東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

アメリカ

2024-06-29 22:37:04 | 日記
 対立する2者が裏で繋がってるのが、あの人たちのやり方なのかなあ?。
 
 ウィキペディアで調べると、自民党の結党は昭和30年(1955年)で、平成5年(1993年)の細川内閣の前まで自民党政権が続いていたようだ。細川内閣と羽田内閣と村山内閣と続いて、平成8年(1996年)に自民党政権に戻って、平成21年(2009年)から鳩山内閣と菅内閣と野田内閣と続いて、平成24年(2012年)に自民党政権に戻って、今の岸田内閣ということになってるようだ。
 
 鶴見祐輔という人は後藤新平の娘を妻にしたみたいだけど、鶴見祐輔は鳩山一郎の日本民主党の顧問になり、第一次鳩山内閣で厚生大臣に就任したようだ。その後に自民党が結党したようだけど、鶴見祐輔は自民党の顧問になったようだ。
 
 鶴見祐輔の娘の鶴見和子という人は戦後に共産党員だったこともあるようだ。鶴見祐輔の息子で鶴見和子の弟の鶴見俊輔という人は岸内閣の日米安保条約改定に反対したり、ベトナムに平和を!市民文化団体連合を結成したり、抗議のデモや座り込みもしていたようだ。鶴見祐輔は晩年は九条の会の呼びかけ人の1人になったようだ。
 
 安保闘争について詳しく知らないけど、昭和34年(1959年)から昭和35年(1960年)の安保闘争と昭和45年(1970年)の安保闘争と2回あるらしい。
 
 大平洋戦争の後の吉田茂が総理大臣だった時の昭和26年(1951年)に旧日米安全保障条約が結ばれ、岸信介が総理大臣だった時の昭和35年(1960年)に新日米安全保障条約が結ばれたらしい。60年安保闘争では日本社会党や日本共産党だったり、全学連という学生の人たちがデモに参加し、岸信介はデモを沈静化するために児玉誉士夫という人を頼り、右翼や暴力団の人たちもデモの鎮圧にあたったらしい。
 
 昭和45年(1970年)の安保闘争は昭和35年(1960年)に結ばれた新安保条約の自動延長の際に起こったらしく、学生運動が盛んになり、全共闘といわれる組織が日本各地の大学に広まったらしい。この時の総理大臣は佐藤栄作だったようだ。
 
 児玉誉士夫という人はCIAの仲間らしいけど、岸信介もCIAの仲間なんでしょ?。
 
 児玉誉士夫という人は戦後のフィクサーともいわれる人らしいけど、ウィキペディアで調べると、児玉誉士夫という人は福島県の今の本宮市の出身らしい。少年時代は貧しい暮らしだったらしく、朝鮮半島に渡って朝鮮半島の旧制専門学校を卒業した後に日本に来て、鉄工所で住み込みで働いた後、右翼を組織を転々とするようになったらしい。
 
 児玉誉士夫という人は太平洋戦争の開戦前に海軍航空本部から航空機に必要な物資の調達を託され、上海に児玉機関という店を出し、海軍航空本部と独占契約をして莫大な富を得たらしい。大西瀧治郎という人は海軍の軍人で、神風特攻隊の創始者の一人ともいわれるらしいけど、大西瀧治郎は太平洋戦争の終戦時に自決したらしく、児玉誉士夫という人は大西瀧治郎の自決の時に駆け付けたようだ。
 
 児玉誉士夫という人は太平洋戦争の終戦後の東久邇宮内閣で内閣参与になり、その後にA級戦犯の容疑で逮捕されたようだ。児玉誉士夫という人は鳩山一郎の日本民主党の結党に資金提供して、その後に自民党ができて、鳩山一郎は自民党の初代総裁に就いたようだ。岸信介が総理大臣になるのにも関わっていたようだ。戦後の右翼にも関わっていて、暴力団との繋がりもあったようだ。日韓の国交回復にも児玉誉士夫という人が関わってるらしい。児玉誉士夫という人は企業間の紛争にも介入したり、ロッキード事件にも関わっていたようだ。
 
 昭和の時代の右翼の人たちって、黒いバスのような乗り物に乗って、天皇や皇室どうこう靖国神社どうこうスピーカーで流しながら街の中を走ってた気がするけど、裏でCIAが関わってたのか知らないけどさあ。
 
 ウィキペディアで調べると、CIAはアメリカの中央情報局のことで、アメリカの国家の安全保障のための対外情報機関らしい。1947年にアメリカの大統領だったトルーマンの要望で組織されたらしい。
 
 アメリカですか・・・。
 
 
 火をつけるか

共産主義

2024-06-29 22:30:49 | 日記
 対立する2者が裏で繋がってるのが、あの人たちのやり方なのかなあ?。
 
 本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど、後藤新平は第二次桂内閣で逓信大臣と初代鉄道院総裁、第三次桂内閣で逓信大臣、寺内内閣で内務大臣と外務大臣、第二次山本内閣で内務大臣に就いたようだ。後藤新平は東京市長にも就任したようだ。後藤新平は関東大震災の後に帝都復興院総裁に就き、東京の復興計画を立案したらしい。後藤新平は昭和4年(1929年)に亡くなったらしい。後藤新平はフリーメイソンらしい。
 
 鶴見祐輔という人は後藤新平の娘を妻にしたみたいだけど、鶴見祐輔は鳩山一郎の日本民主党の顧問になり、第一次鳩山内閣で厚生大臣に就任したようだ。その後に自民党が結党したようだけど、鶴見祐輔は自民党の顧問になったようだ。
 
 ウィキペディアで調べると、自民党の結党は昭和30年(1955年)で、平成5年(1993年)の細川内閣の前まで自民党政権が続いていたようだ。細川内閣と羽田内閣と村山内閣と続いて、平成8年(1996年)に自民党政権に戻って、平成21年(2009年)から鳩山内閣と菅内閣と野田内閣と続いて、平成24年(2012年)に自民党政権に戻って、今の岸田内閣ということになってるようだ。
 
 鶴見祐輔の娘の鶴見和子という人は戦後に共産党員だったこともあるようだ。鶴見祐輔の息子で鶴見和子の弟の鶴見俊輔という人は岸内閣の日米安保条約改定に反対したり、ベトナムに平和を!市民文化団体連合を結成したり、抗議のデモや座り込みもしていたようだ。鶴見祐輔は晩年は九条の会の呼びかけ人の1人になったようだ。
 
 中華民国は1912年に成立して、北京政府の1912年から1928年の時代と南京国民政府の1928年から1949年の時代に分けられるようだけど、南京国民政府は崩壊して台湾に移って台湾国民政府を再興したようだ。1921年にソ連の支援で中国共産党が結党されたようだけど、1949年に中華人民共和国が成立したようだ。
 
 1948年に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の建国が宣言されたようだけど、1950年に朝鮮戦争が勃発し、1953年に停戦になって現在まで続いてるらしい。朝鮮戦争の頃の日本では朝鮮総連や在日朝鮮人や共産党員のテロ事件が多発したようだ。ウィキペディアに、そう載ってる。朝鮮半島からの密入国者も多数いたようだ。
 
 共産主義ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

ソ連

2024-06-29 22:26:04 | 日記
 岩手県奥州市の前沢の出身で、小野寺信という人がいるみたいだけど、地元でも、ほとんど知られてない人のようだ。小野寺信は陸軍の軍人で、太平洋戦争の頃にストックホルムにいて、諜報活動をしていたらしい。
 
 小野寺信は太平洋戦争の開戦前にはアメリカとの開戦の反対の電報を送っていたようだし、太平洋戦争の終戦前も、ヤルタ会談でアメリカとソ連の間で密約が結ばれたことやソ連の日ソ中立条約の破棄やソ連の参戦の情報もつかんでいて、日本に送っていたらしい。
 
 本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど、後藤新平は第二次桂内閣で逓信大臣と初代鉄道院総裁、第三次桂内閣で逓信大臣、寺内内閣で内務大臣と外務大臣、第二次山本内閣で内務大臣に就いたようだ。後藤新平は東京市長にも就任したようだ。後藤新平は関東大震災の後に帝都復興院総裁に就き、東京の復興計画を立案したらしい。後藤新平は昭和4年(1929年)に亡くなったらしい。後藤新平はフリーメイソンらしい。
 
 日露戦争は第一次桂内閣の時の明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にあって、日露戦争の後に南満州鉄道が日本に譲渡され、後藤新平は南満州鉄道の初代総裁に就いたようだ。昭和6年(1931年)に満州事変があって、1932年に満州国が成立したようだ。満州国は1945年まで続いたらしい。
 
 1917年にロシア革命があって、1922年にソ連が成立したようだ。後藤新平は大正12年(1923年)にソ連の外交官のヨッフェという人と会談を行ったようだし、昭和3年(1928年)にはソ連に行ってスターリンと会見したようだ。
 
 コミンテルンの正式名称は共産主義インターナショナルらしいけど、第三インターナショナルともいわれるようだ。前身組織に第一インターナショナルと第二インターナショナルがあるらしい。1918年のコミンテルンの会議で日支闘争計画の案が決議されたらしいけど、ウィキペディアを見ると、日本と中国を内部から崩壊させ、中国に反日運動を起こし、日本と中国の戦争に発展させて、そこにソ連とアメリカが干渉する戦争にまで発展させて日本を倒すという計画だったようだ。それに欧州に社会革命を起こして第二次世界大戦を引き起こすという計画だったようだ。
 
 第一次近衛内閣の時の昭和12年(1937年)に日中戦争が始まったようだけど、第一次近衛内閣では国家総動員法が成立したようだ。第二次近衛内閣では近衛文麿は大政翼賛会の総裁になって、すべての政党が大政翼賛会に合流したようだ。第二次近衛内閣では日独伊三国同盟や日ソ中立同盟が結ばれたらしい。第三次近衛内閣の退陣前にはゾルゲ事件というスパイ摘発事件があって、ゾルゲというソ連のスパイの人や尾崎秀実という近衛文麿の側近の人も捕まったようだ。
 
 太平洋戦争は昭和16年(1941年)の12月8日に始まって、太平洋戦争の開戦の時の日本の総理大臣は東条英機で、東条内閣は昭和19年(1944年)の7月18日に総辞職して、東条英機の次に小磯国昭が総理大臣になって、小磯内閣は昭和20年(1945年)の4月7日に総辞職して、小磯国昭の次に鈴木貫太郎が総理大臣になって、太平洋戦争の終戦は昭和20年(1945年)の8月15日ということになってる。
 
 鈴木貫太郎内閣の外務大臣は東郷茂徳という人で、東郷茂徳はソ連を仲介にしてアメリカとの和平交渉をしようとしていたらしいけど、ヤルタ会談でソ連とアメリカは密約が結ばれていたらしく、日本の外交はソ連には相手にされなかったようだ。
 
 昭和20年(1945年)の8月6日に広島に原爆が落とされ、8月8日にソ連は日ソ中立同盟を破棄して満州や朝鮮半島や北方領土に攻めてきて、8月9日に長崎に原爆が落とされ、8月14日に日本はポツダム宣言を受諾して、太平洋戦争の終戦は8月15日ということになってるようだ。
 
 中華民国は1912年に成立して、北京政府の1912年から1928年の時代と南京国民政府の1928年から1949年の時代に分けられるようだけど、南京国民政府は崩壊して台湾に移って台湾国民政府を再興したようだ。1921年にソ連の支援で中国共産党が結党されたようだけど、1949年に中華人民共和国が成立したようだ。
 
 ソ連ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

昭和

2024-06-29 22:02:30 | 日記
 明治維新の話は嘘の気がするけど、明治維新から太平洋戦争の終戦までの日本っていうの?、カオスっていうか、明治時代の歴史も、かなり怪しいんだよなあ。
 
 明治以降の日本にはアジア主義といわれる人たちがいて、玄洋社という右翼組織があって、玄洋社から派生した黒龍会という海外工作機関もあったらしい。玄洋社は福岡藩の藩士だった人たちが中心になって結成されたことになってるらしい。
 
 昭和11年(1936年)に2.26事件があって、2.26事件は陸軍の青年将校の人たちが中心になって引き起こしたようだ。2.26事件で決起した人たちは昭和維新を掲げていたらしい。2.26事件も不可解な点があるんだよなあ。
 
 2.26事件の時の総理大臣は岡田啓介で、次の総理大臣は広田弘毅で、広田弘毅が総理だった時に陸軍の粛清人事が行われ、決起した人たちの処刑が行われたらしい。次の総理は林銑十郎で、次の総理が近衛文麿らしい。第一次近衛内閣の後に平沼内閣と阿部内閣と米内内閣があって、その後に第二次近衛内閣と第三次近衛内閣があって、その後が東条内閣らしい。
 
 広田弘毅という人は福岡県の出身らしいけど、広田弘毅も玄洋社絡みの人らしい。広田弘毅は斎藤内閣と岡田内閣で外務大臣に就き、岡田内閣の後に総理大臣になって外務大臣を兼任したようだ。第一次近衛内閣でも外務大臣に就いたようだ。広田弘毅は太平洋戦争の後にA級戦犯になって、昭和23年(1948年)に処刑されたらしい。
 
 広田弘毅は死刑宣告の後に、「雷に打たれたようなものだ」みたいなことを言ったらしい。ウィキペディアに、そう載ってる。
 
 第一次近衛内閣の時の昭和12年(1937年)に日中戦争が始まったようだけど、第一次近衛内閣では国家総動員法が成立したようだ。第二次近衛内閣では近衛文麿は大政翼賛会の総裁になって、すべての政党が大政翼賛会に合流したようだ。第二次近衛内閣では日独伊三国同盟や日ソ中立同盟が結ばれたらしい。第三次近衛内閣の退陣前にはゾルゲ事件というスパイ摘発事件があって、ゾルゲというソ連のスパイの人や尾崎秀実という近衛文麿の側近の人も捕まったようだ。
 
 昭和10年(1935年)に当時の総理大臣だった岡田啓介が会長になって紀元二千六百年祝典準備委員会が発足したらしく、紀元二千六百年祝典準備委員会は紀元二千六百年祝典評議委員会ができて廃止になり、内閣には内閣紀元二千六百年祝典事務局が設置され、昭和12年(1937年)には恩賜財団紀元二千六百年奉祝会ができたようだ。それに合わせて橿原神宮の整備が進められていったらしい。
 
 昭和15年(1940年)の年初には橿原神宮からのラジオ中継が行われ、2月11日の紀元節には橿原神宮では紀元二千六百年奉祝紀元節記念大祭が行われ、日本各地の神社でも大祭が行われ、11月10日には紀元二千六百年式典が皇居外苑で盛大に行われたらしい。この年には紀元二千六百年を記念した美術展覧会や天覧武道大会や児童唱歌大会や吹奏楽競演会なども行われ、日本各地の都市や東京や大阪の百貨店で展覧会が行われたらしい。記念切手も発売されたらしい。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

福岡

2024-06-29 21:53:06 | 日記
 日本の歴史は嘘の気がするけど、今一つ、決定力に欠けるなあ。
 
 明治以降の日本にはアジア主義といわれる人たちがいて、玄洋社という右翼組織があって、玄洋社から派生した黒龍会という海外工作機関もあったらしい。玄洋社は福岡藩の藩士だった人たちが中心になって結成されたことになってるらしい。
 
 日本の右翼の源流っていうの?。この人たちが日本人か知らないけど・・・。
 
 明治維新の後に胆沢県ができて岩手県奥州市の水沢には胆沢県庁が置かれ、安場保和という人が来て大参事に就いたらしいけど、安場保和は熊本藩の出身で、水沢の地元の少年から選んで仕事をさせてたらしく、後藤新平も斎藤実も安場保和に見出された少年ということになってるらしい。本当か知らないけど・・・。後藤新平は安場保和の娘を妻にしたらしい。
 
 杉山茂丸という人は玄洋社の経済基盤確立のために安場保和を福岡県令に就かせたようだ。杉山茂丸は筑豊炭田の取得のために安場保和を福岡県令に就かせたらしい。福岡県令が福岡県知事になったようだけど、ウィキペディアで調べると、安場保和が福岡県令と福岡県知事だった期間は明治19年(1886年)から明治25年(1892年)のようだ。たぶんだけど・・・。
 
 日清戦争は明治27年(1894年)から明治28年(1895年)にあって、日清戦争の後に台湾は日本の統治になって、台湾総督府が置かれたらしい。児玉源太郎という人は台湾総督に就き、後藤新平を台湾総督府の民政長官に任命したようだ。児玉源太郎は明治31年(1898年)から明治39年(1906年)まで台湾総督に就いていて、後藤新平も、だいたい同じぐらい台湾にいたようだ。
 
 後藤新平はアヘンの撲滅を行おうとしたらしいけど、杉山茂丸という人とアヘン利権にも関わってたらしい。ウィキペディアに、そんなかんじで載ってる。
 
 日露戦争は第一次桂内閣の時の明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にあって、児玉源太郎は日露戦争では満州軍の総参謀長を務めたようだ。日露戦争の時の日本の陸軍は満州軍というらしい。日露戦争の後に南満州鉄道が日本に譲渡され、後藤新平は明治39年(1906年)に南満州鉄道の初代総裁に就いたようだ。
 
 児玉源太郎は長州藩の支藩の徳山藩の出身ということになってるらしい。児玉源太郎は桂太郎の次の陸軍大臣で、第四次伊藤内閣と第一次桂内閣で陸軍大臣に就き、第一次桂内閣では内務大臣と文部大臣を一時兼任したようだ。児玉源太郎は明治39年(1906年)に亡くなったらしい。
 
 杉山茂丸という人は日露戦争では児玉源太郎の裏で動いていたようだ。ウィキペディアに、そんなかんじで載ってる。杉山茂丸という人は日韓併合にも関わったようだ。杉山茂丸という人は昭和10年(1935年)に亡くなったらしい。

 頭山満という人は玄洋社の設立に関わった人で、玄洋社の中心人物の一人だったようだ。頭山満は昭和19年(1944年)に亡くなったらしい。5.15事件で暗殺された犬養毅は頭山満の仲間だったの?。
 
 玄洋社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか