母の絹子は、東京新宿にある東京女子医科大学の出身者であった。
医学部の教育理念は、自らの能力を磨き、医学の知識・技能を修得して自立し、「至誠と愛」を実践する女性医師および女性研究者を育成することにある。
さらに、知識・技能だけでなく、患者一人ひとりに向き合い、それぞれの悩みを解決できる医療者、医療を実践する過程で、様々な人々と協働しながら、社会を先導する医療人、そして多様なキャリア形成とライフサイクルの中で、自分を磨き続けることのできる女性医師あるいは女性研究者を育成する。
絹子の心をとらえたはのは、「至誠と愛」を実践する女性医師という理念であった。
絹子は、大学の同期生の牧野紀子によって、仏法哲学を知り深く興味を覚えた。
それは、<死んだら終わり”ではなく、死は次の生への始まり>との生死観であった。
そのよういに捉えた方が、人生の最終章まで「生」を輝かせていくことができるのである。
絹子は、晃を信仰に導くとともに、大学院へ進み教師になることを勧めた。
絹子が師と仰ぐ指導者が「私の生涯の最後の事業は教育です」と言ったことが、彼女の心を深く動かしたのである。
母親として、一人息子の晃に医師になることを期待していたのであるが、その期待は裏切られていた。
医師は人の命を助けることだ。
教師は、人を育てることであり「教育の目的は子どもの幸福の実現」と師は言っていた。
「あなたのために、これまで郵便貯金をしておいたからね」母親は笑顔となりバックから貯金通帳と印鑑を取り出して、喫茶店のテーブルに置いた。
晃は、その場では確認しなかったが、貯金は850万円余であったのだ。
晃は、新宿駅のホームで甲府に帰る母親を見送る。
そして、母へ感謝の念が込み上げてきて涙ぐむ。
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