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武石の自然石道祖神をもとめて 前編

2024-06-04 22:31:07 | 民俗学

 「旧丸子町西内の自然石道祖神①」に依田窪地区の自然石道祖神の数について、小林大二氏が昭和47年に著した『依田窪の道祖神』から引用して一覧を示した。あらためてこの表を見て欲しいのは、総数98箇所ある自然石道祖神のうち、31箇所を武石村で占めていることである。西内の自然石道祖神の比率が高いのも目立つが、数からすれば武石村という印象をうける。そこで武石村の道祖神も少し見てみよう。

 

大布施の道祖神

 ここも武石川の上流から下りながら道祖神を見つけてみる。武石川左岸に大布施という集落がある。現上田市武石上本入にあたるが、武石村はそもそも明治22年に町村制の施行によって上武石村・下武石村・沖村・鳥屋村・上本入村・下本入村・余里村・小沢根村の区域が合併して発足した。以降平成の合併で上田市になるまで、村域は変わることなく続いていた。このうち上本入村は武石川の最上流部の村に当る。大布施の集落内道端に双体道祖神が2基祀られている。天候の具合で陰影の少ない写真しか載せられないが、風化がけっこう進んでいる。この地域の石質のせいもあるかもしれないが、摩耗している石碑が目立つ。見た限りはここに自然石の道祖神は祀られていないようだが、背後に転がっている石がどう認識されているか確認はしていない。もしかしたら、とも思うが、現状は祀られているという風でもない。

 

築地原辻の道祖神

 大布施から武石川を渡って県道に出るとその正面に小さな石碑がいくつか見られる。草むらに入っていてそれらしいと気づかないが、真ん中に祀られているのが「道祖神」の文字碑である。ほかのものは馬頭観音などであるが、石垣風に囲まれている自然石が、大布施同様にかつてはどう認識されていたか、現在の姿から察すると祭祀対象とは見られない。したがってここにも自然石道祖神はないとみられる。ちなみにここは築地原にあたる。

 

築地原県道端の道祖神

 県道を東進すると、左手道端に石碑がいくつか並んでいる。ここもまた草むらの中に埋もれていて、全容がはっきりしない。目立つのは馬頭観音であるが、双体道祖神も祀られている。道祖神に倒れ掛かっている馬頭観音の横、草をかきわけると自然石が露出した。何のへんてつもない石であるが、一応並んでいるから「祀られている」と解釈して良いのだろう。これは自然石道祖神かどうか、ここでは「祀られている」という印象から道祖神として扱って良いと捉える。ちなみに小林氏の前掲書の写真にはこれは写り込んでいない。

 

築地原宅地入口の道祖神

 さらに県道を東へと下っていくと、左手にかつての保育園の建物が見えてくる。道の反対側は千曲バスの築地原待合室がある。その東側の家の入口に生け垣に少し隠れるように双体道祖神が祀られている。ほかに石碑らしきものも自然石らしきものもなく、ここには双体道祖神のみである。

 

築地原唐沢境の道祖神

 さらに県道を下って100メートルも行かないうちに、左手に石碑がいくつか祀られている。ここにも双体道祖神が2基祀られているが、向かって左側のものは、小林氏の前掲書には掲載されていない。ようは小林氏がこの本を刊行した以降に祀られたものと思われる。右側の双体道祖神は、囲われた空間に彫られているように見えるが、これは鳥居である。ようは鳥居の下に双神が彫ってあるというわけである。さて、向かって左端にやしり自然石らしきものが「祀られている」。これも道祖神なのだろう。

 小林氏の前掲書に掲載されている築地原の道祖神は、どれもこれも陰影がはっきりしていて、双体道祖神らしい雰囲気が十二分に伝わる。あえてこうした写真を撮ろうと、努力された向きがある。

続く

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