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歯科医師 村上 一枝さん

2019年05月27日 22時54分53秒 | 医科・歯科・介護

2014年 株式会社 浅井フーズクリエイション 人物探検隊掲載

特定非営利活動法人
カラ=西アフリカ農村自立協力会
代表 村上 一枝さん

1940年北海道生まれ。日本歯科大学東京校卒業。歯科医師。歯科医院開業後、医院廃業。

1989年9月西アフリカ マリ共和国へ渡り、ボランティア活動。以後、マリ在住。

1992年9月支援団体「マリ共和国保健医療を支援する会」設立。

1993年9月「カラ=西アフリカ農村自立協力会」に改名。1993年11月マリ共和国から認証。2001年読売新聞社「医療功労賞」受賞。2002年3月東京都からNPOとして認証。

2013年2月毎日新聞社「毎日地球未来賞」受賞。

講演依頼、活動内容はCARAホームページhttp://ongcara.org/参照

歯科医院を辞めてマリへ

きっかけはサハラ砂漠への旅行だったそうですが、初めて目にされたマリはどうでしたか。

私はサハラ砂漠だけでなく、日本と文化の違う地域に非常に魅かれ、イスラム圏をずいぶん見て歩いていたんです。旅行するために開業しているって笑われるぐらい。

初めて見たマリは黒いでしょ、広いでしょ、汚いでしょ。自然環境の違いは人々の生活を左右しますからね。

衛生状況によって病気を引き起こすことも多いでしょう。電気も水も学校も病院も無い。あるのは砂・砂・砂、そして熱くて過酷な生活ですよ。「こういうところにも人が住んでいるんだな」と思ってね。沢山の物と情報に囲まれていながらも、あれこれと不満を言って生きている日本での生活を反省し、思考していた1年でしたね。

昔からボランティア活動等にご興味が?

父も医者で開業しながら民生委員をしていましたし、それを見て育ちましたから、私も何かできないか、という疑問があったんだと思います。

自分で支援するためには開業と二本立てではできないから、みんなが驚くような値段で患者さんも診療所もつけて若い先生に全部譲って。私にとっては値段じゃない。元気な時にやりたいことをやるのが生きがいだと思ったわけ。即決なんですよ。だからインスピレーションって大事にしてます。1989年の8月31日でエイッとばかりに辞めて、後始末をして9月末にマリへ行ったんです。

なぜ活動の場をマリに?

たまたまマリに縁があったということだと思います。観光でマリに行ったんです。

伝統的な習慣が有名な世界遺産のドゴン台地の村には観光客が多いんです。ここの村に外国の支援の診療所があり、ユニセフの車がエッコラエッコラ上がって来て予防接種をしている。「あぁ、ユニセフができるなら、私にもできないことはないな、こういうところで人の力も活かせるんだな」と。それと現地ガイドが言った、「病気になったらお金がないから死ぬだけだ、しょうがない」っていう意識。そういうのを見たり聞いたりして次第にその気になったんですね。

ゼロからのスタート

村上、ジャラコロ野菜園で

活動の原点となったのは何ですか。

即決とはいえ、足がかりがなければ無防備に行く事はできないから、まず、マリで活動している団体を探して、ボランティアで申し込んだんです。

でも実際に行ってみたら、サハラ砂漠のトゥアレグ族の人たちが、医者が来たということでいろんな病気を抱えて相談に来るけれど、治せるものと治せないものがある。やはりそこで無力さを感じましたね。

日本人がいるだけで、朝から晩まで薬をタダで貰いに来るんですよ。でも私たちが引き上げた後はどうなりますか。いまだにエイズ以上にマラリアで亡くなる人が多いんです。マラリアの症状は頭痛、発熱だけじゃないし、多くの人は慢性に移行して最終的に肝臓や腎臓や肺に害を及ぼして亡くなってしまう。

一時的な投薬だけで済ましてしまうんですね。基本的にマラリアにならないような環境を整える知識が無いんですよ。対症療法だけでは根本的な解決にならないから、今のような支援分野に広がったんです。サハラ砂漠での経験が原点なんですよね。

ボランティアを辞めて、首都のバマコに戻ってマリ人のプロジェクトを探したんです。ある組織の人にマリへ来た目的を話し、専門分野を説明したら、「うちのプロジェクトであなたのような人を探している」というので、すぐプロジェクトのあるマディナ村に一人でバスで行ったんです。村に住んで始まったのが最初に単独でやったプロジェクトでした。自慢にならないかもしれないけど、本当にゼロから始めたんですよ。


福島第一原発事故で放出された主な放射性物質の特徴

まずはどのような活動からスタートを?

幸い、マディナ村ではOXFAM(オックスファム)のプロジェクトが始まったばかりで、農業用ダムや牧畜、識字教師育成などの事業が始まり、私も部族語のバンバラ語研修を受けさせられてね。でも医療部門はなかったのですが、村の家庭1軒、1軒調査したんです。

人口700何人、家族数約40所帯だったかな。事務局長が英語が話せて優秀な人だったから、彼を相棒にしてね。家族の名前、年齢、病気を聞いたり、台所、トイレを見せてもらって国勢調査みたいに調べたの。

調べてもらえる=自分たちの悩みを訴えられる、ということで家長が仕事にも行かず一張羅を着て待っているわけです。自分の年齢もわからない、字も書けない、母子手帳はあっても読めない、でもとにかく政府からもらったものだからビニール袋に入れて大事にしまってあるのを見せてもらったり。この人は出稼ぎに行ってるの? いつ帰ってくるの? 奥さんは何人いるの? 何回流産したの? 何人産んだの?って、全部統計をとったの。今考えるとよくやったと思いますね。若かったからできたのね。

他の地域に活動を移しても、この方法でそこの数ヵ村を調査します。全ての記録はあります。調査後には結果を集計して、村の長老に集まってもらって、あなたたちの村はこういう状況なんだと説明するんです。

彼らにとっても病気で農作業が出来ないとか、死ぬのは非常に不幸なことと思っていても、病気予防やその知識・工夫が足りないのね。援助物資としてヨーロッパから、既に彼らが使用した残りの薬が村へ来るんです。

消費国の人たちはこのような支援でも「助けてあげてるのよ」という意識もあるってことですね。村では「使った残りだ」と批判的ですよ。買えない人にとって無駄ではないけど、支援も失礼に当たるようなことはいけませんね。どんな国の人でも上から目線はいけません!!

その国の人、物を活かして

刺繍をする女性

女性への教育や生活改善なども彼らの自立に影響が大きいのでしょうか。

村の人は着るものもあまり無いから、女性一人一人に手縫いの衣服作りを教えたわけ。場所が無かったから道路でゴザ敷いてね。古い布を持ってこさせて子供用の前合わせの肌着を教えたら、柔道着だ、カッコイイって。

そんなことからだんだん女性と親しくなり、信頼を得ていったんです。女性を巻き込む、特に主婦を味方に付けることは本当に大事ですよね。アフリカでの国際井戸端会議ですよ。

現在の団体になってから採用したマリの女性スタッフが非常に優秀で、私の言うことやアイディア全てが目新しく、強い興味があるらしく、あれもこれも覚えたいって言うの。

女性適正技術部門(染め物、縫い物、石鹸造り、刺繍等)を彼女が担当するようになって目覚しく発展し、女性が収入を得るようになったんです。お店がないからみんなが買いに来るんです。売れると嬉しいからセッセと作る。そのお金を貸付資金の原資に蓄えたんです。これは絶対に他では見られないですよ。

10年以上継続しています。女性が村で収入を得るようになり、出稼ぎが減少したんです。夫にも小遣いをあげ、家庭内暴力が減り、女性は経済力が付いて立場が良くなり、自信から自立に繋がって行くんです。


村の女性の日常仕事

いろいろな支援・活動がありますね。

最初は医療だけと思ってこの事業に首を突っ込んだけど、医療を進めるに当たっては教育や食べ物、栄養とか色々な知識がいるわけですよ。

野菜園も基本的なインフラを我々が整備しますが、次からはそこで得た収入で運営させるんです。種を買い、井戸の故障を女性たちの力で修理する。通常は主食のトウジンヒエの製粉に臼と杵を使っていて、これは7~8才の少女期から手伝うので過剰労働になり、流産や死産の原因になる。

妊娠しても定期検査に行ける状況じゃないし、女性の死亡率が一番高いのが出産時というほど非常に事故も多かったんです。そこで過重労働を軽減するために穀物製粉機を女性たちの資金も出させて設置しています。


井戸を設置して説明会を行う女性

それから環境保護の問題も重要ですね。日常の燃料に多くの木を伐採します。人口が増えるほど伐採量も増えるでしょう。必要だからしょうがないけど、その後植林をしないのが問題ですね。人々の植林の意識を高めたくて学校林を造成し、学童が植林して学校運営に非常に役立っています。苗木の側に野菜の栽培も行いました。造成地内に備えた井戸の水を無駄なく使うためです。

家畜が入らないように柵も作る。そうすると水のない村が井戸が欲しいので木を植えるってことになるわけ。木が重要だから植えなさいと言っても、直ぐに収入に結びつかない植林はプロジェクトとしての発展が非常に遅く、難しいです。でも、成果を確認した他の地域が真似るようになる、所謂裨益(ひえき)効果が出るんです。

そして新しいプロジェクトが発展していくと、あまり熱心でなかった村の人たちは「あぁこうだったのか」って気が付いたりね。成果が彼らの心を揺さぶって目覚めるのでしょう。

識字学習を勉強する女性

スタッフはどんな方たちですか。

私たちの活動内容では、マリの技術者に有効に働いて貰うことがベストと思います。アフリカ人への指導はアフリカ人が最適です。現地の材料を使い、現地の技術を活かすことが活性化への早道だと思うんです。日常生活に必要なことから収入を得て生きる道を開くことが大切なんです。学歴では選びません。

誠実さが第一で小学校を出ていれば良いです。うちは徹底してそのようにしています。言葉や習慣、意識の違いが有り、日本人スタッフは非常に難しいですね。


一番難しいのは医療

教育や医療は難しいとよくおっしゃっていますが、どのような支援が必要ですか?

学校で知識を得るとみんな村を出て行ってしまうから教育はいらない、学校もいらないと言っていた村が、識字学習に非常に熱心になっているんです。すごい意識の目覚めですよ。

字を習って名前を書けると嬉しいんですね。それに比べてもやっぱり医療面の普及は難しい。公衆衛生や病気予防を勉強しても直ぐに収入に結びつかないですから。助産師や看護師にでもならなければお金にならないわけ。でも子供の下痢やマラリアも多くて親も心配ですし、苦しみたくないし、ということで母親が勉強を始めたんです。やはり、知りたい、覚えたい、人と違うことをしたいという意識はすごくあるわけ。このプロジェクトは村から5人の女性を選び、衛生問題や出産、栄養のことを学んでもらうということにしたんです。

親の手で子供の病気を防ごうというわけです。学んだ5人の彼女たち(通称k会)が村に戻って保健普及員として人々に知識を伝達する、という仕組みです。それが2008年から3年間のプロジェクトで大きな成果が出てきたのです。

特に私が感激しているのは、2000年に今の活動地域に入った時には、政府が開設した産院1ヵ所だけだったのが、「村の女性が字を書けるようになったら産院を建ててあげます」って言ったら、現在はなんともう7人の助産師が誕生して、7ヵ村に産院が開設したんです!!すごいでしょ? 

単なる産院だけども他のことも勉強させているから、マラリアになった時にもそこで薬を買えるんです、家族計画の相談も出来て子供の予防接種も確実に出来ています。それが私の自慢なんです。これは女性の将来にも光を当て、女児の就学率が高まっています。

産院が医療活動の中心になっているわけですね。

病気予防の掲示板

貧しい暮らしで、知識のなかった人たちに最初から「管理しなさい」と産院を建設しても無理なことなのです。村の開発事業にはステップがあるということですね。年月を経てやっと保健事業に、それも彼ら自身で管理できる保健事業の実施に達したということです。家族計画に見向きもしなかった男の人も、現在は奥さんと揃って相談に来るようになりましたね。過去には全くゼロだったのが、すごいことです。そして下痢の子供が減ったのは研修を真面目に受けて理解した結果です。食べる前に手を洗うとか、食べ物に蓋をするとか、日本では何でもないことだけど、そういうことも教えていったからです。

毎年出稼ぎの若者が帰ってきた時にエイズ予防のプロジェクトをしますが、その時にうちのスタッフだけでなく、若いアシスタントスタッフや育成した助産師や看護師に説明させるわけ。そうすると「彼らはスペシャリストだな」って村の人たちが理解し相談に行くようになるんです。

一人から家族へ、そして村へと我々は忍耐強く意識を変えていく努力をしないと成果は出ませんね。これは意識の問題でもあるから、支援する側のがまんですね。

支え、支えられ、確実な成果へ

活動資金はどういうものですか。私たちにもできる活動はありますか。

我々は一般市民団体ですから、本来は市民からの寄付や会費で事業をするのがベストと思いますけれど、それはなかなか望めないので民間団体、外務省やJICAの資金をいただいています。

でもそれは税金ですから、間接的に皆さんから頂いていることになるんです。成果を出さなければ日本から預かった資金に申し訳が無いと思いますね。

日本での仕事は講演などの普及活動です。でも地味で緊急事業じゃないからなかなか取り上げてくれないんです。どこへでも出かけて事業の話だけでなく、アフリカの女性の話や裏話もね、いくらでも喋りますからお声を掛けていただきたいです。

村の女性の日常仕事

組織を運営していくのに大切なこと、支援活動をしようとしている方たちへアドバイスなどはありますか?

大切なのは信念を貫抜くことですよね。そして誠実に進めると信頼を得るようになります。欲を出さないことも大事ですね。絶対に揺るがない精神力で進むっていうことだと思うんです。現地の人の身になって考えることです。いろんな経験をしなければ、理解できないことが多く、私は48才で始めたんですが、決して遅かったとは感じませんね。若ければいいってことじゃないんです。若い時から支援事業に馴染み、勉強するのはいいですね。

私の場合は、今考えるとそれまでの時間は生活の基盤、資金的な基盤をつくる時期だったなと思う。今もいろんな不満・不安はありますけど、だからといって辞める気はないし、結局今まで学んだこと、知ったことをフィードバックして、ゼロで生まれたからゼロで死ぬのが人生だと思うんですよね。

後継者を育てないのが欠点だとよく言われるけど、私はこれは会社組織の事業ではないから永代続けていく必要はないと思うの。誰でも自分の意思で作り上げた方が納得してできるんですよ。

だからいろんな団体がたくさんできればいいと思う。5年計画でも10年計画でもプランを立て、現地の村に許可を得てやりなさい、って言うんです。

マリへの支援や啓蒙・啓発活動にご多忙な村上さんご自身を支えているものは何ですか。

支えられている、学んでいる、という感じですね。反省を繰り返し、工夫して、これでもか!!と挫けないで続けていくことでしょうね。私、しつこい人間ですからね。

多種類の項目の事業を同時進行で進めていますと、一隅を照らす光でしかないけど、想像していなかった成果が出てくるんですね。マリから来る毎月の報告書を訳していると面白いんですよ。苦労というか、心配事やイライラしたり怒ったりもするけど、人々の変わりようが嬉しく楽しいです。でも未だ道半ばです。

一人でも多くの人にこのCARAのことを知っていただき、それが村上さんの支援活動のバックアップに繋がることを願っています。本日は有難うございました。


開業していた歯科医院を閉じて単身マリへ

2019年05月27日 22時43分22秒 | 医科・歯科・介護

今月のクローズアップは、特定非営利活動法人カラ=西アフリカ農村自立協力会(CARA)のご紹介です。

世界最貧国のひとつと言われる西アフリカのマリ共和国で活動するCARAは、砂漠化に直面し、疾病と貧困に苦しむ農村地域の人々を対象にさまざまな事業を行っています。

CARAの代表理事で団体設立者でもある村上一枝さんが、開業していた歯科医院を閉じて単身マリへと渡ったのは1989年のこと。

以降、東京とマリを行き来しながら、マリの農村の人々が自立した生活を得て、より健康で明るい毎日を送れるよう支援を続けています。今回は日本に帰国中の村上さんを訪ね、CARAの活動とその成果についてお話をうかがいました。

© ACCL

カラ=西アフリカ農村自立協力会(CARA)
代表理事 村上一枝さん

 

Q. なぜマリを活動の場に選ばれたのですか?

A. 歯科医院を開業していた約30年前、サハラ砂漠への観光旅行で訪れた西アフリカのマリで、日本ならば治る、あるいは予防できる病気でたくさんの人たちが亡くなっていることを知ってしまったからです。

さらにその旅行中、ユニセフの医師が現地を車で回りながら予防接種をしている姿を見かけたことから、「こうした活動なら私のような個人でもできなくはないな」と思うようになりました。私の専門は歯科ですが、それ以外にも、病気の予防や衛生的・栄養的な見地から、自分に何かできないだろうかと考えたのです。

そして、こうしようと決めたらスパッと動くのが私の性格。1989年の8月に歯科医を辞め、9月末にはマリに渡りました。大きな転身でしたが、海外で支援を行うという仕事の方が、私にとって意味があると思えたのです。

Q. マリへ渡ってから、どのように活動をスタートさせたのですか?

A. マリへ行ったからといって、いきなり個人で活動することはできませんから、まずは、日本のNGOがサハラ砂漠で始めた植林活動にボランティアとして参加しました。約1年間、植林や病気の予防に携わりながら、いろんなことを勉強し、考えましたね。日本人がこうしようと計画してきたことと、実際に現地でやらなければならないことには大きな差異があること。現地の人たちは非常に貧しいがゆえに賢く、援助してもらうための技や術を身につけていること。そういったことを学んだ後に、ボランティアを辞め、首都のバマコで新たな活動の場を探しました。そして、たまたま巡り合った現地のローカルNGOのマリ人に「自分の村でやっているプロジェクトであなたのような人を探している」と言われ、すぐにそのマディナ村へと向かったのです。

© CARA © CARA

女性適正技術教室で刺繍技術を習得している様子(左)と村の女性会議の様子(右)。
© CARA

Q. マディナ村では、どのような取組みを始められたのですか?

A. 村ではちょうど、農業用ダムや牧畜、識字教師育成などの事業がスタートしたところでしたが、医療分野がなかったため、私が村の家庭を1軒1軒、調査して回りました。家族構成や1人ひとりの病気の経緯を聞き、台所やトイレを見せてもらい、奥さんが何人いるかから流産の回数まで、統計を取ったんです。

今考えると、よくやったなと思いますね。そして、そこから問題提起をして、保健衛生の改善を始めていったんです。同時に、女性たちに縫い物を教えることも始めました。縫い物や編み物などの技術を身につけてもらい、女性の仕事を立ち上げていったんです。

さらに、学校の子どもたちの健康診断を実施し、マラリアや寄生虫の予防につなげました。このようにして個人のボランティアとして2年活動したのちに、1992年に「マリ共和国保健医療を支援する会」を設立、翌1993年に「カラ=西アフリカ農村自立協力会(CARA)」と改名し、現在に至ります。

Q. CARAの活動はさらに多くの村へ、そして多くの分野へと広がっていったのですね。

A. 医療環境の改善が私の一番の目標でしたが、それには、教育や食べ物、栄養など、さまざまな知識が必要です。そのため、結果的に事業内容が多岐にわたることになりました。識字教育や学校建設、水資源確保のための井戸の設置、マラリアやエイズなどの病気予防、助産師の育成、産院や診療所の建設、染物、縫い物、石鹸づくり、刺しゅうといった女性の生活改善のため適正技術の指導、野菜園づくりや小規模貸付支援。

全てのことが生きていくために必要なんです。それぞれの活動は、村人たちによる自主管理委員会が運営管理をしていて、今や収入を上げ、黒字になっている委員会も多いんですよ。

個人を豊かにする支援はいけないという人もいますが、1人ひとりがお金を得られるようにならなければ、その村が発展していくことはないと私は思います。そのかわり、豊かな支援は絶対にしません。最低限の支援をして、あとは自分たちの力でやりなさいというのが、私のやり方なんです。

© CARA © CARA

井戸を設置したことで、さまざまな事業が可能になりました。
左は機械掘りによる深井戸、右は手掘りによる浅井戸。
© CARA

Q. 教育の普及に注力されていますが、村の人たちの教育に対する意識は変わりましたか?

A. 教育を受けるとみんな町へ出て行ってしまうから学校なんていらない、という考えの村もかつては少なくありませんでした。しかし、識字教育の大切さが徐々に浸透していった結果、子どもに教育を受けさせたいと考える親が増えてきました。

これまで小学校を20校以上建ててきましたが、今では「中学校も建てて欲しい」と要望してくる村もあるほどです。もちろん、字を覚えたからすぐにお金が得られるようになるわけではなく、貧しい国では、明日の収入に直結することに魅力を感じる人が多いのは当然です。そのため、ここに至るまでには、非常に長い時間がかかりました。

© CARA © CARA

村の公立小学校1、2年クラス(左)と村の識字教室(右)。真剣に取り組む様子が伺えます。
© CARA

Q. 長年活動されてきた中で、深い達成感を得たことがあったら教えてください。

A. 妊娠・出産で命を落とす女性が非常に多かったこの地域で、10年以上かけてようやく助産師を育成できたときは本当に感激しましたね。助産師の育成が可能になったのは、女の子は学校に行かず字も書けないのが当たり前だった村から、読み書きができる女性がやっと出てきたからなんです。彼女が町で助産師の研修を受けている間に、村に産院を建て、彼女が働く場を作りました。

助産師として働く彼女の姿は、村の女性たちにとって大きな励みとなっています。女性もこんな生き方ができるんだということがわかり、ますます女の子の就学率が上がるようになりました。今では、いくつもの村で助産師が誕生しています。産院では、病気予防や衛生知識の学習会なども行っており、こちらでは健康普及員に選ばれた村の女性たちが活躍してくれています。

© CARA © CARA

女性健康普及員になるために学習した女性たちが村の人たちへ啓発学習会を行っています。
© CARA

Q. 今後はどのように活動を展開される予定ですか?

© CARA

A. 現在、マリは治安情勢が悪く渡航ができないのですが、とてもよく理解してやってくれる現地の女性スタッフが育っていて、私が留守をしてもちゃんと回してくれています。それに、それぞれの活動の自主管理委員会についてもリーダーが育成できたので、CARAはもう手を放したんです。

私たちはこれから、教育と同じように、勉強してもすぐに収入に結びつかないため、普及の難しい保健・衛生分野に力を入れていければと考えています。

また、女性の活躍の場を広げるための女性センターの設立も目指していきたいですね。

女性たちの意識の変化は、伝統的な男性優位の社会にも大きな影響を及ぼします。それにマリの人たちには、物怖じしない強さ、たくましさがあるんですよ。彼らが秘めている潜在的な能力を引き出すのが、私たちの仕事だと思っています。

 
 

 


カラ=西アフリカ農村自立協力会

2019年05月27日 21時53分36秒 | 社会・文化・政治・経済

特定非営利活動法人 カラ=西アフリカ農村自立協力会
英語名(略称) CARA
代表者 村上 一枝
役職名 代表理事
海外事務所

国数 1
所在地 マリ共和国(バマコ市)
設立の経緯

西アフリカの農村に住む人達がより健康で明るい毎日を送れるように支援することを目的に1992年9月に「マリ共和国保健医療を支援する会」を発足し、翌年、現在の名称に改称する。

組織の目的

砂漠化と疾病、貧困に苦しむ西アフリカの農村地域において、住民とともに農村自立活動をおこない、西アフリカの農村住民が、健康で未来への希望の持てる自立的生活を主体的に構築することに協力する。
設立の経緯

意思決定機構

機構の名称 ・総会:13名
・理事会6名
1年間の回数 3
事務局(スタッフの人数) ※専従=週5日以上勤務、非専従=週1~4日

有給専従 国内[女:1]、海外現地スタッフ[女:5 / 男:24]
有給非専従 国内[女:2]
会員制度

有無 有
会員の名称 ・正会員:13名(個人)
・一般会員:175名(個人)
・団体会員:1団体(営利団体)
加盟ネットワーク

加盟ネットワーク名 ・国際協力NGOセンター(JANIC)
・武蔵野市男女共同参画推進団体
現地の協力団体

団体名 1.OHVN
2.ASDAP
3.ホロンヤ
所在国、地域 1.マリ
2.マリ
3.マリ
国際協力事業の対象分野・対象者・対象国

対象分野[対象国] ・農村開発[マリ共和国]
・農業[マリ共和国]
・適正技術[マリ共和国]
・教育[マリ共和国]
・保健医療[マリ共和国]
・人口・家族計画[マリ共和国]
・給水・水資源[マリ共和国]
・食糧・飢餓[マリ共和国]
・植林・森林の保全[マリ共和国]
・土壌・大気[マリ共和国]
・温暖化対策[マリ共和国]
・環境教育[マリ共和国]
・その他の地球環境問題[マリ共和国]
対象者[対象国] ・女性
・子ども
・その他
海外事業 ・人材派遣[技術を持った専門家や現地事務所責任者、プロジェクト調整員やボランティアなどを日本や他の国々から派遣する形の協力]
国内事業 ・地球市民教育(開発教育、環境教育、人権教育、平和教育)[日本社会に対して「南」の現状を知らせ、貧困、抑圧、紛争、環境破壊などの問題や、南北の格差が縮まらないことについての構造的な原因について理解を深め、それを正す行動を促す学習活動を深める「開発教育」や、環境、人権、平和などの問題を学び、地球的視野で考え行動する地球市民を育てるといった教育活動による協力]
過去2年間の国際協力(海外・国内)に関する主な具体的事業

海外事業 ・教育および識字学習の普及:小・中学校建設、識字教室建設、識字教師育成(研修会の開催)
・女性の自立支援:センター建設、縫製・刺繍・染色・編物・石鹸作りの指導、女性達自身による小規模貸付事業
・地域保健:診療所・産院建設、助産師育成、地域住民女性自身による衛生環境改善活動、エイズ・マラリア予防
・植林・自然環境保護:村人で構成された森林パトロール隊による巡回、改良カマド普及
・野菜栽培・野菜園造成:栄養環境改善の為の女性・学校のため野菜園造成、浅井戸・深井戸設置
国内事業 ・イベント参加:都内、または各地にて活動紹介・物販
・チャリティーコンサート:毎年開催
・講演・パネル討論会
・修学旅行生の受け入れ(事務所訪問)
今後2年間に予定されている主な事業

予定 ・産院を併設した女性多目的センター開設
・村民女性達自身による保健衛生啓発活動グループの設立
・小・中学校・識字教室建設 識字教師の育成
・エイズ・マラリア予防啓発活動 寄生虫駆除薬投与
・助産師育成
国連ミレニアム開発目標(MDGs)への取組み

取り組んでいる開発目標 ・目標1:貧困と飢餓をなくす
・目標2:教育を受ける機会をもつ
・目標4:乳幼児死亡率を下げる
・目標5:妊産婦の健康改善
・目標6:エイズやマラリアなどの感染症を防ぐ
・目標7:環境を守る


潮来・嫁入り舟 観光客ら祝福

2019年05月27日 20時31分21秒 | 社会・文化・政治・経済

 

街ネタ茨城県
 鹿行(ろっこう)地域の初夏の風物詩「水郷潮来あやめまつり」が25日、潮来市のJR潮来駅周辺で始まった。1952年の初開催以来、今年で68回目。まだ2分咲きだが、6月23日までの期間中に紫や白、黄など色鮮やかなアヤメやショウブ約100万株が楽しめる。

 白無垢(むく)姿の花嫁が、市内を流れる前川を手こぎのろ舟に揺られて新郎宅へ向かう昔ながらの「嫁入り舟」には今年、台湾を含む県内外から55組の応募が…


2018年6月12日(火)

娘船頭・須賀さん、花嫁に 潮来・嫁入り舟 観光客ら祝福
潮来市で開かれている水郷潮来あやめまつりの嫁入り舟に10日、
、同市職員で娘船頭としても活動している須賀成穂さん(27)が花嫁として乗船した。
「嫁入り舟は昔からの憧れだった」という須賀さん。満開のハナショウブに見守られながら嫁入り舟に乗り込み、新郎の石橋大輝さん(29)が待つ船着き場に向かった。この日は小雨が降っていたが、詰め掛けた観光客らは「おめでとう」と祝福していた。

 嫁入り舟に乗る須賀成穂さん=潮来市あやめ

須賀さんは、「娘船頭として何人もの花嫁さんを見てきたけれど、自分で乗ってみると想像以上にお祝いの言葉が多かった。雨が降ったことで、かえって風情のある嫁入り舟になったと思う」と、満面の笑みを浮かべていた。(石川孝明)

「嫁入り舟」に観光客ら祝福 潮来あやめまつり開幕
2016.5.29 産経新聞

水郷潮来あやめまつりをPRするあやめ娘と娘船頭=県庁

 潮来市の初夏の風物詩「水郷潮来あやめまつり」が28日、同市あやめの水郷潮来あやめ園で開幕した。今年で65回目。咲き始めたハナショウブに囲まれる中、恒例の「嫁入り舟」が行われ、大勢の観光客らでにぎわった。

 園内1・2ヘクタールに植えられた約500種100万株のハナショウブやアヤメは、早咲きの品種が咲き始めており、期間中は遅咲きの品種まで開花リレーが楽しめる。見頃は6月上旬。

 花嫁が舟に乗り、新郎のもとへ向かう「嫁入り舟」では、観光客らが拍手をしながら、花嫁に「おめでとう」などと祝福の声をかけた。

 今年最初の花嫁となった、潮来市に隣接する神栖市に嫁ぐ静a岡県富士宮市の篠木栞(しおり)さん(25)は「両親に嫁ぎ先の風景を見せたかった。たくさんの人に祝っていただきうれしかったです」と笑顔で話していた。
まつりは6月26日まで。嫁入り舟は期間中の水、土、日曜日に行われる。

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見物客に見守られながら川を下る「嫁入り舟」

写真

 

 初夏の潮来 笑顔いっぱい あやめまつり開幕 嫁入り舟を祝福 2019年5月26日東京新聞

潮来市の初夏を彩る「水郷潮来あやめまつり」が二十五日、市内の水郷潮来あやめ園で始まった。花嫁が

小舟に乗って嫁ぎ先へ向かう「嫁入り舟」の運航もあり、見物客らが祝福した。

 園内では、紫、白、黄色のハナショウブやカキツバタなどアヤメ科の花約五百種百万株が楽しめる。嫁入り舟は、舟が主な交通手段だった昭和三十年代ごろまでの風習を再現。毎年まつり期間中、公募で選ばれた花嫁が乗っている。

 白無垢(むく)姿の花嫁が手こぎ舟に乗り、ゆっくり川を下ると、集まった人々が「おめでとう」「お幸せに」などと祝福した。

舟から会釈や笑顔で応じた小美玉市の小沼美保里さん(25)は「緊張したけど、たくさん笑顔を見せることができた」と話した。新郎の拓未さん(24)は「みなさんに祝福いただき、うれしい」と笑顔を見せた。

 まつりは六月二十三日まで。花は六月十日ごろに見ごろを迎える見込みという。嫁入り舟は期間中の水、土、日曜に見られ、二十九組が参加予定。 (水谷エリナ)

 



トランプ氏握手の作家ら「ご招待」? 桜井よしこ氏ら 「打ち合わせなし」

2019年05月27日 20時23分31秒 | 社会・文化・政治・経済

毎日新聞2019年5月27日
東京・両国国技館で26日にあった大相撲夏場所千秋楽で、観戦を終えて退場するトランプ米大統領と、升席にいた作家の門田隆将氏、評論家の金美齢氏、ジャーナリストの桜井よしこ氏が握手したことが話題になっている。

ネット上では3人は安倍晋三首相に近いとみなされており、「自腹なの?」「総理がご招待?」などの声が相次いだ。ツイッターで「升席を確保した」と明らかにした門田氏に経緯を聞いた。

【大場伸也、大村健一、山口朋辰/統合デジ


布川事件で計約7600万円の国家賠償命じ

2019年05月27日 18時36分31秒 | 社会・文化・政治・経済

 東京地裁

 

「冤罪犠牲者の会」3月に設立

毎日新聞2019年2月8日

「布川事件」で再審無罪となった桜井昌司さん(72)=水戸市=は8日、東京都内で記者会見を開き、「冤罪(えんざい)犠牲者の会(仮称)」を3月に結成することを明らかにした。冤罪の被害者や家族ら約40人が参加する。冤罪の当事者による全国団体の設立は初めてという。

 1967年に茨城県で起きた強盗殺人事件「布川事件」で再審無罪が確定した桜井昌司さん(72)が国と同県に計約1億9000万円の国家賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は27日、計約7600万円の支払いを命じた。


輪子の競輪日記 3着おじさんに脱帽!

2019年05月27日 17時31分53秒 | 未来予測研究会の掲示板
  • 競輪仲間から、「3着おじさん」とよばれている水街道の野口さん

    7レース 1着3579-2着3579-3着1
    8レース 1着2357-2着2357-3着4
    9レース 1着1357-2着1357-3着9

    その「3着おじさん」の独自の車券買いに輪子は目を丸くした。

    岸和田競輪3日目9レースの並びは9-3 6(単騎)1-5-8 4-7-2
    輪子は5-7 5-9 9-3 9-5の2車単車券を買っていた。
    結果はまた裏目。
    2車複でも2450円の配当だった。
    ところで、「3着おじさん」は3着が9番で的中。
    3連単車券の7-5-9は4万410円の配当。
    「50万円の大穴も当てちゃうんだよ」と競輪仲間は3着おじさんに脱帽!

    5=7 2450円(10人気)

    7-5 6000円(19人気)

  • 7-5-9 4万410円(132人気)







選手名
府県/年齢/期別


ギヤ
倍数
直近4ヶ月の成績
競走得点SB1
2
3


2連
対率
3連
対率
×   10 1 1 山岸 佳太
茨 城/29/107
S1 3.92 106.44 2 14 9 3 0 1 7 6 0 14 25.9 48.1 48.1
    18 2 2 庄子 信弘
宮 城/40/84
S2 3.92 102.20 4 2 0 4 7 0 8 3 3 15 27.5 37.9 48.2
  18 3 3 川口 公太朗
岐 阜/29/98
S2 3.92 100.90 1 3 1 3 3 0 2 5 4 20 6.4 22.5 35.4
  17 4 4 高木 翔
岩 手/25/105
S2 3.92 99.90 3 5 1 8 2 0 8 3 3 16 26.6 36.6 46.6
  19 5 藤田 竜矢
埼 玉/39/88
S2 3.92 101.03 1 3 0 6 3 1 5 5 1 18 17.2 34.4 37.9
    21 5 6 村上 直久
神奈川/37/95
S1 3.92 95.16 0 0 0 0 0 0 0 0 0 6 0.0 0.0 0.0
  15 7 伏見 俊昭
福 島/43/75
S1 3.92 107.42 2 0 0 0 5 0 4 1 3 20 14.2 17.8 28.5
    21 6 8 柿澤 大貴
長 野/29/97
S2 3.92 97.50 0 0 0 1 1 0 1 1 3 21 3.8 7.6 19.2
  11 9 小嶋 敬二
石 川/49/74
S1 3.92 107.60 5 8 2 9 1 0 8 4 1 16 27.5 41.3 44.8

潮来「嫁入り舟」

2019年05月27日 16時54分45秒 | 社会・文化・政治・経済

解説

 土地改良事業をはじめとする開発事業が  行われる昭和30年前半までは、この地方は水路によって形成された生活形態であったことから、嫁入りする際の花嫁や嫁入り道具等を運搬するときにもサッパ舟が使われており、これが「嫁入り舟」のはじまりだとされています。

 この「嫁入り舟」が全国的に知られるようになったのは、昭和31年10月に松竹映画「花嫁募集中」とタイアップし“ミス花嫁”を募集したことがきっかけとなり、花村菊江さんの「潮来花嫁さん」の大ヒットによりさらに全国的に知られるようになりました。

 しかし、生活形態や交通手段(水運から陸運)が変化してしまってからは、河川や水路(江間)も姿を消してしまい、サッパ舟を使った「嫁入舟」を見ることが出来なくなってしまいました。

 このようななか、昭和60年に行われた「つくば国際科学技術博覧会(潮来の日)」の際に、イベントとして「嫁入り舟」を復活させたのがきっかけとなり、現在のあやめまつり大会においてもイベントとして行われようになり、今では水郷潮来を代表する行事となりました。

【多くの見どころ!】
 花嫁さんは、仲人と共に旧磯山邸を人力車であやめ園へと出発します。あやめ園に到着した花嫁さんは、多くの観光客の皆様に祝福され、船頭と仲人と共にあやめ咲き誇る中を舟乗り場まで歩みます。舟乗り場から、嫁入り舟に乗り、花婿の待つ噴水施設のwaiwaiファンタジアへと向かいます。4つの橋をくぐりながら、ここでも橋や川の両側には多くの観光客の皆様におり、花嫁さんを祝福します。噴水施設では花婿が花嫁を迎えます。幸せのカギを二人でかけたり、潮来花嫁さん認定書が贈られるなど、嫁入り舟到着後のセレモニーも必見です。
 花嫁に会えるまち、水郷潮来は、きっと皆様に幸せを感じていただけると思います。

嫁入り舟11
嫁入り舟の花嫁さん

開催日 あやめまつり期間中 水・土・日曜日 
開催時間 水曜日:11:00 ・ 土曜日:11:00 14:00 19:30 ・ 日曜日:11:00 14:00
場所 水郷潮来あやめ園付近
お問合せ 潮来市 産業観光課: 0299-63-1111
あやめまつり期間中は大会本部: 0299-63-1187


過去の呪縛を引きずる「知米派」

2019年05月27日 15時56分16秒 | 社会・文化・政治・経済

未来志向の日米同盟構築を

1980年代から「ドナルド・トランプ」という人物を知っているが、基本的に自分(自国)中心で、物事を「ディール(取引)でしか考えない性格だ。
対日日本観も基本的に、1990年代に企業経営者として味わった不愉快な思いを引きずっている。
最近の対日交渉で、巨額の防衛費の新規購入や、カジノ利権がうわさされる統合リゾート開発を求めていることが物語っている。
トランプ大統領は親日派でもなければ日本に深くコミットしようとしている理解者でもない。
一方、日本側にも「知米派」と呼ばれる多数の政治家、外交官、メディアがいて、過去の呪縛から抜け出せずにいる。寺島実郎さん(日本総合研究所会長)


覚悟の決め方

2019年05月27日 14時33分45秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 

日本人初となる日米通算100勝、100セーブ、100ホールドの達成など、球史に名を刻んだ。

彼を象徴する言葉が、座右の銘「雑草魂」だ。
高校時代は控えの投手だった。
大学受験に失敗し、アルバイトをしながら浪人生活を経験した。
それでも野球を諦めなかったは、「負けてたまるか!」という反心があった。
プロ入り後は、けがとの闘いが続いたたが、悔しさを力に変え、一歩も引かなかった。
「私は、踏まれるたびに強くなる「雑草」なのだ。

商品の説明
内容紹介
レッドソックスの不動のクローザーとして活躍する著者。2013年シーズンは、見事ワールドチャンピオンとなり、胴上げ投手にもなった。39歳となった今シーズンも、活躍を続けている。本書では、著者が年齢を重ねながら進化し続ける理由を明らかにする。
著者は「不安やプレッシャーは悪いものではない」という。「不安があるからこそ、準備を怠りなくと思うことができる。不安に押し潰されるのではなく、不安こそが自分を動かすエネルギーとなりえるのだ」と断言する。
著者の毎日は、マッサージなどの身体のケアを他のどの選手よりも入念に行い、ストイックな生活をおくる日々だ。それは「ケアを怠ることで怪我をするなどして、後悔したくない」という一心だ。そしてその先にあるのは、マウンドに上るまでの覚悟だ。
著者は、毎日小さな目標を立てて球場に向かう。
雑草魂を糧にいかに壁に挑み克服してきたかを明らかにする。運命を切り拓きたい人は必読の一冊。

内容(「BOOK」データベースより)
ワールドシリーズ胴上げ投手、不動のクローザー…。年齢を重ねながら進化し続ける理由。幸運、奇跡を呼び込む一日一日の準備とは?

 
 

 

<自分らしい花>を咲かせる

2019年05月27日 14時29分28秒 | 医科・歯科・介護

<励ましの世界>と<立ち上がった世界>
つまり、立ち上がった人の陰には必ず誰かの支えがあった。
励ましを受け、自身の使命を果たしていく。

<必ず勝つ>との強い一念に燃えた「真剣の一人」の決意と行動が、壁を破る原動力となる。
今こそ、地域に友情と信頼の輪を大きく広げていくことだ。

いかに社会の混迷が深まろうと、民衆が立ち上がれば、希望は開ける。

挫折や試練は人生に付きもの。
その時、どう立ち向かうかで人間は変わる。

不屈の闘志を燃やした人は強くなり、成長し、<自分らしい花>を咲かせることができる。


<励ましの種子>

2019年05月27日 14時09分50秒 | 社会・文化・政治・経済

一は万が母。
「万」の多数も「一」から始まる。
社会に深く根を張った智慧の一人の重みは千人、いな万人にも匹敵する。

振り返れば、リストラで失職したことも、深い意味があった。
仕事や経済苦で悩む人に心から寄り添えるようになったからだ。

何があっても、明るく朗らかに―との人生の師の励ましに背中を押される。
<励ましの種子>が、幾つもの<勝利の大輪>を咲かせる。

わかってみれば、悩みは、幸福に不可欠な糧でさえある。
ゆえに、自らの目標の山をつくり、山をめざす、山を乗り越えていく。

人々を根底から蘇生させ、社会を変革していく道のり。
決してあせることなく、着実に、また確実に、堂々と進んでいくことだ。


強い生命力のある人

2019年05月27日 13時43分52秒 | 社会・文化・政治・経済

人生には、山もあれば谷もある。
そして、同じ道であっても、強い生命力のある人は、悠々と歩いていけるものだ。

生命力が強い人ってどんな人ですか?

 

生きるか死ぬのかの窮地に立たされてもなお、泰然自若としている人。

 

泰然自若(たいぜんじじゃく)の意味・使い方。
落ち着いていてどんなことにも動じないさま。
▽「泰然」は落ち着いて物事に動じないさま。
「自若」は何に対してもあわてず、驚かず、落ち着いているさま。

いろんなことにめげずに、生き残る人。

生きて行くうちには、様々な困難があります。

経済的、精神的、体力的、困難に遭遇しても、生き残るだけの何かを持っている人。

騙されてどん底な生活になる、とか。
つらずぎることが続いても、前向きに、困難を跳ね返すくらいの精神力のある人。

メンタルが強く前向きな人だと思います。つまづいても立ち直りも早くいつも何か目標に向かって一生懸命になれる人です。

体力がある人とか、細かいこと気にしない人とか。
免疫力が高い人!
回復力が強い人です。


アルト・ハイデルベルク―小説

2019年05月27日 13時08分39秒 | 投稿欄
 
ドイツ・ザクセン地方のカールブルク公国の公子、20歳のカール・ハインリヒがハイデルベルク大学に留学した時のことですが、下宿兼居酒屋で働く明るい17歳の娘、ケーティと親しくなります。しかし、3カ月後、伯父・大公の病気が重くなり、跡を継ぐため故郷に呼び戻されてしまいます。

身分違いの悲恋を描いた甘ったるい純愛物という悪口もありますが、こういう青春の書があってもいいのではないでしょうか。

若い時に、ハイデルブルクを訪れたことがあるのですが、ここでカールとケーティが語り合ったのかといささか興奮したことを懐かしく思い出します。

その時、登ったハイデルブルク城は古城の雰囲気を湛えた魅力的な城でした。
本作品には、お付きの教育係とハイデルベルク城に登った時のカールの幸せな気持ちがこのように描写されています。「彼がこれまでこんなに幸福だったことがあったろうか。いや、けっしてけっして。
いろんな印象が、昨日も今日も、彼に向かって押しよせてきた。それにはいかなる雑音も、まざってはいなかった。
すべては調和的に、ただ一つの幸福の諧音となって鳴りひびいているのである。――ケーティ、自由、ハイデルベルク、ネッカー川、城、春、黄金色の未来――ただ一つの歓びの流れ、ただ一つの陶酔となって」。

『アルト・ハイデルベルク』(Alt-Heidelberg) はドイツの作家・ヴィルヘルム・マイヤー=フェルスター(ドイツ語版)による5幕の戯曲である。
フェルスター自身が1898年に発表した小説『カール・ハインリッヒ』(Karl Heinrich) を基にしており、1901年にベルリンで初演された。タイトルは「古き(良き)ハイデルベルク」の意。
ザクセンのカールブルク公国の公子、カール・ハインリッヒがハイデルベルク大学へ遊学して、このネッカー川に面した美しい町の下宿でケーティ (Käthie) と仲良くなり楽しい時を過ごすが、養父の死により大公に就くことになり、彼女と別れて故郷へ呼び戻され、その後再びハイデルベルクを訪問してケーティに再会するまでを描いている 。
同様のテーマを扱った森鴎外の『舞姫』の暗いイメージとは正反対の、涙を誘いながらも比較的に明るい純愛ものである。
日本での初演は1912年に有楽座で文芸協会が行ない、松井須磨子がケーティ役であった。その後滝沢修、山本安英、杉村春子などが1924年、1926年、1934年に築地座、築地小劇場で出演している。
1931年10月に宝塚少女歌劇団(現宝塚歌劇団)月組によって『ユングハイデルベルヒ』という題で上演が行われて、その後何度も宝塚少女歌劇団で上演される作品になった。
1977年8月には日生劇場で『音楽劇 若きハイデルベルク』と題して中村勘九郎と大竹しのぶ主演で上演された。
ドイツのザクセン地方のカールブルク公国(架空の国、実際にあるのはコーブルク公国)の王子、カール・ハインリッヒは、両親が早く亡くなったため、後見となった叔父の大公に育てられてきた。
学齢に達した王子は、晴れて学生生活を過ごすべく家庭教師の哲学博士とともにハイデルベルクにやってきた。
王子の住まいはネッカー川そばのリューダーという下宿屋で、1階は居酒屋兼食堂になっていていつも学生たちで溢れかえっていた。
リューダーの遠縁で、ここで女給として働いていたケーティは、たちまち王子に夢中になった。
そして、4か月がたち、いっしょにパリに連れていってあげるから、とびきり上等のドレスでおめかしして待っているように言われた直後に、王子の国元から使者がやってきて、大公の容態が悪く、直ちに帰国して欲しいとの知らせを伝えた。
王子は1年の予定だった遊学を早々に切り上げて帰国を余儀なくされた。
それから2年後、カール・ハインリッヒはカールブルク大公となった。
2週間後に不本意な結婚を迎える予定の彼のもとに、ハイデルベルクでの短い学生時代「いつか自分が大公になったら給仕長に取り立ててやるぞ」と約束した相手のケラーマンが訪ねてきて、ハイデルベルクの人々の消息を語った。
そこで大公は青春の思い出のハイデルベルクが懐かしくてたまらなくなり、ケラーマンを伴って再びハイデルベルクを訪ねることにした。
しかし、ハイデルベルクの街はすっかり変わってしまっており、学生気質も変わり、リューダーの居酒屋も学生たちが寄り付かなくなっていた。
ケーティもまもなく結婚を控えていたが、彼女だけは大公のことを忘れずに思ってくれていた。
再びハイデルベルクを後にする大公の胸には青春のハイデルベルクの思い出だけが残っていた。

本作は、20世紀前半において最も数多く上演されたドイツの演劇作品の一つである。この作品が、ハイデルベルクの町を世界的に有名にし、日本では明治時代においてドイツ語を学ぶ学生にとっては必読書になった。昭和時代前期になってもそうした雰囲気は残っていた[3]


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

性的暴行、近親相姦であっても中絶は禁止

2019年05月27日 12時32分17秒 | 社会・文化・政治・経済

アラバマ州の中絶禁止法に対し、怒りを露わにするセレブたちの声

数多くのセレブリティが、深い怒りと悲しみ、絶望を露わにし、行動するよう呼びかけている。

人工中絶の禁止アラバマ州

リアーナ、レディー・ガガとのコラボの可能性を語る

レディー・ガガ、アラバマ州の中絶禁止法に抗議
アラバマ州で中絶禁止の法案が成立…レディー・ガガらが反応
性的暴行、近親相姦などによる望まない妊娠であっても中絶は禁止…。
米アラバマ州議会上院が現地時間5月14日、原則的に妊娠中絶を禁止する、アメリカで最も厳しい法案を25対6の賛成多数で可決。ケイ・アイビー知事が署名し、法案が成立した。

中絶手術をした医師については、最大で99年の禁錮刑が科される可能性があるという。
例外は子宮外妊娠で母体の重大な危険を回避する場合と、胎児に致命的な異常がある場合に限られるそう。

この法案で注目を集めたのが、性的暴行などによる望まない妊娠であっても中絶が禁止されている点。
SNS上でも多くの反応があり、セレブたちもコメントを寄せた。
背景には来年の大統領選をにらんだトランプ大統領の思惑があるとの指摘はその通りだろう。

自身も性的暴行を受けたことを明かしているレディー・ガガは以下のように心境を告白。
アラバマで中絶が禁止されたことは非道。
レイプされた場合や、同意の有無に関わらずの近親相姦の場合も中絶禁止、より悪質な法律となった。
それに、これらの手術を行った医師たちに、大半の強姦犯よりも重い罰が科せられるということ? 
これは茶番です。このシステムのせいで苦しむことになるすべての女性や若い女の子たちのために祈っています。
また、俳優のクリス・エヴァンスもこのようにツイート。
これは本当に信じられない…。もしあなたがロー対ウェイド事件(人工妊娠中絶を規制するアメリカ国内法の大部分を違憲無効とした、1973年のアメリカ合衆国最高裁判所の判決)の心配をし、注目をしていないのなら。だから投票するのは重要なことなんだ。
これらのコメントには、多くの賛同が寄せられている。