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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「伊那谷の南と北」第6章

2008-04-19 20:51:23 | 民俗学
 最近昔のものを探していて、ふと開いた冊子とそこに挟まれていた参考にいただいた手紙を読んで、再び「伊那谷の南と北」について触れたくなった。日記を書き始めたのが2年ほど前だから、その冊子の発行はさらに2年ほどさかのぼる。すっかり以前「伊那谷の南と北」について触れた際には、そのことを忘れていた。「地域文化」67号(2004/1/1・八十二文化財団)の特集は「天竜川」てある。その中で飯田市にある柳田國男記念伊那民俗学研究所の4人が対談をしているのであるが、「天竜川」という特集、そして伊那谷という範囲を想定してこの川を捉えている以上は、テーマを踏まえた対談にしては偏りがあるということを、当時この特集を担当されていた方に感想を述べたことがあった。その方から、やはり同特集を仕事の面からサポートされた方のこの特集記事に対するわたしと同じような感想をもらったといって、その方の感想を綴った手紙をいただいたのである。

 その方は伊那市駅の近くに生まれた方で、駅にほど近い天竜川が遊びの舞台であったという。ところが対談には、ほとんど上伊那のことが登場しないのである。「天竜川」というテーマにははまらず、強いて言えば「飯田より下流の天竜川」といった方が正しかったかもしれない。この対談のメンバーを決めたのは、同研究所の所長になられたばかりの野本寛一氏であり、そんな対談になるとは予想もしていなかったに違いない。いや、野本氏にしてみれば、上下という伊那がそれほど意識的に違いのある場所という印象を持っていなかったのかもしれない。だから、研究所の野本氏にしてみれば伊那谷を代表する民俗学の研究をしている人たちなら、天竜川をめぐる民俗を語るには十分だと思っていたのだろう。いや、対談後においても、そこに展開されたものが天竜川を現す民俗だという認識は変わらなかったかもしれない。

 ところが、この手紙を書いた方も、そしてわたしも、それでは片手落ちだという印象が残ったのである。「少し残念に思ったのは、お集まりになった皆さんが飯田の方たちだったためか、伊那市をはじめ上伊那の話題が少なかったことですか」という。まさにわたしの印象もそのもので、上下伊那をフィールドにしている人がメンバーにいないのだから当たり前のことで、人選そのものに「誤り」、いや、予想された内容がそこには展開されていたのである。驚いたのは、地元の三者より野本氏がより上伊那のことに触れていたことである。いかに地元の三氏にとって上伊那が薄い地域かということがよく解るわけである。いや、三氏になとっては上伊那だけではなく、長野県そのものに対しても大変薄さを感じたわけで、片手落ちどころか庭の中の対話という感じがしてしまったわけである。

 手紙を書かれた方がこんな文を書いている。「そういえば自分の子どものころを考えても、諏訪方面には行きましたが、飯田に行くことはありませんでした。同じ伊那谷でも外から見て思われるほど上伊那と下伊那は交流がないように思います」という。ようは伊那のあたりの人にとっては、飯田のことはまったく解らない。また飯田の人にとっては伊那のことは解らない。同じ空間にありながら、お互いをまったく認識していない。そんなことは取り上げるときりがないのである。担当され方にわたしは「下伊那南部をもってきて当てはめてしまうのは行き過ぎ」ということを述べた。対談は飯田以南の下伊那を重点的に捉えて、天竜川を総括してしまっていたわけである。人選もそう、そしてそのメンバーから何が語られるかもおおかた解ってしまうストーリー、そんなところに「伊那谷の南と北」が現れるのである。そしてそれがこの谷の大きな弊害であり、特徴なのであるが、少なくとも公に出る印刷物にあっては、最低限それをクロスオーバーさせる配慮が欲しかったことも事実である。

「伊那谷の南と北」第5章

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