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徴兵と戦火のはざま 前編

2022-08-12 23:18:57 | 歴史から学ぶ

 先日の長野県民俗の会例会は豊科郷土博物館で開催された。発表の合間に、同館で現在行われている企画展「安曇野の戦争 ―郷土から戦場へ―」の案内を原館長からいただいた。徴兵令が交付されたのは、明治6年と近代国家を目指した日本において、つい先ごろまで江戸時代であったことを思えば、意外に早かった。「戦争」という流れは、ここから第二次世界大戦まで駆け上る。徴兵検査は男性20才に達すると受ける。この徴兵事務は市町村の兵事係が関わった。ただ、当時の資料は敗戦時の焼却処理命令によって処分され、具体的な流れはわからないという。『明科町史下巻』旧東川手村の昭和4年から11年までの徴兵検査関係の表が掲載されていて、その一部がわかるという。昭和6年には検査人員49名、身長1.55m以上で身体強健の29名が合格した。優秀とされる甲種11名、次いで乙種第一種が5名、第二種が13名だった。不合格は17名で、その内訳は身長が足りない体が弱い者が国民兵に適する丙種14名、疾病等のある者は丁種、兵役免除が3名だった。東川手村に翌年割り当てられた現役兵は7名であったというから、甲種11名の中からくじ引きで選ばれたという。日中戦争の始まる直前の昭和11年には現役兵の割り当ては13名あり、甲種合格の11名では足りず、第一乙種から2名抽選された。ようはこのころは徴兵検査に合格した、優秀な者から選ばれていた、ということになる。

 現役以外の合格者は、第一補充兵役、第二補充兵役に振り分けられ、そのほかは第二国民兵役となった。その兵役義務は40才まで続いた。そして昭和16年に太平洋戦争に突入すると、アジア全域に軍隊が展開するようになり、戦死者も増え、人員不足となる。昭和19年10月には徴兵年齢が19才に下げられ、昭和20年になると「根こそぎ動員」に向かった。第二国民兵に編入された者も教育訓練をを受けないまま招集されて兵士となり、戦死者をさらに増加させた。安曇野市域から兵士や軍の命令に基づいて動員された戦病死者数は、『南安曇郡誌第三巻上』と『明科町史下巻』の記載から、明治時代以来1836名に及ぶという。そのうち1681名は日中戦争以降に亡くなった方たちで、末期の昭和19・20年の2年間だけで1200名を越えたといい、その多くは20代の若者だった。

 さて、今回の企画展では、戦死者を郷里はどのように扱ったのか、という点にも注視している。そのひとつはノモンハン事件で戦死した佐々木武陸軍航空兵のこと。19歳で陸軍航空兵に志願し、翌年1月に現役兵として入隊している。昭和12年7月7日盧溝橋事件の8日後、95式戦闘機を12機装備した新編成の独立第9飛行中隊に加わり、華北全域の戦闘にに参加する。後に飛行第64戦隊第3中隊に名称が変わるが、24才で航空兵曹長に上がり、翌年1月5日に南京飛行場で最新鋭の第97式戦闘機の引き渡しを受け、2年間に渡り中国大陸で航空戦を続けた。その活躍は新聞でも取り上げられた。そして昭和14年のノモンハン事件である。この事件での日本とソ連両軍の戦傷者は3万人にも及んだという。しかしながら当時の新聞は華々しい戦果を強調する軍の発表が飾り、楽勝ムードの紙面が溢れていたという。その年の8月21日の攻撃で佐々木武航空兵は戦死した。26才だった。当日の飛行時間は一機当たり8時間にも及んだという。遺族には遺骨は奥地のため回収できないが、遺品として軍隊手帳が届けられた。満州国主催の慰霊祭のか、大連港出航の際にも大連市主催の慰霊祭、そして神戸に上陸した際にも大日本国防婦人会神戸本部主催の慰霊祭が行われた。もちろん地元に着いた際にも葬儀、慰霊祭が行われている。殊勲甲の論功行賞を受け、英雄扱いであったとも。まだ戦死者への扱いが篤かった中での帰還だったといえる。

 いっぽう2枚の寄せ書きがされた日章旗も展示されている。「OBON SOCIETY」といわれる先の大戦で連合軍兵が持ち帰った旧日本兵の「寄せ書き日の丸」をはじめとした遺留品を遺族へ変換することを目的として、アメリカに本拠地を置く活動組織が中心となって帰ってきた日章旗。「祈武運長久 為本田卓郎君」という日章旗はニューギニアの戦場から持ち帰られたものという。痛みが激しいもので、近年帰ってきたものだが遺族には納めてもらえなかったもののよう。戦況が悪化した末期と、前述した航空兵の例とは扱い方がまったく異なることに気づく。

続く


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