Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

よそ者のみた駒ヶ根の暮らしⅣ

2007-10-23 12:17:57 | ひとから学ぶ
 駒ヶ根暮らしした都会人の「緑陰生活体験記」を捉えた最終章である。

⑩米の話し
 緑陰生活をされている方の視点で最も気づかされたものが、「野菜はくれても米はくれない」というものだ。正確に言うと「米はくれることが少ない」と言っているから、米をもらうということもあるのだといっぽうで知らされたわけだが、その「米をくれる」という詳細なシチュエーションには触れられていないから実態は不明だ。よく知られているように、田舎特有の付き合いに物々交換というものがある。「いい野菜がとれたから」などといって隣近所に分けたり、あるいは珍しいものが手に入ったからといって同様におすそ分けすることはよくある話である。もの余りの時代だから、もらっても喜ばないということもあって、農家同士でモノをやり取りするなんていうことも少なくなっただろうが、それでも「あそこの家は○○を作っていないから」などといって、初物が採れると配るなんていうことは今でも行われることだ(平地農村と山間農村は意識にだいぶ差があるだろうが)。わたしのように農村地帯によそから入ってきたものは、農家でないことをみんな知っているから、周辺の果樹農家からおすそ分けが毎年のようにある。果樹だけではなく、畑もないからといって野菜をもらうこともある。こうしてモノをもらえば、「お返し」ということをしなければならない。もちろんこの「お返し」をしに訪れると「そんなつもりでやったんじゃないに」などと言われるわけであるが、そのまま過ごしてしまっては、「お付き合いが悪い」ということになってしまう。モノをもらえばお返しをするということは、田舎に限ったことではないだろうが、田舎ではとくにこの「お返し」に気を使わなければならない。しかし、こうしたやり取りがあったからこそ、田舎は助け合いと言うものが生きていたはずだ。ところが、「モノをもらっても嬉しくないだろう」と、やる側も気を使うようになって、それくらいなら「やらない方が、相手にとっても良いだろう」ということになってそうした行為が減少してきている部分もある。

 だいぶ地域になじんでくると、「あそこは2人とも農家の出だから」といって「○○はつくっとるの」などといって聞いてくれるようになる。だから手に入るものをもらうことは少なくなったが、家で作っているものをもらっても「ありがたい」という気持ちを十分に相手に伝えないといけない、と妻はいう。それほどモノのやり取りと言うものは、人と人の関係で大きなポイントとなるんだと思う。とはいうものの、妻はもらったあとに「あんた食べる」と聞き、答えないと「食べないよね」などと言うこともよくある。自ら「ありがたい」という顔をしなくちゃ駄目だと言いながら、けっこうわたしには際どいことを言う。いずれにしてもくれるものはありがたくもらう、けして「いらない」なんて言ってはいけない、と身内では話すか、正直なわたしはけっこう顔に出てしまうタイプだ。

 さて話しがそれてしまった。「米はくれない」と言う言葉を聞いて気がついたのだが、米を隣近所に配るということはまずしない。果物ができたといって会社に持って行き食べてもらうことはあっても、美味しい米ができたからといって食べてもらうことはない。緑陰生活をされた方は、「それだけ米に思い入れがあるのでしょうか」という。わたしは米作りの地帯で生まれ育ったから、その言葉に「なるほど」
と思うわけだが、どうなんだろう。たまたま現在住んでいる場所は米作り主体の地域ではない。田んぼがないわけではないが、傾斜とだから畑が多い。だから生業の主生産物についてはどう考えているのか、ということになる。米作りの主体の人たちにとって、副産物である野菜や果物をどうとらえているのか、また果樹生産主体の人たちはその主生産物の果樹に対してどう思い入れがあるのか、ということである。「ものをやる」ということと生業の中の生産物という視点で農家の人たちに話を聞いたことはない。こんな視点も面白いと気づかされたのだ。生家でもそうであったが、米を隣近所にやることはなかった。それは単に、どこでも作っているからそうなっただけで、米に思い入れがあったためとはなかなか言い難い。隣近所にやることはなくても、家から出た子どもたちには米をやったものだ。いや、米を作っていない親しい人にはやっていたようにも記憶する。それでも「家で採れた野菜です」なんていう物言いは米にはまずない。なぜそういう意識だったのかは、自ら米を作っていないからちょっとわかり難い。もちろん農家によっても異なるはずだ。米の品質は採れたものの中に差は見出し難い。しかし、野菜にしても果樹にしても、同じ場所で採れたもののなかには必ず品質の差がある。「傷があるから」といっていただける場合もある。しかし、もらう時の「傷物だから」あるいは「へぼいもので悪いけれど」という言葉の背景で、本当に傷が見えていればともかく、必ずしも品質の悪いものとは見た目では解らない。日本人特有の言い回しでは、本意とは捉えがたいものもたくさんあるからだ。モノのやり取りの世界、少し気を使って書き留めてみたいものだ。

 終わり。

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