王国と家族を捨てたブッダは、修行の生活に入る。
まず彼は、二人の仙人から禅=瞑想を学んだという。これも一般の日本人が誤解しているところで、禅は仏教の専売特許ではない。ブッダにいたるまでにインドには分厚い瞑想の伝統があった。
ブッダはまず、アーラーラ仙という仙人について、「無所有処定」の禅を学んだとされる。平たく言えば、「何ものにも執着しない無一物の状態となった禅定」というところらしい。そしてこれを異例の早さでマスターしたが、これに飽き足らず、次にウッダカ仙のもとへ行き、「非想非非想処定」の禅を学ぶ。これはさらにわかりにくいが、「精神作用があるのでもなく、ないのでもない、無念無想の禅定」ということだという。しかし、ここでもブッダは常人とは思えない早さでこれをマスターしたものの、やはり飽き足らず、今度は苦行へと向かうことになる。
ここは奇妙なところである。ブッダは、当時の最高の瞑想を瞬く間に修得したが、そこで得られたものは、彼の望んでいたものではなかったということだ。つまり、「瞑想の最高の境地」=「さとり」ではないということになる。ただしこのあたりはブッダのさとりを禅瞑想より上に置こうとする原始教団の作為があるとする説もある。
さて、その後ブッダは6年間にわたって苦行をする。断食だの無呼吸だの、ともかく想像を絶する苦行である。もともと病弱だったブッダがこれを6年間もやったというのは、信じられないような話だが、疑ったところで仕方もない。苦行を終えたブッダは、もう生きているか死んでいるかも定かではなかったと言われているが、それは当然だろう。
最高の禅定まで修した人が、なぜ苦行に入ったのか、近代人であるわれわれには腑に落ちない。ブッダは後に「自分ほどの苦行をした者はいない」と自慢しているが、結果的には苦行はさとりに結びつかなかったし、後に「中道」を説いて苦行はいけないと諭しているくらいだから、どうして前もって見抜かなかったのか。さとりに役立つなら何でもやってみようという体当たり精神だったのかもしれないが、あまり賢者ブッダには似つかわしくないと言えなくもない。
結局、ブッダは苦行にも満足できず、有名な「スジャータの乳粥」を食べて、元気を取り戻し、菩提樹の下で再び瞑想行に入る。(ちなみに、この時ブッダは、スジャータを始めとする女性たちや二人の商人から支援を受けている。在俗の崇敬者からブッダの教団は始まったことになる。)
すわり始めてすぐなのか、それともかなりしてからなのかはわからない。ここで、ブッダの「さとり」が開かれる。
仏教はブッダのさとりから出発している。まあこれは動かせないところだろう(イエスの言動というか生き方そのもの――復活も含む――から出発しているキリスト教とはかなり位相が異なる)。だが、いったいブッダのさとりとは何だったのか、となると、話はややこしくなる。それは後回しにして、ここではともかくブッダの生涯を足早にたどっていくことにする。
さとりを開いて後、ブッダはしばらく躊躇する。
《「私のさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。……私が理法を説いたとしても、もしも他の人々が私の言うことを理解してくれなければ、私には疲労が残るだけだ。」……何もしたくないという気持ちに心が傾いて、説法しようとは思われなかった。》(『律蔵』など)
釈尊伝は、その後に有名な「梵天勧請」という神話を述べる。梵天が出現して、ブッダに教えを説くように促したというものである。梵天とは、最高神でありむしろ世界そのものの本質であるブラーフマンのことである。神や本質的実在というようなものには否定的だった原始仏教で、ブラーフマンが登場すること自体唐突だが、さらにブラーフマンが人格を帯びて、ブッダに語りかけるというのは、奇妙奇天烈である。かなり後世の作話なのかと思うが、そうでもないらしい。象徴的な意味を込めた神話なのか、それとも何らかの「事実性」らしきものがあるのか。
これもまた非常に面白いところである。さとりは個人が求め、得られるものであって、人に与えられるものではない。またさとりを求めるのは輪廻の苦から脱するためであって、それも「自らの救済」である。つまりブッダの求道は「自己救済」であって、他者を救うためのものではない。これは非難ではなく、単に事実としてそうだろうということである。そして、「自己救済」がさとりで完結するのなら、それ以上のことは必要ない。
ある見方をすれば、他者に教えを説くというのも、ひとつの欲望であり、苦の原因である。他者への愛は、どれだけ純化されても欲であり、苦を伴う。「もしも他の人々が私の言うことを理解してくれなければ、私には疲労が残るだけだ」というブッダの感想は、異様に正直なもののように思える。
もしかすると、ブッダと同じようにさとりを開いて、自己救済を達成したまま、入滅した求道者も、何人、何十人といたかもしれない。自己救済宗教はそれでよいのであって、「他者救済」が絶対善であるとは言えないのだから、非難される筋合いはない。また、もし当時のインド文明では「他者救済」といった概念は問題にされなかった(「施し」の精神は広くあったようだが)のだとしたら、それは時代による制約・限界なので仕方がない。
ところが、ブッダはさとったまま入滅しなかった。それどころか、この後彼は、説法による積極的な「布教」へと進路を劇的に転換する。
なぜそうなのかはわからない。ブッダの教え、あるいは初期の仏教に「他者を救済しなければ自己も救済されない」というような教えはない。
慈悲の心なのか、それとも真理は世界に向けて広められなければならないという欲求(「世界への意志」という人間の根源的な欲求?)なのか。
奇妙なことに(もちろん後代の目から見てということだが)、ブッダの教えに、慈悲であれ他の何かであれ、「なぜ宣教するか」という理由になる概念はない。大乗仏教以後、仏教は慈悲ということを唱えるようになるが、どうもそれはとってつけたようなところがあって、「慈悲とは何か」が教理として(さとりからの帰結として)説かれたかどうかはよくわからない。
「梵天勧請」は、こうした謎を埋めるための機能を果たしている。慈悲でも真理普及の義務でもない。神が要請したからなのだ。
仏教学者の中には、バラモン教の閉鎖性に対する革新なのだと捉える見方がある。確かに、バラモン教において、宗教者は「布教」するものではなかった。祭式を司るバラモンは、ただ祭式を務めていればよかったし、隠棲の苦行僧・禅僧らは、自分が解脱することのみを目指していたから、人に説教するなどということはありえない。いずれも、教えるのは弟子入りしてくる後進相手に限られていた。ブッダはそうした宗教体制に異を唱えようとしたのだ、と。
宗教改革というモメントは確かにあっただろう。だが、それは仏教に限られたものではなかったようだ。ブッダの時代、新興都市国家が生まれ、それまでのバラモン教文明が揺らいでいたために、新たな宗教を模索する非伝統バラモンの指導者たちが生まれ、彼らは積極的に自らの教えを布教していた。仏教はこういった同時代の人々を「六師外道」と呼んでいるが、何のことはない、ブッダもその一人だった。ある意味で、ブッダの行動は、宗教改革の一つの流れだったということになる。
まず彼は、二人の仙人から禅=瞑想を学んだという。これも一般の日本人が誤解しているところで、禅は仏教の専売特許ではない。ブッダにいたるまでにインドには分厚い瞑想の伝統があった。
ブッダはまず、アーラーラ仙という仙人について、「無所有処定」の禅を学んだとされる。平たく言えば、「何ものにも執着しない無一物の状態となった禅定」というところらしい。そしてこれを異例の早さでマスターしたが、これに飽き足らず、次にウッダカ仙のもとへ行き、「非想非非想処定」の禅を学ぶ。これはさらにわかりにくいが、「精神作用があるのでもなく、ないのでもない、無念無想の禅定」ということだという。しかし、ここでもブッダは常人とは思えない早さでこれをマスターしたものの、やはり飽き足らず、今度は苦行へと向かうことになる。
ここは奇妙なところである。ブッダは、当時の最高の瞑想を瞬く間に修得したが、そこで得られたものは、彼の望んでいたものではなかったということだ。つまり、「瞑想の最高の境地」=「さとり」ではないということになる。ただしこのあたりはブッダのさとりを禅瞑想より上に置こうとする原始教団の作為があるとする説もある。
さて、その後ブッダは6年間にわたって苦行をする。断食だの無呼吸だの、ともかく想像を絶する苦行である。もともと病弱だったブッダがこれを6年間もやったというのは、信じられないような話だが、疑ったところで仕方もない。苦行を終えたブッダは、もう生きているか死んでいるかも定かではなかったと言われているが、それは当然だろう。
最高の禅定まで修した人が、なぜ苦行に入ったのか、近代人であるわれわれには腑に落ちない。ブッダは後に「自分ほどの苦行をした者はいない」と自慢しているが、結果的には苦行はさとりに結びつかなかったし、後に「中道」を説いて苦行はいけないと諭しているくらいだから、どうして前もって見抜かなかったのか。さとりに役立つなら何でもやってみようという体当たり精神だったのかもしれないが、あまり賢者ブッダには似つかわしくないと言えなくもない。
結局、ブッダは苦行にも満足できず、有名な「スジャータの乳粥」を食べて、元気を取り戻し、菩提樹の下で再び瞑想行に入る。(ちなみに、この時ブッダは、スジャータを始めとする女性たちや二人の商人から支援を受けている。在俗の崇敬者からブッダの教団は始まったことになる。)
すわり始めてすぐなのか、それともかなりしてからなのかはわからない。ここで、ブッダの「さとり」が開かれる。
仏教はブッダのさとりから出発している。まあこれは動かせないところだろう(イエスの言動というか生き方そのもの――復活も含む――から出発しているキリスト教とはかなり位相が異なる)。だが、いったいブッダのさとりとは何だったのか、となると、話はややこしくなる。それは後回しにして、ここではともかくブッダの生涯を足早にたどっていくことにする。
さとりを開いて後、ブッダはしばらく躊躇する。
《「私のさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。……私が理法を説いたとしても、もしも他の人々が私の言うことを理解してくれなければ、私には疲労が残るだけだ。」……何もしたくないという気持ちに心が傾いて、説法しようとは思われなかった。》(『律蔵』など)
釈尊伝は、その後に有名な「梵天勧請」という神話を述べる。梵天が出現して、ブッダに教えを説くように促したというものである。梵天とは、最高神でありむしろ世界そのものの本質であるブラーフマンのことである。神や本質的実在というようなものには否定的だった原始仏教で、ブラーフマンが登場すること自体唐突だが、さらにブラーフマンが人格を帯びて、ブッダに語りかけるというのは、奇妙奇天烈である。かなり後世の作話なのかと思うが、そうでもないらしい。象徴的な意味を込めた神話なのか、それとも何らかの「事実性」らしきものがあるのか。
これもまた非常に面白いところである。さとりは個人が求め、得られるものであって、人に与えられるものではない。またさとりを求めるのは輪廻の苦から脱するためであって、それも「自らの救済」である。つまりブッダの求道は「自己救済」であって、他者を救うためのものではない。これは非難ではなく、単に事実としてそうだろうということである。そして、「自己救済」がさとりで完結するのなら、それ以上のことは必要ない。
ある見方をすれば、他者に教えを説くというのも、ひとつの欲望であり、苦の原因である。他者への愛は、どれだけ純化されても欲であり、苦を伴う。「もしも他の人々が私の言うことを理解してくれなければ、私には疲労が残るだけだ」というブッダの感想は、異様に正直なもののように思える。
もしかすると、ブッダと同じようにさとりを開いて、自己救済を達成したまま、入滅した求道者も、何人、何十人といたかもしれない。自己救済宗教はそれでよいのであって、「他者救済」が絶対善であるとは言えないのだから、非難される筋合いはない。また、もし当時のインド文明では「他者救済」といった概念は問題にされなかった(「施し」の精神は広くあったようだが)のだとしたら、それは時代による制約・限界なので仕方がない。
ところが、ブッダはさとったまま入滅しなかった。それどころか、この後彼は、説法による積極的な「布教」へと進路を劇的に転換する。
なぜそうなのかはわからない。ブッダの教え、あるいは初期の仏教に「他者を救済しなければ自己も救済されない」というような教えはない。
慈悲の心なのか、それとも真理は世界に向けて広められなければならないという欲求(「世界への意志」という人間の根源的な欲求?)なのか。
奇妙なことに(もちろん後代の目から見てということだが)、ブッダの教えに、慈悲であれ他の何かであれ、「なぜ宣教するか」という理由になる概念はない。大乗仏教以後、仏教は慈悲ということを唱えるようになるが、どうもそれはとってつけたようなところがあって、「慈悲とは何か」が教理として(さとりからの帰結として)説かれたかどうかはよくわからない。
「梵天勧請」は、こうした謎を埋めるための機能を果たしている。慈悲でも真理普及の義務でもない。神が要請したからなのだ。
仏教学者の中には、バラモン教の閉鎖性に対する革新なのだと捉える見方がある。確かに、バラモン教において、宗教者は「布教」するものではなかった。祭式を司るバラモンは、ただ祭式を務めていればよかったし、隠棲の苦行僧・禅僧らは、自分が解脱することのみを目指していたから、人に説教するなどということはありえない。いずれも、教えるのは弟子入りしてくる後進相手に限られていた。ブッダはそうした宗教体制に異を唱えようとしたのだ、と。
宗教改革というモメントは確かにあっただろう。だが、それは仏教に限られたものではなかったようだ。ブッダの時代、新興都市国家が生まれ、それまでのバラモン教文明が揺らいでいたために、新たな宗教を模索する非伝統バラモンの指導者たちが生まれ、彼らは積極的に自らの教えを布教していた。仏教はこういった同時代の人々を「六師外道」と呼んでいるが、何のことはない、ブッダもその一人だった。ある意味で、ブッダの行動は、宗教改革の一つの流れだったということになる。
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