スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

【仏教って何だろう⑨】無我と空

2010-07-02 01:26:46 | 高森光季>仏教論1・仏教って何だろう
 あまり触れたくないことだが、ブッダの教えに関しては、「無我」「空」といった問題を避けて通れない。
 この問題は、きわめて厄介である。二千年に及ぶ延々とした議論があり、近代に入ってからもたくさんの仏教学者・哲学者が論じている。そこに入り込むと、まあ抜けられない。筆者の粗雑な頭では到底ついていけないところも多い。だからあまり触れたくない。
 だから、素朴な疑問をいくつか記すだけにする。

 ブッダは「無我」について、次のように言ったらしい。
 《「物質的なかたち(色)」「感受作用(受)」「表象作用(想)」「形成作用(行)」「識別作用(識)」は、「病にかかり」「思うようにならない」がゆえに、我(アートマン)ならざるものである。それらは「常住ならざるもの(無常)」であり「苦」であり、われの我(アートマン)ではない。このように正しく見なしたら、それらを厭うて離れる。それらから離れたら貪りから離れる。貪りから離れるから、解脱する。解脱した時に「すでに解脱した」と知る。「生存はすでに尽きた。清らかな行ないは修せられた。なすべきことはなされた。もはやこの世の生存を受けることはない」と確かに知る。このように述べられた時に、集った五人の修行者は執着なく、もろもろの煩悩から心が解脱した。》(要約、相応部・律蔵)

 どうも疑問なのだが、これは全然「無我」説ではないのではないか。
 むしろ、「非我」説、いや、「本質的私=霊魂」説に近い響きがある。素直に読めば、貪りの原因となる「色・受・想・行・識」は「我の本質(アートマン)」ではない、と説いているのであって、我というものはないなどとは言っていない。ブッダのこの複雑な主体認識は、「輪廻していく主体」と「現象している我」との摩訶不思議な齟齬を何とか表現しようとしているのではないか。
 「無我」というのは仏教が好きな概念で、「欲や妄執をなくす=無我」という耳慣れた説があるが、欲や妄執をなくすと「我」はなくなるのか、いったい「無我」というものが本当に(心理的な状態の形容表現ではなくて存在論的に)可能なのかどうか、筆者にはよくわからない。
 「いや、我という固定した実体はないということだよ」と言われるだろう。
 これもよくわからない。ブッダは、というか当時のインド哲学では、「実在=常住、つまり永遠に不変不滅のもの」と捉えているふしがあるが、この実在、あるいは実体の定義は、適切なのだろうか。「永遠不変のみが実体」だとしたら、確かに実体はないだろう。
 まあ、そもそも「実在とは何か」というのは、現代哲学になっても答えが出ないほどの難問で、はっきり言ってわからない。素粒子が(素粒子のみが)実在なのか否かもわからないし、それも変化するなら実在とは言えないだろうし、実在とは言えないものすべては「存在していない」と言えるのかどうかもわからない。
 素朴な世界観からすれば、目の前にある机は実在するし、それを見ている私も実在するように思えるけれども、それは間違いで、机も私も存在しないのだろうか。机も私も存在しないという前提から、どういう世界観なり生き方が出てくるのか、どうも筆者にはよくわからない。実在はどこにもないとしたら実在を定義したり論じたりすることに何の意味があるのか。

 「空」の哲学をめぐっては、いささか悪意のあるジョークがある。
 《昔、インドのある地方の王様のところへ、仏教行者がやってきて、「すべては空だ」と説き始めた。すると、王様は家来を呼んで、「おい、ちょっと虎を一頭連れてこい」と命じた。そして虎を行者へけしかけて、「これも空か」と迫った。すると行者はあわてて、「いや、そうではなく、私の言っていることが空でした」と逃げ帰った。》
 これは少し悪趣味かもしれないが、筆者も「無」「空」を連発する人に、ちょっと出刃包丁を突き出してみたい衝動は感じないでもない。

 ただ、二千数百年も前に、ブッダが、現代量子論にも通底するような、「関係主義的世界観」を唱えたことは、確かに瞠目すべきことであるかもしれない。因果論はもちろん、存在は他との関係性の中でのみ成立するとか、万物は実体としてではなく「出来事=流転する現象」として捉えるべきだとかを提唱したことは、「とんでもない天才」と言ってもいいかもしれない。
 しかし、前にも述べたように、ブッダの目的は、そうした「二千年後を先取りする哲学」を展開することではなく、欲望や煩悩の「仮象」性を言い立てることで、それを捨て去ることにあったのではないだろうか。

 「無常」とか「すべては仮象」という見方は、確かに目先のものに囚われる人間の欲望に対して、一種の解毒剤となるのかもしれない。しかし、解毒剤も飲み過ぎると死んでしまう。
 解毒剤を飲み過ぎて冷え切った魂が、その後どこへ行くのか、それはまた後で考えてみることになるだろう。

      *      *      *

 いささか蛇足の個人的感想を付け加えておく。
 私自身、昔、西田哲学の「絶対無」に惹かれたことがあった。また、世界を実体的に捉えるのではなく、「事」的に捉えるという思想にも興味があった。(ずいぶん前のことなので、何に惹かれたのか、そのうちの何が今自分に残っているのか、実はよくわからない。)
 瞑想の中で、「我も世界もない」という境域をかいま見たこともあった。「我生くるにあらず……」の意味がおぼろげながらも会得できた気がしたこともあった。(それが今の私のどこかに生きているのかはよくわからない。)
 さらに言えば、構造主義の「私は様々な構造の出会う結節点に過ぎない」という考えもうなずけるように思えたこともあった。(まあ、確かにそれはある意味で正しいと思うが。)
 しかし、スピリチュアリズムが明らかにする「私は死を超えて続く」「私は永続する」という事実の前に、そういった思想は光を失っていった。
 私は生きているし、生き続けているし、死を超えて生き続ける。私は「空」も「無我」も生きることができない。私が生きるということは、私を引き受けるということであり、有の苦を引き受けるということである。私が少なくとも当面は(それもかなり長い当面は)私を超えることはできないということである。
 私は「神の壮大な絵の小さな一筆」であるが、それを引き受けなければならない。
 「私はない」というのは私が生きるべき思想ではない。「私は私ではなく、私の知らない壮大な私の一部である」というのが私の生きるべき思想のように、今は思えている。

最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
幽霊の正体見たり (Glass Age)
2010-07-23 23:27:45
こんばんは。

少し遅れたレスですが、高森さんの「空」や「無我」に対する考え方に、全く同感です。解毒剤になるという点にも、それを飲みすぎたら冷え切ってしまうという点にも。

少し乱暴に書きます。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということわざがあります。

私はブッダがもともと「空」や「無我」という単語を使って述べたのもその程度のことだったのではと推測します。

それがいつしか、「あらゆる幽霊は枯れ尾花である」という主張になり、ついには「あらゆる事象は枯れ尾花である」という哲学へと発展していったという感じでしょうか。

仏教は、残念ながら、特に大乗仏教への展開以降、あまりに哲学化してしまうか、逆に、土着信仰に迎合してしまうかして、本来の良さを失っていったような気がしてなりません。
返信する
Unknown (高森光季)
2010-07-28 23:09:55
>いつしか、「あらゆる幽霊は枯れ尾花である」という主張になり、ついには「あらゆる事象は枯れ尾花である」という哲学へと発展していったという感じでしょうか。

面白い表現だと思いました。

はっきり言うと、現代の仏教学者は、仏教を唯物論の範疇に収めるために「無」や「空」を利用しているとしか思えません。
彼らは、「僕らは空の哲学を採用しているから、あの世だ霊だなどという低俗な信仰とは無関係だよ」と言いたいのでしょう。けれども彼らがもらっているお金は、庶民が死者の霊魂を供養しようと出したお金です。
(奈良某という学者さんは、曹洞宗の宗門誌で「無の哲学が仏教、輪廻は民俗」などと平気で言っています。おいおい。)
無の哲学なら、葬儀でお金をもらうのも、そうやって裕福になった教団からお金をもらうのも、おやめになったらよろしい。(無の哲学に誰が金を払うのだろうか。)
近代の唯物論系仏教学というのは「掃き捨てるべきゴミの山」のように私は思いますけどね(笑い)。
返信する
無我 (へちま)
2010-08-01 11:03:56
スエデンボルグによる私の理解を記します。
霊的な生命は一つ(神)であり、個人は生命を受ける器であるということです。
我(自己愛、欲念)が個人の歓喜を支配する原理でなくなるとき、真の生命が流入し、救われる(輪廻から解脱する)ということだと理解しています。
スエデンボルグの表現では
「無我である広がりに応じて、主により適当なものを望むことが与えられ、またそうしたものを豊かに得て、それを歓びをもって、また絶え間もなく楽しむ」そうです。
これは禅宗が目指す無の境地と同じものだと思います。
返信する

コメントを投稿