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【仏教って何だろう⑦】輪廻脱却がブッダの中心命題 (高森)

2010-06-28 10:00:00 | 高森光季>仏教論1・仏教って何だろう
 近代の学者たちは、輪廻というものをあまり真正面に論じたがらないし、ブッダの言説の中に、輪廻の主体としての霊魂のようなものを否定するような言説もあるので、近代のブッダ像では、中心は哲学的あるいは心理学的な命題にあるように描かれるが、ブッダが徹頭徹尾輪廻の問題を離れることがなかったことは、晩年の説教からも窺える。

 たとえば、晩年、故郷への旅の途次、ナーディカ村での説法では、一人の信者から、世を去った弟子たちの死後の消息を尋ねられて、こう答えている。(以下は要約整理したもの)
 《サールハはもろもろの汚れが消滅したがゆえに、すでに現世において汚れのない〈心の解脱〉〈智慧による解脱〉をみずから知り、体得し、具現していた。
 尼僧ナンダーは人を下界に結びつける五つの束縛を滅ぼし尽くしたので、ひとりでに生まれて(?天界に生まれるということか)、そこでニルヴァーナに入り、その世界からもはやこの世に還ってくることがない。
 在俗信者であるスダッタは、三つの束縛を滅ぼし尽くしたから、欲情と怒りと迷いとが漸次に薄弱となるがゆえに、〈一度だけ還る人〉であり、一度だけこの生存に還ってきて、苦しみを滅ぼし尽くすであろう。
 スジャーターという在俗信者は、三つの束縛を滅ぼし尽くしたから、〈聖者の流れに踏み入った人〉であり、悪いところに堕することのないきまりであって、かならずさとりを達成するはずである。》
 このほかたくさんの固有名詞が出てくるが、いずれもブッダは、4つのタイプに分けて答えている。①現世生存中にすでに解脱していたのでもう生まれ変わってこない、②死後の世界(あるいは天界?)で涅槃に入りもうこの世に生まれ変わってこない、③もう一度だけ生まれ変わってくる、④いつかはわからぬが涅槃を得て生まれ変わらなくなることが決まっている。
 「清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た」ブッダは、その天眼を保持していて、人々が今後どのように輪廻や解脱をしていくのか、見えていたのだろうか。いずれにせよ、信者たちの信仰の深さを、このように生まれ変わりの様態によって表現しているのだ。

 ちなみに、同じ旅の中で、バンダ村での説法では、弟子たちに向かってこう述べている。
 《四つのことわり、すなわち戒律、精神統一、智慧、解脱をさとらなかったから、わたしもお前たちも、このように長い時間のあいだ、流転し、輪廻したのである。いまはさとられた。生存に対する妄執はすでに絶たれた。もはやふたたび迷いの生存を受けるということはない。》
 「俺もお前らも、しくじったんだよ、だからこうやってうろうろ生きているわけなんだ」と言っているわけで、なかなかユーモラスな発言に感じられる。

 つまり、ブッダは求道者の達成度を、生まれ変わるか否かという基準において判定しているのである。求道の目的は「生まれ変わらない」ことであり、求道が成功すれば「生まれ変わらない」のである。
 ただ、面白いのは、ある程度の達成をしたものは、この世には生まれ変わらず、「天界」に生まれるとしているところである。
 ブッダは、「三論」と言われる教説を説いたという。これは、あまり宗教的な知識のない人々のための入門的教えだとされる。それは、
 ①慈悲の心がけをもって困窮者や宗教者などに施しをなすこと
 ②殺生、盗み、嘘、姦淫などをせず、道徳的な生活を送ること
 ③以上のようなことを行なっていれば来世は「天」に生まれ幸福な(「生病老死」の苦の少ない)生活を送ることができる
というものである。ブッダはまずこの教えを説き、これが理解できたらより抽象度の高い「四諦」などの教えを説いたという。
 この「三論」はどこの宗教にでもありそうな凡庸な(低級という意味ではない)教えである。水野弘元氏も「当時のインド思想における最も健全穏当な学説であって、必ずしも仏教独特のものではなかったのであるが、仏教の正しい教理学説を理解するための、予備的入門的な知識および体験として役立つものであった」と「入門」性を強調している。
 しかし、いくら入門的・予備的なものであっても、嘘を語ってはいけないし、語っているわけでもないだろう。ブッダにとって、この説は基本であった。良い行ないをすれば良い来世に恵まれ、悪い行ないをすれば悪い来世となる。この「業報」の思想は、徹底してブッダの思想の基礎なのである。ただしブッダは、「天」への再生を超えて、輪廻転生の輪から脱するという高度な目標を設定したということである。

      *      *      *

 生まれ変わりというものは、肉体と別個の何らかの主体、つまり死後存続する霊魂を想定せざるを得ない。
 確かにブッダは神や霊魂といった形而上の問題を「無記」、つまり語らないとした。また、「無我」、つまり永遠に変化しない実体は存在しないと説いた。ここから後の仏教徒は、ブッダは霊魂を否定したと捉えた。
 ところがそうすると、一体輪廻する主体は何かというような議論が生じてこざるを得ない。(実際、初期仏教からそれをめぐっていろいろな議論がなされてきたが、決定的な答えは出ていないようだ。また、中村元氏は「釈迦は霊魂の存在を否定したわけではない」と述べている。)
 さらに、輪廻を排除すると、ブッダの宗教的言説はことごとく成立しなくなる。
 ブッダは「生は苦である」という命題を掲げた。
 これに対する簡単な答えは、「それなら早く死ねばいいじゃない」である。
 そうではないわけで、早く死んでも、また生まれ変わって同じことが繰り返される。だから、どうにかして輪廻からの解脱を探らなければならない。そのために何をなすべきなのか、がブッダの主題なのである。
 後世の仏教徒の中には、「生が苦であるのは、煩悩があり無明があるからだ、それを除くことで苦のない生を送ることができる」と主張する人もいる(こうした考え方は「死後問題」や「霊魂問題」を回避できるので、近代仏教徒には支持されやすい)。しかしこれはブッダの考え方ではないし、仏教の考え方かどうかも、かなりあやしい。静穏な人生を送ることが宗教の目的であるというのは、一つの世俗知ではあっても、宗教の矮小である。

 もう一度はっきり言えば、輪廻は当時のヒンドゥー宗教思想の大前提であり、ブッダの宗教的探究の出発点でもあった。輪廻を続ける苦からの脱出こそ、ブッダが求めたものであった。

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3 コメント

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生天と「無記」 (アラム)
2010-10-31 14:54:59
>ブッダの言説の中に、輪廻の主体としての霊魂のようなものを否定するような言説もあるので

「輪廻の主体としての霊魂のようなものを否定するような言説」とは具体的にどのようなものがあるのでしょうか?


>ブッダにとって、この説は基本であった。良い行ないをすれば良い来世に恵まれ、悪い行ないをすれば悪い来世となる。この「業報」の思想は、徹底してブッダの思想の基礎なのである。ただしブッダは、「天」への再生を超えて、輪廻転生の輪から脱するという高度な目標を設定したということである。

一般の人に対しては「生天」を当たり前のように説いています。
つまり「死後の世界」は当然のものであり、信じるべきものだということになります。

しかし、出家修行者に対しては「無記」であったということです。

これは「私がそう言ったから信じるのではなく、自ら修行・実践しつかみとれ」ということではないのでしょうか。

>確かにブッダは神や霊魂といった形而上の問題を「無記」、つまり語らないとした。

「われは梵天を知り、梵天の界を知り、またこれに達する道を知っている」と説いているところもあります。

また、「神」については、どうも神観が異なっているように思われます。

世の人々が「神」と信じているものを、「輪廻の中にあるもの」と捉えているように思われます。

「たとえブッダこの世に出るも、出なくても、法の性は決定して変わることはない。私がつくったものではなく、他の人がつくったものでもない。これを尊び敬い、これにつかえる。過去のブッダも、未来のブッダもそうである」と「法」について述べていますが、この「法」が「神」に相当するのではないでしょうか。





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修行者への「無記」 (アラム)
2010-10-31 15:59:51
一般の人には「地獄に堕したくないのであれば、悪いことをしないようにしなさい」、「天に生まれたいのであれば、善いことをしなさい」と説いています。

つまり、「天に生まれることを目標にして生きる」ということです。

しかし、修行者には「あの世がある、天がある、地獄があるということにこだわることなく修行を続けなさい」ということではないでしょうか。

「地獄に堕したくないから」、「天に生まれたいから」という動機ではなく、「法に合った生き方をする努力を続ける」ということです。

「輪廻を脱出」するには「天に生まれたい」という動機であってはいけないということでしょう。

「あの世があろうとなかろうと関係なく、全ての悪いことをなさず善いことをなそうと努力をし、自分の心を清めることを続ける」ということです。

しかし、後世では「ブッダは霊魂を否定した」、「死後は何も残らない」という人も出て来たのでしょう。

「霊魂否定」、「死後はない」というのは「断」になってしまうので、これも「常」と同じく「中道」から外れていることになると思われます。


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Unknown (高森光季)
2010-11-21 22:47:33
「無記」やこの連載のどこかで引用した「~は我ではない」を、「釈迦は霊魂を否定した」と解釈するのが、現代日本の仏教学の圧倒的多数説だと思います。また、「依他起性」「無自性空」を「霊魂否定説」に援用する学者さんも多いと思います。
(なお、「無記」を修行者のみに対する言説だという観点は、私は初めて聞きました。)
アラムさんがどのような立場から発言されているのかわかりませんが、私が知り得た、現在の仏教界では、「釈迦は霊魂を認めていた」というような説を主張する人はまずいませんでした。中村元博士は一言、注で発言しただけですし、宗教学の佐々木宏幹先生は現場の信仰の姿から霊魂否定説への疑問を提出していますが、今の仏教僧――特に大学で近代仏教学をみっちりやった方々――は、霊魂などと言葉に出すことさえタブーであり、実際そうなると「じゃあ、葬式って何をやっているの」という素朴かつ当然な質問が出てくるわけですが、そうなっても真っ正面からは答えないという、びっくりするような状態が続いています。

仏説とは何か、仏教とは何かについては様々な見解があるのでしょうが、私はやはり「生まれ変わらないこと=輪廻を脱出することを目的としていた」のではないかと思います。魂を否定する人が多いくらいの状況ですから、反対する人は多いでしょうけど。「法に合った生き方」とか「心を清める」というと、「それは何のためなのですか」ということになるように思いますし、宗教を「生き方」の問題に収めてしまうのは(返本還源のように求道の究極の姿としてはそうかもしれませんが)どうも矮小化ではないかと思われてなりません。
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