石館 守三さんを思い起こす

2019年05月30日 12時37分04秒 | 日記・断片

午前10時30分から相田宅で、敢闘会の打ち合わせをする。
当方に、会合を電話で伝えてきた寺川さんは欠席。
たぶん、会合を忘れているのだろう。
当方も、忘れるので責められない。
珍しく、井田さんが姿を見せた。
1年分であろうか。
次会の式次第を決めた。
司会および会場の設営は、大利根支部が担当となる。
なお、川田さんは6月の初旬に中国へ行くという。
大学の教え子たちに会いに。
帰ってきてから、中国の最近の情勢が聞けそうだ。
ちなみに、日中医学協会の役員をしていた歯科医師の知人に、「北京に行こう」と誘わせたことがある。
当時の日中医学協会の会長は、日本薬剤師会の当時の石館さんが会長であった。
石館 守三会長の任期(1988〜1991年)笹川記念保健協力財団理事長
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石館 守三(いしだて もりぞう、1901年1月24日 - 1996年7月18日)は日本の薬学者、薬理学者。
日本の薬学界のパイオニア。
ハンセン病治療薬「プロミン」を合成し、多くのハンセン病患者を救った。
また、日本初のがん化学療法剤ナイトロミン(ナイトロジェンマスタードN-オキシド)を創製した。
東京大学薬学部初代学部長、名誉教授、薬学博士、元日本薬剤師会会長。
1901年、青森県青森市、喜久造・みきの三男として薬種商を営む裕福な商家に生まれた。1918年、青森県立青森中学校を卒業、1919年第二高等学校理科二類に進学。中学を卒業して浪人中の夏、療養所でハンセン病患者に初めて遭遇し、衝撃を受ける。1922年第二高等学校卒業、東京帝国大学医学部薬学科入学。3年のときから朝比奈泰彦教授に師事した。1926年には倉田清・芳子の長女光子と結婚。
1930年、薬学博士となる。1936年、生薬・植物化学研究のためドイツへ留学、1938年、帰国。東北帝国大学の黒川利雄、吉田富三らとの共同研究を経て、日本における合成がん化学療法剤第一号「ナイトロミン」を開発。
1942年東京帝国大学教授。1946年、ハンセン病治療薬「プロミン」合成、国内の多くの患者を救う。1958年、東京大学初代薬学部長に就任。
1965年、国立衛生試験所所長に就任。1970年12月日本薬剤師会会長に就任し以後約12年間勤めた。
1974年、笹川良一に出会い、財団法人笹川記念保健協力財団を設立、世界の多くのハンセン病患者を救った。1996年これらの功績が認められ、日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける。同年、東京都杉並区の自宅にて逝去。
エピソード

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