大阪勤務となった、山崎瑞奈は京都の河原町の実家から、大阪・道修町の本社に通勤となる。
京阪京都線で淀屋橋まで、約1時間20分ほどの乗車時間であった。
だが、一方の勇作にとっては、まさに、まさかの展開となるのだ。
本社の東賢一専務の発案で、「団地新聞」が創刊される。
専門の取材記者は瑞奈、何と営業担当は勇作となるのだ。
「ゆうちゃんと瑞奈ちゃんは、やはり、腐れ縁なのね」瑞奈は喜ぶのであるが、まさかの大阪本社勤務となった勇作の気持ちは複雑となる。
そして、勇作は本社が用意した土佐堀川沿いのアパートの住人となったのだ。
「団地新聞」とは、千里中央ニュータウンを起点とする団地を対象とした地域新聞である。
大衆薬の情報や健康食品、地域医療や健康相談などに特化したミニコミ紙であったのだ。
初めは、瑞奈も「団地新聞」に情熱を傾けていたのだが、団地の主婦たちの反応は芳しくなかった。
「彼女たちの意識は、まだまだね」取材を重ねた瑞奈は、さじを投げるのだ。
そこへ、薬剤師である記者が入社して、瑞奈の後を引き継いだのである。
その記者の新井和子が、後年、勇作の妻となった。
「ゆうちゃん、良かったね」瑞奈は勇作を祝福する。
結婚した瑞奈は、2歳の娘を連れて勇作に会いにきたのだが、その2年後には自ら命を絶ってしまう。
「なぜなのだろう?」勇作は自らに、何時までも問い続けた。
「共白髪まで、いいわね」鎌倉の夜の海の彼女の言葉が、空しく残るばかりである。
土佐堀川(とさぼりがわ)は、大阪府大阪市北区中之島の南縁を流れる河川。
旧淀川(大川・堂島川・安治川)の分流の一つである。
中之島の東端で旧淀川から分岐したのち、中之島の西端で旧淀川に再び合流する。
なお、旧淀川は一般的に中之島より上流の区間が大川(おおかわ)、中之島の北縁を流れる区間が堂島川(どうじまがわ)、中之島より下流の区間が安治川(あじがわ)と呼び分けられており、土佐堀川はちょうど堂島川と対になる。
参考
ミニコミとは、個人や団体が書籍や雑誌などを発行し、ひとつ及び複数のテーマを中心として編集され、広く社会へアピールするため、主に1970年前後の社会運動の中で、自然発生的に生まれた社会的現象。内部通信的な性格をもつ同人誌とは、基本的な姿勢を異にし、明確な主張を掲げ、不特定多数の読者へのアピール性を強く持っていた。マス・コミュニケーションに対抗する、"ミニ・コミュニケーション"なのであり、略してミニコミと総称された。
概略
1960年代から70年代にかけて、社会運動の盛り上がりの中、多くの報道は、大手新聞、週刊誌などの雑誌、数局しかないテレビ、ラジオ、というマス・コミに頼っていた。しかし、その取材は、一定の視点からの記述にとどまっており、多くの読者、視聴者が不満を感じた。
そこで、現場にいた当事者たちが、マス・コミに取り上げられない事実、あるいは主張や議論を、自ら発しようとした。その時の手段は、電波や大型印刷機というメディアを使うことができず、当時の質素かつ簡易な印刷手段であったガリ版印刷などで行われた。