負けないことが、人生で勝利する要諦

2024年09月08日 22時38分31秒 | その気になる言葉

▼人生は「出会い」で決まる。

▼心で決まる「心こそ大切」である。

▼「何のために学ぶのか」

「自分のため」だけに勉強していると、いつか行き詰るだろう。

「人のため」「社会のため」「世界のため」という大きな志が、勉強を楽しくする。

そして、偉大な自分をつやくりあげるだろう。

▼周囲の状況や変化に影響されることがなく、自分自身をしっかり見つめて生き抜いていくことが大切である。

肝心なのは、世間の毀誉褒貶や目先の利害に振り回されないことだ。

負けないことが、人生で勝利する要諦である。

どんなに辛くても、へこたれない。

あきらめない、粘り強く歩みを進めたひとが、最後には必ず勝つ。

苦難や試練に直面しても、常に前進することだ。

 


義和団/義和団事件/義和団戦争

2024年09月08日 14時02分17秒 | 社会・文化・政治・経済

1900年、中国で起こった反キリスト教、排外主義の民衆蜂起。清朝(西太后)は当初鎮圧を図ったが、北京を占領されるにおよんで支持に転じ、列強に宣戦布告した。しかし英米仏露日など8ヵ国連合軍が北京を奪回し、列強の帝国主義的中国分割が進んだ。

 19世紀末、帝国主義列強による中国分割が進んだことで、中国民衆の中から外国文明に対する拒否反応が強まるなか、1899年10月頃、山東省で義和団という民間宗教団体が武装蜂起した。
義和団は「扶清滅洋」をかかげて1900年4月には北京に入り、さらに北京・天津間などの鉄道を破壊するなど勢力を拡大させた。6月には清国兵も加わって外国公使らに危害を加えた。西太后ら清朝政府は義和団の蜂起に押されて1900年6月21日、列国に宣戦を布告した。これに対しイギリス、アメリカ、ロシアなど8カ国は連合軍を結成してたので、清朝と列国の戦争となったので義和団戦争という。
日本も北京で日本公使が殺害されたことから、イギリスの要請を受けて連合軍に加わって出兵することに決した。7月には清朝政府は態度を変えて義和団を反乱軍としてその鎮圧に転じた。
 8カ国連合軍は1900年8月14日に北京に侵攻、西太后ら清朝首脳は北京を脱出、9月には義和団弾圧を命じ、列国との講和に応じた。その結果、1901年9月7日、清朝政府は8カ国との北京議定書(心中条約)を締結し、賠償金支払いとともに北京と天津への外国軍隊の駐留権を認めた。
 その結果、帝国主義列強による中国分割がさらに進んだ。
における南ア戦争、ラテンアメリカ・フィリピンにおける米西戦争などと共に帝国主義による世界分割の一環であった。
義和団「戦争」 このできごとは、単なる民衆蜂起とその鎮圧ととらえられ、「義和団事件」といわれたり、日本政府は戦争という呼称を避けて「北清事変」と称したりであったが、列強と清国政府間の戦い、つまり「戦争」ととらえるのが正しく、最近の歴史総合の教科書などでも「義和団戦争」とされるようになった。

19世紀末、中国分割の危機

 日清戦争の敗北をうけて、清朝内部で始まった康有為等の戊戌の変法はあくまで体制の上からの改革であり、一般民衆にはほとんど理解されていなかった。民衆はむしろ、帝国主義列強による侵略に対して本能的に反発し、西洋文明を拒否する動きを示した。
西洋の医療は幼児の目をくりぬいて薬を作っているとか、鉄道や汽船は怪異なものであり、電信柱があるから雨が降らないのだなどと信じ、またキリスト教徒が祖先の祭をしないことに伝統を壊すものという不快感を持った。そのような反西洋文明、反キリスト教の運動を仇教運動ともいう。
 そのような中で、1897年、山東省でドイツ人宣教師が殺害される事件が起こり、それを機にドイツは山東省一帯に進出し、さらに翌1898年膠州湾を租借し、列強による中国分割に先鞭をつけた。このような民衆の排外的・反キリスト教感情を煽動したのが、義和団といわれる一種の宗教秘密結社であった。この運動は華北一帯に広まり、各地でキリスト教の教会や信者を襲い、暴動を起こし、西欧列強と鋭く対峙するようになった。

義和団とは

 義和団は、かつての白蓮教の流れをくみ、義和拳という拳法によって刀や槍にも傷つけられない神力を得ることができると説き、民衆や遊侠の人々に広がった。山東地方で外国人やキリスト教宣教師を襲撃しながら次第に大きな集団となり、ついに1900年には北京に集結して蜂起し、義和団戦争となった。
背景には、当時の華北の黄河流域で、たびたび洪水が起き、民衆生活に大きな犠牲が出ているにもかかわらず、清朝が無策であったことも挙げられる。

義和団戦争の勃発

 1899年10月、山東で蜂起した義和団は、1900年4月には北京を占領、日本とドイツの外交官を殺害し、教会を襲撃した。清朝政府で実権をふるっていた西太后は義和団を鎮圧しようとしたが、それが出来ないと見ると方向を転換し、義和団を支持し列国に宣戦布告した。

8ヶ国連合軍の北京出兵

義和団事変

義和団戦争で出兵した8カ国連合軍
左から、イギリス、アメリカ、ロシア、インド、ドイツ、フランス、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本の兵士。9人いるのは、イギリス植民地のインド兵が動員されたため。

・これに対し、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア=ハンガリー・イタリア・ロシア・日本の8ヶ国連合軍が共同で出兵、天津に上陸して北京に向かい、外交官や在留自国民を保護しようとしたが、義和団は清国兵とともに各地で鉄道を破壊するなど攻勢を強めた。
ようやく1900年8月14日、連合軍は北京に入り、18日までに義和団を鎮定した。西太后は紫禁城を捨てて脱出、西方の西安に逃れた。8ヶ国の中で最も兵力の大きかったのが日本であり、イギリスは南アフリカ戦争のため、アメリカはフィリピンの独立運動を鎮圧するフィリピン=アメリカ戦争のために兵力を割けなかったからである。

北京議定書の調印

 北京を占領された清朝は李鴻章が列強と講和交渉に当たり、排外派の大臣を処刑して1901年9月に北京議定書(辛丑和約、または辛丑条約ともいう)を締結した。これによって、北京と天津への外国軍隊の駐留権などを認め、帝国主義列強の中国分割はさらに進んだ。
 北京議定書では、4億5千万両(テール)という高額な賠償金の義務を負った。この賠償金は利子を付けて39年にわたり、毎年分割払いで支払うこととされた。元金と利子を合わせれば9億両以上となる莫大な負債となった。これはこの年の干支をとって庚子賠款(こうしばいかん)と言われ、清朝にとって日清戦争での2億両の賠償金と共に非常な財政上の負担となった。

その後の中国とアジア情勢

 西太后は西安から戻った後、急速に西洋風の文物を取り入れるようになり、清朝最後の改革といわれる光緒新政を打ち出したが、もはや清朝の権威の衰微を覆い隠すことができなっていった。
 1894年興中会を組織した孫文は、清朝内の改革派官僚に期待して、義和団事変にあわせて挙兵(恵州蜂起)したが、やはり鎮圧されてしまった。その後に誕生した光復会華興会などの反清団体を結集し、1905年に孫文を総裁とする中国同盟会が組織され、これが辛亥革命による中華民国の成立を実現させ、そして袁世凱による政権奪取による清朝の滅亡へと一気に進んでいく。
 アジアの国際関係は緊迫の度合いを増した。それは義和団事変後もロシアが満洲などから撤兵しなかったことにより、ロシアの東アジア侵出を恐れた日本とイギリスが1902年に日英同盟を締結したことに現れている。
しかしイギリスは当時、南アフリカ戦争の直後であったため自らは動けず、またアメリカもロシアを警戒していたがアギナルドらの指導するフィリピン共和国とのフィリピン=アメリカ戦争を戦っていたため介入できず、日本は単独でロシアと戦うこととなり、1904年に日露戦争の勃発となる。
 

清国内の分割

1894年(明治27年)、李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝)の支配権を巡って「日清戦争」が勃発。清は当時、他国から東アジア地域の強国でいざとなれば牙を剥く「眠れる獅子」だと考えられており、欧米諸国は日本に負けるとは思っていませんでした。

ところが、実際には一方的な展開で日本が勝利を収め、清は領土の割譲、多額の賠償金の支払いを課せられるなど苦境に立たされます。これによって欧米諸国は清の潜在的な力に対する恐れを払拭し、賠償金の貸与などに付け込んで清国内の領土、利権の奪い合いを開始しました。

ロシア帝国はドイツ、フランスとともに日本に対して「三国干渉」を行って遼東半島を清へ返還させ、さらに賠償金を清に貸与し、貸与の見返りとしてシベリア鉄道が北満州(まんしゅう:中国の北東部)を通過する権益を得ようとします。

1897年(明治30年)、ロシア帝国艦隊は遼東半島(りょうとうはんとう)の先端にある、旅順(りょじゅん)へ入港。そのまま居座った末、旅順と大連(だいれん)の長期租借(そしゃく:領土を借り受けること)を要請しました。

ロシア帝国が極東アジアで勢力を伸ばすことをよく思わないイギリスは、対抗して山東半島(さんとうはんとう:遼東半島と向かい合う中国大陸最大の半島)の威海衛(いかいえい:現在の威海)と九龍半島(くうろんはんとう:現在の香港地区)を強制的に租借。

また、フランスはベトナムを植民地化していたため、すぐ北側の広州湾を租借します。さらに、ドイツは1897年(明治30年)に、山東省(さんとうしょう:山東半島を中心とした地域)でドイツ人宣教師が殺害される事件をきっかけとして、膠州湾(こうしゅうわん:山東半島南側の湾)を租借しました。

こうした欧米諸国の動きに対して、日本は清が分割されていく様子を、ただ指を咥えて見ているしかなく、当時の外務省の記録には「無力の沈黙」と記されています。

清国内で高まる不満

変法運動

1898年(明治31年)、清では思想家で学者の「康有為」(こうゆうい)が11代清皇帝「光緒帝」(こうしょてい)に上奏(じょうそう:皇帝に対し意見を述べること)し、専制君主制(君主が全権を持ち国を統治する体制)を廃して、日本のように立憲君主制(君主の権利が憲法によって制限されている体制)に改める以外に清を救う道はないと主張。

康有為はこの政治改革を「変法」(へんぽう)と呼び、叔母「西太后」(せいたいごう)に政権を握られて不満を抱いていた光緒帝は、変法運動の採用を決意しました。

しかし変法運動は西太后の知るところとなり、わずか103日で保守派によって光緒帝は幽閉。封建的な体制のまま腐敗していく清国内では、生活に困窮した農民達の流亡、散発的な暴動が絶えませんでした。

キリスト教に対する不満

もうひとつ、清国内で不満の種となっていたのがキリスト教の布教です。1856年(安政3年)に清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった「アロー戦争」の結果、「天津条約」が結ばれました。この天津条約により、清国内でのキリスト教布教の自由、外国人の旅行の自由などが定められ、積極的なキリスト教の布教が展開されます。

ところが、キリスト教は欧米諸国に守られた特権的な存在で、清人の信者もキリスト教会の庇護下に置かれたため、従来の儒教(じゅきょう:中国古来の思想、学問)的な秩序を脅かすと捉えた非キリスト教徒達からの反感が高まりました。

義和団事件の勃発

急速に西洋文明が、清へ流入するようになると、清の民衆はこれに反感を抱くようになります。そのなかで義和団(ぎわだん)の活動が、山東省を中心に活発化。

義和団とは、義和拳と呼ぶ拳法を修練し、呪文を念じれば刀剣にも傷つけられない神力が得られると説く宗教的秘密結社です。かつて清政府に禁圧され、各地で反乱を起こした「白蓮教」(びゃくれんきょう:13~20世紀初頭まで続いた中国宗教のひとつ)の流れをくみ、清政府に反発する傾向が強い組織でした。

一方で、地方役人は義和団の排外運動に利用しようと、ひそかに支援していたことから、やがて義和団は「扶清仇教」(ふしんきゅうきょう:清を助け、キリスト教を排斥する)というスローガンを掲げて活動するようになっていきます。

山東省に進出していたドイツは、義和団によるキリスト教会の破壊、宣教師の殺害事件に対して清政府へ抗議。これを受けて1899年(明治32年)に、清政府は「袁世凱」(えんせいがい)に義和団の鎮圧を命じました。

しかし、清政府内にも欧米諸国による支配を快く思っていない者は多く、義和団を山東省から清の首都・北京がある直隷省(ちょくれいしょう)へ追放するにとどまります。このことが、むしろ義和団の活動を拡大させ、北京・天津を含む華北と満州にまで広まっていくことに。

こうして義和団のスローガンは、広がっていく過程で「扶清仇教」から「扶清滅洋」(ふしんめつよう:清を助け、西洋を壊滅する)へと変化。義和団にとって、もはやキリスト教だけが問題ではなく、清への侵略者である欧米諸国そのものを排除しなければならないとしたのです。

北清事変

清政府の宣戦布告

1900年(明治33年)3月になると、北京・天津の市中で義和団が横行するようになりました。5月末には欧米諸国は、自国民の保護のため天津に駐留する軍艦から陸戦隊を上陸させます。

続く6月には、欧米諸国による連合軍を編成して北京へ進軍。しかし北京の手前で義和団軍の妨害によって進軍が遮断されたため、北京・天津の海の玄関口にあたる「大沽砲台」(たーくーほうだい)の引渡しを求めますが、清政府はこれを拒否します。

業を煮やした連合軍の軍艦が大沽砲台を砲撃して占領すると、清政府は態度を硬化。ついに清政府は、義和団と連携して欧米諸国の連合軍と戦うことを決意し、宣戦布告にいたったのです。

日本の出兵

8ヵ国連合軍(義和団事件)

8ヵ国連合軍(義和団事件)

欧米諸国は、日本に負けた清がイギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、ロシア帝国、日本の8ヵ国を相手に宣戦布告するとは予想していませんでした。

急遽、援軍を送る必要がありましたが、ヨーロッパ・アメリカからでは時間がかかりすぎて間に合いません。

急激な援軍要請に応じられるのは、位置関係的に日本とロシア帝国だけでしたが、日本政府は華北を平定することでかえって欧米諸国に野心を疑われ、国際的に孤立することを憂慮します。しかし、イギリス政府からの積極的な要請があり、他の欧米諸国の賛成も得られたため7月中旬にようやく出兵。

日本の援軍を得た連合軍は体制を整え、8月には北京の奪還に成功し、清政府の西太后と清皇帝・光緒帝は、遠く西安(せいあん:中国大陸中央部の古都、かつての長安)へ落ち延びました。

北京議定書と日本の立場

義和団事件の事後処理として、8ヵ国連合軍と清との間で結ばれたのが「北京議定書」。この議定書によって清には責任者の処分と4億5千万テール(現在の約2兆円相当)の賠償が定められ、年間予算が1億テール足らずだった清にとっては莫大な代償を払うことになったのです。

また日本は北清事変で先頭に立って戦ったことで、講和会議では欧米諸国と同等に扱われ、世界の舞台へ登場することとなりました。

 


『大衆明治史』で紐解く

2024年09月08日 13時34分30秒 | 社会・文化・政治・経済
聴き放題対象
チケット対象

菊池寛「大衆明治史(国民版)」第1巻―GHQ発禁の明治近代化史(しみじみ朗読文庫)

著者菊池寛
 

出版社 響林社

 
【解説】
 菊池寛が明治近代化の歴史を生き生きと描いた通史的物語で、その筆致は人物を存分に描いており、とても魅力的です。
内容はよく知られている事件、歴史をわかりやすく描いています。ところが、なぜか本書は、第二次大戦後に、占領軍GHQによって発禁図書となってしまいました。占領下、7千冊以上の戦前・戦中の書物が没収されたと言いますが、大衆小説家の菊池寛の著作が発禁とは驚く話です。  菊池は、「太平洋戦争中、文芸銃後運動を発案し、翼賛運動の一翼を担ったために、戦後は公職追放の憂き目にあい失意のうちに没した。」(ウィキペディア)とありますから、そういう菊池の著作だから、ということでしょうか。今から見れば、こういう著作が発禁処分とは大きな違和感を感じます。  
菊池寛は、市販されている著作はごくわずかで、膨大な著作群があります。
その中で歴史物語は、人物に着目して描いているために、実にわかりやすく、かつ魅力的です。「日本歴史物語全集」や「大衆維新史読本」などは日本の通史を生き生きと描いている素晴らしいシリーズですが、この「大衆明治史」もそれに連なるすぐれた歴史物語です。
これらの著作群が現在では市販されていないのは残念な限りですが、響林社文庫シリーズで、順次、電子書籍の形で復刻本として発刊しつつあります。  この「大衆明治史」については、西尾幹二氏が、YouTubeで「GHQ焚書図書開封 第32回」で内容と魅力を紹介しておられます。50分間ですが、熱く語っていてわかりやすいのでお薦めです。  http://www.youtube.com/watch?v=lflxx0F7YlU 
 
ホーム | コラム | 特別寄稿 | 特別寄稿=500人で2万人と戦った日本人=柴五郎中佐の北京城籠城物語=サンパウロ市在住  酒本 恵三

特別寄稿=500人で2万人と戦った日本人=柴五郎中佐の北京城籠城物語=サンパウロ市在住  酒本 恵三

 

北京籠城の指揮を執った柴五郎(陸軍中佐当時、1859―1945年、Unknown author/Public domain)

 たった500人足らずの兵を導き、20万の敵を相手にその危機を乗り越えた、ある一人の日本軍人がいました。
 「日本は素晴らしい指揮官にめぐまれている。この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめており、私は、自分が既にこの小男に傾倒していることを感じている」。
 これは当時の北京城内でその「小男」と共に戦った英国人シンプソン氏の日記の抜粋です。
 そして、その小男の名は柴五郎(シバゴロウ)、日本の陸軍軍人です。その勇ましい武勲により欧米各国からも勲章授与が相次ぎ、欧米で広く知られる最初の日本人となりました。
 そして柴は、事実上の日英同盟のきっかけをつくった影の立役者としても評価されています。一体、この柴五郎という日本人はどんな武勲を成り遂げたのか? 日本だけでなく世界の歴史に名を残した日本人柴五郎の伝説を紹介します。

絶望的に不利な籠城戦を指揮した日本人

 時は1900年中国∙北京義和団と称する反乱軍は、「扶清減洋」(清をたすけ、外国勢を滅ぼす)の旗を掲げ、世界各国の公使達を北京城に追い詰めていました。
 20万人以上の大軍が押し寄せる北京城に立てこもるのは、わずか4千人とはいえ、その殆どが民間人であり兵士と呼べる数は500にも満たなかったそうです。
 ところがこの圧倒的不利で絶望的な少数の籠城軍はおよそ2カ月間にわたり北京城を守り抜いてしまいます。
 何をかくそう、この危機的状況を指揮して乗り越えたのが後に、イギリス公使に「北京籠城の功績の半ば、とくに勇敢な日本兵に帰すべきものである」と言わしめたほどの人物・柴五郎、その人だったのです。
 義和団と称する反乱軍は、電信設備を破壊し、いよいよ公使館に迫ろうかと言う時、各公使館は清国に義和団を鎮圧するよう要請します。そして天津外港のタークーに停泊中の各国海軍陸戦隊に派遣を要請しました。
 ちなみに北京にあった公使館は英国、米国、仏国、露国、豪州、伊国、蘭国、ベルギー、西国、日本の11カ国です。この11カ国の海軍陸戦隊計417名(日本25名)が北京に到着します。
 世界各国の公使たちの入り乱れていた北京城内は、大軍を前にして混乱の極みに達していました。上記11カ国からなる多国籍の人々が入り乱れまとまるものもまとまらない混乱状態です。
 さらに、この時代、日本はどちらかというと他国になめられた存在でした。作戦会議中、柴五郎は冷静沈着でそして、黙ってきくばかり。
 そして、時折「セ・シ・ボン(結構ですな)」と、ボソリ呟くばかりなのです。
 しかし、これは日本がなめられているこの状況で高らかに発言しても意味はなしと分かった上での行動。柴五郎の心は十分に練られていました。
 逆に、今の状況で発言すると小さな東洋人の発言が欧米列強の反発を招くものだということを、十分に心得ていたのです。

義和団の乱における天津の戦い。日本国軍人が戦う様子(Unknown author/Public domain)

西洋列強に存在を認めさせ、日英同盟の端緒に

 しかし、それでもなんと、会議は柴五郎の思い描く方向へと進んでいくのです。彼がボソリとつぶやくたびに、世界の列席者たちは、その方向へと導かれていくことに気ずきませんでした。
 彼はたまの短い発言や、うなずきにより場を支配していたのです。それほどの理があり、彼の落ち着きはいつしか皆の安心になっていました。
 まさにシンプソン氏がいうように「この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめてしまっていた」。そして、その秩序こそが北京城を最後まで一丸となって籠城させた源だったのです。
 間もなく清国義和団の一斉攻撃が始まります。そんな時、公使館で最大のイギリス公使館に穴があけられました。そこには婦女子や負傷兵が多くいたため、柴五郎中佐は安藤大尉以下8名に命じ、英国公使館に救援に向かわせます。
 ただでさえ広大な粛親王府を守るのに兵士不足だったにも関わらず、英国公使館に即決で救援をやったのです。
 ――即決です。そして安藤大尉以下8名は敢然と清国兵に切り込み、20名ほどをあっという間に切りつけます。
 この時が、祖国日本の名誉を守り、三国干渉以降見下されていた欧米列強に、日本人の優秀さを認めさせ、のちの日英同盟のきっかけとなったのです。
 そして、ここから各国の占領統治が始まりました。それは同時に各国の占領地での略奪∙強盗の始まりでもあります。この時代、それは当然で当たり前の事でした。
 しかし日本の占領地では一切の略奪∙強盗が認められませんでした。柴五郎は厳しい軍律をもって仁政を敷いたのです。これにもまた各国の将兵が驚愕します。
 そして、この噂を聞きつけた各国の占領地の住民が日本占領地へと移り住んできたのです。こうした日本の優秀さと信頼度の高さは、やがて世界最強の同盟を誕生させます。黄色人種の貧国・日本が、世界最強の英国と同盟を結ぶのです。

拒み続けてきたイギリスが東洋の貧国と同盟

 当時、イギリスは「栄光の独立」を誇りに、どんな事があっても他国と同盟を結ぶということはありませんでした。
 もちろん、柴五郎の実績はきっかけであり、日本とイギリスの利害も一致しています。どういうことかというと、この時ロシアは満州全域をどさくさに紛れて制圧していきます。支那での権益を確保したイギリスはロシアの南下を恐れていました。
 そして日本も満州を制圧したロシアが南下する事は日本にとって脅威でした。だからと言って信頼できない国とイギリスが同盟を組むなどあり得なかったのです。
 ましてや同盟を拒み続けてきたイギリスが、東洋の貧国と組むことは断じてあり得ません。
 しかしこの義和団の乱で見せた日本人の優秀さと信頼感は、イギリス公使マクドナルドによって本国へ伝えられます。
 そして柴五郎中佐の北京籠城での活躍は世界に広く認知され、欧米各国で受賞のラッシュを受けます。
 また「コロネル・シバ」の愛称でヨーロッパで最も広く知られた最初の日本人となったのです。たった500人たらずの兵で、20万人の敵を相手にその危機を乗り越えた日本軍人柴五郎日本は素晴らしい指揮官が本当に多く存在していますね。
 最後に柴五郎の輝かしい受賞経歴をご紹介しましょう。
*イタリア=エマヌエル皇帝より北京籠城の功によってサンラザール三等勲章を受章
*フランス=ルベー大統領より金の鎖付きの金時計を受賞
*スペイン=スペイン皇帝より武功赤十字二等勲章を受章
*ベルギー=ベルギー皇帝より賞詞と武功勲章を受章
*ロシア=ニコライ二世よりアンナニ等勲章を受章
*日本=明治天皇より全し勲一等瑞宝章を受賞と実に多く受賞しました。



【本書籍について】
 本書籍は、「国民版」といって1冊にまとめられたものですが、別途、上下2冊に分かれていて総ルビがついた版も昭和16年に発刊されています。
しかし、入手は困難で、国会図書館近代デジタルライブラリーでも、下巻しか収録されていません(響林社文庫に収録)。この国民版は、上下巻版の主要章を収録した貴重な書籍ですが、市中ではほとんど入手が難しく、戦時中の発行だけに、茶褐色への変色の度合いが激しい状態です。
響林社文庫では、それを入手の上、脱色をしてできるだけ読みやすいように加工してお届けしています。

再生時間 02:28:57

添付資料 なし

出版日 2022/8/25

販売開始日 2022/8/30

トラック数 13

購入音源の倍速版 なし(アプリでの倍速再生は可能です)


  目 次

廃藩置県
征韓論決裂
マリア・ルーズ号事件
西南戦争
十四年の政変
自由党と改進党
国軍の建設
憲法発布
大隈と条約改正
日清戦争前記
陸奥外交の功罪
三国干渉
川上操六と師団増設
北清事変
対露強硬論と七博士
日露開戦
児玉総参謀長
奉天会戦
日本海海戦
ポーツマス会議
明治の終焉
明治史年表

柴五郎(1860~1945年)は会津藩士の五男として生まれました。会津戦争を前に祖母、母、兄嫁、姉妹は自刃。移住先の斗南(現・青森県むつ市)で極貧の生活にあえぎました。陸軍幼年学校、士官学校に学び軍人となります。

北京の清国公使館付き武官のときに義和団事件(北清事変)に遭遇。厳正な軍紀と的確な判断で連合軍の籠城部隊を指揮し、「コロネル・シバ」として世界に名を上げました。その後、「賊軍」会津の出身で初めて陸軍大将になったのです。 


文化交流こそ、最も大切になっていく

2024年09月08日 10時29分50秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼不信を信頼に変える<人間外交>

▼日本人は、ロシア文学やロシア民謡には親しんでいても、当時のソ連には親近感を持っていなかった。

どこか<怖い国>という印象を持っていた。

政治や経済の分野だけでは、真の有効はありえない。

文化交流こそ、最も大切になっていく。

既に現在、核兵器は全世界が滅びるほど、十分にある。

核兵器をこのまま放置しておけば、ヒトラーのような人間がいつ現れ、何が起きないといも限らない。

そうなれば、地上の文明を守る手立てもないのである。

人類は遅かれ早かれ、核兵器軍縮を決定するほかない。

人間と人間、民衆と民衆の間に信頼の橋を架けることから、揺るぎない平和の大道が開かれるのである。

▼国家の関係といっても、最終的には、人間と人間の関係に帰着することが、第一義である。

つまり時代の趨勢は、深き友情と信頼の人間と人間の触れ合いを、民間次元で進めていくことこそが、真の友好を築くために不可欠の課題となる。

国際的な協力を抜きにしては、到底解決できない地球的な課題が、人類の眼前に横たわっている。

人類を英知を結集して課題解決にあたらなければならない。

▼根本てきな思想は、平和主義であり、文化主義であり、教育主義である。

その根底は人間主義である。

▼不信を信頼に変える対話をあらゆるレベルで行うのである。

人間を信じるという一点で、世界を深く結ぶ。

それは<人間外交>なのである。

問題の本質は<相互不信> に尽きるのである。

相手を信じなければ、際限のない核兵器の開発競争が繰り返されしまうのだ。

一言で言えば、恒久平和の実現とは「人間を信じる」戦いであり、根本的な<生命の迷い>を打ち破らなければならない。

 


創作 あの頃の自分 おわり

2024年09月08日 00時22分12秒 | 創作欄

大阪勤務となった、山崎瑞奈は京都の河原町の実家から、大阪・道修町の本社に通勤となる。

京阪京都線で淀屋橋まで、約1時間20分ほどの乗車時間であった。

だが、一方の勇作にとっては、まさに、まさかの展開となるのだ。

本社の東賢一専務の発案で、「団地新聞」が創刊される。

専門の取材記者は瑞奈、何と営業担当は勇作となるのだ。

「ゆうちゃんと瑞奈ちゃんは、やはり、腐れ縁なのね」瑞奈は喜ぶのであるが、まさかの大阪本社勤務となった勇作の気持ちは複雑となる。

そして、勇作は本社が用意した土佐堀川沿いのアパートの住人となったのだ。

「団地新聞」とは、千里中央ニュータウンを起点とする団地を対象とした地域新聞である。

大衆薬の情報や健康食品、地域医療や健康相談などに特化したミニコミ紙であったのだ。

初めは、瑞奈も「団地新聞」に情熱を傾けていたのだが、団地の主婦たちの反応は芳しくなかった。

「彼女たちの意識は、まだまだね」取材を重ねた瑞奈は、さじを投げるのだ。

そこへ、薬剤師である記者が入社して、瑞奈の後を引き継いだのである。

その記者の新井和子が、後年、勇作の妻となった。

「ゆうちゃん、良かったね」瑞奈は勇作を祝福する。

結婚した瑞奈は、2歳の娘を連れて勇作に会いにきたのだが、その2年後には自ら命を絶ってしまう。

「なぜなのだろう?」勇作は自らに、何時までも問い続けた。

「共白髪まで、いいわね」鎌倉の夜の海の彼女の言葉が、空しく残るばかりである。

 

土佐堀川(とさぼりがわ)は、大阪府大阪市北区中之島の南縁を流れる河

旧淀川(大川・堂島川・安治川)の分流の一つである。

中之島の東端で旧淀川から分岐したのち、中之島の西端で旧淀川に再び合流する。

なお、旧淀川は一般的に中之島より上流の区間が大川(おおかわ)、中之島の北縁を流れる区間が堂島川(どうじまがわ)、中之島より下流の区間が安治川(あじがわ)と呼び分けられており、土佐堀川はちょうど堂島川と対になる。

 

参考

ミニコミとは、個人や団体が書籍雑誌などを発行し、ひとつ及び複数のテーマを中心として編集され、広く社会へアピールするため、主に1970年前後の社会運動の中で、自然発生的に生まれた社会的現象。内部通信的な性格をもつ同人誌とは、基本的な姿勢を異にし、明確な主張を掲げ、不特定多数の読者へのアピール性を強く持っていた。マス・コミュニケーションに対抗する、"ミニ・コミュニケーション"なのであり、略してミニコミと総称された。

概略

1960年代から70年代にかけて、社会運動の盛り上がりの中、多くの報道は、大手新聞、週刊誌などの雑誌、数局しかないテレビラジオ、というマス・コミに頼っていた。しかし、その取材は、一定の視点からの記述にとどまっており、多くの読者、視聴者が不満を感じた。

そこで、現場にいた当事者たちが、マス・コミに取り上げられない事実、あるいは主張や議論を、自ら発しようとした。その時の手段は、電波や大型印刷機というメディアを使うことができず、当時の質素かつ簡易な印刷手段であったガリ版印刷などで行われた。