スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

【仏教って何だろう②】歴史上のブッダ (高森)

2010-06-19 01:10:00 | 高森光季>仏教論1・仏教って何だろう
 西欧近代の学問、特に文献学、歴史学、比較宗教学が、諸宗教の起源や歴史について、明らかにしたことは非常に多い。
 西欧では、実証主義的な方法で聖書研究が進み、歴史上のイエスについて、そして聖書の成立過程について、まったく新たな知見が打ち出された。そこから生まれてきた「史的イエス」像は、正統キリスト教が説く「神の子イエス」とまったく異なるものだった。
 それと同じように、近代の仏教学においても、ブッダの歴史上のありようや、教団の発展の過程が、かなり明らかにされてきた。また、仏教に先立ついわゆるバラモン教の資料、同時代の思想家や宗教教団の記録なども明らかにされ、歴史的文脈もわかってきた。
 ただし、イエスより500年も古い時代である。また、インド文明は時代記録というものに重きを置かない傾向があるので、その作業はなかなか難しいようである。また、イエスの場合と違って、ブッダの伝記という形の作品はかなり後になってからしか生まれず、当初はブッダの言葉が、経や律としてばらばらに記録されただけだったので、はっきりしないところはたくさんある。
 ブッダ像をめぐっては、二つの極端の立場がある。一つは、偉大な、聖なるお方として、さまざまな奇跡で飾ろうとするもの。もう一つは、そういう要素を極限に切り落として、通常の人間、思想的天才として捉えようとするもの。近代仏教学は、当然後者の立場になるが、だからといって、ブッダの伝記から神秘的部分を全部そぎ落としてしまうと、ブッダの実像はかなりいびつなものになる。ここではその中間の道を取る。ブッダは人間であるが、天才であり、奇跡の力を持っている人だった、と。

 ブッダがいつ生きていた人なのか、実ははっきりしていない。死没年は、前483年、前383年、南方仏教圏では前543年など諸説がある。ずいぶんおおらかな話である。ただし80歳で死去したことは定説とされる。
 インド・ネパール国境沿いの小国カピラヴァストゥの王家、シャカ族(最高カーストのバラモンではなく、第2カーストのクシャトリアに属する)のガウタマ家に生まれた王子である。国王家といっても、豪族程度のもので、隣国のマガダ王国に従属していた。このあたりは、アーリア文明の中心ではなく、新興の興都市国家が林立する状況で、バラモン教の支配も緩やかだった。「シャカ族はバラモン教の伝統を奉じていなかったので、一般バラモンたちの眼から見ると、野卑な異様な人々と映じていた」という説もある。
 なお、人種的帰属は不明で、一時モンゴル系とする説も出たが、アーリア系であるとする説が大勢を占めている。現在もネパールにはシャカ族の後裔を称する人々がいるが、血統的に連続しているかどうかはもちろんわからない。
 名はシッダッタ。生後7日目に母を失い、以後は継母でもある叔母に育てられた。生来蒲柳の質で、クシャトリアつまり武士階級なのに、武芸に励んだ様子はない。きわめて裕福な幼年を送ったようで、後年自ら、「自分には夏・冬・雨季それぞれの専用の家があり、女官たちがたくさん侍り、つねに管弦を奏でていた。着る物は最高の絹だけだった」と述懐している。
 ヤショーダラーを妃とし、一子ラーフラをもうけたあと、29歳の時、マガダ国で沙門(修道者)の生活に身を投ずる(従来日本仏教では19歳で出家とされていた)。

 さて、このブッダの出家だが、小さいと言えども一国の王子が、その身分を一切捨てて、ぼろ布をまとって托鉢をすることになったわけである。並大抵のことではないし、それだからいろいろな解釈がある。
 伝統的には、ブッダは人生を苦しみに満ちた虚しいものと見、その苦を克服するために出家修行の道を選んだと言われている。有名な「四門出遊」という説話があって、「東の門を出ようとしたら老人に遭った。南の門では病人に遭った。西の門では死者を見た。北の門から出ようとしたら、出家者に出会い、心を惹かれ、出家を決意した」と言われるが、もちろんこれは、単なる形式的物語である。
 人生の苦を克服するために出家した、というのは、わかるようなわからないような説明である。母を早く喪ったとはいえ、まがりなりにも王子である。下層の貧困民が人生の困苦に喘いでいるのとはまったく違う。いや、それどころか、贅を尽くした生活をしていたのである。そんな人に人生は苦だなどと言われちゃ貧乏人はどうするんだ、などとつい恨み節を言いたくなるが、そういうつまらない言いがかりはやめておく。
 病弱で感受性が過敏だったのか、意地悪な見方をすれば社会不適応の神経症で皇太子役も家庭もつとまらなかったのだという考え方もできないではない。まあ、そうではなくて、偉大な方だから、凡人にはわからない偉大な意図があったのかもしれない。というか、「人がなぜそういう行動をしたか」というのは、他人にはおそらく理解できないものなのだろうし、場合によっては当人にもその真の意味はわからないこともあるだろう。「なぜ」というのは、結局答えの出ない問いなのかもしれない。
 だが、当時のインドの精神文化状況を見ると、少し見方が変わってくる。当時、インドを支配していたのは、通常「バラモン教」と言われる古代ヒンドゥー宗教だった。そしてブッダが生まれたのは、ウパニシャッド時代と呼ばれる時代だった。そこでは、「生命は永遠の輪廻を繰り返し、それは〈苦〉の連続だ」という思想がすでにあった。そして「宗教的修行を積めば、輪廻の苦の輪から逃れられる」と考えられていた。
 古ウパニシャッドの代表的哲人ヤージュニャバルキヤはこう説いている。
 「ウパニシャッドのブラフマン=アートマン(梵我一如)の真理を知る人々は不死の生命を得、そうでない人々は輪廻の苦に囚われ続ける。」
 一般的には、「さとり」を開いて「輪廻」から解脱するというのは、ブッダ独自の教えと考えられがちだが、実はそうではなく、それはブッダの生きた時代の主流的思想だったのだ。
 実際のところ、ブッダとほぼ同時代のジャイナ教の開祖マハーヴィーラも、同じような考え方から出発した。ジャイナ教の目的も、業を引きずり苦しみの輪廻世界をさまよう霊魂が、いかにしてやすらぎの境地(ニルヴァーナ、涅槃)あるいは解脱(モークシャ)を得られるかに向けられていた。ジャイナ教と仏教は、一時、どちらかがどちらかの分派ではないかと疑われるほど、基本的概念や志向性が似ている。
 こうしたことを考えると、ブッダがが出家したのは、「人生の苦を痛感し、それを克服しようとした」というような個人的な思いというよりも、時代の思潮に棹さした宗教的探究心からだったと捉える方が自然のように思われる。もちろんそこには、ブッダ自身の強い思いがあったことは間違いないだろうが。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿