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孟母三遷の教え

2019年05月31日 03時19分06秒 | 社会・文化・政治・経済

孟子の母親の姓は「仇」。

父親の名は「孟激」といい、孟子が年少の頃に世を去った。

孟母は「胎教」の重要性をよく知っていて、『韓詩外伝』の一節によると、「私はこの子を孕んでから、座席がきちんとしていなければ座らず、きれいに切っていないものは食べない。これこそが胎教である」と口にしていたという。

 実際、胎児は母親のお腹の中にいるときから一個の独立した生命体で、母親とよく意思疎通し、母親の喜怒哀楽を解するものだ。

母親の心身がきちんと整っており、心が穏やかであれば、自ずと胎児に良いものが伝わり、胎児の知恵と優良な品格を形成するのに、よい影響を与える。

 日常生活の中でも、孟母は息子の起居や暑さ寒さに気をつけただけでなく、言葉と行動で身をもって教え、その人格形成に努めた。

孟母は、息子が良くない環境の影響を受けているのに気が付くと、よりよい学習環境を与えるために、あちこちに引っ越した。

最後には、鄒(すう、現在の山東省鄒城市)の街中にある学び舎の付近に落ち着いた。

家はボロボロであったが、付近にはいつも学生や知識人が往来し、彼らの高雅な雰囲気、落ち着いてゆったりとした風格、優雅な立ち居振る舞いが、付近の住民に目に見えない良い影響を与えていた。

 物心つき始めた子供たちは、いつも大きな木の下に集まり、学び舎の学生や知識人が行う拱手(きょうしゅ)の礼儀作法を真似ていた。その厳粛な有様を遠くから見ていた孟母は、大いに喜び、息子を安心して住まわせたという。

これが歴史に名を留めた「孟母三遷」の美談だ。

 人間の基本的な人格は、6歳以前に形成される。

6歳以後、活動範囲が広がるにつれて、おのずと周囲の環境の影響を受けるようになり、「朱に交われば、赤くなり、墨に交われば黒くなり、青に染まれば青くなり、黄色に染まれば黄色くなる」のだ。環境が児童の成長に多大な影響を及ぼすのである。

 昨今、社会の道徳が衰退するにつれて、人々の心は荒み、自己中心的になった。

大人は、将来子供が人の上に立ち、損をしないようにと、「ずる賢く」なるよう教える。

その結果、子供たちはますます我儘になっている。

現代の人々は、事にあたって相手を考慮することがなく独りよがりで、互いに傷付け合う。

 そんな中、母親は自ら行動を起こし、身を修め品性を養い、言葉と行いで身をもって子供に教えなければならない。

そうしてはじめて、子供たちは立派な道徳と品格を身につけることができ、社会全体が安定し、調和することになるのである。

 孟家がまだにぎやかな街中に住んでいた頃、東の隣人が豚を殺した。孟子は不可解に思い、母親に「隣の家が豚を殺したのはどうして?」と尋ねた。

母親はその時、とても忙しかったので、口から出まかせに「食べさせてくれるのよ」と言った。

すると、孟子が本当に豚を楽しみにして待っていたので、孟母は、子供との約束を破ってはならないと考え、切り詰めた生活費の中からなけなしの銭をはたき、肉を買って、子供に腹いっぱい食べさせた。

 孟母は実際の行為によって息子を教育し、「言ったら必ず行ない、行なったら必ず結果をもたらす」ことを示した。

子供を有言実行の、信頼できる人物にするためには、母親は身をもって示さなければならないものである。

 或る日、孟子は学校をさぼって、長いこと外で遊んでいた。

息子が帰宅すると、孟母は何も言わずはさみを取り上げ、仕立て上げた錦絹を両断した。

孟子が驚いて立ちすくんでいると、孟母は、「あなたが学業を放り出したのは、私が絹織りを切断するのと同じことです!」と述べた。

孟母は、「絹織りを断つ」ことを「学を捨てる」ことに譬えて警告し、一旦やり始めたことを途中で放り出さないよう厳粛に戒めた。

 このできごとは、孟子の幼少の心に深く焼きつき、鮮明な印象を残したという。

彼は、ことをなすには強い意思が必要であり、一旦目標を見定めたら、外界の誘惑に負けてはならないということがわかった。

これ以降、孟子は倦まずたゆまず、日夜、勉学に励んだ。

 孟母の息子に対する教育は隅々まで行き渡り、息子が結婚してからも、夫婦和合の道について指摘した。
『烈女伝』の記載によると、孟の妻・由氏が寝室で裸のまま歩き回るのを見た孟子は、顔色を変えて怒った。

由氏は夫があまりにもよそよそしいのを見て、姑にどうにかしてほしいと求めた。

 孟子は久しく自分の妻に不満をもっており、暇を出したいとまで思っていた。
孟母は息子に対して大義をもって諭し、孟子は自分の軽率さを深く反省した。
それ以来、心中のわだかまりが取り除かれ、新婚のときのように妻と仲睦まじく楽しく過ごせるようになった。

 孟子は、宋国でなら自分の政治的抱負を実現できると考えていたが、老母を養わなくてはいけないため、外遊を先延ばしにしていた。

 30数年の時が過ぎ去り、孟子はすでに天命を知る年となり、終日しきりにため息をつくようになった。
その様子を見た孟母は、その原因を問いただし、息子に昔の名言を話して聞かせた。

「婦人の礼とは、五味に精通し、酒に長じ、舅姑を養い、衣服を縫うのみ。
故に閨内に修めて、境外の志なし。
婦人は、制度上の義に長ずることはなく、三従の道があるのみ。
すなわち、年少時には父母に従い、嫁に行ってからは夫に従い、夫の死後は子に従う、これが礼なり。
今、子は成人し、自分は老いた。
子は子の義を行い、私は私の礼を行うだけだ」。

このことばによって、孟子の心中にあるわだかまりが解け、そこで彼は再度列国を周遊して、尊敬と歓迎を受けた。

 一人の女性として、孟母の偉大な所は、ただ「五味に精通し、酒に長じ、舅姑を養い、衣服を縫い」、「三従の道」をよくしただけではなく、数十年間倦むことなく、息子の成長過程に気を使い、慎しみ深さ、志の精励、実直さと品格、勉学ならびに礼を尽くすことに至るまで、諄々と教え諭した。

 これらの孟母の逸話は、現在の母親たちにも多くのヒントを与えてくれることだろう。

(翻訳・太源)

 


『次郎物語』

2019年05月31日 03時08分15秒 | 社会・文化・政治・経済

次郎物語』は、下村湖人による日本の長編教養小説である。

1941年(昭和16年)から1954年(昭和29年)刊。全五部だが未完。

幼少期に里子に出された主人公本田次郎の成長を、青年期にかけて描く。

湖人自身の里子体験が反映されるなど、自伝的色彩が濃い。児童文学として読まれることも多い。

内容的には、家族や学校といった生活行動範囲の広がりに沿って主人公の人格的成長を描く第三部までと、五・一五事件二・二六事件に集約される軍国主義的な時代背景や、主人公の精神的恋愛を作品の重要な要素として、社会性の広がりに沿って展開する第四部以降に大別できると考えられる。

第一、二、五部には「あとがき」が、第四部には「附記」がある。

第二部のあとがきによれば、第一部は「教育と母性愛」、第二部は「自己開拓者としての少年次郎」がテーマであると述べられている。

また、第五部のあとがきには、「戦争末期の次郎を第六部、終戦後数年たってからの次郎を第七部として描いてみたいと思っている」とあるものの、下村が1955年に死去したため未完に終わった。

あらすじ

士族・本田家の次男として生まれた次郎は、幼少時から尋常小学校の校番の妻であるお浜の元に里子に出されていた。

「孟母三遷の教え」をまねた、母親・お民の教育的配慮からである。

そして次郎は母よりもお浜に懐き、実家を敬遠するようになる。

いやいやながら戻された次郎にとって、格式ばった実家は居心地の悪い場所であった。

祖母・おことは次郎を露骨に差別待遇し、兄の恭一や弟ばかり可愛がる。

次郎の側でも当てつけに喧嘩やいたずらを繰り返し、お民から説教を浴びせられるのだった。

それでも、父親の俊亮、祖父の恭亮、さらにお民の実家である正木家の人々に見守られながら成長していく。

おことの差別待遇は改まらず、次郎は正木家に引き取られる。

やがて恭亮が死に、お民は結核に侵され、俊亮も連帯保証人になった相手が破産したため次郎はお民の介護をする事となる。

献身的な介護を続けるうち親子のわだかまりは解け、次郎とお民は肉親としての思慕を募らせる。

やがてお民は危篤状態に陥る。

ついに迎えた臨終の際、兄弟三人揃って死に水をとり、臨終の宣告の後お浜に肩を抱かれ号泣して親族の涙を誘った(映画版では一生懸命に母の看病をする次郎に本来なら年齢制限がある夏祭りの踊り子をやらせてもらい、衣装を病床の母に作ってもらうが日に日に衰弱していき、夏祭り当日踊り子衣装を身に付けた次郎を見送った後、お浜に看取られながら亡くなってしまう。

次郎は母の葬儀で泣く事はしなかった)。


『母原病――母親が原因でふえる子どもの異常』

2019年05月31日 02時59分13秒 | 投稿欄

久徳 重盛 

■目次

まえがきにかえて
 原因不明の病気や異常で悩む親子

I 母原病とは何か
 昔は伝染病、今は文明病
 病原体が母親にある「母原病」
 壊れてきた母親の育児本能
 子どもはこうして成長する
 母原病の仕組みとは
 構造的育児不能になったわが国

II 母原病のカルテから
 ぜんそくの原因は「20年前の母子関係」だった
 溺愛された娘は外出もできない慢性腹痛に
 家庭内暴力にまで発展させた「悲劇の愛情」
 母親の不安から重症の「文明カゼ」に
 わが子を食欲不振にさせた「こわい母親」
 離婚した母親への幻滅から足痛になった少女
 四ヶ月も下痢させた病原体は「育児の緊張」
 母と子の対話不足で「ことば遅れ」の子に
 過保護ママと甘えん坊の合作が夜尿症

III お母さんへのアドバイス
 母原病を防ぐためのチェック
 これからの育児のために)

〇~三歳児保育にひそむ危険な問題
わが国には合わない『スポック博士の育児書』

■引用

*母原病
「ぜんそくや胃潰瘍の子、熱を出しやすい子などの症状と、家庭内暴力ややる気のない子などの症状とは、表面的に見た現象は随分異なります。しかし病根は同じなのです。いずれも親の育て方の誤りに原因があって、子どもの心身形成・人間形成にひずみができ、その結果、子どもたちに病気や異常があらわれたのものです。育児の中心的役割を果たすのはやはり母親なので「母親が原因の病気」という意味で、私たちは「母原病」といっています。」p.4

*文明病
「[文明が発達して伝染病などはなくなったが、ミルク嫌いや食欲不振、低体温児など、新たな原因不明の子どもの異常があらわれてきた:引用者]これら一連の症状は、間接的な原因としては、世の中が文明化し、都市化が進み、子どもの育つ環境が“自然さ”をなくしてしまったこと、直接的な原因としては、親の育児感覚が狂ってしまって間違った親子関係を続けてきたことによって、子どもの心身のたくましさが失われ、その結果としてあらわれてきたものであるということです。いわば「文明病」とでも呼ぶべき病気です」p.19
「これまでの私の臨床経験からいって、現代の子どもの異常の六〇%はその母親の育児が原因となった病気や異常、

母原病(ぼげんびょう)とは、日本の精神科医久徳重盛が1979年に、サンマーク出版から刊行した『母原病―母親が原因でふえる子どもの異常』で発表した精神医学的な考えで、母親の育児下手が子どもに様々な病気・問題をひき起こしているとするものである

科学的根拠がなく、個人的な意見の域を出ない疑似科学の類であるが、これを主張した久徳の書籍は続編も含めシリーズで100万部を超えるベストセラーになり、マスメディアが日本の母子関係の問題性を喧伝する流れが生じた

概要

1960年代の日本では、「子どもは三歳までは常時家庭において母親の手で育てないと、子どものその後の成長に悪影響を及ぼす」という「三歳児神話」がひろがり、欧米の母子研究などの影響を受け日本の研究でも「母性役割」が強調され、育児書でもそうした考えが説かれ、母親たちに影響を与えた。

オイルショックにより高度経済成長期が終わる1970年代頃には、子殺し(母子心中)、子捨て(コインロッカーベイビー)など子どもの生命にかかわる問題や、暴走族家庭内暴力登校拒否などの子どもの問題が注目されるようになった。

これらの原因は当たり前のように母親の母性の機能不全であるとされており、1971年版厚生白書では育児ノイローゼの母親を「問題親」とし、「育児ノイローゼは母親個人に問題や原因がある」と述べられていた。

こうした流れの中、1979年に久徳の著書『母原病―母親が原因でふえる子どもの異常』(サンマーク出版が日本でベストセラーになった。

久徳は、日本で伝染病の多くが駆逐されても子供たちが健康でないのは、間接的な原因は「都市化が進み、子どもの育つ環境が“自然さ”をなくしてしまった」こと、直接的な原因は「親の育児感覚が狂い、間違った親子関係を続けてきたこと」であり、そのせいで「子どもの心身のたくましさが失われ、病気になった」とし、「現代の子どもの病気は60%が母原病=母親に原因がある」と主張、登校拒否も母原病であるとした。

悪影響

つまり母原病で、伝染病などが原因のものは四〇%にすぎません。

したがって、現代では、何か子どもに異常や病気があらわれたら、一度は親自身が原因ではないかと疑ってみる必要さえあるのです」p.34

*母原病の背景
「このようにいうと、お母さんの責任だけが問われるかのように思われるかもしれません。ところがそのお母さんにしても、文明の進歩や教育、家庭のあり方が変わったことの影響を強く受けており、ある意味ではその犠牲者だともいえるわけです。母原病の病巣は、お母さんよりもっと大きなもののなかにあるのです。」p.62
→一九五二年ボウルビーの文明国における「育児についての精神的崩壊家庭」についてのWHOレポート(社会保障制度の充実が「精神的崩壊家族」を引き起こすというもの)をひきながら、日本においては急速な経済成長によって、頭でっかちの“飼育”的育児が蔓延していると述べる。
「このように、、経済・社会・教育などがすべて構造的に育児不能を助長しているわけですが、結局その根幹をなすものは、先に述べた通り、急激な経済成長、文明化にあったといえます。したがって文明病の一つのあらわれである母原病について考える場合、たえず構造的な問題を念頭におく必要があるでしょう」p.68

「世の中が便利になる。すると、親の育児を行う脳の調子が乱れてくる。そして、母原病の子どもが多くなる。これが、文明の進歩したわが国の図式なのです」p.87
「結局、親が身を正し、正しい育児にもどらなければ、子どもは「母原病」から救われません」p.88
「家庭というものは、しっかりした働き者の父親と、やさしい母親がいてはじめて成り立つこと、子どもはいつも両親に温かく見守られてはじめて正常に育つことを、ここでもう一度理解しなおすことが大切です」p.188

「[高度経済成長によって:引用者]親が子を離すこと(精神的に捨てること)が悪くないという価値観が、一部の人にできてしまいました。そのような狂った価値観をもつにいたった母親がごく一部にしかすぎなかったことは、せめてもの幸いでしたが、逆にいえば、そんな重大なこととは知らず、母親が職場で働いて、子どもを不幸にしてしまったというように、犠牲者もたくさんあらわれたことも事実なのです。(…)私は、理想をいえば、保育所が今のような状態では、〇~三歳児は母親が子連れで働くのがいちばん好ましいと思っています」p.199

■言及



阪神近本5戦連続得点19度目マルチ!長嶋超え視野

2019年05月31日 02時48分43秒 | 社会・文化・政治・経済

<阪神5-2巨人>◇30日◇甲子園

こんな1番打者がいれば勝てる。阪神近本光司外野手(24)が電光石火の「足攻」をかました。初回、強くたたきつけて高いバウンドの遊撃内野安打。十八番(おはこ)ともいえる打球で先頭出塁を果たすと、すかさず2番糸原の初球に二盗を決めた。

二塁盗塁を決める近本

その後に大山の3ランが生まれたが、ド派手な一打の裏にあった細やかな仕事は見逃せない。

新人特有の怖い者知らずの思い切りとは正反対。

「しっかりとイメージというか準備していたことができたのがよかった。いろいろと想定しながらでした」。

近本によると初回の内野安打、初球の盗塁も「イメージ」済みだったというから驚きだ。5試合連続得点(ホームイン)は自己最長。

切り込み隊長の仕事ぶりを表す。

7回には左中間三塁打。糸原の浅い左邪飛で本塁を陥れた。「打った瞬間に三塁を狙っていました。二塁打より三塁打の方がいい」。3点差に広げる追加点。矢野監督は「効果的に1点を取れた。近本の足で取れた1点」と評価した。

2安打で打率3割1分2厘。最近7戦15安打と止まらず、マルチ安打は19度目。

驚異の年間「52」ペースはリーグ新人記録の巨人長嶋茂雄の「48」すらしのぐ勢いだ。

三塁打5本と15盗塁はともにリーグ単独トップになった。個人記録にはいつも無関心な背番号5。プレースタイルと同様、日々前進しか頭にない。【柏原誠】

▼近本が2安打を放ち、19度目のマルチ安打を記録した。このままいけば年間52度ペース。阪神新人最多の98年坪井40度、さらにはセ・リーグ新人最多の58年長嶋(巨人)48度の更新も視野に入る勢いだ。

 
 

母性愛と父性愛

2019年05月31日 02時36分34秒 | 医科・歯科・介護

特集 脳と心の謎はどこまで解けたか

母性愛,父性愛というと崇高・神聖なイメージで動物実験とはなじまない印象があるかもしれない。

しかし,親の子育ては哺乳類に共通する重要な繁殖行動の一部であり,自然界で哺乳類の親たちは自発的に,外部からの強制なしに進んで犠牲を伴う子育てを日々行っているものである。

本稿では動物実験においてどのように原始的な“親の愛”を定量し研究するのか,その一つの方法を紹介したい。

父性愛と母性愛─親心の脳神経基盤03709531.66.1.jpg

黒田 公美 1
1理化学研究所脳科学総合研究センター親和性社会行動研究ユニット
pp.58-65
発行日 2015年2月15日

関連文献

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医師,看護婦に限らず,医療従事者のすべてが病苦を背負つている患者に対して常に仁愛の情をもつて接すべきものであることは当然のことである.
 しかしながら,同じく愛情といつても,対象である患者の年齢や性格や病状によつて,また患者が現在置かれている状態や家庭環境や経済状態によつて,患者への愛情の表現はその場その場で違つた形をとるべきものである.あるときは励まし,あるときは慰め,小児などに対しては騙しすかし,またあるときは叱らねばならないこともある.


阪神2位浮上!笑う“虎”には福来る!?

2019年05月31日 02時33分25秒 | 社会・文化・政治・経済

ヒット1本打つたび…“矢野ガッツ”は軽薄か本物か チームに広がる「明るいムードづくり」

5/30(木) 夕刊フジ
阪神2位浮上!笑う“虎”には福来る!? ヒット1本打つたび…“矢野ガッツ”は軽薄か本物か チームに広がる「明るいムードづくり」
12回、サヨナラ本塁打を放った阪神・高山俊に水をかける藤川球児と笑顔の矢野燿大監督=甲子園球場(撮影・宮沢宗士郎)
 阪神は29日・巨人戦(甲子園)の延長12回、高山俊外野手(26)が代打満塁弾を放ちサヨナラ勝ち。巨人戦での代打満塁サヨナラホームランは球団史上初の快挙だ。貯金を今季最多の「5」に増やし、巨人と入れ替わって、首位広島に3ゲーム差の2位に浮上。今季は宿敵相手に開幕から6連敗を喫するなど散々で、一時は借金が「6」まで膨らんだが、5月に入り急上昇した。矢野燿大監督(50)が率先垂範する「ポジティブ思考」が功を奏している。(山戸英州)

 「いま巨人は強いですが、負ける気せんのですわ」

 劇的な勝利からさかのぼること約9時間前。あるチーム関係者は試合前の段階で、記者にそう耳打ちしていた。理由を聞いてみると、矢野監督による「明るいムードづくり」が浸透しつつあるからだという。

 「昨年2軍監督を務めた矢野監督は、当時からチーム全体に明るさを求めながら指揮をとっていた」

 舞台がファームから1軍に変わり、「すべて去年まで通りとはいかないが、それに近い雰囲気を感じる」という。別の球団関係者は「試合に負けたとき、今年の選手は悔しさは見せても、くよくよしたりイライラしたりはしなくなった。いい意味で切り替えが早くなっている」と証言する。

 この日も、同点の延長11回に無死満塁としながら、近本、代打・鳥谷、糸井が凡退し痛すぎる逸機。昨年までなら、これで一気にチームの雰囲気が暗くなるところだったが、今季の阪神には“骨太”な明るさがある。

 そんなチームの雰囲気を象徴するのが、ヒット1本生まれるたびに矢野監督自ら拳を上げる、通称「矢野ガッツ」。

 古株の球界OBからは「監督として軽薄すぎる」「指揮官たる者、浮かれているヒマがあったら次の采配を考えろ」などと批判され、総じて不評だが、矢野監督は動じない。当初はチーム内にも懐疑的な声があったが、白星が増えるにつれ「勝てるならやってみるか」と追随する空気に変わってきた。

 この日もぶれずにガッツポーズを連発した矢野監督は試合後、興奮冷めやらぬままインタビュールームに姿を見せ、「いやもう、最高やったなあ。あんなん、なんぼでもしたいわあ!! 最高やぞ」と満面の笑み。指揮官自身、ナインから水どころかコーラまでかけられたが、「もう何でもええ。何でもかけてくれ!!」と頬を緩めっぱなしだった。

 出遅れていた新助っ人も本領を発揮した。2点を追う8回に沢村から値千金の同点5号2ランを左翼ポール際に運んだ、ジェフリー・マルテ内野手(28)だ。

 ベンチで矢野監督やナインとハイタッチを交わすと、母国・ドミニカの有名芸人にならい、左手を突き上げ右手を弓矢のように引くポーズで喜びを表現した。試合終了後には、高山とともにお立ち台に上がり「チームのためになれて本当にうれしい。これからも全力でやっていきたい」と締めくくった。

 3月のオープン戦で右ふくらはぎの張りを訴え開幕は2軍スタート。長らく調子が上がらず、ファーム関係者からの報告は「今日は“歩行”の強度が上がった」という程度のもので、いつ1軍昇格できるか全く見通しがつかなかった。4月29日にようやく初昇格。依然スタメン落ちすることはあるが、徐々に打棒を振るい始めた。

 そんなマルテの素顔は、実に優しい。今季中日から移籍した左腕ガルシアが不調で2軍調整を経て再昇格すると、先発した今月26日のDeNA戦(横浜)を前に「俺は全力で頑張るから、お前も全力を尽くせ」と励まし、試合後はベンチ裏で2人でくだんのポーズを交わし、今季初勝利を祝した。

 それだけではない。ガルシアがスーツに着替えて報道陣が待ち構える関係者口に向かう直前、マルテはまるで母親が幼いわが子にしてやるように、暑さで汗ばむ左腕の長袖ワイシャツの袖を丁寧に折り腕をまくってやった。こんなほほえましいシーンが、いまの矢野阪神ではあちこちでみられる。

 昨季同様、今季も黒星先行だったホームゲームの勝敗は、これで14勝14敗の5分(甲子園では11勝13敗)。甲子園での対巨人戦の連敗も「9」で止めた。

 6月4日のセ・パ交流戦開幕前、最後の3連戦(今月31日~6月2日)の相手は首位広島。前出のチーム関係者は「舞台は敵地マツダスタジアムで、相手には最下位低迷からあっという間に首位に駆け上がった勢いがある。倒すには、こちらも乗っていかないと」と指摘する。

 いまの勢いが、リーグ3連覇中の広島にも通用するのかどうか。矢野阪神にとってひとつの試金石となる。例年苦戦する交流戦へ向けて、チームの雰囲気は上々。猛虎襲来を加速させる。


警察官を殺害 星野受刑者が収容先で死亡

2019年05月31日 02時12分04秒 | 社会・文化・政治・経済

 渋谷暴動事件で無期確定

5/31(金) 共同通信

1971年、東京・渋谷の沖縄返還協定反対闘争で警察官を殺害したとして、殺人罪などで無期懲役が確定した星野文昭受刑者(73)が30日、収容先の東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)で死亡したことが分かった。関係者によると、5月に肝臓がんの手術を受けていた。


 事件は71年11月14日に発生。米軍駐留を認めた沖縄返還協定の調印に反対する学生らのデモ隊が暴徒化し、東京・渋谷で、機動隊や派出所を火炎瓶や鉄パイプで襲撃した。新潟県警の巡査が死亡、同県警の別の警察官3人も重傷を負った。

 星野受刑者は無罪を主張したが、87年に最高裁で無期懲役が確定した。


心豊な友と過ごせば

2019年05月30日 21時32分40秒 | 社会・文化・政治・経済

人は多くの場合、「したこと」よりも「しなかったこと」を悔いるものだ。
悔いを残さないためには、自ら決めた目標へ、知恵を絞り、あらゆる手を尽くして全力でぶつかっていくいこことだ。
「一日一日が珠玉の時間である。一日一日に全力でぶつかっていくことだ。一日一日が渾身の勝負だ」
今日、できることをやり抜く。
その完全燃焼の日々の中、栄光の峰が見えてくる。

心豊な友と過ごせば人生は何倍も意義深くなる-エマソン

英雄とは普通の人より勇敢なわけではないが、5分間長く勇敢なのだ。

常に自分の恐れることをなせ。

敷かれた道を進むより、道なきところに自ら道を築いて進め。

どんな芸術家も最初は素人だった。

恐怖は常に無知から生じる。

私は引用が嫌いだ。君の知っていることを話してくれ。

重要なのは人生の長さではない。人生の深さだ。

芸術において、手は心が想像する以上のことは実行できない。





 

ラルフ・ワルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson、1803年5月25日 - 1882年4月27日)は、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。 
ラルフ・ウォルド・エマーソン、ラルフ・ウォルドー・エマーソン、ラルフ・ワルド・エマソン、とも呼ばれる。


子ども虐待はなぜ起こるのか

2019年05月30日 20時58分01秒 | 社会・文化・政治・経済

 黒田 公美さん更新日: 19/04/23 11:15

アバター
研究者氏名
黒田 公美
 
クロダ クミ
所属
国立研究開発法人理化学研究所
部署
脳神経科学研究センター
職名
チームリーダー

親和性社会行動研究チーム(黒田 公美) | 理化学研究所 脳神経科学研究 ...

cbs.riken.jp/jp/faculty/k.kuroda/ - キャッシュ

2016年6月22日(Video). 15分で脳科学 「愛と憎しみの脳科学 -人間の親密性と攻撃性を神経科学から考える-」 · マウスの「父性の目覚め」に重要な脳部位を発見- オスマウス: 2015年10月1日(Press Release). マウスの「父性の目覚め」に重要な脳部位 ...

このことは、本調査の背景となる私共の総説「子ども虐待はなぜ起こるのかー比較行動学および脳神経科学的考察」SciREXクオータリー9号掲載記事でも解説しておりますのでご参照くださ

理化学研究所 脳神経科学研究センター

親和性社会行動研究チーム

mouse mother infant

 

RISTEX

養育者支援によって子ども虐待を低減するシステムの構築

RISTEX

 私たちは、社会行動の中でも特に哺乳類にとって重要な、親子関係を支える神経基盤について、マウスモデルを用いて研究しています。

この分野に興味のある研究者・学生の方はどうぞお気軽にご連絡ください。

 2019年4月3日 <報道>

共同通信社取材による新聞報道について

2019年3月30、 31日に発行された各社新聞に、当チームの児童虐待に関する研究が紹介されました。

本研究開発はJST/RISTEX安全な暮らしをつくる新しい公/私空間の構築領域「養育者支援によって子どもの虐待を低減するシステムの構築(2015-2019)」およびJST/RISTEX 政策のための科学「家族を支援し少子化に対応する社会システム構築のための行動科学的根拠に基づく政策提言(2018-2022)」の委託事業の一部分として行なっているものです。


最後は必ず勝との決意

2019年05月30日 20時14分37秒 | 社会・文化・政治・経済

真に立ち向かうべきは
自分自身の諦めも心だ。

人生の劇にどんな波乱があろうとも、最後は必ず勝との決意だ。
人生を勝ち開く。

「自己教育」が期待される。

理論や観念ではなく、実践、行動である。

真の言論人とは、不屈の信念の人の異名である。

全ての人が、幸福になる権利を持っている。
いな、最も苦しんだ人こそ最も幸せになる権利がある。

奉仕は他者を幸福にし、自身も幸福にする-ガンジー


人間の悪魔性

2019年05月30日 18時04分49秒 | 社会・文化・政治・経済

えたいの知れぬ悪意によって人を無差別に襲う犯罪「通り魔」。
人間の悪魔性という他ないだろう。
憎悪する相手に刃を突き立てるのではない。
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また、悪魔性の最たるものと言えるであろう神戸の14歳少年の犯罪。
猟奇的空想を持つ少年犯罪者の代名詞とされ、逮捕後に独学で作った神話系物語や浮世離れした詩句などが話題となった。
複雑な家庭環境と他者に対する強いコンプレックスから、動物(主に猫、犬、ネズミなど)やハトを殺してバラバラに切り刻んだり、映画やゲーム内の暴力的なシーンを見たりしてオナニーにふけるなど、屈折した性癖を持つようになったことがきっかけとされている。逮捕後の調査から性的サディズム(人や動物を傷つけることで性的快感を得る。10万人に1人と言われている)であったことが判明した。
事件の簡単な流れ
1997年(平成9年)2月10日午後4時
小学生の女児2人がゴムのショックレス・ハンマーで殴られ、1人が重傷を負う
3月16日午後0時25分
神戸市須磨区竜が台の公園で、小学4年生の女児を金槌で殴り殺害
午後0時35分
別の小学生3年生の女児の腹部を刃渡り13センチの小刀で刺して重傷を負わせた
5月24日午後
近所の高台に付近に住む小学5年生の男児を誘い出して殺害
ここから奇行の数々が始まる…
兵庫県神戸市須磨区で当時14歳の中学生が連続殺傷事件を起こしました。当時未成年だったため、本名は明かされず、酒鬼薔薇聖斗事件とも言われています。酒鬼薔薇聖斗は、2名の命を奪いましたが、実はそのうち1名とは切断した生首を通し、対話をしていたのです。恐ろしい全貌が明らかに。
山下彩花さん(当時10歳)、土師淳君(同11歳)の尊い命を奪って3人を負傷させた「神戸連続児童殺傷事件」。
酒鬼薔薇聖斗を名乗った元少年Aが、日本中を震撼させたあの事件 ...
中でも当時小学5年生の少年の首を切り落とし、酒鬼薔薇聖斗が通っていた中学校の正門前に声明文と共に置くという猟奇的な犯行でした。
地元新聞社には、犯人から警察に対する挑戦状が郵送されました。神戸連続児童殺傷事件は、あまりに残虐かつ無慈悲な事件だったのでメディアもこぞって犯人探しを始めました。
彼が小学校5年生のとき祖母が亡くなります。それは同時に、自分の安心できる場所がなくなった瞬間でした。
かわいがっていた犬も中学に入る頃に死んでいます。その後からナメクジを殺すようになり、蛙を解剖し、何十匹の猫を殺め、頭部を切断するようになりました。
「祖母が死亡したのをきっかけに、死とは何かについて強い関心を抱くようになった」と本人がその後に語ったそうですが、生い立ちを見ると、もっと早い段階で暴力に目覚めていたという見解も否定できません。
父親が当時勤めていたのは神戸にある有名企業。2~3週間家を空けることもあり、休日出勤も珍しくない程多忙だったようですが、たまの休みにもゴルフに出かけることが多く、父子の関係は薄かったようです。
子煩悩であるという反面、息子たちが兄弟喧嘩をしていると時には激高し、長男である酒鬼薔薇聖斗だけを叱りつけたり、暴力を禁じながらも父親が息子を叩いたりと理不尽な躾もありました。
一方で、酒鬼薔薇聖斗が所持していたとされるナイフや斧を見つける事があっても、家の軒下から猫の死骸を見つける事があっても、父親は注意する事が無かったとされています。
父親の不在を埋めていたのは母親です。三男が生まれてから母親の躾はさらに厳しくなりました。酒鬼薔薇聖斗は物心ついた時から母親に甘えさせてはもらえませんでした。小学校入学前の門限は5時。その時刻を過ぎると、家に入れてもらえないこともありました。

母親はいつも苛ついていて、生い立ちや境遇からして相当体罰を加えていたとされています。一方で、世話好きで教育熱心。地元の子供会や皆が嫌がるPTA役員も積極的に引き受けたそうです。
母親からの愛情不足を埋めていたのは祖母です。両親以上に酒鬼薔薇聖斗の世話を焼き、愛情を注ぎました。

祖母は「長男に厳しすぎる」、母親は「子どもの育児に口出しするな」という喧嘩をよくしました。母親に叱られている酒鬼薔薇聖斗をかばっていたのは、父親ではなく祖母でした。


「だまして手術してよい」旧優性保護法の違法性

2019年05月30日 17時12分25秒 | 社会・文化・政治・経済

旧優性保護法(1948~1996年)は、ナチス・ドイツの断種法をモデルにした国民優性法が前身。
国は施行後、「だまして手術してよい」と都道府県に通知し、強制性を強化した。
国際的批判を背景に1996年、障害者への差別的条項を削除して母体保護法に改定。

障害ある人もない人も強制不妊の対象にした。
「強制」「任意」合わせ少なくとも2万4991年が手術された。

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「旧優生保護法は憲法違反」 訴えは退ける 仙台地裁

2019年5月28日 NHK
旧優生保護法のもとで障害を理由に強制的に不妊手術を受けさせられた人たちが国に賠償を求めた裁判の初めての判決で、仙台地方裁判所は、「旧優生保護法は子を産み育てる幸福を一方的に奪うものだ」として、憲法違反だったという判断を示しました。しかし、賠償を求められる期間が過ぎているとして、訴えを退けました。

昭和23年から平成8年まで続いた旧優生保護法のもとでは、障害などを理由におよそ2万5000人が不妊手術を受けたとされ、このうち10代の時に強制的に手術を受けさせられた宮城県の60代と70代の女性2人は、国に対して合わせて7150万円の賠償を求めました。

28日の判決で仙台地方裁判所の中島基至裁判長は、原告が主張していた子どもを産み育てるかどうかを決める権利について、「憲法13条に照らして尊重されるべきだ」と認めました。そのうえで、「旧優生保護法はその幸福を一方的に奪い去ったものだ。手術を受けた者は幸福を追求する可能性を奪われ、生きがいを失い、生涯にわたり苦痛を被るので、権利侵害の程度は極めて甚大だ」と指摘し、憲法に違反していたという判断を示しました。

一方で、原告が手術を受けてから、賠償を求める権利が消滅する「除斥期間」の20年が過ぎていることから、賠償の権利を行使するには国会の立法措置が必要だったと指摘しました。

原告は国会が救済を放置してきたと主張していましたが、判決では、具体的な賠償制度の構築は国会の裁量に委ねられているとしたうえで、「子どもを産み育てる権利についての議論の蓄積が少ないことなどを考えると、国会の対応は違法ではない」などとして、2人の訴えを退けました。

全国7か所で起こされている同様の裁判で判決が言い渡されたのは初めてで、旧優生保護法が憲法に違反することは認めた一方、国の賠償責任については否定した形となりました。

裁判長「令和は差別ない社会に」
裁判長は判決の言い渡しの最後に「憲法13条、14条の普遍的な価値に照らして平成の時代まで根強く残っていた優生思想が正しく克服され、新たな令和の時代では誰もが差別なく幸福を追求することができ、国民ひとりひとりの生きがいが真に尊重される社会になり得るように、付言する」と述べました。
判決に支持者から驚きの声判決に支持者から驚きの声
判決の言い渡し後、裁判所から出てきた弁護士が「不当判決」と書かれた紙を示すと、集まった支援者からは驚きの声が上がりました。
弁護団長「救済につながらなければ十分な意味ない」
判決をうけ、弁護団の新里宏二団長は、「違憲という憲法判断が下るところまできたという思いだが、救済につながらなければ十分な意味がない。被害者の声を聞いて判断していただけると期待していたので、失望も大きい。当事者と相談の上、基本的には控訴という方向になると思う」と話しました。
「裏切られたという気持ち」原告の弁護団
原告の弁護団の太田伸二弁護士は集まった支援者や記者団に対し、「大変驚いていて、裏切られたという気持ちだ。これまでの流れを考えるとありえない結論だ」と憤りをあらわにしました。
原告「言葉が出ない」
判決の後、原告の70代の女性は「20年たたかってきたのにこんな結果になってしまって言葉が出ない」と話していました。

60代女性の原告の義理の姉は「裁判は難しく全て理解はできなかったが、過去に判例がないから訴えを退けるというのは理解できない。言い渡しでは令和の時代がよくなるようにとあったが、令和ではなく今まで苦しめられていた人の声に耳を傾けてほしかった。自分では納得できないので、妹には日をおいて報告する。控訴は弁護団と相談して考えるが機会があればまた頑張りたい」と話していました。
厚労相「判決の内容精査したい」
根本厚生労働大臣は、国会内で記者団に対し、「判決の内容について一報を受けたが、今後、内容を精査したい。旧優生保護法が違憲かどうかが論点になっているのは認識しているが、判決の内容をまだ詳細に見ていないので、現段階でのコメントは差し控えたい」と述べました。
厚労省「コメントできない」
判決について厚生労働省は「判決の内容が届いていないので現段階では、コメントできない」としています。
官房長官「着実な一時金の支給に全力」
菅官房長官は、午後の記者会見で、「判決内容の詳細は十分に承知していないが、『今回の判決は国家賠償法上の責任のみに関する国の主張が認められたもの』と聞いている」と述べました。

そのうえで「旧優生保護法に基づき、優生手術等を受けた人に対しては、一時金支給のための法律が成立している。施行されたところで、政府としては法律の趣旨を踏まえて、着実な一時金の支給に向けて全力で取り組んでいきたい」と述べました。
山下法相「国に対する請求は棄却された」
山下法務大臣は記者団に対し、「旧優生保護法のもとで、多くの人が心身に多大な苦痛を受けてきたことに対し、法務大臣としても深くおわびする」と述べました。

そのうえで、「一部で違憲の指摘もあったところではあるが、結論として、国に対する請求が棄却されたと承知している。判決の内容を関係省庁と精査して、今後の対応を検討していきたい。ほかにも関連する訴訟がいくつか行われているので、これについても、関係省庁と検討していきたい」と述べました。
原告らは控訴の方針
判決のあと弁護団と原告が会見を開き、控訴する方針を示しました。

この中で、弁護団の新里宏二団長は「違憲という判断が出たのに被害者への救済が認められなかったのは山の8合目まで登って降りてしまったようなもので、被害者の気持ちを考えるとやりきれない」と述べました。

そのうえで「私たちの主張の多くは認められていたので、これを通過点と考え、引き続き被害者のために頑張りたい」として、控訴する方針を示しました。

原告の1人で、16歳の時に手術をされ、20年以上、国に謝罪と補償を求めてきた70代の女性は「国の責任が認められないのは納得できない。被害者は高齢化しているので一刻も早く救済されるよう裁判所には国の責任をしっかりと認めてほしかった」と話していました。

また、60代の原告の女性の義理の姉は「違憲という判決により自分は間違っていなかった、国が間違っていたんだと多くの被害者が感じると思う。声を上げられないのがいちばん問題であり、これを機会に被害者の家族も声をあげてほしい」と話していました。
専門家「非常に画期的だ」
この問題に詳しい東京大学大学院の市野川容孝教授は、旧優生保護法が憲法に違反していたという判断について「かつては憲法に違反していないと考えられていたが、28日の判決では180度変わって、憲法違反だと明確に示されたことは非常に画期的だ」と評価しています。

一方で、賠償を求めた原告の訴えが認められなかったことについては「違憲だったにも関わらず、賠償が認められなかったのは残念だ」とした上で、「違憲だったという今回の判断を踏まえると各地の裁判では賠償を認める判決が出てもおかしくないのではないか」と話しています。

さらに、国の今後の対応については「28日の判決には、賠償を求める権利が20年で消滅するという原則をこの問題に関しては外してしかるべきだと書いてあるとも読めるので、今後、国会でそうした議論があってもよいのではないか」と指摘しています。
判決のポイント

今回の裁判では、障害者などへの強制的な不妊手術を認めた旧優生保護法が憲法違反にあたるかどうか、そして国会や国が、手術を受けた人たちに対する賠償の措置を取ってこなかったことが違法かどうかが争われました。

<1・憲法判断は>
きょうの判決では、子どもを産み育てるかどうかを決める権利について「幸福を追求する権利を保障する憲法13条に照らして尊重されるべき基本的な権利だ。権利の重みは、障害を背負う場合でも変わるものではない」と判断しました。

その上で、強制的な不妊手術を認めていた旧優生保護法について「子どもを産み育てる意思があった人にとって、幸福の可能性を一方的に奪い去り、個人の尊厳を踏みにじるもので誠に悲惨というほかない」と指摘し、法律そのものが憲法13条に違反するという、初めての判断を示しました。

<2・国の責任は>
一方で国会や国の責任は認めませんでした。原告側は、国会や国が、手術を受けた人たちに対する救済措置を取ってこなかったことを「違法な行為だ」と主張していましたが、きょうの判決では、「国会や国が賠償に必要な法律を作るべきだったとまでは言えず違法とは言えない」と判断しました。

その理由として「日本ではこれまで、子どもを産み育てるかどうかを決める権利についての法的な議論が少なく、旧優生保護法が違憲だとする司法の判断もなかった」という国内の事情を挙げました。

そして、原告2人が手術を受けさせられた時期が昭和38年と昭和47年だったことから、国に賠償を求める権利が20年で消滅するという「除斥期間」をすでに過ぎているとして、いずれの訴えも退けました。

旧優生保護法をめぐる裁判は札幌や東京など全国7か所で起こされていて、初めて言い渡されたきょうの判決が、ほかの裁判に影響するかどうか注目されます。

 


阪神・高山、代打サヨナラ満弾!

2019年05月30日 16時39分24秒 | 社会・文化・政治・経済

甲子園今季初G倒に矢野監督感激「野球ってすごい、こんなドラマが」
5/30(木) サンケイスポーツ
阪神・高山、代打サヨナラ満弾!甲子園今季初G倒に矢野監督感激「野球ってすごい、こんなドラマが」
代打サヨナラ満塁弾を放った高山(右)は矢野監督と歓喜の抱擁(撮影・河田一成)
 (セ・リーグ、阪神8x-4巨人=延長十二回、9回戦、巨人6勝3敗、29日、甲子園)聖地が虎党が沸いた! 阪神・高山俊外野手(26)が巨人戦で4-4の延長十二回1死満塁から、球団史上初となるG戦代打サヨナラ満塁本塁打を放った。甲子園での伝統の一戦は、昨年から1分けを挟んで9連敗中だったが、ようやくストップさせて2位浮上。聖地でのG倒はやっぱり気持ちええわ~!!

 ホームで待つ歓喜の輪に、クールな仮面はいらない。最高の笑顔で飛び込んだ。高山が巨人戦球団初の代打サヨナラ満塁弾。令和初、甲子園での伝統の一戦で大仕事だ。祈るように行方を見つめ熱く、右腕を聖地の夜空に突き上げた。

 「切れないかだけ心配でしたけど、完璧でした。何も考えられなくて…。夢中で走りました。自分じゃないような感じです」

 7投手をつぎ込み、たどり着いた延長十二回。1死から福留が四球を選び、梅野が二塁後方へのポテンヒットでつなぐ。D3位・木浪が必死に四球をもぎ取り、代打・高山の登場だ。

 「(植田)海の代打。『頑張ってください』といってもらったし、(木浪)聖也もつないでくれたので」

 2ボールとなっても、積極的にいった。左腕・池田の133キロを振り抜き、ゆっくりと走り出す。右翼ポール際への着弾を見送り、勝負ありだ。昨年から続いていた甲子園の巨人戦の連敗(1分けを挟む)を「9」でストップ。
一気に宿敵を抜き去り、2位に浮上した。

 「うれしいですけど、野球ってすごいですね。こんなドラマが。想像しないようなことばかり起きて…。ほんとに興奮しました」

 十一回に無死満塁の絶好機を逃していたが、最後の攻撃で劇的な幕切れ。矢野監督も何度も“矢野ガッツ”を作り、ホームで出迎えた。野手全員を使い切り、残った最後のひとりが高山だった。「今、ベンチにいるのはすごくつらいと思うんですけど。心の成長というのを感じてたんでね」。チルドレンと浴びるウオーターシャワーは格別だった。

 “どん底”を経験した男だからこそ、ファンも虎将もスポットライトを浴びる姿がうれしかった。待ち遠しかった。2016年、球団新人記録となる136安打で新人王。しかし、ここ2年は伸び悩んだ。

 「新聞とかは、あんまり読まない」というがSNSの全盛期。気にしないようにしていても、自身の記事が目に入ってきた。肩にのしかかる虎の重圧。「(関西には)慣れましたよ」と笑うかつての新人王は矢野監督とともに、今までの「高山俊」をぶっ壊してきた。

 「超積極的」を掲げ、日本一に輝いた昨季の虎弟。勝敗が全ての1軍で1年目から戦ってきた高山は何事も“石橋をたたきがち”だったという。それでも2人で何度も顔を突き合わすうちに「今のいけましたか?」「あの走塁、どうでしたか?」と自ら発するようになった。この日も昼間は志願して、鳴尾浜でオリックス戦に出場してから甲子園へ。2軍で磨いてきた全てが、この歓喜へとつながっていた。

 「2年間悔しい思いをした。なかなか結果が出ていないですけど、きょうをきっかけにやっていけたら」

 貯金は今季最多となる「5」にまでふくれあがった。高山の野球人生が、ここからまた始まる。

 

 

 


石館 守三さんを思い起こす

2019年05月30日 12時37分04秒 | 日記・断片

午前10時30分から相田宅で、敢闘会の打ち合わせをする。
当方に、会合を電話で伝えてきた寺川さんは欠席。
たぶん、会合を忘れているのだろう。
当方も、忘れるので責められない。
珍しく、井田さんが姿を見せた。
1年分であろうか。
次会の式次第を決めた。
司会および会場の設営は、大利根支部が担当となる。
なお、川田さんは6月の初旬に中国へ行くという。
大学の教え子たちに会いに。
帰ってきてから、中国の最近の情勢が聞けそうだ。
ちなみに、日中医学協会の役員をしていた歯科医師の知人に、「北京に行こう」と誘わせたことがある。
当時の日中医学協会の会長は、日本薬剤師会の当時の石館さんが会長であった。
石館 守三会長の任期(1988〜1991年)笹川記念保健協力財団理事長
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石館 守三(いしだて もりぞう、1901年1月24日 - 1996年7月18日)は日本の薬学者、薬理学者。
日本の薬学界のパイオニア。
ハンセン病治療薬「プロミン」を合成し、多くのハンセン病患者を救った。
また、日本初のがん化学療法剤ナイトロミン(ナイトロジェンマスタードN-オキシド)を創製した。
東京大学薬学部初代学部長、名誉教授、薬学博士、元日本薬剤師会会長。
1901年、青森県青森市、喜久造・みきの三男として薬種商を営む裕福な商家に生まれた。1918年、青森県立青森中学校を卒業、1919年第二高等学校理科二類に進学。中学を卒業して浪人中の夏、療養所でハンセン病患者に初めて遭遇し、衝撃を受ける。1922年第二高等学校卒業、東京帝国大学医学部薬学科入学。3年のときから朝比奈泰彦教授に師事した。1926年には倉田清・芳子の長女光子と結婚。
1930年、薬学博士となる。1936年、生薬・植物化学研究のためドイツへ留学、1938年、帰国。東北帝国大学の黒川利雄、吉田富三らとの共同研究を経て、日本における合成がん化学療法剤第一号「ナイトロミン」を開発。
1942年東京帝国大学教授。1946年、ハンセン病治療薬「プロミン」合成、国内の多くの患者を救う。1958年、東京大学初代薬学部長に就任。
1965年、国立衛生試験所所長に就任。1970年12月日本薬剤師会会長に就任し以後約12年間勤めた。
1974年、笹川良一に出会い、財団法人笹川記念保健協力財団を設立、世界の多くのハンセン病患者を救った。1996年これらの功績が認められ、日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける。同年、東京都杉並区の自宅にて逝去。
エピソード


東電OL殺人事件の被害者女性とは

2019年05月30日 08時02分12秒 | 投稿欄

東電OL殺人事件は変な事件だと思っていました。最初の報道と違う、妙な情報が洩れてきていました。

東電OL殺人事件の被害者女性とは

更新日: 2012年06月20日

当初は、ありふれた殺人事件と思われていたが、日本を代表する大企業のエリート女性社員が売春を行っていたこと、無罪になった外国人を釈放せず拘留し続けたこと、DNA鑑定の真偽に問題があること、検察による証拠隠しの疑いなどにより、裁判史に残る事件となった。

未婚のエリート社員

出典東電OL殺人事件 - Wikipedia

被害者女性は、慶應義塾女子高等学校をへて、同大学経済学部を卒業した後、東京電力に初の女性総合職として入社した。未婚のエリート社員であったが、後の捜査で、退勤後は、円山町付近の路上で客を勧誘し売春を行っていたことが判明する。被害者が、昼間は大企業の幹部社員、夜は娼婦と全く別の顔を持っていたことで、この事件がマスコミによって興味本位に大々的に取り上げられ、被害者および家族のプライバシーをめぐり、議論が喚起された。

事件時は東電企画部経済調査室副長

出典犯罪の歴史2−東電OL殺人事件

東電本社では企画部調査課に所属し、1993(平成5)年には企画部経済調査室副長に昇進しております。同室は電力事業に対する経済の影響を研究する部署であり、そのなかで、国の財政や税制及びその運用等が電気事業に与える影響をテーマにした研究を行い、月一、二本の報告書を作成していたそうで、そのレポートは高い評価を得ていたと言うことです。

「原発の危険性を指摘」する報告書を作成していた

出典犯罪の歴史2−東電OL殺人事件

レポートの内容は、「原発の危険性を指摘」する報告書もあったようで、工務部副部長だった父親の遺志を受け継いだ内容の報告書などを作成したようです。
父親は、1949年に東大工学部を卒業、東電に勤務し、工務部副部長として将来の役員候補とされていましたが、原発の危険性を指摘したため、降格させれら、被害者女性が慶応大学2年のとき、52歳でガンで死亡したそうです。

職場でのストレスと依存症

出典東電OL殺人事件 - Wikipedia

高学歴のエリート社員で金銭的余裕があるのに、夜は相手を選ばず不特定多数の相手との性行為を繰り返していたことには、自律心を喪失し、何らかの強迫観念に取りつかれ、自暴自棄になった依存症の傾向があるとする見方もある。

拒食症

出典東電OL殺人事件 - Wikipedia

円山町近辺のコンビニエンスストア店員による、コンニャク等の低カロリー具材に大量の汁を注いだおでんを、被害者が頻繁に購入していたとの証言や、「加害者」とされた男性による、被害者女性は「骨と皮だけのような肉体だった」との証言などから、拒食症を罹患していたことも推定されている。

事件の概要

出典東電OL殺人事件 - Wikipedia

1997年(平成9年)3月19日に、東京都渋谷区円山町にあるアパートの1階空室で、東京電力東京本社に勤務する女性(当時39歳)の遺体が発見された。発見し通報したのは、このアパートのオーナーが経営するネパール料理店の店長であった。後に被告人となるネパール人男性ゴビンダ・プラサド・マイナリは、このアパートの隣のビルの4階に同じく不法滞在のネパール人4名と住んでいて、被害者が生前に売春した相手の一人でもあった。死因は絞殺で、死亡推定日時は同8日深夜から翌日未明にかけてとされる。

複数男性と一緒にいた目撃証言

出典東電OL殺害 被害者、複数男性と一緒にいた目撃証言 (産経新聞) - Yahoo!ニュース

女性は平成9年3月8日午後7時ごろに、JR渋谷駅前で知人男性と待ち合わせ、2人でホテルに入った。同10時16分ごろホテルを出て男性と別れた後も、同10時半ごろから路上で数人に声を掛けた後、30歳前後の男性と連れだって歩く姿が目撃されている。
次に確認されたのは同11時半ごろ。殺害現場となったアパートの階段を、東南アジア系の男性と上っていくのを見た、という証言もある。
9日午前0時ごろ、現場の部屋から男女の声がするのを付近住民が聞いていたが、同0時半過ぎにはもう聞こえなかったという。

裁判史に残る事件

出典東電OL殺人事件 - Wikipedia

1997年(平成9年)5月20日、警視庁は、殺害現場の隣のビルに住み、不法滞在(オーバーステイ)していたマイナリを、殺人事件の実行犯として強盗殺人容疑で逮捕した。マイナリは、捜査段階から一貫して冤罪を主張。当初は、ありふれた殺人事件と思われていたが、日本を代表する大企業のエリート女性社員が売春を行っていたこと、無罪になった外国人を釈放せず拘留し続けたこと、DNA鑑定の真偽に問題があること、検察による証拠隠しの疑いなどにより、裁判史に残る事件となった。

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てつログ より

 1997年の「東電OL殺人事件」から見える、東電とそれにまつわるメディアの闇

 少し古い事件だが、「東電OL殺人事件」というのが今から約20年前の1997年にあった。「被害者が売春をしていた」、といった話題性もあって一時的には大きなニュースになったが、あまり報道もされなくなった。しかしその後、背景を知れば知るほど日本社会の深い闇が見え、恐ろしくなったことを覚えている。

ここでの内容はメディアでは出ないが、ネットでは公然と言われている話である。事実はわからず一つの見解に過ぎないが、東日本大震災により原発事故が起こった(起こした)原発を運営する会社に対する一つの見方として、是非ご覧いただきたい。

 ページ目次

1.東京電力(東電)という企業に対する私見

2.「東電OL殺人事件」とは

3.メディアが伝えない事件にまつわる「不都合な真実」

(1) そもそも「OL」ではない。

(2) ネパール人はえん罪で無実となり、犯人はいまだに捕まっていない。

(3) 被害者の東電社員は、原発の危険性を指摘するレポートを書いていた。また、父親も東電社員で原発の危険性を指摘していた。

(4) 当時の上司が、現在会長の勝俣氏であり、愛人関係にあったという噂もあった

(5) 勝俣氏は事件後に異例のスピード出世をしている

4.マスメディアの報道姿勢の罪

5.福島原発事故が起きても責任が生じない、東電という会社の姿勢と力

6.「東電OL殺人事件」の背景を見て、メディアとの付き合い方を考える

 

1.東京電力(東電)という企業に対する私見

東電持ち株状況

東京電力(東京電力ホールデンィグス)は、従業員38千人を抱える巨大企業である。世界でも有数の巨大電力会社である。
しかし私は、東日本大震災の前から、東電という企業に対してあまりいいイメージはない。というより、日本の病巣を体現して抱えている会社として認識していた。

その決定的なきっかけが「東電OL殺人事件」と言われる事件を通じてである。ただ、東電OL殺人事件の前から、東電に対して、いいイメージはなかった。事件のある前から、「官僚より官僚的」・「絶大な政治力を持つ」と言われていたし、昔よく読んでいたビジネス雑誌で「就職したい企業」で常にトップクラスに入る企業であって、それは私にとってむしろマイナスイメージであった。よほど給与が高いのかという感想と、「インフラ」企業を目指すことは、まったくチャレンジングな選択とは思えず、そういう人が集まっている企業なのかな、と漠然とした反感を持っていた。

 2.「東電OL殺人事件」とは

東電OL殺人事件とは、1997年に起こった事件である。事件の内容は下記の通り。

「東電OL殺人事件」(Wikipediaより)

 現場(当時)

1997年(平成9年)3月19日午後5時過ぎに、東京都渋谷区円山町にあるアパートの1階空室で、東京電力東京本店に勤務する女性(当時39歳)の遺体が発見された。発見し通報したのは、このアパートのオーナーが経営するネパール料理店の店長であった。後に被告人となるネパール人、ゴビンダ・プラサド・マイナリ(当時30歳)はこのアパートの隣のビルの4階に同じく不法滞在のネパール人4名と住んでいて、被害者が生前に売春した相手の一人でもあった。死因は絞殺で、死亡推定日時は同8日深夜から翌9日未明にかけてとされる。警視庁は、殺害現場の隣のビルに住み、不法滞在(オーバーステイ)していたゴビンダを殺人事件の実行犯として強盗殺人容疑で逮捕した。逮捕されたゴビンダは捜査段階から一貫して無実を主張し、一審無罪、控訴審での逆転有罪、上告棄却、再審決定を経て、2012年に無罪が確定した。

「東電OL殺人事件」被害者

被害者女性は、慶應義塾大学経済学部を卒業した後、東京電力に初の女性総合職として入社したれっきとした社員(未婚)であったが、後の捜査で、退勤後は円山町付近の路上で客を勧誘し売春を行っていたことが判明する。被害者が、昼間は大企業の幹部社員、夜は娼婦と全く別の顔を持っていたことがマスメディアによって取り上げられ、被害者および家族のプライバシーをめぐり、議論が喚起された。

上記のような事件で、大きく取り上げられたのは私の記憶にもあった。しかし取り上げられ方は、被害者が美人であり売春をしていたことなどに終始し、「東電」という意味ではあまり大きくクローズアップはされていなかったと記憶している。

しかしその後、あるきっかけからこの事件に再度興味を持つことがあり、本を読んだり調べたりした。そして、そこから出てくる背景と、それに対する東電・マスコミの動きを見て、愕然とした。

3.メディアが伝えない事件にまつわる「不都合な真実」

調べていくと、その背景には単純な男女のいざこざとは思えない事実が出てくる。しかもそれをマスコミが執拗に隠しているとしか思えない。それらの主な物を記述したい。

 

(1) そもそも「OL」ではない。

「東電OL殺人事件」とカギ括弧をつけて紹介するのは、当時そして今もこのようにマスコミで呼ばれているからである。中には、「渋谷OL殺人事件」と、更に遠くなりもはや何の事件かわからないように報道した例もある。

 ここで「OL」とあるが、被害者である渡邉泰子氏は決して「OL」ではない。「OL」という言葉自体が最近はあまり使われなくなってきているので薄れつつあるが、イメージとして「お茶くみ」や「平社員」といったイメージが付く。しかし彼女は、慶応大学経済学部を卒業し、女性では異例の出世を遂げている。事件当時は39歳で、経済調査室の副長という要職に就いている。通産省と東電を結ぶパイプ役であり、女性同期の中で唯一の出世であった。「OL」などと呼ぶ存在ではなく、まさに幹部社員の候補生であった。

しかし、マスコミは執拗に「東電OL殺人事件」として扱った。「OLが売春に走った結果の外国人の犯罪」、というストーリーで騒ぎ立てて、すぐに報道をやめた、というのが報道の流れである。私も含め、その程度の記憶しか無かったのは、マスコミによるところが大きい。
しかし、この事件の背景を知れば知るほど、被害者の女性が「東京電力」の「(幹部)社員」であることが重要であり、そこが真相を突いているとしか思えない。それをマスコミは、執拗に隠したのである。

確かに、彼女が売春に走ったことは事実のようである。社内でも噂になっていたと言うほどであった。ただ、だからといって殺されていい理由にはならないのと、その売春に至ると思われる背景を見ると、そもそも「男女の痴情による殺人」という見方自体がおかしいのではないかという疑念が沸く。それらをすべて覆い隠す手段として、「OL」という言葉が使われたと思われる。

(2) ネパール人はえん罪で無実となり、犯人はいまだに捕まっていない。

 

犯人とされたゴビンダ氏は、本当に不幸であった。確かに、買春はしたようであるが、殺人に関しては逮捕から一貫して否認していた。裁判は注目されたものであり、長期化した。結果を言えば、一審が無罪、それに不服であった検察の請求による二審が無期懲役。そして更にゴビンダ氏が再審請求を起こし、2012年に無罪を勝ち取った。実に15年もかかっている。その間、彼は日本でずっと拘束され、彼の娘は殺人者の娘と言われ、薬の服用まで考えた時期があるという。証拠は非常にずさんであり、検察による証拠改ざんも疑われた。証拠の決め手とされた被害者の衣服に付いていた体液は、完全に別人のものとまで判明したのである。そもそも、現場と言われるボロアパートで殺されたことすら疑われている。それほど証拠能力が乏しかった。

このように完全なえん罪で拘束されたゴビンダ氏に対する無罪判決は、大きく取り上げられ賠償金も払われた。お金が払われればいい問題ではないが、えん罪がきちんと晴らされたことは本当に良かった。記事で見たが、ゴビンダ氏はこんなことがあっても、日本が好き、といってくれる人である。
しかし、真犯人はまったく捕まっていないということとなる。警察・検察はまったく見当違いの捜査と立件をし、事件そのものの真相は完全に闇にいってしまった。

なお、司法がらみで付け加えておくと、最初の無罪判決を出した大渕(おおぶち)裁判長は広島に転勤となり、その後二度と東京の裁判所に戻ることはなかった。

(3) 被害者の東電社員は、原発の危険性を指摘するレポートを書いていた。また、父親も東電社員で原発の危険性を指摘していた。

   

事故前の福島第一原発

被害者の渡邉泰子氏は、東電社員としての実力もあり、精力的に仕事をこなしていた。彼女の父親も元東電の社員で、工務部副部長まで昇進したが、原発の危険性を指摘してその後に降格させられている。また、彼女が大学生の時にガンで亡くなっている。そうした背景を持つ渡邊泰子氏もまた、原発の危険性に関する報告書を提出していて、原発に対する反対者であったようである。

しかし、その頃は原発は国際競争力の上でも重要な戦略であり、プルサーマル計画含め原子力計画は進む一方だった。プルサーマル計画が閣議決定されるのは事件のあった1997年である。そうした情勢と、渡邊泰子氏自身の信念とに乖離があったのは想像に難くない。また、東電自体は原発推進に動いていたため、そのストレスは大きかったと思われる。事件を追う人の言を借りれば、そうしたストレスとプレッシャーが彼女を売春へと走らせたのではないか、ということである。実際、事件当時には「拒食症」となっていて、痩せ細っていた。相当なプレッシャーに悩んでいたことは間違いない。

(4) 当時の上司が、現在会長の勝俣氏であり、愛人関係にあったという噂もあった

 勝俣恒久 東電会長

 その当時の上司は、1996年に取締役企画部長に就任している勝俣恒久氏である。勝俣氏はご記憶の方もいると思うが、現在の東電会長である。

当時、唯一の女性幹部候補生であり美人で名高い渡邊泰子氏は、社内にも関係を持った人はいたそうで、直属の上司である勝俣氏とも関係があったという噂はあったようである。このあたりはあくまで噂であり、話が一人歩きしがちなのであまり信用できない面もあるが、可能性としては指摘しておきたい。また、その可能性がこの殺人事件そのものの核心である可能性も否定は出来ないと思う。

(5) 勝俣氏は事件後に異例のスピード出世をしている

勝俣氏は、この事件の後の翌年に常務取締役となり、現在の会長にまで至っている。この事実は特に事件とは関係ないと言えるかも知れないが、断言はできない。

あえて、かなりの憶測を含めた見方を紹介したい。

会社の方針と反対の部下に対し、体の関係を持ったこともあり、その関係が表に出ることはよくないか、何か問題となることを話していた場合に、邪魔となった。更にその部下が精神不安定の状態であり売春をしている事を知り、それを利用してその手の組織に殺人を依頼する。

 現場のアパート

 実際、現場の渋谷のあたりはヤクザのなわばりであり、その手のことはやりやすい環境にあった。更に、殺人現場の状況から男女の行為の後の殺人ではないようで、痴情のもつれとは言えないようである。わざと証拠を偽装した可能性も指摘されている。

私は、昔はこの手の話は空想の世界で日本ではないだろう、と思っていたが、物を知れば知るほど、実際にはかなり黒い動きはあることを知った。この事件がそうかどうかはわからないが、その後の状況を見ると、少なくとも、彼女が殺された事が単純な構図とはとても思えない。

 4.マスメディアの報道姿勢の罪

当時のマスメディアの姿勢は、一貫して「娼婦の事件」といった報道であった。あくまで「東電OL殺人事件」とし、被害者の人格を面白おかしく、徹底的におとしめた。「セックスしよう」などという見出しだけが躍り、事件への関心はもっぱら被害者の売春行為に向けられていった。私もそれくらいの印象しかなかった。

マスコミが無自覚に騒いでいたのか、それとも東電とのなんらかの関係があった結果かどうかはわからない。しかしはっきり言えることは、東電は、マスコミ・政治家・財界に非常に大きな力を持っている事は当時、そしても今も変わらない。そうした権力に対し、マスコミがいかに「忖度(そんたく)」するか、現在を見れば簡単に想像できる。事実としてはっきり言えるのは「OL」と呼んでいること自体が嘘であることである。それを見るだけでも、マスコミが何かを隠して、ねじ曲げて報道していることは間違いない。

東電は圧倒的資金量から、マスコミに対し大きな力を持っていたし、今も純然と持っている。そうした権力には徹底的にすり寄る姿勢は、そもそもマスメディアとして存在価値があるのだろうか?というより、国民を欺く有害な機関でしかないのではないか?

5.福島原発事故が起きても責任が生じない、東電という会社の姿勢と力

 福島原発事故の会見

このようにもともと疑いの目を持っていた東電に対して、原発事故の際に勝俣氏がテレビ出ててきたときには驚愕した。まさか会長にまでなっているとは、当時は知らなかったためである。また、「東電OL殺人事件」を通じて、疑念を持ってみていた東電という企業について、今度は原発の観点で見ることとなった。

事故自体は「千年に一度」と言われる地震によるものであり、まったく予測できない規模のものであった。しかし、これもよく見てみると、東電の体質の問題が見えてくる。事故が起こったのは「電源喪失」が原因であり、決定的に欠陥があることを指摘されていたにもかかわらず対策してこなかったのである。まったく同じ規模の津波を受けた東北電力の「女川原発」は無事であった(詳細は、過去記事:➡原発の現状から、電気に関する日本のエネルギー安全保障について考える)。これをもってすべての原発に反対というのはまったく賛成できないが、なぜ東電のこうした姿勢が問われる事がないのか、まったく理解できない。

こうした事実が明らかになってきても、なぜかそれらが追求されることがない。政治力を用いて情報統制まで出来る東電の力と体質に対して、大きな疑念を持っている。これは東電だけでなく、それにまつわるマスコミ・政治家・官僚の仕組みそのものの闇を感じざるを得ない。

 6.「東電OL殺人事件」の背景を見て、メディアとの付き合い方を考える

このように見てくると、「東電OL殺人事件」を単に「売春婦が痴情のもつれで殺された」という単純な話で片付ける方が不自然と思える。この話を見ていたとき、「人は簡単に消されるんだな」と恐ろしくなったし、現実を知った気がした。

ここまでの記述は憶測ではあるし、特殊な事情やいろいろわからないこともあるだろう。しかし、はっきりしているのは「マスメディアの言うことは鵜呑みにしてはいけない」ということであり、「裏で結託しているという疑念を持って見る」ということと思う。しかも当時より質がひどくなっている現状を見ると、むしろ見ない方がいいと思われる。事実を報道するどころか、意図的に隠し、更にねつ造までする報道機関を、報道機関として見ること自体が無意味である。むしろ有害といえる。
ある意図を持って事実をねじ曲げることは、むしろ普通と思うべきだろう。その上で、何が正しいのかを見る目を養うには、それが出来ている人達の言うことに耳を傾けることと思う。私が愛用しているYouTubeの番組の「虎ノ門ニュース」「チャンネル桜」「CGS」など、真剣に世の中を見てくれる人達はいる。それらの人達の意見を聞きながら、それも鵜呑みにせず、社会を見ていきたいと思う。

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 優子

2018年 5月 10日

引用

話で聞いていたけど、改めて読むと恐ろしいですね。
真実を報道しない、できない体質が今もまだ続いている事が残念です。

 てつ

2018年 5月 10日

今のマスコミはもっとひどくなっているけどね。

ま、マスメディアは見ずに「虎ノ門ニュース」などの真実の情報を見ましょ。