魂にふれる 大震災と、生きている死者

2024年03月11日 09時38分18秒 | 社会・文化・政治・経済

若松 英輔 (著)

私たちが悲しむとき、悲愛の扉が開き、亡き人が訪れる。

死者は私たちに寄り添い、常に私たちの魂を見つめている。

悲しみは死者が近づく合図なのだ。

大切な人をなくした若い人へのメッセージを含む、渾身のエセー。

著者について

[著者]若松 英輔(ワカマツ エイスケ)
1968年生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。批評家。
(株)シナジーカンパニージャパン代表取締役。「越知保夫とその時代」で第14回三田文学新人賞受賞。
その後『三田文学』に「小林秀雄と井筒俊彦」、「須賀敦子の足跡」などを発表し、2010年より「吉満義彦」を連載。また『小林秀雄――越知保夫全作品』(慶應義塾大学出版会、2010)を編集。著書『井筒俊彦 叡知の哲学』(慶應義塾大学出版会、2011)、『神秘の夜の旅』が大きな話題を呼ぶ。
 
 
石川県出身の西田幾太郎は京都大学で哲学教授として頂点を極めても、破れた外套を羽織っていた。
それは早世した長男の形見だっっという。
<息子の魂を身にまとい、生きていた>
著者は「魂にふれる」で西田哲学を「悲しみの哲学」と記している。
 
 
良い意味で若松氏の他の書籍はもう読みたくないと思った!
 
あまりにも腑に落ちる内容ばかり。
生者と死者の関係。
若松氏の他の書籍は、幻滅したくないのでこの書籍だけで十分だと思った。
 
このような経験は初めてで、素晴らしい書籍に出会った感激から、同じ著者による他書も読みたいと思うのが通常だったが、今回ばかりは、この書籍を繰り返し読むことで満足したい、と考えていましたが、その後の講演録『死者との対話』をさきほど、アマゾンさんに注文してしまいました(苦笑)
 
ともあれ、とても優れた分析で、的確であると思いました。
 
 この書籍の言わんとすることの大意は、帯の説明文にあるように、
 
 私たちが悲しむとき、悲愛の扉が開き、亡き人が訪れる。
 死者は私たちに寄り添い、常に私たちの魂を見つめている。私たちが見失ったときでさえ、それを見つづけている。悲しみは、死者が近づく合図なのだ。━━死者と共同し、共に今を生きるために。
 
と書かれている。
 
 これは比喩的に述べているのではない。
 
 帯に書かれている案内文だけではやや物足りない。
 本文に沿って補足すれば、
 
「生者は寄り添ってくれる死者のお陰で、今を生きることができるのだ。」
 
 を加えるべきか。
 いずれにせよ、かなり的確と思います。
 
 実際の内容は、いずれも既に故人となられたフランクルやリルケ、池田晶子・柳田国男・鈴木大拙・西田幾多郎・田辺元・神谷美恵子など、哲学者や思想家の著作を読み解く「死者論」であるから、そこいらへんにころがっているお気楽なスピ本とは異なります。
 
 愛妻を長期間の闘病の末に亡くされた著者の実体験あってこそ、愛妻との共著といえる作品と思われます。
 
 ちなみに、著者の若松英輔氏は慶応大学仏文科卒の批評家であるが、「三田文学」編集長を務め、読売新聞読書委員であるかたわら、「薬草を商う人」でもあるという。
 
 
死者とのつながり
 
処女著作『井筒俊彦 叡知の哲学』や『神秘の夜の旅』が
大きな話題を呼んだ若松英輔氏の3冊目の著作。
 
本書で若松氏は、彼をつねに「書くこと」へと誘い、超越の世界へ触れるよう導いてきた「死者」に向き合う。
 
そこで描かれる対象は、上原専禄や田辺元、鈴木大拙、神谷美恵子など、
不滅の「死者」や死への問いを、個人的な喪失を経験し、主体的に向き合った人たちである。
 
「死者」とは何か? それは言葉の上の理論的で抽象的な存在などではなく、
わたしたちが愛し、大切に思い、身近に感じ、共に生きた人たちである、
まずそのことに本書は読む者を立ち戻らせる。
 
大震災のあと、復興に国家的な規模で全力が注がれている今、
命をおとした「死者」や彼らとのつながりを求める「残された人々」について、
生きた言葉で発する者は――宗教家を含め――誰ひとりいなかった。
若松氏を執筆に駆り立てたのも、そのようないたたまれない現状だったのだろう。
 
死者について語ること、想うことは、身を切るような思いを伴う。
2年前に最愛の妻を喪った若松氏も、本書で彼女の死と向き合っている。
時折、頁を繰るのも辛くなるような生々しい筆致で、
壮絶な体験が語られるが、そんな悲しみについて若松氏は、
「悲しむのは死者が訪れるから」ではないか、という実感をもつようになったという。
 
「悲しみは容易に癒えない。でも(中略)ぼくらが悲しいのは、
その人がいなくなったことよりも、むしろ、近くにいるからだ、そう思ったことはないだろうか」
 
若松氏が東京新聞(2012年3月10日)でのインタビューで言うように、
現代は「死んだら何も残らない」という虚構が蔓延している。
人の「魂」を卑小するような考え・慣習が出来あがってしまった。
 
そんな世界の中で、若松氏のような強靱な精神力をもった著者の言葉は、
計り知れないほど多くの人を勇気づけ、救うだろう。
 
現代社会に警鐘をならす一冊としても評価されるべきだが、
何より、一人でも多くの死者とのつながりを求める人びとの手に届けられて欲しい。
 
 
死者とともに、、
 
死者とともに生きたいと願ってしまう日々に そっと寄り添ってくれる本です。
優しく書かれた文章と行間からも 言葉がこんなに人を勇気づけてくれるのかと
涙をにじませながら読みました。
そして いつも手元に置き、気持ちが落ち込んでしまったときに開く本です。
 
 
大切な人を亡くした方に読んでもらいたい良書です。
 
「私たちが悲しむとき、悲愛の扉が開き、亡き人が訪れる」
ぼくらが悲しいのは、その人がいなくなったことよりも、
むしろ、近くにいるからだ、そう思ったことはないだろうか。
 
若松さんの衝撃的な語りかけに、私は絶句した。
私が涙がどうしても止まらないとき、
それは、亡くなった息子が近くにいて、手を伸ばしても触れることができない、
近くにいるのに声も聴こえないことが悲しいということだったのか?
 
哲学者である若松さんは、池田晶子、井筒俊彦、スワラルディー、
リルケ、など著名な哲学者の言葉を用いて、「生と死」を語る。
 
『私たちは死とは逆の方向に行かなくてはならない。
なぜなら、死者は死の彼方で新生しているからである。
心、あるいはココロにも、その扉を開ける重要な鍵が潜んでいる。
ココロの中とは、私たちの記憶を意味するのではない。
死者は、私たちの思い出ではない。ココロはもう一つの世界である。』
・・・・・・
こんなふうに、なんだかとっても不思議な感覚で話は進む。
 
震災で大切な人を亡くした人へ語りかけている若松さんは、
ご自身も、その一年前、十年の闘病の末に愛妻を亡くされた体験をもつ。
 
『妻を喪い、悲しみは今も癒えない。
しかし、悲しいのは逝った方ではないだろうか。
死者はいつも生者の傍らにあって、自分のことで涙する姿を見なくてはならない。
死者もまた、悲しみのうちに生者を感じている。
悲愛とは、こうした二者の間に生まれる共同の営みである』
 
若松さんの、この言葉で、私は涙が止まらくなった。
 
私の哀しむ姿を見て、息子がどんな思いでいるのだろう。
哀しいのは息子の方だ・・・。
 
 
レトリックでも思想でもない、死者との対話ストリーム
 
 「死者が接近するとき、私たちの魂は悲しみにふるえる。悲しみは、死者が訪れる合図である。それは悲哀の経験だが、私たちに寄り添う死者の実在を知る、慰めの経験でもある」(p.8)
 
 読み始めてまもなく見つけたこの言葉に、これはあらたなレトリックの創造なのか、それとも、思索ゆえの思想なのか、あるいは、そういうふうにわけられない出来事なのか、と問わずにはいられなかった。
 
 「死者は、万人の内に共に生きている。死者の姿は見えない。見えないものに出会うことを望むなら、見えないものを大切にしなくてはならない」(p.12)。
 
 聴覚においても同様であろう。接近してきた死者は、わたしたちに語りかける。祈りとは、願いを解き放つことだけでなく、沈黙のうちに、死者の声を聞くことである、と著者は言う。
 
 沈黙のうちに語りかける者はひそかにともに歩く者でもある。わたしたちは死者のできなかったこと、死者の残した課題を果たすのではない。「死者は、『課題』のなかで、君たちと共に生きる、ひそやかな同伴者になる」(p.20)。
 
 最初の十枚余をめくりながら、この人はもしかしたら・・・という想いが生じてきた。
 
 そこから百枚にわたり、著者は文字通り、死者の声に聴き、対話を重ねる。上原専祿、池田晶子、井筒俊彦、小林秀雄、鈴木大拙、西田幾多郎、田辺元、神谷美恵子。彼らの声は、最初は、当然、活字を通して聞こえてきたに違いないが、文字にとどまるものではなかったであろう。
 
 著者の妻は逝った。慟哭し、天を糾弾する。
「そのとき、心配することは何もない。わたしはここにいる、そう言って」(p.218)彼女が彼を抱きしめた。「誰も自分の悲しみを理解しない、そう思ったとき、あなたの傍らにいて、共に悲しみ、涙するのは死者である」「悲しいのは逝った方ではないだろうか。死者は、いつも生者の傍らにあって、自分のことで涙する姿を見なくてはならない。死者もまた、悲しみのうちに生者を感じている。悲愛とは、こうした二者の間に生まれる協同の営みである」。著者がもっとも深く、長い時間、語り合った死者は妻であり、本書はその対話の果実ではなく、育ちつつある樹木そのものだ。
 
 
 
紹介されていました。
その書評に感動しましたので、即購入しました。染みる内容です。
 
 
大震災から1年というメモリアルな時節、新たなる死者論の誕生である。生者と共にあり、こちらを見、呼びかけてくる死者の「実在」は、どのようにしてあるのか、ふれられるのか、これを池田晶子や小林秀雄、柳田國男や鈴木大拙や田辺元ら、「私」の経験から死者を語った、あるいは語らされた人々の言葉とコトバに導かれながら深く深く思考していく。
昨今のこれに近似した死者論としては、末木文美士氏の仕事を即座に想起するが、より学問的なニュアンスが強く、非常に啓発的で勉強になる感じはあったが、本書のように、どこか彼方の世界を意識させられながらする読書経験は得られなかった。こういう表現は眉唾かもしれないが、より死者に「近い」ところで、全身の感性、五感を研ぎ澄ませながら言葉をつむいでいる感触があった。
著者が約2年前に最愛の妻を喪った、そのことの影響がむろん大きいのだろう。そして、その約1年後に同じ国に住む人たちが、短い間に多くの大切な生命の終わりを経験したということも。死者とともに生きていくとはどのようなことか、根柢から考えていく機会を、幸か不幸か得られたというわけだ。
「このたびの震災は多くの死者と遺族を生んだ。遺族は死者を探して、存在の深みへと導かれる。人は、あるときは外界から隔絶され、あるいは疎外されたと思うことがあるかもしれない。だが、内実は別である。深層における個の経験は、個にとどまることを十分とせず、他者に向かって自ずと開かれていく。人知れず刻まれた無数の悲しみが今、私たちをつないでいる。彼らの掘った悲しみの井戸から湧き上がる水を、今、私たちは飲んでいる。彼らが毎夜ひとり、涙で石を削るように作った道を、私たちは歩いている。」

 

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