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【仏教って何だろう⑭】仏教とスピリチュアリズム②

2010-07-10 00:50:49 | 高森光季>仏教論1・仏教って何だろう
 「一定の方法によって、人間は高次の存在――輪廻を超えた仏菩薩――になれる」としたのが密教の主眼であった。(基本的に「なれる」のは死後のことだが、一部には「生きたまま」とする立場もあった。)
 密教の方法とは、神秘的な儀式によって高次の霊的存在と契約関係を結ぶこと、瞑想や苦行を通して霊的能力を開発すること、そして自ら意識を持ったまま高次霊界に参入すること(いわゆる「脱魂」体験)、それらによって輪廻を超脱した存在になること、をめざすものであったと言える。(この意味で、密教を単なる土着的呪術と見るのは正しくないことになる。)
 何度も生まれ変わりをして緩慢に成就される「霊的成長」が、ここでは急速に(あるいは一気に)なされる。「頓悟」とはまさしくこのことであろう。
 高次の霊的現実をつぶさに会得すれば、低俗な煩悩は消え去り、万能に近い叡智が得られる。霊魂が肉体という牢獄を離れて活動できるようになれば、霊的存在と同じ自由や力を持つことができる。そうすればカルマの弁済も容易になるし、魂を再生にしばりつける悪業も犯すことはない。こういった見方は、理が通っているようにも思えるし、何よりも非常に魅力的に映ることは間違いない。

 つい先頃までギリシャに生きて活躍した霊能宗教者ダスカロスは、ギリシャ正教を標榜しつつも、「密教(エソテリズム)」ということを唱えていたようである。彼の「方法」は、『エソテリック・プラクティス』という本にまとめられているが、そこでは思念の徹底したコントロール、霊体の自覚と統御法、想像力の活力化といったメソッドが語られている。
 ダスカロスは守護霊と交信したり、自ら霊界を探訪したりして、様々な教えや情報をもたらしたが、その多くはスピリチュアリズムと共通するものがあった。しかし、一方では神秘的儀式や瞑想修行によって人間の霊的成長を計ろうとする「密教」的立場も見せた。
 ダスカロスもまた、霊的成長を早め、地上再生の運命を超え出て、より高次の存在になるように、密教的立場から促しているのであろう。
 ダスカロスの叡智、人間性、霊的能力は、記録を見る限り疑いないもののように思える。彼はおそらく生きたまま高次霊界に参入することのできた、数少ない人間の一人だったろう。そのダスカロスが推奨しているのだから、密教的方法はやはり価値あるものなのかもしれない。
 それがどれほどの人間に実行可能なのか、成就の度合いははっきりと見きわめられるものなのか、そしてそれが「輪廻超脱」を本当に保証するのか、明確な答えはないが……

 しかし、一方、スピリチュアリズムでは、こうした修行はあまり推奨されていない。道徳的な生活や瞑想=神への祈りを勧めるが、宗教的儀式はほとんど無意味だとしているし、苦行はよくないとはっきり言っている。
 そもそもスピリチュアリズムでは、「霊的成長のためにはこうしたほうがいいですよ」と言うことはあっても、「こうすれば早く卒業できますよ」という言い方はあまり見られない。
 むしろ、「“今回で上がり”という人は、目立つことなく、世の片隅で、人に奉仕している人なんですよ」とも言っていて、霊的達人になりなさいとは勧めていないように見受けられるのである。
 この点でスピリチュアリズムは、ブッダの晩年の姿勢、つまり「私は誰も教えたり救ったりしたわけではない。それぞれに善行と瞑想を行ない、たゆまず歩み続けなさい。真理と自分のみを頼りにしなさい」に、非常に近いとも見ることができる。
 これは前にも触れたように、「人間の霊的成長や業の消除は、簡単・一律に促進できない」という認識があるからだろうか。モーゼズ『霊訓』の中でインペレーターという高級霊は、「人間の本性は魔法の杖の一振りで変わるものではない」と述べているが、ごく稀な魂を除いて、地上に生まれる人間のような幼稚な魂が、簡単には仏菩薩のような存在になることはない、というのは、まあ残念ながら正しいのかもしれないとも思う。
 あるいは、中途半端に自己鍛錬をして高慢な人間になるよりは、徹底して身を低め、己を貧しくすることによって、人格と霊性を磨くべきだということなのかもしれない。
 それはそれでなかなか難しい「行」であるだろう。マザー・テレサのように、己を捧げ尽くす行為の方が、苦行による脱魂修練よりも、むしろはるかに厳しい道かもしれない。そしてそれはなまじの霊界交渉よりも、魂の成長には意義あるものなのかもしれない。

 どちらの道が正しいかはわからない。人によりけりでどちらも正しいのかもしれない。筆者にはもちろん判断すべき力量はないし、大げさに言えば人類はまだこれに対して確たる答えを出せていない。

 (余談だが、マイヤーズ通信を送ってきたフレデリック・マイヤーズの存在は、通信自体の価値とは別に、注目されるものであると思う。マイヤーズは、イギリスの心霊研究協会の設立者の一人で、学者として霊的現象の研究に邁進した人である。彼は、特別な「霊的修行」をしたわけではないが、「通常の死者が赴く霊界」を超えてさらに高次の霊界へと進み、そこから情報発信をしている。人格が優れていたのか、過去生で善行を積んでいたのか、そのあたりは不明だけれども、宗教修行者でもない一般人が「輪廻を超えた」実例である。)

      *      *      *

 さて、スピリチュアリズムが仏教と見解を大きく異にするところがある。それは、
 ・現世を全否定しない。
 ・愛と奉仕を推奨する。
という点である。
 前に触れたマイヤーズ通信の批判にもあったように、仏教は「生を厭う」。生は苦であり、煩悩であり、無明である。それを徹底して忌避し、離れるべきだとするのが、本来の仏教である。しかし、それはへたをすると「逃避」「魂の自己圧殺」になりかねない。
 スピリチュアリズムでは、地上の生は「粗く、苦しみに満ちた」世界だとする一方、その混乱と汚辱に満ちた現世も、それなりの価値を持つとする。それは魂にとっては大きな成長を果たす場である。人間のような未熟な魂は、煩悩と苦悩を通して、また粗雑で重く緩慢であるが誰にでも公平に扱える物質を通して、そして様々な状態の魂と出会うことを通して、霊的に成長する。
 だから、多くの霊信は、肉体を健康に保つことはもとより、肉体や物質がもたらす喜びをきちんと味わうことを勧めている。肉欲や物欲に振り回されることはよくないが、肉体をもって重い物質の世界に生きているのだから、その意義と喜びを享受すべきだと言うのである。

 もう一つは、スピリチュアリズムの大きな主張とも言える「愛と奉仕」である。
 仏教にも「慈悲」はある、と反論されるかもしれない。しかし前にも述べたように、「慈悲」の概念は仏教教理の中にきちんと位置づけられていないように思われる。「仏菩薩は慈悲の存在であり、人も仏菩薩をめざすのだから慈悲を持たなくてはならない」ということなのかもしれないが、そもそも「仏菩薩とは何か」ということがはっきりと理論化されていないように思える。(このあたりは勉強が足りないのかもしれないので、諸賢のご教示をいただきたいところである。)
 また「慈悲」というのは、どうも「より叡智を持った人間が、まだ叡智の少ない人間を導く」というような、いささか「上から目線」のようなニュアンスがある気がしないでもない。まあ、事実としてそういうことはあるだろうし、あらまほしきことではあるだろうけれども、本質的な愛とは、そういった上下関係とは無縁のものであるはずである。

 スピリチュアリズムの「愛と奉仕」は、スピリチュアリズム霊学そのものから導き出される、核心の部分である。それは「類魂」とか「共感による想像力の拡大」といった、霊魂の本質論に関わるものである。
 このあたりは論じると長々しくなるので、要点だけをかいつまむ。(TSLホームページ高森研究室「スピリチュアリズムの人間論」を参照していただきたい。)
 ・霊魂は独立閉鎖的なものではなく、グループとしてつながっており、他者の感情的・思考的体験を共有することで、グループとしても個々としても霊魂は成長していく。
 ・グループはより高次の霊的存在に「養われて」おり、その高次存在の働きは、人間的な概念で表現すれば「愛」そのものである(ただし直接介入はない)。
 ・より多様な経験を含み込みつつ壮大な「絵図」を創造することが、神の創造につながる。苦しんでいる魂に共感したり、未熟な魂を手助けしたり、また優れた魂に同化しようとすることで、個々の霊的内容は豊かになり、神の創造に微力ながら参入する。
 (ただし、これを「他者救済」と捉えるのは適当ではないように思う。人間は他者を救済できるのか、そもそも救済とは何か、といった危うい問題に入り込むからである。)
 スピリチュアリズムの霊信の中でも最も人気があると思われるシルバー・バーチは、特に「奉仕」を強調する。それが個々の霊的成長にとって、最善のものだと言う。密教が修行・儀式や霊的世界との交渉によって霊的成長を促進すると主張するのと、ある意味では対照的に、徹底した奉仕による自己犠牲こそが「頓悟」への道だと説いているように思える。

 仏教を「冷たい自己本位の道」とするマイヤーズ通信の表現は、いささか行き過ぎのものかもしれないが、仏教が自己探求を主眼とするのに対し、スピリチュアリズムが他者への働きかけを重視することは、おおまかな傾向としては正しいと言えるのではなかろうか。
 そのマイヤーズ通信の「正しい愛の道」の最後には、次のような言葉がある。
 《死後の生活においては二つの道が看取される。われわれはその本性に従って仏陀の道に従うかナザレのイエスの道に従うかを選ぶのである。》
 「ナザレのイエスの道」とはキリスト教のことではなく、他者への愛と奉仕に生きた人間イエスの態度のことである。
 自己探求と解脱をめざすのか、他者への奉仕による自己と他者の霊的成長をめざすのか、それは、「二つの道」だと言うのである。

      *      *      *

 筆者はことさら仏教を誹謗するつもりもないし、仏教とスピリチュアリズムを対立的に捉えることで争いを起こそうとするつもりもない。
 ただ、霊魂問題、死後問題を切り捨て、封印してしまった仏教は、かなりいびつなものになっているのではないかと思う。輪廻や浄土や仏菩薩の「実在」を認めることが、本来の豊かな仏教の姿なのではないかと思う。
 個人的には、そうした「豊かな仏教」は、キリスト教よりはるかに優れたものだとさえ思う。インペレーターによれば、インドは宗教の源であり、先進文明だったという。アジアの精神性は他の圏より優れているという意見もある。まあこういった表現は問題を含むものだけれども、一考の余地はあるだろう。
 もっと言えば、唯物論に媚びを売った奇妙な近代仏教ではなく、霊魂・他界問題も含み込んだ、本来の豊かな仏教に戻ってもらいたいと思うのである。
 スピリチュアリズムの霊信が伝えていることは、見えない世界についての「単なる情報」と捉えることもできる。現代の「死後存続問題研究」の成果もいろいろとある(特に生まれ変わり問題に関しては近年非常に多い)。「宗教」を標榜するなら、偏見を持たずそういった知見に接してみてはいかがだろうかと、まあ余計なお節介かもしれないが、お薦めしたいところである。

      *      *      *

 ご参考までに、二〇世紀の生まれ変わり研究に関するお薦め書を揚げておく。
スティーヴンソン、イアン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子供たち』日本教文社、1990年
スティーヴンソン、イアン/笠原敏雄訳『前世の言葉を語る人々』春秋社、1996年
スティーヴンソン、イアン/笠原敏雄訳『生まれ変わりの刻印』春秋社、1998年
スティーヴンソン、イアン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子供たち2』日本教文社、2005年
ニュートン、マイケル/澤西康史訳『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』VOICE、2000年
ニュートン、マイケル/三山一訳『死後の世界を知ると、人生は深く癒される』VOICE、2001年
ホイットン、ジョエル・L他/片桐すみ子訳『輪廻転生――驚くべき現代の神話』人文書院、1989年
ウィリストン、グレン+ジョンストン、ジュディス/飯田史彦訳『生きる意味の探究』徳間書店、1999年(編抄訳)
ワイス、ブライアン・L/山川紘矢他訳『前世療法』PHP文庫、1996年

 スピリチュアリズムで生まれ変わり問題を前面に述べた霊信としては、
カーデック、アラン/桑原啓善訳『霊の書』(上・下)潮文社、1986~7年
カルデック、アラン/浅岡夢二訳『霊との対話』幸福の科学出版、2006年
カルデック、アラン/浅岡夢二訳『天国と地獄』幸福の科学出版、2006年


(「仏教って何だろう」の連投はここらで一回おしまいにします。長々しくて申し訳ない。お付き合いくださった方、ありがとうございました。)

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12 コメント

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無上智 (月並ティンコ)
2010-09-30 18:45:22
仏教の最終目的は真理を悟ることです。その智慧には,神とはなにか,交信とはどのような仕組みで成り立っているのかを把握することも含まれています。
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「愛と奉仕」と「慈悲」 (アラム)
2010-10-31 18:04:53
>仏教にも「慈悲」はある、と反論されるかもしれない。しかし前にも述べたように、「慈悲」の概念は仏教教理の中にきちんと位置づけられていないように思われる。

仏教の「利他行為」は「正業」の中に含まれる筈ですが。

「弱いものにも強いものにも、全ての命あるものに刀杖を加えず、自分を殺さず、他人をも殺させない」

「怒りにあっても怒りを起こさず、無害心をもって、ことごとく全ての人のためにする」

「慈心をもって衆生のためにする」
「慈心をもって世の人をあわれみ、諸々の善の本を誘う」

「ことごとく全ての人のためにする」

「慈しみに住する」

「生けるものことごとくに安穏を与える」

「母の愛する一人児に、慈悲をたれるように等しくあらゆるところにおいて、あらゆる生きものに対して慈悲をたれる」

「慈愛の心で生きとし生けるものを憐れむ」

「慈愛の心を修練する」

「病人の身を不浄をぬぐい、洗い、衣を洗濯して乾す。その住まいを掃除する。敷物を換える」

「自分が愛しいのであれば、自分をよきためしとし、他人もそうであると知り、害するな」

「もし賊が汝らをとらえ、鋸でもって解体しようとしても、憎しみを抱き、口でののしろうとするな。口において慈心を生じ、恨みを持つな。四方の境界において慈心をもって住もうと学べ」

「難産に苦しむ婦人のもとに行って告げなさい。「聖なる道を知ってから後に故意に生きものの命を奪ったことがない。汝、わが言葉によって安らかに出産しなさい」と」

「害心をもってせず、ことごとく全て人のためにし、慈心をもって衆生のためにする。あまねく全てを慈しみ、慈心を修める」

「施しをなし、愛語をなし、世の何人にも尽くし、諸方において助け合う」

「大慈もて全てを憐れみ、大悲もて衆生を済度せんとする」

「病気で身体の腐りはてた人がいて、その食を施そうとするならば、それを厭うことなく、受け取り食する」

「汝が悔いたのであれば汝の罪は許される」

これら仏教の「慈悲と利他」とスピリチュアリズムの「愛と奉仕」ではどのように異なるのでしょうか?

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Unknown (高森光季)
2010-11-21 23:23:34
「慈悲の概念が仏教教理の中にきちんと位置づけられていないように見える」というのは、慈悲の概念の有無を問うているのではなく、「釈迦のさとり」「無我」「無自性空」といった一番中核になる概念と、どう論理的に結びつくのかわかりにくいということを言いたかったわけです。
前にも触れましたが釈尊伝の「さとり直後」の場面で、ブッダは「これを説くのも苦である。このまま入滅したい」と思った、とされていて、なぜ教えを説くようになったのかは「梵天が勧めた」というあっと驚く展開にしています。この話の真偽はともかく、ここには慈悲の思想はありません。また無我・依他起性ならどこで慈悲が生じるのか、よくわかりません。

ちなみに、手元に出てきたから見てみましたが、中村元博士の『ゴータマ・ブッダ』には、索引項目として「慈悲」はありません。

その後の仏教の展開で、慈悲をメインの教理に据え、メインの活動とした教派があるのか、私は仏教史にあまり詳しくないのですが、かなり疑わしいのではないかと思っています。

どなたか「空」「無我」からの「慈悲」の論理的基礎付けについて、お教えいただければ幸いです。
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慈悲 (真言坊主)
2010-11-24 20:27:40
ご無沙汰しております。
わたしの恩師の恩師がその点について本を執筆していたように思いますが、今手元にはありません。

Lambert Schmithauzen: Maitri and Magicです。maitriは慈でfriendshipと訳されていたように思います。ある説話の中で、仏陀が蛇に噛まれた人に呪文(spell)を唱えるのですが、その内容が蛇に対するfreindshipを伴う内容のものだ、という指摘があったと思います。ただだいぶ昔に読んだためあやふやです。

それに関して原実氏の論文がCiniiで閲覧可能です。

細かい文献学的な研究ですので高森さまの納得のいく回答が得られるか分かりませんが。。
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追記 (真言坊主)
2010-11-26 17:13:40
シュミットハウゼン先生の論文が翻訳されていることに気づきました。Ciniiでダウンロード可能です。

L.Schmithauzsen、斉藤直樹訳「超然と同情」『哲学』108

同上「憐憫と空性」『哲学』109

おそらくこれらの研究が高森さまの興味がある分野で最新の成果かと思われます。私も読んでませんので、これから読んでみます。
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読みました (真言坊主)
2010-11-27 14:41:06
ざっとですが読みました。
この論文でシュミットハウゼン先生が対象とされている分野は、インドの初期仏教から密教(実際、引用されているテキストには後期密教のものも含まれています)までのようです。

高森さまのご指摘のとおり、空と悲にはある種の緊張関係があるように記述されています。引用文献にもあった「にも関わらず」という文章がそれを裏付けるようにも思います。

先生の論文は学会では常にセンセーショナルな議論を喚起しております。扱っている分野が広すぎるので研究者はその内容に納得してしまいがちですが、綿密に調査すると少々荒削りな箇所もあります。この研究をうけて今後どんな研究成果が出るか楽しみなところです。
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Unknown (高森光季)
2010-11-27 18:22:32
真言坊主様

ご教示ありがとうございます。
すごく高尚・難解そうで、びびっていますw。
もう読まれたとのことで唖然。
小生の頭で理解できるかわかりませんが、なんとかチャレンジしてみようと思います。

      *      *      *

 前の書き込みで、「慈悲と空や無我との関連がきちんとつけられていないのはないか」という主旨のことを述べましたが、どうも大乗運動の中でそういう試みはあったようで、前言は言い過ぎ、というか間違いのようです。お詫びして訂正します。
 どうも気になったまま中々ちゃんと調べる暇がなかったのですけど、段ボールをひっくり返したところ、竹村牧男氏の『インド仏教の歴史』(講談社学術文庫)が出てきまして、そこに「大乗仏教の出現」で、慈悲の問題が書かれていました。
 それによりますと、部派仏教は「我の空」しか説かなかったが大乗では「法もまた空」、つまり「我法倶空」を説くようになったということです。(? ここで言う「法」とは事物のことらしい。ブッダの言った「法」とは違うような気もしますけれどもよくわかりません。)
 そして次のように述べられています。
 《主体的存在として構想されている我も、事物を構成する要素的存在として想定されている法も、一切はなんら本体をもつものではなく、空・無自性で、ゆえに仮のもの、幻のようなものでしかない、というのが大乗仏教の根本的な立場なのである。》(p.142)
 そして、これが「大悲」と関連すると言うのです。
 《ここでは、我法倶空を語ることが、実は上述のような大悲の連環という、大乗仏教に固有の特徴的な立場を可能にしていることについて、触れておきたい。
 我のみでなく法も空・無自性であるということは、この我々の世界のどんなものも、実は真に生まれたのでもないし、滅したのでもない、ということになる。すなわち、本来、生滅も去来もなく、したがって、本来、寂静であり、本来、涅槃に入っているということである。つまり、我々の生死の世界も、実は本来、涅槃の世界そのものだったのである。
 逆にいえば我々は、修行して覚りを開いたのち、ことさら特別な涅槃の世界に入らなければならないのではない。生死の世界が涅槃の世界と別でないなら、自由に生死の世界に入って、しかもそれに染まらないことが可能になる。そこに無住処涅槃という世界がある。
 この無住処涅槃に入ることによって、永遠の利他行も可能とされることになるわけである。
 また、我法倶空を了解するということは、我執(我への執著)のみでなく、法執(法への執著)をも断つということである。我執を断つのみだとすると、次に生まれようとする意志が断たれるので、静止的な涅槃に入り込むことになる。しかし法執を断つことによって、世界にはなんら実体は存在しないという透徹した智慧が生じる。この智慧が自他平等の本質を如実に悟らせ、苦悩に陥っている人々を救おうとする心を発動させていくのである。
 そして問題の核心を見抜き、自在に説法したり方便を施したり、多彩な活動がなし得ることになる。法執をも断つことによって、真の自由を確立し、おのずからの願行を完成させていくのである。
 こうして、我法倶空こそが大乗仏教を支えることが知られる。そこでは空とは、悲用(大悲のはたらき)が完全に活動し得る原理そのものなのであった。空の実相が、仏から人へと無限にはたらきかける世界を支えているのである。
 『般若心経』には、「色即是空、空即是色」の語がある。色は法または現象の代表である。ここには、「空即是色」と、本体をもたない空のあり方を本質とするからこそ現象世界があり得ていることが、述べられている。そこを「真空妙有」という。そしてさらにその根本に、鈴本大拙のいう「真空妙用」(空・無相の世界に、こんこんと湧く悲用のはたらきがあること)の世界があるのである。》(pp.143-5)

 仏教の方々がお好きな「Aでなく、非Aでもない、しかしAは非Aである」みたいな論理(失礼)で、私にはよくわかりません。頭が悪いのか、下根なのか、こういう論理運びに慣れていないのか(いつまで経っても慣れませんw)。我もなく、世界も他者もないのに、どうして永遠の利他行や願行が生まれてくるのか、私にはさっぱり理解できないのです。
 こういう論理は仏教では自明のものなのでしょうか。これを前面に出して大乗教団は慈悲の活動をしたのでしょうか。
 どなたかもう少しわかりやすくお教えいただけると幸いです。
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追記 (高森光季)
2010-11-28 02:21:32
真言坊主様

ざっとですが、シュミットハウゼン先生の二論文、読んでみました。
まさに疑問に思っていた点が並んでいて(梵天勧請のこと、「弱い宗教」のこと、自己救済と他者の問題など)、びっくりです。周到な論にこの先生の視野の広さが出ていて驚嘆しましたけれども、残念ながらこちらの頭が悪くて理解はなかなか進みません。しかしすごいものをご紹介くださいまして、本当にありがとうございます。

この直前のコメントで触れた竹村氏の論は、「憐憫と空性」の6あたりのことと関連するのでしょうかね。竹村氏は唯識のご専門だから「空性知の衆生への遍在」という観点になるのかも、と。
ただ、仏性を前提にする如来蔵思想とかだと、むしろ霊魂論(本質としての我)に近いようなところがあって、慈悲なども当然自然に出てきておかしくないのでしょうけれども、中観派なんかからは「実在論だ」と批判されているわけでしょう?

ちょっと話はすっ飛びますが、昔、広松渉さんの「事的世界観うんぬん」をかじってみたことがありまして、結局ついていけなかったのですけど、その時、「これだと“他者”の問題が解けないんじゃない?」と思ったことを思い出しました。何の関係があるのかはちょっとうまく言えませんけど。

いずれにしても仏教の教理学は難しいですね。こういうもの(2000年を越える煩瑣哲学の蓄積)を勉強しなければならないのですから、仏教の方々はつくづく大変だなあと思います。
でも、外野からすると、もうちょっと単純に考えてもいいんじゃない?と(笑)思うところもありまして、で、こうやって挑発してみたりしているわけで(笑)。
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挑発 (真言坊主)
2010-11-28 05:51:14
外野の方が挑発しなければ、仏教学の進展もありえないと思います。シュミットハウゼン先生は仏教徒ではなく、単なる文献学者です(菜食主義者でもあります)。日本の研究者は仏教徒でもある場合がほとんどですのでこういう視点にまったく疑問を持たなかったんだと思います。

だからどうぞどうぞ挑発してください!

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Unknown (高森光季)
2010-11-29 03:15:22
独り言です。
結局、慈悲がどこから来るのか、なぜ慈悲が必要なのか、なぜ慈悲は行なうと徳になるのか、という原理的な問いについては、説明があるのでしょうかねえ。
また、前に「『慈悲』というのは、どうも『より叡智を持った人間が、まだ叡智の少ない人間を導く』というような、いささか『上から目線』のようなニュアンスがある気がしないでもない」と書きましたが、これは「教化」「教導」であって、「奉仕」とはかなり異なるものではないか。奉仕は何かを教えることというよりも、苦しみを軽減したり、手伝いをしたり、というニュアンスが強い。これ、結構、宗教における大事な問題だと思いますが。
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