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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

かつて高遠原にあったという「歓喜寺」へ

2024-05-23 23:01:41 | 歴史から学ぶ

 安曇野市の仕事で午前中の会議を終え、午後は同市三郷の中萱の集落内を歩いた。一緒に歩いた皆さんは気にも留めていなかったと思うが、この地域は水路、いわゆるかんがい用の水路の流れが多方向に向かう。例えば西に流れたり、東に流れたり、という具合に。ふだん目にしているエリアの水路は、おおよそ流れの向きは同じだ。それに対して正反対の方向に流れる水路の姿を頻繁に目にすると、「どういうこと?」と思ったりするのは、仕事がらでもある。例えば箕輪町の北小河内では、大堰と言われる水路が北へ向かって流れる。これを忌み嫌う向きもあって、災いを祓う意図で行われる行事の背景に、逆流する水路への災いの難を逃れるという意図があったりする。普通なら天竜川同様に北から南に流れるのが当たり前なのに、南から北へ流れるのは不吉であるという意識が生まれたりする。そういう意味では地形とは逆方向の流れに対して、同じような意識が育まれている例を、伊那谷では時おり耳にする。ところが安曇野では、当たり前に地形に対して逆流するように見える水路が存在する。その理由は、確かに地形の傾斜があるが、それほど急ではないために、地形に逆らって流れたりする区間があったりする。背景を探ってみれば不自然ではないのだが、いつも地形に沿って流れる光景ばかり目にしているわたしにとっては、違和感を抱いてしまうのである。それだけ地形の傾斜が緩やかな地域だと言えるのだろうが、そもそも安曇野で著名な拾ケ堰は奈良井川から取水すると、北アルプスの方向に向かって流れていく。山から流れてくるのなら当たり前なのだが、山へ向かって流れるような印象がある。伊那谷なら山、いわゆる中央アルプスから流れてくる天竜川支流から取水して天竜川に向かって流れる水路がほとんどだが、安曇野では山から出る渓流から用水を引く姿は多くはない。理由は扇状地のため、山からの水は浸透してしまう、という背景がある。したがって農業用水には恵まれない地域だったという。とはいえ、拾ケ堰が開削され完成したのは1817年。それにしては立派な家構えの家が多いこと。伊那谷とはくらべものにならない。たかだか200年の間で、これほど貧富の差が出たとは思えないのだが…。

 さて、中萱はその拾ケ堰より高い位置にある集落。ようはこの地域へのかんがい用水は奈良井川ではなく、梓川から引かれる。その中萱の北よりに歓喜寺という寺がある。四方道路に囲まれた15アールほどの寺域があるが、ちょっと不思議な空間が目に入った。歓喜寺の寺域なのかどうかははっきりしないが、その空間に石の垣根が張り巡らされた異空間がある。「何だろう」、そう思ったのは言うまでもない。また寺から少し離れたところには土塀ではないが、石垣の塀のようなものが築かれた個人宅があった。お城のような存在で、同様に「何だろう」と思った。いずれの光景も伊那谷で見たことはない。

 

安曇野市三郷明盛中萱「歓喜寺」

 

 歓喜寺の歴史を知って驚いた。明治初年まで中萱にあった法国寺という寺が廃寺になって、飯島町七久保からこの寺が移転したという。七久保と言えばわたしの家のすぐそば。こんなに遠くから寺が移転するものなのだと、明治維新後の世の中の激しさを覚える。『三郷の社寺』(平成18年 三郷村文化財保護審議会)によれば歓喜寺の開創は万治元年(1658)という。そして明治5年(1872)に廃寺になったと『三郷の社寺』には記されている。ようは七久保の歓喜寺も廃仏毀釈の中で廃寺となったと思われるのだが、「歓喜寺」という名にまったく記憶がなかったため、『飯島町誌』(平成8年 飯島町誌編纂刊行委員会)で調べてみると、確かに歓喜寺のことが記されていた。それによると瑞応寺八世梅嶺寿元和尚によって開山という。ようは現松川町上片桐瑞応寺の末寺だったという。「明治三一年七月まで現存していた」というから、廃寺年が明治5年かは定かではない。『飯島町誌』にはあまり多くは記されていないが、『三郷の社寺』にはその寺があった場所の地番が記載されている。調べてみると現在の高遠原集会施設の場所。旧三州街道沿いである。『飯島町誌』に「なにぶんにも信徒些少にして、加うるに永続財産等更にこれ無く、維持上甚だ困難を極め、到底当所にては永続の見込みこれ無く候間、信徒一同熟談の上」移転した記されている。ちょうど法国寺が廃寺になっていた中萱にとってみれば、受け入れやすかったとも言える。もちろん中萱は三郷の中でも大きな集落。高遠原とは比較にならない。当初「歓喜寺」と聞いてピンとこなかったのは、飯島町エリアには本郷にある西岸寺という大きな寺があって、歓喜寺が臨済宗妙心寺派と聞いて西岸寺の末寺だったのではないか、と思ったほど。七久保には西岸寺の末寺があったこともあり、歓喜寺がどこにあったのか、と想像したものだが、高遠原と聞いて納得した。高遠原は七久保でも南の端にあり、瑞応寺のある上片桐はすぐそこである。


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