朱子学とは、南宋の朱熹によって構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学・程朱学派と呼ばれる。
また、聖人の道統の継承を標榜する学派であることから、道学とも呼ばれる。
朱子学の基本の考え方は、「理気二元論(りきにげんろん)」です。
「理」は、万物がこの世に存在する根拠のことで、「気」は万物を構成する物質です。それぞれ別のものですが、単独では存在し得ず、互いに作用し合う関係にあるとしています。
理気二元論を人間に当てはめると、「性即理(せいそくり)」になります。
「性」とは人間の本質で静かな状態、すなわち「理」です。性が動くと「情(気)」となり、情のバランスが崩れると「欲(悪)」になるとしています。
このため、人は常に情をコントロールして、性に戻さなければなりません。
また、朱熹は理気二元論から、すべての物事には、上下関係があると導き出しました。上下関係は当然、人間社会にも存在します。
自分よりも身分が上の人や父親の言うことは絶対、とする「君臣父子(くんしんふし)の別」を重んじているのが、朱子学の特徴です。
朱子学の欠点
朱子学は、後に、国家の公認学問として「科挙(かきょ、官僚登用試験)」に採用されたことから、広く学ばれるようになります。
しかし、科挙に合格すれば、将来が安泰ということもあり、受験のために朱子学を学ぶ風潮が根付きます。さらに受験にはお金がかかるため、一部の恵まれた人しか挑戦できませんでした。
このため、朱子学は、経済力と成績によって人生が決まる、学歴社会・官僚社会を生み出す一因となったといわれています。
また、朱子学が重んじた「君臣父子の別」は、上に立つ者にとって、都合のよい考え方でした。
中国では、さまざまな思想や学説が許されており、社会の発展に貢献してきましたが、朱子学が広まったことで、他の学問が排斥(はいせき)され、思想統制の時代に変わっていったのです。
日本や朝鮮でも、朱子学を人民の支配に利用しはじめました。特に、朝鮮では朱子学以外の学問を一切認めず、朱子学者による身分階層が作られたほどです。
朱子学と日本の関係
朱子学は、いつごろ日本に伝わり、どのような影響をもたらしたのでしょうか。朱子学と日本との関係を見ていきましょう。
日本に伝わったのは、いつ?
朱子学は、鎌倉時代前期に宋に渡った禅僧「俊芿(しゅんじょう)」が伝えたといわれています。鎌倉時代後半には、広く学ばれるようになり、鎌倉幕府倒幕に動いた後醍醐(ごだいご)天皇にも影響を与えました。
室町時代にも、禅僧による朱子学の研究は続けられ、さまざまな学派が生まれます。
江戸幕府を開いた徳川家康は、幕藩体制の基本理念として、朱子学を採用しました。朱子学者「林羅山(はやしらざん)」を登用し、家臣や大名に広く学ばせたのです。
どのような影響を与えた?
徳川家康以降、歴代の将軍や老中(ろうじゅう)たちも、社会秩序を維持するために、朱子学を奨励します。例えば、5代将軍・徳川綱吉は、朱子学を学ぶ場として「湯島聖堂(ゆしませいどう)」を建設しました。
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