『日本の石仏』146号に「中部山地に点在する一石三十三観音塔探訪」という報告が井戸寛氏よりされている。冒頭に「長野、岐阜、愛知、静岡にまたがる中部山地に点在する究極の移し霊場形態、一石三十三札所観音霊場塔を1998年より探訪開始し、この度ようやく各自治体資料に見られるこの塔の探訪を終えました」とある。究極とはよく知られた観音霊場は例えば寺を巡礼することで満願を果たす形式のものであり、それを集約したものとして道々に建てられた三十三観音に移し霊場が模されていったわけであるが、ひとつの石でそれを果たそうというのだから、これ以上究極はないだろう。ふつうの人はそのような石仏を見たこともないだろうが、この地域には以外にも一石三十三観音の事例が多い。井戸氏はかつて『日本の石仏』118号と130号に同様の報告をしていたわけであるが、情報を得て新たにそのリストを修正したわけである。井戸氏の報告によれば天竜川流域の事例として12例をあげている。それらは次のようである。
下伊那郡売木村軒川 二俣瀬 路傍 明治32(1899)180×88 光背型
下伊那郡阿南町富草鷲巣 草土堤上(廃道)年代不明 105×100 自然石
下伊那郡阿南町新野原町 瑞光院境内 元文2(1737)155×85 自然石
下伊那郡阿南町雲雀沢 寺院参道(国道際)享保10(1724)130×95×30
下伊那郡阿南町神子谷 祠堂跡(茶畑内)天保1(1830)140×73×25
下伊那郡阿南町和知野 路傍(集会所付近)文化10(1813)100×55×25
下伊那郡阿南町矢野(秋葉街道山中天竜村境)庚申堂脇 文政8(1825)275×90×60(台石80×130)中部山地最大級
下伊那郡阿南町川田 旧分校近く 庚申堂脇 安永2(1773)舟形 法量不明
下伊那郡阿南町小野JA支所うらて 石神祀り場 年、法量不詳
下伊那郡泰阜村三耕地打沢 福寿寺境内 年代不明 90×48 笠付
下伊那郡泰阜村三耕地打沢 福寿寺境内 年代不明 各90×48 11尊3石 光背型
飯田市千代中山 近藤家墓地入口 年代不明 93×50 駒塑
座光寺恒川清水 集会所 天明5(1785)110×53 笠付(笠破損)
下久堅柿野沢 古垣戸 路傍 天保4(1833)100×86 自然石
いずれも県南部の県境域を中心にしており、そのほかの愛知、静岡、岐阜の事例の存在位置からわかることは、4県の県境域にこの一石三十三観音が多く分布しているということである。県内の報告を見ても14例中阿南町に8例を示しており、この地域で江戸時代に流行があったことを示す。年銘のあるものの最古のものはやはり阿南町雲雀沢の享保10年(1724)のものである。
さて、実は井戸氏のリストにに掲載されていないものを先日下條村親田の墓地に建っているのを見つけた。個人の墓地に建立されているところからもちろん個人所有のものなのだろうが、年代的には風化の程度などから江戸後期に入ったころのものだろうか。井戸氏はこんなことを書いている。「現在の地域の人に尋ねても不明の返事のみでした」と。すでに山間地域でもその存在すら知らない人がが多い。とくに地元の人がそれを知らないのである。「民間信仰の伝承者はどこへ行ったのか」と井戸氏は言うが、どこへ行ったわけでもない、もはや信仰そのものが消えているといった方が正しい。ことに生活に直感しないような信仰が先進的に消えていったのである。
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