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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

中央自動車道から長野道へ 前編

2022-03-01 23:22:39 | 歴史から学ぶ

 先日中央自動車に関する日記を「他人事」に記した。伊那谷での高速自動車道開発は昭和40年代になって顕在化した。以前記したように、中央自動車道と冠しているように、真ん中をストレートに東と西を繋ぐ道だったようだ。日経クロステック(xTECH)の2010.12.28付け「南アルプスを越えられなかった中央自動車道」(文責 高槻 長尚氏)のことは、2017年7月に「中央自動車道初期予定ルート」と題して記した。そこに記したように、田中研究所が検討していた中央自動車道は、けして「ストレート」とは言いがたいほど曲がりくねっている。もちろんリニアとは速度が異なるから当然のことだろうが、そう考えるとリニアほどまっすぐな大型交通路は初めてと言ってもよいのだろう。このルートが持ち出されたのは、前掲の記事によると、ちょうどわたしが生まれたころのことのよう。南アルプスルートが北回りにルートに変更されたのは、1963年のことだったという。中央自動車道建設推進委員会が1963年5月17日に開催した第6回総会でのこと、長野県出身の国会議員であった委員長の青木一男(1889-1982年)が突如、ルートを北回りに変更する方針を明らかにしたという。リニアとはまったく正反対の流れだったわけだが、当時はそれだけ地方議員の声が強く、そして「通った」ということだろう。リニアではそうはいかなかった。地方より、大都市を結ぶことが優先された、ということなのだろう。世論もそうだった。前掲記事にも取り上げられているが、「身延町誌」より引用されたルート図が下図である。これを見ると解かるように、東名高速もずいぶん迂回していることがわかる。山岳道路のため、必ずしも中央自動車道が「早い」とは言えないが、最短ルートという観点では、東名より中央道ということは、この図でもわかる。北回りに迂回して60キロほど長くなったとはいえ、東名に比較してそれほど遜色はない。したがって東名が混雑していれば、中央道の方が早い、ということはあるのだろうが、恵那山トンネルが割高のため、通行料は明らかに東名が有利だ。加えて今は第2東名も開通している。

『身延町誌』より

 

 さて、中央自動車道も高速道路としては早期に手がけられていた道。とりわけ河口湖までの初期中央道は早期に開通していた。北回りに変更されたために、山梨県内が最後に開通して、全線開通となった(昭和57年)。

 昭和40年前後にすでにこの地域では世論の的となっていたであろう中央自動車道。伊那谷は山麓部には畑地帯が多かったため、比較的優良農地という意識はなかっのかもしれないが、とはいえ土地を手放すのには抵抗のあった時代。当時は被買収者組合と道路公団との折衝によって土地は取得された。このあたりを『飯島町誌』(平成5年刊行「下巻」)に拾うと、「昭和41年に農協と飯島町を中心とした対策委員会が結成されて、土地買収の交渉、代替地のあっせん、用水井・道路の整備、墓地・家屋の移転保証、該当者への低利資金の融通など、広範な問題が討議され、通過地点の一部だけが犠牲にならないような協力体制を確立して、道路公団と折衝に当たった」とされている。そして昭和47年に提出された「飯島町基本構想審議会」の答申案について触れ、「県立公園の千人塚と与田切渓谷を拠点とする「自然との調和のとれた広範囲の開発」「中ア南駒山麓の保健休養地的な別荘団地の造成」などをキャッチフレーズに、千人塚・市の瀬橋・うどん坂を結ぶ道路の整備、傘山と横根山を結ぶ展望道路の開設、シオジ平の開発保護、夏期林間学校や会社の寮や国民宿舎などの設置や誘致、総合グランドの造成など、将来の夢は大きく広がったものであった」と記している。もちろん刊行が平成5年であるから、その東晋案が「夢」であったことを踏まえての記述と察せられる。大きな変化を伴った事象ではあるものの、その記述がさほど多くないのは、町誌であれば仕方のないことかもしれないが、実は現代史が確実に記録されていない、ひとつの例とも言えよう。現代史は記録が詳述できる可能性があるものの、意外に実践されていないことを富に思うこのごろである。

続く


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