愛猫・西子と飼い主・たっちーの日常

亡き西子とキジロウ、ひとりっ子を満喫していたわおんのもとに登場した白猫ちくわ、その飼い主・たっちーの日常…です。

続・にゃんこはいかにして日本にきて広かったのか?

2024年02月12日 | たっちーの部屋

にゃんこはいつ日本に上陸し、広がったのか? これは長年の謎だったそうです。

最近、平安時代に上陸して北上し、鎌倉時代に増え始めたという説が遺伝子解析によって明らかになったと報じられていました。

以前、このブログでも紹介しましたように、文字として残る最古のにゃんこに関する記述は宇多天皇の日記。889年2月26日です。太宰府から献上された「墨のように真っ黒い唐猫」のことが書かれているとのこと。

平安時代ということ、太宰府は遣唐使船のルートであることから遺伝子調査の結果と宇多天皇の日記の記載は共通しています。しかし、実は宇多天皇の記述の5年前、894年にはすでに遣唐使船は停止になっています。当時は海外との行き来は今ほど簡単ではありません。遣唐使船以外の手段で海外に行くことは考えにくい。となると、遣唐使船が停止になる894年までににゃんこが日本に上陸していたとみるのが妥当でしょう。

宇多天皇に献上されたのも「遣唐使船が停止になったから、今のうちに太宰府にある珍しいものを献上しといたほうがよくね?」あるいは「遣唐使船が停止になったんで舶来モノの在庫が切れつつあるけど、なんか献上しないわけにいかねぇよなぁ。そうだ! コイツを献上しちゃおうーっと」みたいなノリだったのかもしれません。

献上されたことで、当時ではワープでもしたかのように一気に朝廷のある京都まで北上したにゃんこ。しかし、天皇に献上されただけであれば、目にすることができる人も限られていたはず。さらに1185年からの鎌倉時代に広がったのであれば、900年ごろの京都の一般ピーポーが眼にする機会も限られていたでしょう。

鎌倉には京都の寺を模して作られた寺もある(その逆もあります)ほど、当時の幕府と朝廷とのやりとりは頻繁でした。献上された黒い唐猫以外のにゃんこも京都まで順次北上していて、鎌倉幕府の関係者に連れられ、北上したのではないかと考えます。

また、記述は黒い唐猫のみのようですが、福岡から京都ってそれなりの距離。途中で死んだりする可能性も考えれば複数のにゃんこを朝廷に連れて行ったと見てもよいのでは?

さらに鎌倉時代も後半は北条氏が仕切っていましたから、現在の神奈川の東寄りまで北上することになった…という推測ができそうです。

当時はまだ江戸は開拓されていませんし、移動手段も限れていましたから、ここまで浸透すればにゃんこは当時の日本をほぼ制覇した状況だったと言えそうです。鎌倉幕府が滅びた1333年には、京都〜鎌倉〜東寄りの神奈川の地域では、にゃんこはそれなりにポピュラーな動物になっていたかもしれません。

…と縷々、書き連ねましたが、所詮、素人・たっちーの勝手な憶測です。信用度は酒席の戯言程度にしといてください。

ちなみに今回の写真は布団の上でちんまりするちくわ。保護色状態になっています。


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