前編で記したように『飯島町誌』(平成5年刊行「下巻」)には、「通過地点の一部だけが犠牲にならないような協力体制を確立して、道路公団と折衝に当たった」と記述されていたが、具体的なことに触れられていない。当時は通常の「買収」という形式で土地は取得された、と覚えている。ちょっと棚を探してみたのだが、高校時代に中央自動車道開通に関するテーマで文化祭に発表したことがあった。当時アンケートを無作為に行ったのだが、その資料を所持していると記憶していたからだ。しかし、棚からは見つからなかった。終活するうちには見つかると思うのだが、その時に再度その内容については見直してみようと思う。
さて、中央自動車道の県内全線開通は、わたしが飯山で働いていたころだ。当時記念した割引券をもらった記憶がある。まだまだ長野道は先の話だった。時代は10年ほど経過することになる、長野道の工事が盛んになるのは。直接土地を買収したのとは異なり、松本平の水田地帯を切り裂く道は、別の方法が取り入れられた。当時「高速関連」と称される県営ほ場整備事業が続出した。『松本市史現代編』(平成9年)によると、「56年度(昭和)は、三原則の「優良農地を守る」対応策として県圃場整備事業が、いわゆる「長野方式」とよばれた特別対策として実をむすび、全国に例のなかった「異種目換地」が実現のはこびとなって注目された」と記述されている。なぜ「高速関連」のほ場整備事業が続出したかといえば、この土地取得の方式「異種目換地」を行うためだった。ほ場整備をするエリアから換地という手法で非農用地を捻出するもので、それまでの換地は、農地に換地するものだったが、異種目、いわゆる従前の農地を非農用地に設定する手法であった。実はこの方法は昭和40年前後に始まっていた中央自動車道では適用できなかった。土地改良法の一部改正に伴ってこの手法が許可されたのだ。昭和48年2月8日に48構改B第192号で交付された「土地改良法の一部を改正する法律の施行について」の第2において、「従来、非農用地については、閲係権利者の権利を保護するための規定が不備であつたため、開発して農用地とすることが適当な土地等のほかは、土地改良事業の施行地域内に含めないよう指導していたが、今後は、農用地の集団化その他農業構造の改善に必要な限りにおいて、当該非農用地の関係権利者全員の同意を得れば、土地改良事業の施行地域内に含めることができることとした」ものであった。ようは土地改良法に則って行われるほ場整備事業において、非農用地を地区内に新たに設定する場合、その設定する非農用地を地区内に含めて換地できるというものであった。この改正により、現在もよく言われる非農用地が地区内に3割を限度とする、という数値が定められたわけである。公団側にしてみれば、それぞれの該当地権者に折衝する必要はなく、農地内に買収地があれば、ほ場整備によって換地手法によって買収できるため、事務的作業はかなり節約できたはずである。
さて、前掲書には客土(ここでは「土採り場」と表現している)先について、当初は赤木山を交渉していたが、断念し、「明科町内の山」に変更したと記している。
なお、余談であるが、『飯島町誌』には、「国土開発縦貫自動車道法案」について「国会に提出されたのは昭和30年で、成立したのは昭和32年であった」とあり、いっぽう『松本市史現代偏』には「衆議院で可決された」のは「昭和30年」と短く記されている。公布施行されたのは、昭和32年4月16日であって、後者が記している「可決」は前者の「国会に提出」とほぼ同意であって、ここで施行された日が大事なのか、それとも可決された日が大事なのか、そんなことを考えさせられる表現の相違である。
終わり
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