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旧丸子町西内の自然石道祖神①

2024-05-24 23:13:51 | 民俗学

松本市三才山本村東の道祖神

 

 午前中松本市内で会議があった。せっかく松本まで足を延ばしているので午後は三才山トンネルを越えて旧丸子町の自然石道祖神を見てみようと考えた。そもそも「高遠町山室の獅子舞へ」に掲載した「正月の獅子舞」における「二月八日の道祖神獅子舞」の記号があるうちの上田市の松本市境にある記号は、旧丸子町西内のもの。西内といってもわかりづらいが、鹿教湯温泉と言えばすぐにイメージがつくだろう。鹿教湯温泉のある場所は、旧丸子町西内である。この西内を興味深く捉えたのは二月八日の獅子舞であり、自然石道祖神であった。

 

依田窪の自然石道祖神祭祀箇所数

(表中の長門大門の計が「2」となっているのは、原文のまま)

 

 西内の自然石道祖神については、福澤昭司氏が「自然石道祖神」(『長野県民俗の会通信』258)で紹介している。福澤氏が西内の自然石道祖神に注目したのは、小林大二氏が昭和47年に著した『依田窪の道祖神』の報告を見てのこと。何より自然石道祖神を扱っていることに注目している。以前から記している通り、道祖神というと双体像がイメージされるように、イメージされた石碑に捉われて、それ以外の道祖神がおざなりにされた傾向がある。絵(写真)になるから双体像に目が行くのは仕方ないとして、信仰の対象として民俗で扱うのなら、双体像以外のものにもしっかりと陽を当ててほしかったわけである。そういう意味では小林氏は、しっかりと自然石道祖神について検討している。表は小林氏が同書に掲載した一覧(135頁)をアレンジしたものである。「自然石のみ」とは道祖神として祀られている対象物が自然石である例。「文字碑等と併祀」は自然石とは別に文字碑や双体像といったものを併祀している例である。赤色で示した西内では、12の道祖神のうち11が自然石のみと圧倒的に自然石が道祖神として捉えられている地域。旧武石村は自然石道祖神の数が多いが、ほかの祭祀対象も併祀されている。この割合は道祖神対象物を議論する際の重要なポイントとなるとわたしは考える。福澤氏も西内の自然石道祖神の割合に注目している。

 さて、現在は三才山トンネルをくぐればすぐに西内である。松本市本郷の三才山から西内の最も奥の集落まで、距離にして現道の道のりで10キロ程度。「近い」と言うまでもないだろうが、かつての峠越えはそれほど遠い存在だったのか。わたしにとってこの三才山トンネル越えの道は身近ではなかった。これまで何回通ったことがあるか、おそらく1、2回程度。直近はいつなのか、と思い出しても記憶にないほど。松本経由で丸子に出るという必要性が皆無だった。かつては有料道路だったことも、この道を敬遠させた。したがってこれほど近いとは知らなかった。松本市の最奥にあたる三才山集落から、鹿教湯温泉などあっというまである。それを予想したわけではないが、松本側には自然石道祖神がないのか、そう思い三才山集落もうかがってみた。

 写真は三才山本村東の「道祖神」である。文字碑には銘文が一切なく、造立年は分からない。松本市教育委員会の発行した『松本の道祖神』(平成5年)を見てみると、この文字碑のみ記載されている(94頁)。同書では「道祖神のまつり方」について解説しており、その中で自然石には触れておらず、あえて言えば陰陽石について触れているだけである(156頁)。また、昭和54年に今成隆良氏が著した『筑摩野の道祖神』(柳沢書苑)においても、文字碑のみ扱っていて自然石について触れていない。写真でもわかるとおり、向かって左側に陽石(男根)とともに、ごつごつした石が祀られている。もしかしたら陰石を表わしているのかもしれないが、男根とは石質が異なる。この自然石と西内の自然石道祖神は同系と、わたしは捉える。

続く


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