スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

【仏教って何だろう⑫】自己救済と生の否定

2010-07-06 00:46:48 | 高森光季>仏教論1・仏教って何だろう
 輪廻からの解脱を至上命題としていた仏教は、次第に力点を「煩悩の消滅」「我の消失」へと移していく。「生の苦しみ」の大半を作っているのは確かに煩悩であり、それを消滅させれば生は苦でなくなる。……とこれは本当だろうか。
 ブッダないし仏教の教えを学び、欲望の対象はかりそめのものだと納得し、戒律によって様々な欲望をつぶしていけば、生は苦でなくなるのか。
 おそらく、通常のやり方では無理だろう。いくら頭で理解し、意志で抑えたところで、体を持っている以上、欲望はなくならない。また、欲望や煩悩とは関係のない「生理的苦」もある。ある生理学者の主張によると、人間が感受する外界刺激・身体刺激の大半は「不快」だという。

 ちょっと話が脱線するが、「生の苦しみ」を除くことが、普遍的・絶対的な目的命題になるかどうかは、ちょっとあやしいところがある。
 どうも世の中には、「別に生は苦しみではないよ」と感じる人もいる。「楽しいことがいっぱいじゃない」と感じる人さえいる。別にさとりを体験したり、煩悩を消したりしないままに、である。
 臨済宗の中興の祖・白隠禅師は、「商売で成功して楽しく生きているような人は、禅など知る必要もない」と言ったという。
 あるところで「自分の死後を自由に決められるとしたらどういうものがよいですか」というアンケートを採ったところ、「生まれ変わる」が多数を占めたが、それは「もう一度(ずっと)生きていたい」という願望であって、要するにこの世に生きることが好きだということのように思われる。
 苦だっていいじゃないか、という立場もある。もっと言えば、苦こそ意義があるのだ、という立場もある。V・フランクルは、不可避な苦しみは、精神の働きを促す「意味あるもの」で、ロボトミーで前頭葉をいじると生じる「多幸症」のような「苦を感じない状態」は精神の死に等しいと言った。

 ちょっと難しいところだが、まあ、それでも、欲望に振り回され、煩悩に駆り立てられる人生を、もっと落ち着いた、静かなものにしたいという思いは、人間の多くが抱く望みであるだろう。苦を感じつつも、それに巻き込まれないようにする方法があれば、人生は生きやすくなるだろう。生きやすいことがいいことか悪いことかは微妙なところだが、実際生きている人間(の多く)にとって生きやすいことは望ましいことだから、それを求めることはやむを得ない。

 欲望やそれによって生じる苦から、超然と逃れるあり方は可能か。
 それは通常の意識状態では無理だろう。知識や強制で欲望を抑えるのではなく、それ自体が消滅するような「心の状態」を作ること。つまり、「小我」を捨てて「大我」(ブラーフマンと同一であるアートマン)になること。
 結局ここで再び「さとり」の問題になる。そしてさとりをめぐっては厖大な言葉がつむがれている。
 仮に筆者なりの表現をすれば、次のようなことになるだろうか。
 欲望と苦から脱するには、瞑想や修行によって、自己純化(万物は仮象であるとの認知・省察、欲や思念の相対化・断滅)を行なう。そしてさらに純粋覚知(欲望・判断・意志を離れた「ある」の覚知)へと進んでいく。ここは日常の心の状態とはまったく異なる領域である。もろもろの個別的な実体や、私自体が主観的には解体していく。主体の意志や判断は消え尽き、私は、単に観察・知覚する「点」のようなものとなる。
 私の心の中に現象する欲望・判断・意志・思考も、世界として現象しているもろもろのことも、ともに「全」の現われであり、全世界は自ずから生起する「一」であり、私もその一部にほかならない。それを見ている私の「目」は、数学的「点」のように無限に無に近いものとなる(しかし無ではない)。我は法則であり、法則である全体と一体である。
 もはや叡智を求めることも、善を行なうことも、解脱することも、求めない。意志も存在しない。それを見続けるという意志を除いては。いや、それすらもなくなる。死後どうなるのか、というような問いは生じない。そもそも「私」自体を考えよう、捉えようとする視点が存在しないのだから、死もない。

 こういった世界は、一歩離れて見れば、「独我論」に近い。すべては覚者の観察・認知の中に取り込まれている。対立するもの、攪乱するもの、外であるものは、存在しない。「人生の意味とは何ですか」とか「死の後はどうなるのですか」といった、自己を相対的・外部的に見る視点からの問いは、そもそも生じてこない。「人生」というようなものも、「意味」というようなものも、「死」というものすら、そこにはない。あるのはただ、あるがままの、あるがままであるがゆえに真理である世界。我のない世界は、逆に我による覚知しかない世界に近づく。
 禅的色彩の強い仏教者は、こういうメンタリティに傾く。彼らは客観にも自己にも縛られないので自由闊達であると主張する。仏を殺し、師を殺し、自己を殺し、そしてさらに衆生を殺す。彼らはそこに存在しているだけである。彼らは人を教導したり、法事をして糧を得たりしているが、それは仮象である世界が自己運動をしているだけであって、客観的に他者に価値を与えたり、霊の供養をしたりしているわけではない。彼らはそうした善悪判断や価値交換の彼岸にいるのである。彼らにとって他者は究極的には無意味であるし、他者にとっても彼らは無意味である。

 「苦である生」から徹底的に超脱するためには、おそらくこうした地点に行くしかないのだろう。こうしたさとりに到ったからと言って、それが持続するのか、そうした心的状態をそのまま生きられるのかという疑問が湧く(筆者自身の個人的体験からしても)ところだが、それはともかくとして、こうした志向は、「霊魂実在論」の立場から見ると、「生からの逃避」「過激な自己救済」と見える。

 近代スピリチュアリズムの中で得られた「霊信」の白眉の一つに、「マイヤーズ通信」というものがある。19世紀後半、「心霊研究協会(SPR)」の中核として活躍した学者フレデリック・マイヤーズが、死後30年ほどして「向こう」から送ってきたメッセージである。
 その中でマイヤーズは、仏教のこうした傾向をかなり厳しく批判している。いささか極論のところもあるが、本質をえぐっていると思う。(詳しくはTSLホームページ各論編「マイヤーズ通信より『正しい愛の道』」を参照。)

 《仏陀が信徒たちにすべての欲望を抑えること、五感を通して得られたいかなる幸福も邪悪な性質のものであり、それから逃れるためには彼らは逃亡し、いわば誘惑を避け、この世と肉に背を向けなければならないと要求するときは、彼は苦への恐れ、すなわち神が人に授けた本性に対する恐れを表わしているのである。……
 自我の統制を求める仏教徒ならば冷たい自己本位の道を実践しなければならない。彼は誰も傷つけない。人々に道徳や禁欲生活を教え導く限りにおいて、人々を益することもあるであろう。しかしながら彼は自己の救済のみにかかずらわっている。自分の魂の幸せを得ることにのみ全力を投球している。欲望と、そこから発する人間感情のすべてを除去することによって彼は人類全体から孤立してしまう。やがて彼はいわば無人島に住むに等しいこととなる。》

 《彼を再生の運命を逃れた正真正銘の仏教徒であると仮定してみよう。地上にあって彼は通常の人が犯すような罪は一つも犯さなかったが、未来のことに心を使い過ぎた。さらに悪いことに彼は未来永劫までを考え詰めてしまった。従って来世においては彼は孤独に住み、地上生活のあいだ彼を閉じ込めていた蛹の中に永遠に住む傾向がある。停滞し、植物的満足ともいうべき状態にとどまるのである。おそらく仏教天国〔浄土・彼岸〕に到達したとの幻想に執着しつづけよう。にもかかわらず彼の地上的世界観は第三、第四の意識界〔通常の死者が赴く霊界より高次の霊界〕へ進んでもなお彼を制約しつづけるほどであろう。彼は神聖なことどもについての瞑想をつづけるかもしれないが、神や大宇宙を真に認識するに至らないであろう。彼は鈍く消極的になり、あたかも夢から覚めず眠りつづける人のようである。》

 もちろん、すべての仏教者がこうした道を歩んでいるわけではない。これは「過激主義者」への批判であり、それによって仏教徒が陥りやすい罠を明らかにしようとしたものだろう。
 ただ、ここには確かに仏教の大きな傾向が指摘されている。
 それは(地上の)生を苦と見ること、そしてそれを離脱しようとする強い意志、他者との関わりへの消極性、といったものである。
 つまり、「仏教とは、厭世主義であり、自己救済である」ということになる。これは否定的な言い方に思われるかもしれないが、「輪廻を超える」というブッダの出発点からの正当な敷衍である。(もっと肯定的な表現をすれば、「現世への執着を離れ、菩薩になることをめざす」という言い方もできるだろうが、これは現世的な意味に還元されると「単なる精神修行・人格鍛錬」という意味に矮小化されかねないので注意が必要だろう。)
 ただ、これは仏教を誹謗したり否定したりする意図のものではない。仏教のこうした命題設定は、普遍的な真理(の一部)であると言えるだろうし、スピリチュアリズムでも、あるところは似た捉え方をしているからである。
 次回に、まとめとして、ブッダの宗教とスピリチュアリズムの共通点と相違点について、少しばかり考えてみたい。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿