
失望されている状況を打開できるような行動はないということのようですね。
カウンセリングで言われる「過去と他人は変えられない」というのだとすれば、
変えられるのは自分だけですよねえ。
あまりお苦しいのであれば、心理カウンセラーに相談するという手もあるかもしれません。
病気ということでなく、絡まったものを整理するのを手伝ってもらうという感じで。
(なんとかメールをいただければ、何かご意見を言うこともできるかもしれませんが、
メールのやりとりだけで埒があくかどうかはわかりません。)
余計なことですが、ひょっとしてひょっとすると、その「不幸感」は、何か大きな幸福を
否定するために無意識が作り上げたものだという可能性もないではないですね。
これは笠原敏雄さんの理論ですけど。
まあ、これは自分ではなかなかわからないものですが。
もちろん、そのまま苦しみを苦しみとして生きるという選択もあるかと思います。もしかするとそれも意味のあることかもしれませんし。
「どうしたいのか」に重きを置いてお考えになるのもいいかなとは思います。
特に、「自分を変えるつもりがあるかどうか」とか。
的外れなお応えかもしれませんが。
そちらの方へ送ってみてください。
takamorikouki
の後にアットマーク、
そしてmail.goo.ne.jp
です。
こちらのブログももう更新終了されてしまうのですね。新ブログもチェックさせて頂きますが、沢山の記事が蓄積されてるので残念な気もします。
私の件については、正確にはカウンセラーではありませんが、人の相談を親身に聞いてくれるのが仕事の一部である人に、悩みを打ち明けてはいます。最近は気功も試したり、心境を変えるために私なりに色々やってはいます。苦しみが小さいに越したことは無いので。
それでも大事なことを真っ向から否定された挙句、それが最悪の形で残るという事実には、私自身が世の中から否定されてるような苦しさを感じ続けます。手の届かないところで起こってしまったことなので、笠原理論のように幸福を否定する為でなければ感じなかったとも思えないんですけどね・・・。
苦しみを苦しみとして生きるというのは、私にとっては選択というより一方的に押し付けられた重荷に思えます。考える頻度や苦しみの程度を改善することはできても、自分の基本的な考え方・感じ方を変えてしまうのは無理だし、それはもう自分では無いような気がするので。
苦しみに意味があるというのは、結局は私が変わる為ということであって、世の中の方に帳尻合わせを求めることはできないのだろうか、高級霊の言う完璧な法則というのもそういうことなのだろうか・・・。とこちらの過去の記事を読んでも思い悩んでしまいます。
最後にブログ汚ししてしまった感じですが、またメールで吐き出しをさせて頂く事があったらよろしくお願いします。
高森さんの新天地も充実したブログになりますように。
私は昔から厭世的なところがあったのですが、理由がありました。例えば、子どもの頃は、父は暴力的で自分の思い通りにならないと地団駄を踏むような幼稚な人間で、教師その他周囲の大人たちに尊敬できるような人物がいなかった。テレビの歌手たちもバカばかりに見えましたし。
その後、社会人になって尊敬できる人物にも少数出会うようになり、本の世界の中で素晴らしいものに触れるようになって”厭世”の中にも一部光が差してきました。”美”の中に生きたい、というお気持ちはよく分かります。若い頃は美しい音楽や絵画の世界と醜い現実のギャップに苦しんだものです。
今は諦めの中にも、たまに見える人々の善意や、自然の美しさ、動物の純真さの中に生きる意味を見い出しながら生きています。実は、私の夫の厭世の方が深刻でして、彼は誠実すぎて人間の醜さが理解できないようなのです(頭では理解しているのですが、どうしても信じられない、諦めきれないのですね)。今日もそんなことを彼に説得していたところです。
結局、厭世家というは、現世で生きられる場所が非常に限られている気がします。その”狭い世界”で生きられる環境があればそこそこ幸福に生きられるのですが、そうでないと非常に辛いことになる。
また、今はテレビやネットで人々の価値観やあり方がどんどん悪い意味で単純化、均一化、一方化しており、その価値観にそぐわない人間は”厭世家”となってしまうような気がします。暗い=鬱=悪い、みたいな単純で幼稚な価値観です。
ただ、面白いのは、私も夫も厭世的であるが故に人の目や評価に価値を置かないため、幸福度からしたら非常に高いのです(周囲から壁をつくって自己防衛をかなりしているので可能なことなのですが)。楽観的でハッピーな厭世家ってなんだか変ですが、私はそんな生き方をさせてもらえているのでラッキーだと思ってます。
>苦しみながら苦しみを愛し、世を厭いながら世を愛し
これってほとんど不可能ではないでしょうか?キリストレベルな気がします。ただ、チャレンジ精神が旺盛で、人の欠点に対しても懐の深い人はいますね(私の数少ない尊敬する人がそうです)。こういう人はかなり高度な魂の持ち主なのでしょう。
私は「苦しみを避け、世を厭いながら世を厭い。。。」なので全然ダメですね。