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77人もの命を奪ったノルウェー連続テロ事件を映画化

2020年02月24日 22時36分31秒 | 社会・文化・政治・経済

ISが衰退たとしても、過激思想は残り、新たなグープや組織が出てくるだろう。
宗教や主義主張よりも、付き合う友人や所属するグループなど社会的なつながりの影響力が強い。
SNSなどのつながりで過激思想に引き込まれる人も多い。

ヘイトという過激思想

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ヘイトや過激思想が横行する今の時代への警鐘 1人の男が77人もの命を奪ったノルウェー連続テロ事件を映画化 監督が来日

2019.01.31 abema.tv

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2011年7月22日、ノルウェーで連続テロ事件が起こった。
事件は、単独犯としては史上最多となる77人もの命を奪った、世界中を震撼させた前代未聞の悪夢である。
犯人は当時32歳のノルウェー人の男性。排他的な極右思想の持ち主で、積極的に移民を受け入れる政府の方針に強い反感を抱き、たった一人で用意周到に連続テロ事件を実行した。特に多くの命が奪われたのは、首都オスロから40キロ離れたウトヤ島だ。ここではノルウェー労働党青年部のサマーキャンプに参加していた10代の若者たちを中心に69人が殺害された。
この無差別銃乱射事件の発生から終息に至るまでに要した時間と同じ尺、つまりリアルタイムの72分間を、ワンカットで撮影した映画『ウトヤ島、7月22日』が3月に日本で公開される。
映画『ウトヤ島、7月22日』

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1月31日、公開に先駆け本作を監督したエリック・ポッペ、そしてドキュメンタリー監督の松江哲明によるトークイベントがノルウェー大使館にて開催された。

本作は、実際の事件の生存者の証言に基づき制作された作品で、生存者から「ぜひ協力したい」と監督へ連絡があったと語る。それらの声を受け、「出来るだけ正直に誠実に、この映画を描くにはどうしたらいいか、が一番の使命だった」と語るポッペ監督。

しかし、この悪夢のような事件からわずか7年という短い月日で映画化に踏み切ったことで、周囲からは時期尚早でないのかとの声も当然挙がった。

「会見でも記者からそのような質問は出ました。その会見には生存者3名ほど参加してくだったのですが、この方々は企画段階から撮影にごきつけるまで、ずっとこの映画をサポートしてくれた方々です。彼らは生存者の代表としてこの質問に対し、“この作品を観たときに痛みを感じないのであれば、時期尚早どころか、もはや遅いのでないのでしょう
この事件の犯人は、政府の体制への不満、そして極右の思想に洗脳され使命に燃えた、たったひとりの男だ。警官になりすましてボートで島に上陸し、何の罪もない少年少女を次々と銃殺した。

 監督は、「今西洋諸国では、極右思想がどんどん台頭してきています。今の現状を見て思うのは、ヘイトスピーチというのは昔からネットの世界では横行していたのですが、それを我々は、どこかで対岸のものとして今まで見過ごしていました。しかし今ではそれはネットの空間に留まらず、政界でもそういったことが繰り広げられている。ある国の大統領や欧州の議会でも、そんな言葉が発せられるようになったのです。私は、ヘイトスピーチや憎悪に満ちた言葉がこんな惨事を招きうる、ということを描きたかったのです。ウトヤの事件は、ヘイトスピーチや極右の思想に洗脳され、何か行動を起こさなければならないという使命感に燃えた、たったひとりの男が起こした行動の結果なのです」と語る。

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そして、「これはウトヤの事件としてではなく、世界中で横行している過激思想への警鐘として作りました」と強く語った。
エリック・ポッペ監督

「勇気と覚悟を感じた」と本作を一足早く観賞した松江監督は、“72分ワンカット”という手法を決意した理由について質問。監督は「この作品をリサーチするにあたり、生存者と対面でインタビューを重ねてきました。あまりにも多くの生存者が共通して必ず仰るのは“あの72分間は永遠に感じられた”ということです」と、この時間をどうやって映画で表現できるかを考え、ワンカットという手法を取り入れたと語る。
松江哲明監督

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そして、「今、松江さんから“勇気と覚悟”という言葉を頂きましたが、勇気があったのは生存者の皆様でした。彼らにとって最悪の1日なのに、再び勇敢に振り返ってくださり、この物語を忠実に誠実に再現するという試みに、一緒に挑戦してくれた彼らこそが、勇敢な人々だと思います」と協力してくれた生存者へ感謝の意を表した。
最後に「私は日本の文化、そして日本の映画をたくさん観てきました。黒沢明監督はじめ、現代で言えば是枝裕和監督などがいらっしゃいますが、そういった彼らの作品が私をアーティストとしてかたち作ってくれたと思っています。そんな彼らの作品に触発されて、出来た作品です。日本の皆様の前で上映することができて、非常にナーバスでもありますし(笑)、大変光栄でもあります」と語った。
映画『ウトヤ島、7月22日』は3月8日より公開

 

取材・テキスト:編集部

 映画『ウトヤ島、7月22日』公式サイト

 

 

 


 

 

 

 

 


私は本屋が好きでした あふれるヘイト本

2020年02月24日 22時09分11秒 | 社会・文化・政治・経済

私は本屋が好きでした 永江 朗(著) - 太郎次郎社エディタス

永江 朗()

つくって売るまでの舞台裏

内容紹介

反日、卑劣、心がない。平気でウソをつき、そして儒教に支配された人びと。かかわるべきではないけれど、ギャフンと言わせて、黙らせないといけない。なぜなら○○人は世界から尊敬される国・日本の支配をひそかに進めているのだから。ああ〇〇人に生まれなくてよかったなあ……。

だれもが楽しみと知恵を求めて足を運べるはずの本屋にいつしか、だれかを拒絶するメッセージを発するコーナーが堂々とつくられるようになった。そしてそれはいま、当たりまえの風景になった──。

「ヘイト本」隆盛の理由を求めて書き手、出版社、取次、書店へ取材。そこから見えてきた核心は出版産業のしくみにあった。「ああいう本は問題だよね」「あれがダメならこれもダメなのでは」「読者のもとめに応じただけ」と、他人事のような批評に興じるだけで、無為無策のまま放置された「ヘイト本」の15年は書店・出版業界のなにを象徴し、日本社会になにをもたらすのか。

書店・出版業界の大半が見て見ぬふりでつくりあげてきた〝憎悪の棚〟を直視し、熱くもなければ、かっこよくもない、ごく〝普通〟で凡庸な人たちによる、書店と出版の仕事の実像を明らかにする。

内容(「BOOK」データベースより)

仕事だからつくる。つくられたものは流通させる。配本が多いから書店は平積みする。しくみに忠実な労働が「ヘイト本」を生み、そして、本屋の一角で憎悪を煽ることを“普通”のことにした―。

著者について

1958年生まれ。ライター。書籍輸入販売会社のニューアート西武(アールヴィヴァン)を経て、フリーの編集者兼ライターに。90~93年、「宝島」「別冊宝島」編集部に在籍。その後はライター専業。「アサヒ芸能」「週刊朝日」「週刊エコノミスト」などで連載をもつ。ラジオ「ナルミッツ!!! 永江朗ニューブックワールド」(HBC)、「ラジオ深夜便 やっぱり本が好き」(NHK第一)に出演。
おもな著書に『インタビュー術!』(講談社現代新書)、『本を読むということ』(河出文庫)、『筑摩書房 それからの40年』(筑摩選書)、『「本が売れない」というけれど』(ポプラ新書)、『小さな出版社のつくり方』(猿江商会)など。

 

"ヘイト本についてすらなにも考えないということは、ほかの本についてもなにも考えないということです。魅力のない本屋です。売れている本は並んでいるけれども、つまらない本屋です。つまらない本屋は滅びます。"2019年発刊の本書は、ヘイト本を巡る出版や本屋の舞台裏を明らかにした【これからを考える】為の一冊。

個人的には、本好きの間では著名なベテラン"本屋好き"ライターである著者が【どういった想いでタイトル及び本書を書いたのか?】に関心があって本書を手にとったのですが。愛情の裏返しとはわかっているものの『出版業界はアイヒマンなのか』など、なかなか手厳しくて驚かされました。

そんな本書は、ヴィレッジヴァンガード創業者の"本屋という仕事は、ただそこにあるだけで、まわりの社会に影響を与えることができるものだ"を胸に本屋の取材を30年余り続けてきた著者が、2015年から丸4年かけて【不愉快な気持ちを抑えながら】町の本屋、チェーン書店、出版取次、出版社、編集者、ライターとインタビューを重ねて【ヘイト本が本屋に並ぶ事情】を明らかにしながら、それぞれについて著者なりの提言を行っているのですが。自身【ちょっと特殊な形で本を扱う1人】として、やっぱりか。と【目新しさこそなかったものの『再確認』させられる】読後感でした。

また、そういった出版裏事情とは別に『ヘイト本の読者はネット右翼ではない』『本屋大賞は(良書ではなく)すでに売れている本を、もっと売るための賞』および、そもそも本屋大賞自体『2〜4%の店舗、書店員が選んでいて"すべての書店員"が選んだわけではない』など。2重3重の【一般の人が誤解する本や本屋に対するカラクリや幻想】について、あらためて容赦なく指摘していて、著者の抱く危機感の深さを感じさせられました。

出版や本屋の現状や裏事情を知りたい誰かへ。また、最近【街の本屋がつまらない】と内心ため息をついている本好き、本屋好きな人にもオススメ。

 

世にはびこる嫌韓・嫌中といったヘイト本について、その存在に加担する出版社、取次、書店を取材した本。
書店員、編集者、ライターとして長年出版業界の動向を追い続けてきた著者の永江さんはまえがきで、ヘイト本について調べたり考えたりするのが不愉快で執筆に4年もかかってしまったと書いているが、読者にとっても決して愉快な読書ではない。だからと言って積ん読してはダメな、読むのを面倒くさがってはいけないタイプの本だと思う。永江さんの文章は相変わらず端正で、ヘイト本の取り扱いに苦悶しながらも主張は明確。その姿勢が心強く、読者として襟を正される思いだった。
会社の近くにある書店にはヘイト本が大量に置かれている。歩いて行ける距離に他の書店がないので仕方なく利用しているが、内心ではできればこういう店では買い物をしたくないと感じていた。ヘイト本に手を出さないのは当然として、読者だって他にできることはあるはずだ。

 

自慢するわけではなく、事実として私は「読書家」であり、読書が大好きな人間だ。当然、新刊書店も古本屋も大好きなのだが、しかし、いわゆる「本屋もの」「古本屋もの」の本は、フィクション、ノンフィクションを問わず、ほとんど読まない。昔はいくらか読んでもみたが、なにやら「読書家のマスターベーション」的な気配があって、だんだん敬遠するようになっていった。

要は「読書家の読書家自慢ほど、(非知的で)みっともないものはない」という気持ちが、私には強い。
と言うのも、読書家というのは、本を読んでいるのだから、知性に自負を持っているのは当然のこととして、だからこそ、それをことさらに自己確認するような行ないは「みっともない」と感じられるのだが、しかし「本屋もの」「古本屋もの」の本を読みたがる読書家には、その気配が感じられるし、しかもそのことへの無自覚に発する一種の「鈍感さ」をも感じるのである。

無論、考えすぎかも知れないし、邪推に過ぎるかも知れないのだが、しかし、そのくらいの想像力も働かないような読書家の読書とは、いかがなものかとも思う。
だから私は、普通「本屋もの」や「古本屋もの」を読まない。「同じ本好き(本読み)として、よくわかるよ」といったような「共感」を殊更に示すことで、自分の読書家ぶりをアピールするような態度は、あまりにも馬鹿っぽくて、およそ読書家の名に値しない者のすることとしか思えないのである。

しかし、本書は違った。
そういう「仲間内で頷き合い、ほめ合う」ような本ではないと、すぐにわかった。

『私は本屋が好きでした』もいう「過去形」のタイトルからは「あんなに好きだったのに、今ではそうではなくなってしまっとことが、たまらなく悲しい」という気持ちが、ひしひしと伝わってきた。
そして、サブタイトルには「ヘイト本に関する本屋(書籍業界)の加担の現実」という、その悲しみの理由が示されていた。

著書は、ヘイト本が書店で、目立つほどに並んでいる現実を「やむを得ないこと」として「容認」してはおらず、それを批判している。要は、「本屋の味方」として「本屋をかばう」のではなく、「本屋を批判している」のである。「本好き・本屋好き仲間との、馴れ合い的な相互容認」を拒絶しているのだ。
出版関係者を含めて、本屋関係者から嫌われ疎まれるのも覚悟の上で、それでも「本屋のために」言わなければならないことは言おう、というそんな覚悟が、その悲しみと共に、タイトルからひしひしと伝わってきた。
だから私は、この本を買わなくてはいけないと思い、即座に購ったのである。

 ○ ○ ○

本書には、ヘイト本が作られ本屋に並ぶまでの過程に関わる、出版・流通を含む業界関係者へのインタビューが挿入されており、著者の考察の裏づけとなっているのだが、実際、喜んでヘイト本の存在にかかわっているという者は、一人もいない。だが、結論としては「それも仕方がない」という人が大半だ。
仕事として「書籍の出版・流通・販売」にかかわっている人たちは、「背に腹は代えられない」ので、ヘイト本の流通を断固拒絶阻止するといった、積極的な行動に出ることはない。そして、その多くは、やがて「ヘイト本にも存在価値はある」とか「本屋は、選択肢を制限してはならない」などといった、もっともらしい「自己正当化による観念的自己回復」によって、自身の「不作為による現状追認」から目を背け、「自身の実像」からも目を背ける。一一著者が『出版界はアイヒマンだらけ』(P170)と評する所以である。

(※ 削除)

したがって、あなたが「本物の本好き」だと言うのなら、本書の問題提起と真摯に向き合い、自分に何ができるかを、本気で考えるべきである。
例えば、本書を書店の目立つところに移動させるくらいのレジスタンスなら、命まではとられないからやってみるといい。
これはジョークではない。そんなことすらも出来ないで、

『ただ腕組みをして眉間にしわを寄せ「難しい問題ですね」などとつぶやくだけでいいのか。』(P126)

ということだ。
これなど、まったく反吐が出そうなほどの「知識人ごっこ」「評論家ごっこ」的なセリフなのだが、しかし、これを地で行くしかない能のない人も多かろう。だが、それではいけないのだ。
私たちに出来ることはかぎられている。しかし、それをやろう。考え抜いて、やれることをやろう。著者にエールを送ろう。「抵抗の火を消してはならない」ではなく、私たちそれぞれが、本物の「本読み」の誇りにかけて、ひとつの「火」となって戦うべきだ。やれることは必ずある。

.
(※ 「削除」部分は、政治的な立場から、当該書籍を読まないで酷評を投稿する人たちを具体的に批判した部分ですが、Amazon運営より「掲載できない」とのメールが届きましたので、当該部分を「削除」して再投稿します。「完全版」は、私の掲示板「アレクセイの花園」に、本日「2019年12月18日」付けで掲載しておりますので、そちらをご参照下さい。)

 

昔、田舎の小さな本屋さんには都会の大書店にはないような、オ~ッと思わせるような本が片隅に眠っていることがあった。それを見つけるのも一つの楽しみだった。しかし、今の田舎の本屋さんへ行っても、欲しい本などまったくと言っていいほどない。発行されたばかりの興味ある本はほとんど都会の大書店に独占されてしまい、あるのは何カ月か遅れの”ベストセラー”本など、賞味期限の切れた本ばかりである。これじゃあ、注文次の日には届くアマゾンに駆逐されても仕方ない。Kindleなどでも簡単に読めるし、何れ日本のほとんどの中小都市から本屋さんなんてものはなくなり、あるのはパチンコ店ばかりということになってしまうだろう。悲しい限りである。
 去年は田舎のどの小さな本屋さんをめぐっても、某極右作家の”歴史”と称する本が、”よく売れてます”などという手書きPOP付きで何ケ月も山積みになっていた。多分、都会の大書店では売れなくなったので、田舎へ流れてきたんだと思う。”少しは考えろよ””ええ加減にせえよ”と思わず言いそうになったが、オバちゃん店員さんも若者店員ちゃんも、本などあまり読んだことがない方たちばかり(レジでの私語内容を聞けばすぐにわかります)だったのでやめた。本書によれば、「ヘイト本にかかわる人びとはみなそれなりにアイヒマンである」そうだが、今の店員さんだって、「何も考えていない」という意味では、そのほとんどがアイヒマン的だし、もっと言えば日本国民の中でだって、アイヒマン指数?はここ十年ほどの間に飛躍的に高まっている。 
 というわけで、あんまり本の内容に関係ないことばかり書いてきたが、この本を読んで、日本というのがホントに悲しく、大変な国になりつつあるというのがよくわかりました。

 

気に入らないものを語るがあまり、結局自身がヘイトと同じ考え方の構図にはまっている。

出版と取次と書店の関係性に歪みがあるのはヘイト本に限るものではない。
ゆがんでいるのは、社会全体にお金が回らなくなっている中で、
古い構造を維持しようとするがあまりに要否関係なく配本がされるから。

ヘイト本自体への問題視、ならそれだけを論じればいいし、
出版を取り巻く構造を叩きたいのであればそれだけを論じればいい。

ヘイト本がなくなっても要否に関係ない配本が続く限りは、著者の言う「素敵な本屋」は作れないのではないか。
ヘイト本を用いることで著者自身が叩かれないようにしたかったんだろうが、雑な話になってしまっている。

 

 


テレビ東京開局55周年特別企画 スペシャルドラマ 「アメリカに負けなかった男~バカヤロー総理 吉田茂~」

2020年02月24日 21時59分12秒 | 社会・文化・政治・経済
放送日時 2020年2月24日(月・休) 夜9時~11時24分放送
放送局 テレビ東京系列(TX、TVO、TVA、TSC、TVh、TVQ)
出演者 笑福亭鶴瓶 生田斗真 新木優子 矢本悠馬 前野朋哉
/ 安田顕(特別出演) / 勝地涼 佐々木蔵之介 松嶋菜々子
原案 麻生和子『父 吉田茂』(新潮文庫刊)
監督 若松節朗
脚本 竹内健造 森下直 守口悠介

主人公・吉田茂を笑福亭鶴瓶が、吉田茂の右腕・白洲次郎を生田斗真が演じるほか、豪華共演陣が名を連ねる当ドラマですが、このたび、妻の死後、吉田茂を支えた元芸者“こりん”こと坂本喜代役が決定!

昨年放送の朝ドラ『なつぞら』で広瀬すず演じる主人公の母親役を演じたことも記憶に新しい松嶋菜々子が演じます。
後妻となり、大磯の別荘で共に生活をしながら茂の世話に勤しみ、日本のトップへと上り詰めた茂を、持ち前の頭の良さと気配りで静かに支え続けたこりん。その奥ゆかしくも凛とした佇まいを見事演じ切っています。
さらに、劇中では吉田茂役の笑福亭鶴瓶と、陽気に仲睦まじくお座敷遊び「お開きさん」をするシーンも!美しさと儚さを兼ね備えた、松嶋版こりんにぜひご注目下さい。

日本はいかに敗戦から立ち直り、再び独立国として歩むことが出来たのか?令和時代を生きるすべての人に贈る、熱き人間ドラマ放送まであと3週間!豪華キャストでお送りする壮大な物語をどうぞお楽しみに!

キャストコメント

こりん 坂本喜代 役 松嶋菜々子

元新橋の芸者『こりん』。吉田茂の後妻となり、身近で吉田を支えた。
吉田の生前も死後も、報道陣には門前払いを貫き、何も語らず亡くなった。

「意識したのは“粋”。メイクや衣装でもその「粋」を意識しました」
「見どころは、なんと言っても吉田茂を鶴瓶さんが演じられるところです」

<コメント>
Q.実在するこりんを演じてみていかがでしたか。また松嶋さんが考えるこりんの人物像とは?役作りや心がけたことなどあればお聞かせ下さい。
芸者さんでいらした方なので意識したのは「粋」。その定義は難しいものでしたが、表に出ることなく吉田茂に寄り添い影で支え続け、吉田茂の娘・和子とも良好な関係を築いていることから、賢い居心地の良い素敵な女性だったのではないかと思い、メイクや衣装でもその「粋」を意識しました。

Q.テレビ東京開局55 周年ということで豪華な顔ぶれとなった本作ですが、鶴瓶さんはじめ共演されての印象は?
鶴瓶さんとは、この作品で2度目の共演になります。とてもユーモアがあり温かくスマートな人柄は、吉田茂の魅力を表現するのにピッタリ。現場でお会いした時は、似ているその風貌も含めて驚き、この企画でキャスティングされた方のセンスが凄いと感心しました。
新木優子さん、生田斗真さんとは初めてお会いしましたが、それぞれに吉田茂の娘・和子と白洲次郎を品良く魅力的に演じていらしたと思います。

Q.鶴瓶さんとの撮影中のエピソードはありますか?
現場では、いつも笑わせていただき楽しく撮影をする事が出来ました。二人で御座敷遊びをするシーンで思わず関西弁が出てしまった鶴瓶さんが、とてもチャーミングでした。

Q.最後にドラマの見どころなど視聴者のみなさまへメッセージをお願いします。
このドラマの見どころは、なんと言っても吉田茂を鶴瓶さんが演じられるところです。どうぞご期待ください。

スタッフコメント

倉地雄大(テレビ東京 プロデューサー)

本作最後の情報解禁は、テレ東初出演の松嶋菜々子さんです!若松節朗監督×松嶋菜々子さんと言えば、名作「やまとなでしこ」を始め、何度もタッグを組んでいる二人です。撮影現場で二人の長年積み上げた信頼関係を見て、深まっていく役の奥深さを知って、改めて感動してしまいました。
早くに妻を亡くした吉田茂を、秘書を務め、事実上の“ファーストレディー”として支えたのが娘・和子で、その逆で、最も吉田の身近で影から支えたのが、松嶋さん演じるこりんです。きっと、吉田が“ニッポン独立”に向け邁進するにあたり、どちらも欠かすことのできない女性だったのだと思います。このドラマには、たくさんの志に燃えた男たちが出てきますが、熱い志は、ときとして激しくぶつかります。その筆頭となる吉田は、アメリカや日本国内で、始終闘っています。その中で、こりんとのひと時が、きっと吉田がふっと息を抜く瞬間だったのだ、と鶴瓶さんと松嶋さんの二人の空気感が思わせてくれました。今の時代を作ってくれた先人たちに敬意を払いつつ、ドラマ「アメリカに負けなかった男〜バカヤロー総理 吉田茂〜」は様々な人間ドラマが詰まったエンタメ作品となっています。どの世代にも見てほしい、知ってほしいドラマです。放送まであと少しありますが、24日、是非ご覧ください!

番組概要

あらすじ

第二次世界大戦前、駐英大使の吉田茂(笑福亭鶴瓶)は、極東情勢の悪化に心痛めていた。時を同じくして、世界各国を飛び回っていた白洲次郎(生田斗真)も、世界情勢の機微を敏感に感じとっていた。

白洲と親交の深い吉田は、娘・和子(新木優子)らが見守る中、戦争回避に向けて動くが、その甲斐も虚しく、日本は第二次世界大戦に踏み切った。
1945年、終戦。敗戦国となった日本は、アメリカを中心とした連合国の占領の下、“復興”に向けて歩み始める。総司令部GHQと向き合う外務大臣のなり手が誰も見つからない中、先の大戦に猛反対し投獄された過去を持つ吉田に、白羽の矢が立つ。

かくして吉田は、外務大臣として、のちに総理大臣として、日本の独立と復興を担うことになる……。吉田は白洲を参謀に据え、最高司令官マッカーサーらと必死の交渉をする。

過度な内政干渉など、幾度も緊迫した事態に陥るが、和子や麻生太賀吉(矢本悠馬)、のちに総理大臣となる「吉田学校」の池田勇人(佐々木蔵之介)、佐藤栄作(安田顕)、田中角栄(前野朋哉)、宮澤喜一(勝地涼)らの助け、内縁の妻こりん(松嶋菜々子)の献身的な支えを受け、日本の独立に向け尽力していく。
混乱を極めた激動の時代に、戦後日本の“復興”へ命を懸けて邁進する吉田茂と周囲の人物たちの戦いを、娘・和子の視線から描く骨太ヒューマンドラマ。

 


新たな挑戦を開始しよう

2020年02月24日 21時55分38秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽重要なのは、今日からまた「新しい自分をつくる」ために「新しい現実と戦い続ける」ことである。
▽社会の変化のスピードはすさまじく、たじろいでしまうこともあろう。
だが変化を恐れてばばかりでは進めない。
むしろ、あらゆる変化を自身の飛躍の好機と捉えて、人生を充実させる<追い風>としていきたい。
▽変化の時代に重要なことは「自分自身をつくりつづけていくこと」。
常に、<今できることは何か>を考え、みずみずしい決意で新たな挑戦を開始しよう。
▽問題解決しながら発展させるのが価値の創造。
今しかできないことを確実に。
▽核戦争の脅威深刻で終末時計は残り100秒。


やむにやまれぬ情熱が燃えている

2020年02月24日 14時55分42秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽「何のため」という、確かな原点がある人は強い。
この一点が定まっていれば、人生に迷いはない。
▽人生は自分次第である。
環境が決めるのではない。
自分が環境をつくることだ。
自分が道を開くことだ。
▽理論的に飛行が可能だから人が飛行機を造ったのではない。
<分からないこと>を含んだまま人は空を飛んだのである。
「人は飛べるから飛んだのではない。飛びたいから、飛んだのだ」
▽不可能を可能にする人の共通点。
それは、困難の壁を前にしたとき、<突破できるかどうか>ではなく、<突破するにはどうするか>と考えること。
その胸には、やむにやまれぬ情熱が燃えている。


科学と非科学―その正体を探る

2020年02月24日 14時44分44秒 | 社会・文化・政治・経済

講談社現代新書<br> 科学と非科学―その正体を探る

中屋敷 均【著】

内容紹介

本書は、科学と非科学のはざま、言うならば「光」と「闇」の間にある、様々な「薄闇」に焦点を当てた本である。「科学的」なものと「非科学的」なものは、そんなに簡単に区別できて、一方を容赦なく「断罪」できるのか? 「科学的な正しさ」があれば、現実の問題はなんでも解決できるのか? 何が「真実」で「異端」なのか? 分子生物学者が科学の可能性と限界を見つめ、私たちが生きる意味をも捉えなおしたサイエンスエッセイ


■「科学的な正しさ」を疑い、「科学の存在意義」を問う■

何が「真実」で「異端」なのか。
分子生物学者が現代社会の「薄闇」に光をあてる。
はたして科学の可能性と限界とは?
私たちが生きる意味をも捉えなおした、極上のサイエンスエッセイ!

――

現代において、「非科学的」というレッテルは、中世の「魔女」のような
「異端」の宣告を感じさせる強い力を持っている。
社会に存在してはならないもの、前近代的なもの、というような響きである。
それは科学の万能性、絶対性が現代社会では無邪気に信じられているということの証でもある。

しかし、はたして科学という体系は、本当にその絶大な信頼に足るほど
強靭な土台の上に建っているものなのだろうか?
「科学的」なものと「非科学的」なものは、そんなに簡単に区別できて、
一方を容赦なく「断罪」できるものなのか?
「科学的な正しさ」があれば、現実の問題は何でも解決できるのだろうか?
科学と非科学の間に大きく広がる、そのはざまに一体、何があるのか?

本書は、複雑で、曖昧で、怪しげで、でもちょっと面白い、その辺土への誘い、である。

――

【本書のおもな内容】
第1話 デルフォイの神託/「神託」の謎に迫る科学のメス ほか
第2話 分からないこと/科学が持つ二つの顔 ほか
第3話 消える魔球/「正しい」こととは? ほか
第4話 無限と有限/農薬はなぜ「大体、安全」か? ほか
第5話 科学と似非科学/次々と現れる「新しい」生き物 ほか
第6話 科学は生きている/忍び寄る権威主義 ほか
第7話 科学と非科学のはざまで/カオスの縁 ほか
第8話 ドイツの滑空王/神々の領域 ほか
第9話 リスクととともに/新型インフルエンザ狂騒 ほか
第10話 アフリカ象と大学人/衰退する日本の科学と淘汰圧 ほか
第11話 「無駄」と科学/放射線に耐える奇妙な果実 ほか
第12話 閉じられたこと/グローバリゼーションのもたらすもの ほか
第13話 この世に「形」を生み出すこと/我が家の愚犬 ほか
第14話 確率の話/将棋と麻雀の日々 ほか

内容(「BOOK」データベースより)

現代社会の「薄闇」に光をあてた極上のサイエンスエッセイ。低線量被曝や残留農薬について、なぜ専門家は「大体、安全」としか言えない?インフルエンザのリスクに私たちはどこまで備えるべき?いま日本の科学研究の現場では、いったい何が起きているのか?何が「真実」で「異端」なのか。科学の可能性と限界を見つめ私たちが生きる意味を捉えなおす。

著者について

中屋敷 均
1964年、福岡県生まれ。1987年京都大学農学部農林生物学科卒業。博士(農学)。現在、神戸大学大学院農学研究科教授(細胞機能構造学)。専門分野は、植物や糸状菌を材料にした染色体外因子(ウイルスやトランスポゾン)の研究。著書に『生命のからくり』(講談社現代新書)、『ウイルスは生きている』(同/2016年講談社科学出版賞受賞)がある。趣味は、将棋、山歩き、テニス等。

 

「科学には性格の異なる2つのものがあり、後者に属する多くの科学では"100%の正しさ"は元々ない。」(詳細は本書参照願う)という本書の解説には強く納得できる。この科学の分かり難さを専門家と非専門家との間で一言で共有できる方法はないものだろうか。

 

二部構成で、前半では科学は確実に何かを言い切ることができるものではないことが、後半ではそのような科学とどうつきあっていくかが語られます。何らかの研究活動に携わっている人からすると、特別目新しい視点というのでもなく、かといって異論があるというのでもなく、まあそうだよねという受け止め方になるのではないかと思います。文章は読みやすいので、科学って凄いもので自分が何か言えるようなもんではないと考えているような方が読むと、科学に対する新しい見方ができてよいように思います。

 

昨日阪神タイガースは勝った。今日も勝った。だから明日も勝つだろう。で、秋にはみんな道頓堀に直行だーっていう科学的に(?)裏付けされた事実から始まって、非科学的な理由に基ずくあれやこれや…等々のエピソードを踏まえた素人にもわかりやすい”科学的”エッセイ。

 要は、この世界、わからない&はっきりとはしない、だけど”科学的”なことだらけ!ということ。
 ”エピローグ”にその結論的なエピソードが紹介されている。おばあちゃんの骨壺がカタカタとなる?科学的事情・・・

 まあ、一度読んでごらんなさい。

 

p.34
 「神託」を持たない現代の民主主義国家では、(中略)意見の異なる国民をどう納得させ、合意が作られているか?
 (中略)非常に大切な装置のひとつ*が、実は科学である。(*のところ以外は原文ママ)
これがこの本の根幹。
非常に考えさせられることが多くておもしろかった。
著者の中屋敷均氏はウイルスやカビの研究者で、その人が「科学はそんなに妄信できるものじゃないんだぞ、そもそも」ということを述べているエッセイ集。

「原発」とかいうワードが出てくるとすぐに脊髄反射してしまう人たちは楽しめないだろう。読まないほうがいい。そういうことが主眼ではないから。
逆に「科学的っていったいなんなんだろう?その根拠は?科学で解明できていないことなんてこの世にいくらでもあるじゃないか!」という考えの人はぜひ読んでみるといい。執筆当時に筆者が意義を覚えたいろいろな問題と、過去の科学に関する軽いエピソードが絶妙に混ざっていて読みやすい。

小ネタも豊富で文章もうまい。他のレビュワーさんも書いていたけど序章の文章が詩的ですばらしい。
『バーバラの見た夢』あ、この本はおもしろくなりそうだと予感させるものがある。

自分は、ちょっとずつ読んだけど、本好きな中学高校生~社会人だったら3・4時間で読破するかと思う。字も大きくて読みやすいから。でもちょっと立ち止まりつつ読むのがいいかもしれないな。

 

科学のあるべき立場を説明するなら、主張(私情)は挟むべきではありません。  科学に客観性は不可欠だからです。  ところが本書は、それを主張しまくる。  エッセィだからでしょう。  抜群の説得力をもって読者の睡眠時間を削るので寝る前に読むと危険かも。  「わたしはこう思う」という語り口が ”科学的な感情論”として成立しています。  むしろ、感情を示すことで「科学って何?」を逆説的に浮き彫りにさせているところがおもしろい。  次に何を言い出すのか…、そう思うと睡眠時間がどんどん削られ、全186頁を2日で駆け抜けることとなります。  

第七話「科学と非科学のはざまで」で著者はこう述べます。  「カオスの縁」を引用し、この世界は熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)に支配され、より無秩序にカオスの方向へ向かっている、と。  科学的に分かってしまった世界においては、人に選択の余地はなく、ただ従うだけだからこそカオスは必要なのだ、と。  確定的でない世界であるからこそ多様性が花開くのであり、それは”真実の世界”と”無明の世界”のはざまであり、「科学」と「非科学」のはざまと言い換えることができる、というわけです。  人間の生きる意味も、その「縁」でしか生じ得ないのでは、、、ってことなんですが、これ、どこかで聞いたことがある言説です。  仏教の思想ですよね。  

第九話では「リスクとともに」が語られます。  科学を突き詰めると「リスクはゼロにできない」という普遍的結論に帰着するんですね。  わたしたちは、そのリスクとベネフィットへの挑戦によって発展を遂げてきたわけです。  私たちの生活の中で、最大リスクは、、、そう、交通事故です。  200人に一人が交通事故で亡くなっている現実、これはもうリスクではなく事実でしょう。  あおり運転や高齢者による危険な運転被害も頻発する昨今、それでも車の利便性を手放さないわたしたちは、科学の進歩という観点でこれらの事象をどう判断しているのでしょうか。  考えさせられますね。  その極端な事例が原発事故なのですが、これをどうとらえるか、、、。  原発一基には廃棄物も含め、広島型原爆の10,000発分の放射能物質が存在していおり、その1万分の1が漏れても原爆一発分という計算が成り立ちます。  そのリスクはゼロにはけっしてならない、、、。  なくならないリスクである限り立ち向かうべきか、、、。  著者は、そこに生物進化で受け継がれてきた「恐れ」という「神託」めいた科学の闇の存在を引き合いに、読者に問いかけます。  アニミズムとは表現していませんが、それを合理性と合目的的性という強欲的な資本主義で葬り続けてきた科学の真の知性は、そういった科学の限界を”正しく”知ることなのだ、と述べています。  リスクはなくならない…そこに限界を見極める、ってとこでしょうか。

第十話「アフリカ象と大学人」では、著者の大学への批判が炸裂します。  
人類が壊滅する放射能の1,000倍の放射能に被爆しても生きていける微生物がいるそうです。  つまり(こんなことがあってはいけませんが)核戦争が始まり全人類が滅んだとしても、地球上の生命という現象は途切れない、そして、地球誕生後に生物が誕生したのが40億年前だったのと同様、また数十億年したら今と同じような生物が地球上に存在するのかもしれませんよ。  この「変異」という生命(放射能の1,000倍の放射能に被爆しても生きていける微生物のような)の「無駄」は、超大局的な展望からすれば、ムダどことか本質的に必要な生命体といえそうです。  これが大学とどう関係するの? ってとこは読んでいただくしかありませんが、世の中(極論の失礼を承知で言うなら)、バカもフツーも頭いいのも、みんなフツーに必要な存在だってことです。  だって、頭いいヤツばっかりで世の中成り立ちます??  どこかで、みんな必要とし合っているから成り立っているわけでしょう。  犯罪者は困りますけど。

だから第十一話「無駄と科学」では、大学のありかたへの批判がさらに激化します。 手短に言うなら、産官学による実用性は、研究という「無駄」な「変異」の否定であって、研究者や大学院生が企業のために働く実用主義に飲み込まれてはおかしい、というのです。  確かに実利一辺倒では困ります。  新しい発想はそこからは生まれないでしょう。  
第十二話では、さらに大学批判が続きます。  みんながいっしょにグローバリゼーションだのナンだので勤しむ画一化した英語教育を批判しつつ、大学に、実用的な費用対便益の実用性が持ち込まれ、”何かが育つのを待つことのない空間2になっている、というわけです。  たしかに、ノーベル賞をとった偉人たちは、何の役に立つか分からないけど、ナゼを追究したくてやってきた、、、って言ってますよね。  知的探求心を忘れ、経済的恩恵のシステムに組み込まれたらダメよ、ってことでしょう。  これは、まったくそのとおりだと思います。

終盤、第十三話では、生きてる意味論に言及されます。  この世に「形」を生み出すことの意味を考察します。  何だか知らないけれど愛着と情熱をもって探究心を掘り下げてきた過去の偉人、たとえばトウモロコシに執拗に興味を持ったマクリントック、空にあこがれたリリエンタール兄弟の行動は、世間からはムダな”習慣病?”に見えたかもしれないけれども、彼らによって、”この世に生じ得なかったもの”を、”この世になくてはならない今”、を実現させる姿・形だったわけです。  それらはオタクの世界かもしれないし、芸術なのかもしれないし、ビジネスなのかもしれないし、ノーベル賞モノの科学なのかもしれないし、、、一見ムダなことが後世に多大な影響を及ぼすことってありますよね(というか、そうやって科学は進歩してきた事実を私たちはすでに経験し恩恵を受けてます)。  でも著者のこの言葉が面白い。  「私には、その本質的な違いがよく分からない」。  「愛着をもつってことだけで、他になにもなくても人生は生きていくに足るのかもしれない、、、」。  そんな疑問形で終わるのがいいですね。  「わからない」、でいいんです。  十分にそのヒントを読者に提示してきた全186頁なのだから。

本書はエッセィです(過去の連載をまとめたもの)。 ですから冒頭で述べた通り読み物です。  しかし、科学って何?を知るにはかっこうの”材料”、”ヒント”になります。  高校生くらいから問題なく読めます。  気づきを得るにはおススメのエッセイ集ですね。

 

「科学と非科学」という少し固めのタイトルから内容を予測すると完全に間違える。多くの示唆に富む素晴らしいエッセイ集。
まず構成が見事だ。デルフォイの神託、ドイツの滑空王、牙を失ったアフリカ象など興味深いエピソードから、自然な形で本論に入っていく。
扱うテーマも、科学、宗教、生命、宇宙、AI、リスク、大学教育・研究、システム支配、閉じていることの重要性、生きることの意義など。多岐にわたるテーマを非常に分かりやすく書いている。
そして何より含蓄ある内容。組織のリスク、進化、人生など、自然と自分の関心事に重ね合わせて読んでいた。
筆者の持つ誠実な知性が伝わってくる。良い本に出会えた事に感謝。お薦めの一冊です。

 

中屋敷氏の文章として2019年東大入試「国語」の第1問に出題されました。
位置づけとしては文理共通の現代文1です。

中屋敷氏は分子生物学者として、生命の不可思議なありように照準し、
そこから発して科学と非科学の間にあるものを問うています。
それは秩序と無秩序と言い換えてもよいでしょうが、
ヒトの生命などはまさに、秩序立ったもの(無機物)しか生き残ってゆけない過酷な環境下でも、
妥当な進化を遂げることによって生き残ってきたのですから、その意義は大きいと思います。

受験生が本著者の文章を読んでどんな解答を書いたのか、気になるところではありますが、
結局本質(エッセンス)は二つの極の間のどこかに必ずあるのであって、
いわば二つの原理が交錯し、縺れ合う中で事態が進行してゆくような気がします。
生命、殊にヒトの生命などはその最たるもので、単一原理では縫合しきれない面が多分にあるでしょう。
そうした複合要因に関心の向きに本書をおすすめしておきます。

 

 


牧師が語る仏法の師

2020年02月24日 13時55分58秒 | 社会・文化・政治・経済
牧師が語る仏法の師
 
ローレンス・E・カーター広田明美
 
 
米国バプテスト教会の牧師が語る宗教間対話の旅路。ガンジー、マーチン・ルーサー・キング、池田大作を師とした非暴力運動の展開を、著者自身の数々のエピソードを交えて綴る。
原著(A Baptist Preacher's Buddhist Teacher)は、世界各国の独立系出版社から発刊された優秀書籍を顕彰する、第23回「インディペンデント・パブリッシャー・ブック・アワード」の「宗教(東洋・西洋)」部門で「金賞」を受賞、過去2年間に全米で発刊されたキリスト教関連の優れた書籍に贈られる「2019イルミネーション・ブック・アワード」の伝記・回顧録部門でも「金賞」を受賞。大学の神学部の授業などでも活用されるなど、高い評価を受けている。
 

内容(「BOOK」データベースより)

自身の生い立ちから、師と定めたキング博士との出会い、そして仏法指導者である池田大作SGI会長から受けた啓発―率直な言葉でつづった、宗教間対話の記録。
米国内で大きな反響を呼び、受賞多数!イルミネーション・ブック・アワード「伝記・回顧録部門」金賞。ノーティラス・ブック・アワード「宗教/西洋思想の精神性部門」金賞。インディペンデント・パブリッシャー・ブック・アワード「宗教(東洋・西洋)部門」金賞。
 

著者について

ローレンス・E・カーター(Lawrence Edward Carter Sr.) 米国モアハウス大学教授、同大学キング国際チャペル所長、牧師。ハワード・サーマン教育基金会長。1942年、米国ジョージア州ドーソンで生まれ、オハイオ州コロンバスで育つ。
バージニア・リンチバーグ大学で社会科学と心理学の学士号を取得した後、ボストン大学大学院で神学修士号(MDiv)、パストラルケア神学修士号(STM)、牧会心理学・カウンセリング博士号を取得。1958年、高校1年生の時に、マーチン・ルーサー・キング牧師から直接、モアハウス大学への進学を勧められる。1979年、キング国際チャペルの初代所長に就任。キング牧師の平和と正義のビジョンを実現するための教育と行動に一貫して取り組むほか、世界各国の大学や神学校でも講演を行っている。主な著作に Walking Integrity: Benjamin Elijah Mays as Mentor to Martin Luther King Jr.がある。
米国モアハウス大学教授、同大学キング国際チャペル所長、牧師。ハワード・サーマン教育基金会長。1942年、米国ジョージア州ドーソンで生まれ、オハイオ州コロンバスで育つ。バージニア・リンチバーグ大学で社会科学と心理学の学士号を取得した後、ボストン大学大学院で神学修士号(MDiv)、パストラルケア神学修士号(STM)、牧会心理学・カウンセリング博士号を取得。1958年、高校1年生の時に、マーチン・ルーサー・キング牧師から直接、モアハウス大学への進学を勧められる。1979年、キング国際チャペルの初代所長に就任(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
序 文
謝 辞
第1章 電話を受けて
第2章 私の道
第3章 師との出会い
第4章 変毒為薬
第5章 モアハウスの使命
第6章 世界という家
第7章 人間革命
第8章 仏法の師
第9章 対話の力
第10章 教育の力
第11章 価値創造
第12章 世界市民
第13章 内なる働き
第14章 世界を変える信仰の力
あとがき
 
目次】(「BOOK」データベースより)
電話を受けて/私の道/師との出会い/変毒為薬/モアハウスの使命/世界という家/人間革命/仏法の師/対話の力/教育の力/価値創造/世界市民/内なる働き/世界を変える信仰の力
 
著者のどこまでも誠実に真摯に、宗教に対して取り組んで来られた体験に裏付けされた洞察に基づき、創価学会の歴代会長に流れる精神、さらにそれが継承され、大きく展開されている池田大作第三代会長の思想と行動が、いかに重要であり、これからの社会に求められるものであるかが、力強く見事に表現されていると感じました。宗教を学ぶ者にとって必読の書だと思います。
 
 
 
 

全ては「聴くこと」から始まる

2020年02月24日 13時23分36秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽「人は、言葉によって成長します」
▽子どもは新しい言葉で表現することによって、新しい自分を見いだす。
大人も、そうした<新しい言葉>を見つけることができれば、人生は劇的に変わり得る。
▽「賛成して聴く」「黙って聴く」
そして「世界を代表して聴く」
▽全ては「聴くこと」から始まる。
▽腹を決めよう。
決まったら勇ましく進め。
▽幸福の源泉は「心」だ。
聡明な心は希望を創り、連帯を広げる。
▽励ましの言葉、勇気の言葉を大切に、負けない力を漲らせんながら。


精神科医が教える聴く技術 

2020年02月24日 13時10分26秒 | 社会・文化・政治・経済

[高橋和巳]の精神科医が教える聴く技術 (ちくま新書)

高橋和巳 (著)

人の話を聴くことは難しいが、本当に聴けた時には相手の人生を変えるほどの効果がある。「聴く技術」を〈黙って聴く〉〈賛成して聴く〉〈感情を聴く〉〈葛藤を聴く〉の四つのステップに分けて、事例と共にわかりやすく解説する。

最後に「自分の心を聴く」ことで、自分を受け入れる技術を解き明かす。精神科医として、またカウンセラーのスーパーバイザーとして、長年にわたり人の話を聴き続けてきた著者が教える「聴く技術」。「聴く」ことの驚くべき深い世界を知ってほしい。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

高橋/和巳
精神科医。医学博士。1953年生まれ。慶應義塾大学文学部を中退、福島県立医科大学を卒業後、東京医科歯科大学の神経精神科に入局。大学では、大脳生理学・脳機能マッピングの研究を行った。都立松沢病院で精神科医長を退職後、都内でクリニックを開業。カウンセラーの教育、スーパーヴィジョンも行っている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
 筆者が本文の最後にしたためた、「心を聴く技術は自分を聴く技術、言葉を見つけ、言葉を超えて、心をそのままに認める技術です」(p.214)に、この本の主張の全てが込められている様に思う。
 筆者が論じているのは、他者の話を聴くための技術(スキル)などではなく、それを応用して、自らを聴く技術を身につけ、自己組織化する「力」を獲得し、心をより論理的で安定した状態に導くことにあるのだと、受けとめた。
 
 
何もしないで本当に「ただ聴く」ことができていれば、それだけでカウンセラーとしては一流です。カウンセラーへのスーパーヴィジョンを通して、「聴く技術」の四つのステップ「黙って聴く」「賛成して聴く」「感情を聴く」「葛藤を聴く」をわかりやすく解説してくれます。カウンセラーでない一般の読者には何の役に立つのかという思いは、最後のステップで氷解しました。子どもの不登校・引きこもり・家庭内暴力・非行の問題では、相談に来た親(多くの場合は母親)が子どもの話を「黙って聴く」ようになると、大体は解決に向かうそうです。これがなかなか難しいのですが、悩める親や教育関係者は試みる価値があると思います。さらに、「聴く技術」はそのまま自分の「心を知る技術」でもあるのです。深いレベルで聴くことの意味を考えさせられる名著です。
 
 
傾聴とは、そして心理カウンセリングとはなるほどこういうことか!平易なことばでカウンセリングのキモを教えてくれる。
語られる言葉を黙って傾聴し、語り手の心の深層に流れる感情を聴き取る(=感じ取る)。その聴き取った感情への自分(聴き手)の感情をまた聴き取る。そうすると聞き手は語り手の感情に賛成しながら聴き続けることができる。
語り手は語ることで感情の流れがととのっていき、感情がきれいに流れる――語る前には、語らないためにあいまいでぼんやりした感情が言語化されることでクリアな感情として語り手自身に認識される――。その流れがさらにその奥にある感情の流路となる。そして次第に感情の根底にある葛藤が語られ理解される。

そうなって初めて葛藤を解決するための心理的ジャンプ(トリックスター)が起こる。

自分自身の感情と対するときは語り手=聴き手=自分自身と考えて、心の中で同じステップをふめば自分自身を知り自己理解から自己受容へと至る。そうすれば悩みが消える。

カウンセリングやオープン・ダイアローグ、言葉による治療が最近また脚光を浴びてきた。
DSMで薬剤メインになってしまった精神医療が精神分析方向に回帰していこうとしているのだろうか。DSMしか知らない若い精神科医は対応できるのか?
 
 
臨床現場を経験しているからこそ書ける内容です。
 “黙って聴く”というのは、とても難しい(心がけていても話してしまう)のですが、
避けたいカウンセラーの対応(応答)を挙げながら説明してくれているところは、自分の
応答の戒めになりますし、具体的にふり返ることができます。
 前段の聴き方を積み上げて、“葛藤を聴く”の章では、どのように聴くことで、カウンセ
リングがどのように展開するかがはっきりわかりますし、「規範Aが〇」で「感情Bも〇」
で終結に向かうのではなく、「規範Aが△」で「感情Bも△」というところも現場感覚と
してうなずけます。カウンセラーがどんなことを感じた時が逆転移なのかも教えてくれます。

いわゆる”聴く”とはどのようなことなのかというところを具体的に教えてくれる、出色の良書です。
 
 
カウンセラーを志しています。並のカウンセラーとの明確な違いが、読めば分かります。
この方は並の方達とは一線を画すカウンセラーだと思いました。こうして本を出して頂いことに感謝です。
クライアントが自分の力で葛藤を乗り越えるのを助けるのがカウンセラーだということがよく分かりました。それとクライアントの話に飲み込まれないための極意も書いてあります。何度も読み返したい、そんな一冊です。
 
 
とにかくわかりやすいのだが、深さに欠ける内容でした、著書を読んでいると誰でもカウンセラーになれると勘違い
してしまうのではないでしょうか。表面的な技術がほとんどでカウセラーの人間的素養に関してはまるでタブーであるかの
ように言及していません、それが一番重要だと思いますが、そこを言ってしまうと、世の中のほとんどの人は向いていない
という事実に直面しなければならず、特にカウセラー志望者は素養に欠けているので言えないのでしょう、残念です。
 
 
学生でレポートを書く課題用に読みました。以前にも高橋先生の本を読んだことがありますし、スーパービジョンをしている方なので、精神科医のカウンセリング本とはいえ特に気にせず購入しました。
・気に入ったこと
聴く技術がなければ傾聴はカウンセラーにとってただただ苦痛な時間になってしまう。傾聴は「聴く技術」を身につけることによって圧倒的に深いレベルの傾聴となる。なぜ苦痛に感じるのか、そしてどうすれば傾聴が楽になるのか教えてくれます。カウンセリング本といえば、「クライエントのために〜する必要がある」というクライエント目線の本が多いと思います。それもきちんと書いてはありますが、カウンセラー(聞き手)が楽になるための本です。
最後には、自分自身のカウンセラーになる方法が書いてあります。
高橋先生の分かりやすい文章で一般の方はすらすら読めるのではないでしょうか。
・備考
カウンセリングの言葉が高橋先生独自の言葉になっています。これは一般向けに言い換えたものだと思いますが、臨床心理やカウンセリングを学んでいる人には少し語弊が生じるかもしれません。たとえば「賛成して聴く」というのは、心理の畑の人で言うとロジャーズの「無条件の肯定的関心」で、ちょっと読みづらいかもしれません。しかし賛成して聴くというのは応援して聴くのとは違うよ、ときちんと書いてありますし、読めば分かります。
 
 
心理カウンセラーじゃなくても、精神科医じゃなくても、学校の先生じゃなくても、
人の相談に乗ったり話を聞かなければならない場面というのはあると思います。
そういうとき、つい自分の狭い経験から肯定したり否定したり、解決策を提案してしまったりしがちです。
ただ黙って聴くことの難しさを感じました。
 

なぜ歴史を学ぶのか

2020年02月24日 12時59分55秒 | 社会・文化・政治・経済

なぜ歴史を学ぶのか

リン・ハント 著 , 長谷川 貴彦 訳

内容紹介

ポスト真実の政治と歴史修正主義が横行する時代に,歴史学に何ができるのか──.トランプ政権のウソ,ホロコースト否認論,白人至上主義のテロや原爆展論争などを題材に,こうした問いに答えるアクチュアルな歴史学入門.アメリカ歴史学界を牽引してきた著者による,『歴史とは何か』(E. H. カー)の現代版.

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

ハント,リン
1945年生まれ。カリフォルニア大学ロサンゼルス校名誉教授

長谷川/貴彦
1963年生まれ。北海道大学大学院文学研究院教授。専門はイギリス近現代史、歴史理論(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

碩学による歴史入門とあるので、かなり期待して読んだのですが、訳がゴツゴツとしていてすんなり頭に入ってこなかった。とても読みにくかったです。このシリーズは「簡潔かつ迫真の書」のようですが、とっても残念。原著を買って読んでみたら、こっちの方が著者の語りかけが伝わってきて、わかりやすかったです。英文はそれほど難しくなかったです。それに誤記も気になりました。「シラクーゼ大学」は「シラキュース大学」、「一九四〇年」は「一九六〇年」(74ページ)・・・・。

 

本書は、排外主義が高まり、歴史修正主義が跋扈するこの危機的時代において、いまの歴史学が果たすべき役割と可能性を簡明に解説している。歴史学がシチズンシップ(市民権)の拡大と歩みを共にし、エリート主義から脱却しながら、いまでは、市民社会に開かれた「パブリック・ヒストリー」という歴史学の新しい分野を登場させた道筋など、いまの欧米の歴史学の動向を俯瞰するのに最適の概論書である。
帯には「『歴史とは何か』(E・H・カー)の21世紀版」と銘打っているが、むしろ「21世紀の歴史学とは何か」、あるいは「21世紀の歴史学研究者は、どうあるべきか」を知る上で、大いに参考となる好著である。

 

新世代の研究者に向けて書かれたシリーズの本とのことです。
内容はとても平易である一方、著名で優れた歴史学者による、アクチュアリティを伴った考えさせられる論点が多く示されています。
大学生以上に向けたレベルだとは思いますが、タイトルに惹かれている高校生も是非読んでみてほしいです。

残念なのは、すでに指摘されている通り、一部訳文があまり良くないということです。
日本語として硬い、洗練されていないならまだしも、日本語として意味が通らない部分も見受けられます。
(「ヴァイキングの時代の1000年前の過去」とは、いったいいつのことなのか…)

訳者あとがきを見ると、この本はゼミの訳文を「土台」にしているようです。
ただ、節によってはまさに「ゼミの訳文」で見るような文章も散見されます。
当然プロではない学生に責任はないでしょう。出版までの過程で改善していただきたかったです。

 

翻訳の質が論点となってしまっていて、内容自体の所感の方が少なめなのが残念な書籍です。

一見多くの話題の連鎖が発散してしまっているようにも見えますが、議論の方向の大枠は一貫した方向で展開されています。本書は以下の四章構成です。

第1章 空前の規模で
第2章 歴史における真実
第3章 歴史をめぐる政治学
第4章 歴史学の未来

内容的には、以下の展開となっています。

1章.21世紀の歴史を巡る言説の現状分析(教科書論争、記憶戦争、フェイクニュース等)
2章.そうなった理論的背景(事実と解釈を巡る20世紀後半のポストモダニズム史学論、ポストコロニアリズム等)
3章.そうなった史学の制度的背景(制度としての歴史学/19世紀に成立した近代国家エリート養成史学から、広く市民に開かれた20世紀後半以降の歴史学へ)
4章.あらゆる尺度や対象が地球規模となった時代における適度な現在主義、長期的展望、他者や過去へのリスペクトの必要性

著者は、20世紀末から現在の状況を、歴史学が近代国家エリートの欽定史学から市民に広く開かれた歴史学へと「民主化」されてゆく過程として捉え、フェイクニュースや記憶を巡る抗争などの現象は、このプロセス上においてある程度付随して発生してしまう課題/現象だと認識しているようです。

読者は最終4章に、現在歴史を巡って展開されている抗争について、著者がズバリと解決策を与えてくれるのではないかと期待して読んでしまうわけですが、そのような凄い解決策が提示されているわけではありません。しかしがっかりするような内容でもありません。著者は、現在起きている現象と抗争(の背景)を史学的展開上に整理し、「あわてるな」といっているとの印象を受けます。

万能の処方箋ではありませんが、現在歴史を巡って起こっている、ローカル/グローバル、自分たちの歴史/他者の歴史、アカデミックな歴史/通俗的歴史、過去/現在、記憶/歴史等を巡る緊張関係の克服に向かっての方向性を示しています(しかし最終節の節題「リスペクトの倫理学」は、重要なことがさらりを書かれ過ぎているようにも思え、もう少し詳述する必要のある箇所だったのではないかと思います(節題「リスペクトの倫理学」も全体的な方向性を取りまとめる用語としては少し意味がわかりずらい)。

しかし一方で、ヘーゲル主義の相対化を踏まえた議論をしているにも関わらず、著者の指摘する市民に開かれた民主化した近代歴史学は、自由で論理的な言論が尊重される民主主義社会を背景として成立した/しているのであって、人類が自由と民主や合理性から逃走する(或いは多数決の独裁による統制に向かう)ことにでもなれば(自由と民主は自明の真理ではないゆえ、この可能性はある)、歴史学もまた衰亡する、ということが含意されてしまうように見えます。この点に関しては、著者が冒頭と途中で記載した内容が、最後に再度サマリーとして喚起されるべきではなかったのか、と考える次第です。

「きわめて異様な主張が広範囲に流通し、ただ流通しているという理由で一定の信用を獲得している。こうした状況において、歴史的真実を主張することは、市民として勇気が要ることだが、必要な行為となっている」(p4)
(個人的には、「歴史的真実」という用語は誤解を招くばかりなので安易に利用すべきものではないと考えるのですが、本書における「歴史的真実」が何かは、第二章にて解説されており、それは二章末尾に「合意された基準」や論争の当事者が「論争の規則に同意しなければならない」、それを前提とした上での(=規則を逸脱した自称理屈による論の両論併記論は成り立たない、等)絶えざる「議論と論争が不可欠」であるとされています(p56))。

個人的には、かねてより、歴史学を社会学する、或いは「歴史」という現象/言説を巡る社会学的分析が必要なのではないかと思っているのですが、本書はそれに近い内容でした(よく「世界史の構造」を説く書籍がありますが、歴史の構造、或いは歴史学の構造とは、「歴史」という現象/言説を巡る社会学的構造を合わせたものをこそ言うのではないかと思います)。この分野では『歴史学の<危機>』、近年の書籍ですと『グローバル化と世界史』がそうした内容を扱っていて(他書でも一部で言及されているものはありますが、内容における割合はあまり多くはなく)、本書は全体の頁数は少ないものの1/4の量で特に詳述されているという点で出色だと思いました。

※巻末の文献紹介は、日本語訳がないものが多く、邦訳が出て欲しい面白そうなものが幾つもありました。

 

学生だった頃の私は、教科としての「歴史」が嫌いだった。「日本史」も「世界史」もだ。

嫌いな理由は、とにかく「暗記」しなければならなかったからだ。
大人になって、ある程度の知識がついてからならいざ知らず、子供の場合、「歴史」教科書に書かれていることは、そのほとんどすべてが初耳であり、およそ自分には無縁な話ばかりなのだから、興味を持つためのフックとなるものが全然ない。したがって、頭に入ってこないし、定着もしない。その上、年号まで丸暗記させられたのでは、面白いわけがない。

だが、最近は「歴史」の面白さが、すこしだがわかってきた。
なぜ面白くなってきたのかと言えば、直接関連するわけではないバラバラに仕入れた各種の知識が、それからそれへと、いつの間にか有機的に結びつきだして、論理的な「知識のネットワーク」を自己形成し始めたからだ。

と言っても、私はいまだに「歴史マニア」ではない。
私は基本的に、「専門」と呼ぶほどのものは持っていない、一介の読書家にすぎない。その上で、あえて専門的に読んでいるのは、「宗教」に関するものであり、なかでも「キリスト教」ということになる。そして、素人は素人なりに、「聖書」から始めて5年以上にわたり1000冊近いキリスト教書およびその周辺関連書を読んできたから、不勉強な神父さんや牧師さんをやり込められるくらいの知識は、すでに身についた。

しかし、かと言って「キリスト教書(神学、教会史、聖書学など)」ばかり読んできたというわけではない。キリスト教信者になるのなら、それでもいいのだろうが、私は「宗教」の問題を考えるための基礎教養として「キリスト教」を勉強することにしたので、「キリスト教」を総体的かつ客観的に理解するためには、それに関連するものとして、例えば「無神論」とか「科学史」「哲学史」「西欧史」といったものについても、おのずと「最低限の知識」が必要となったのだ。

これは、若い頃「ミステリ(推理小説)」にハマった時と同じパターンで、私は「ミステリ」について「体系的」に知りたいと思い、E.A.ポーの「モルグ街の殺人」に始まるとされる「ミステリ史」を学ぶために、時系列にそって主な作品を読もうと試みたのだ。
しかし、もちろんのこと、同時代の国内新作も読みたいから、そうした「海外の古典」ばかり読んでいるわけにもいかないし、体系的に「ミステリ」を研究しようとすれば、例えばポーは「怪奇小説」や「幻想小説」を書いていた人だから、そこからの派生ジャンルとしての「ミステリ」を理解するためには、そっちの方も、ある程度は読んでおかなければならない、ということになる。さらには、ポーの生まれた「時代」や「国(風土や社会環境)」についても、ある程度の知識が必要だ。
一一と、こうなると、結局は収拾がつかなくなってしまったのだが、ともあれ、そうした「面で押さえたい」「全体と部分を総合的に把握したい」という傾向が、今の「キリスト教」研究にもあるために、「キリスト教書」だけではなく「宗教学」や「科学史」「哲学史」「西欧史」なんてものにも手をだして、結局、いわゆる学者的「専門家」とは違った、本の読み方になってしまったのだ。

しかし、こういう読み方の場合、幅広い知識が蓄積されていくうちに、あっちで読んだことと、こっちで読んだことが、思わぬところで共鳴し合い、結びついて、思わず「おおっ!」と声をあげたくなるようなことが、たまに起こるようになる。
一見、別々のジャンルの本に書かれていたことが、予期せず共鳴し結びついた時に、私は「単なる(構築的な)知識」ではなく、「普遍的な原理」に触れたと感じることが出来て、これこそが「知の喜び」だと実感する体験を繰り返すようになったのである。

で、ここまでは前置き。

本書で、著者が語っているのも、じつはこれと「似たようなこと」なのだ。
「歴史学」というのは、当初は、ヨーロッパの特定の大国のエリートの間において、国家をリードするエリートを育てるための学問であった。そのため、今から見れば、その研究範囲は、きわめて限定されたものでしかなかった。

ところが、時代が進むにしたがい、その視野は、否応なく広がっていった。つまり、昔は「ヨーロッパの特定大国」の「エリート階層」の「男性」にだけ開かれていた「歴史学」が、今や「女性」や「非ヨーロッパ人」などの、かつては社会的マイノリティーだった人たちにも徐々に開かれ、その研究対象も「ヨーロッパの特定国と特定圏」に限定されることなく、「あらゆる国や地域」へと広がり、かつ、それがグローバルな視点から関連づけられて「巨大で複雑なネットワーク」を構成し、それを多少なりとも踏まえるのが当然だとさえ考えられるようになっていった。

つまり、一人の人間(研究者)が、「全体」を踏まえた上で「歴史を語る」などということは、「専門」を持てばこそ、困難にもなってきたのだ。

しかしまた、「全体観」を欠いた「ミクロな知識」だけでは、「ミクロな知識」の「全体」の中での正しい位置づけが困難となって、「歴史」を見誤ることにもなりかねない。
だからこそ、「歴史学」の全体を見渡す、すぐれたパースペクティヴが是非とも必要となり、求められるようになったのが「歴史学」をめぐる昨今の状況であり、そうした求めに応じて書かれた好著のひとつが、まさに本書なのである。

それにしても、皆が皆、こうした「歴史に対する積極性と公正さ」を持っているわけではない。
知りたいことだけを知ればそれで満足だとか、自分好みの知識だけを掻き集めて理論武装すれば、それでひとかどの「歴史家気どり」といった人たちが、情報を得やすくなったこのネット時代には、目立って増えてきている。
しかし、そういう人たちの語るものが「歴史」の名に値しないというのは、言うまでもなかろう。
「人間の歴史」を知ろうとすることとは、偏頗な知識を寄せ集めてこね上げる、個人的な「創作」などではないのである。

求めても求めても、その完全な「真相としての歴史」には届かなくとも、それでもそれへと、新たな手がかりを求めてつつ、精一杯手を伸ばす知的営為。それが「歴史を学ぶ(研究する)」ということなのではないか。

だからこそ、本書でも紹介されているとおり、

『ローマの政治家キケロが、二〇〇〇年以上も前に説明している。「生まれる前に起こった事柄に対して無知でいることは、子どものままでいることを意味している。なぜなら、人間の一生が価値をもつのは、それが歴史の記録によって先人たちの生きざまのなかに組み込まれた場合に限られるからなのである」。』(P107)

ということにもなろう。
「子供」は、自分の「狭い視野」の中でしか考えられず、その外が「想像」できない存在だからだ。

そして、これはなにも『生まれる前に起こったこと事柄』に対する『無知』に限られた話ではないはずだ。
例えば「他者(異性、異国人、マイノリティー等)」や「他国(異境の地)」や「未来」などの〈外部〉について知ろうしない人、考えようとはしない人というのも、やはり同様の意味で『子供のまま』なのではないだろうか。

「歴史」に詳しいのは(=知識が豊富なのは)大切なことだ。しかし、それが「歴史オタク」的な「視野狭窄(=自閉)」におちいれば、かえってそれは「反知性」を結果しかねないし、事実そうなってもいる。

私たちは、本書に描かれた「歴史学」の「歴史と現在」の姿をとおして、普遍的な「知のありかた」を学ぶことが出来るはずである。

 
 

 


哲学は対話する―プラトン、フッサールの“共通了解をつくる方法”

2020年02月24日 12時30分28秒 | 社会・文化・政治・経済

筑摩選書<br> 哲学は対話する―プラトン、フッサールの“共通了解をつくる方法”

西 研【著】

内容紹介

プラトン、フッサールの哲学は、互いの意見を確かめ、共通了解をつくりだす「対話」の哲学であった。そのことを丁寧に確かめ、現在の対話に活かす方法を考える。

内容(「BOOK」データベースより)

哲学は、「根源的真理」を問うものではない。その最大の目的は、一人ひとりの生き方と社会のあり方をよりよくすることであり、その方法は、プラトンが描くソクラテスにはじまり、フッサールの現象学にて真価を発揮した「対話」である。分断が進む現代において、人びとの間で納得できる答えを見つけだす方法とは?近年の研究の集大成。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

西/研
1957年鹿児島県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了、東京医科大学教授(哲学教室)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

<対話の哲学>の可能性を追求した好著である。

相対化がいきつくと、<すべてがそれぞれ>になるため、哲学はその本来の目的である<人々が共有し、生き方と社会のあり方をよりよきものにしていく知恵>として、機能しなくなってしまう。だからこそ、今は、独断論でも相対主義でもない第三の道として、対話によって「皆が納得しうる共通了解の形式」を目指す必要がある

物事の本質をつかむ力を育むことで人々によりよき生き方を教えるという哲学の根源的試みに今、あえて挑んだ厚みのある労作だ。

 

哲学カフェを主催している著者が「共通了解」を巡り、原理編(ソクラテス、プラトン)、応用編(フッサール)、実践編(正義論)を展開する。久しぶりの著者の本に胸ワクワクする思いをした。

また、著者の哲学に向き合う姿勢の変化を知ることも出来た。それは、哲学の真理を求める姿勢から、諸問題の解決を求める思考への変化である。答えを求めず、意見を出し合う(哲学カフェ)。今回はそこに「共通了解」を求める哲学的思考を提起した。
そして原理編ではプラトンの対話編を例にソクラテスの問答法を取り上げる。この手法は素晴らしい。しかし、プラトンの対話編よりも、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を取り上げて欲しかった。アリストテレスは最高善として「幸福な生活」を説いた。この幸福は「観想(テオリア)的生活」を意味する。つまり、哲学的態度こそ最高善であり、人間にとって真理を求める思考こそ、最高善(快楽)なのである。このようなアリストテレスが説く最高善を私たちならどう思うのであろうか?個々から哲学カフェが始まるのではないか?
応用編のフッサールの現象学は著者の専門領域である。判断停止(エポケー)と本質直観の反省により共通了解を得る哲学的思考は素晴らしく、しかも役に立つ思考である。
実践編の正義論も主題として最適である。ロールズの『正義論』も参考になるし、社会契約説や功利主義も応用が効く。
哲学カフェでは、自由な意見の提示が原則であるが、哲学的思考を鍛えるなら、アリストテレス、フッサール、ロールズの哲学的思考について例示し、それについて徹底的に議論するのはどうであろうか?
先哲の思考を踏まえた議論の方が有益であると思われる。
それにしても本書は哲学的思考の活用を説いた快著としてお勧めだ。

 

著者の提唱する「共通了解をつくるための哲学」は、あらゆる政治思想や文化的・宗教的価値規範を調停する対話の土台となりうる。

私たちの内に「対話しようとする意志」が枯渇したとき、「話し合ったところで無駄だ」「どうせ何も変わらない」とする緩慢なニヒリズムがはびこる。そして、「自分の体験世界の外にいる」理解できない他者、異邦人を、容易に「きもい」「うざい」存在としてラベリングする。嫌悪感や不寛容を「正当化」することをためらわなくなるのだ。

対話への絶望は、「話し合ったところで無駄なんだから、熱気があって頼りになりそうなカリスマに全て任せてしまえ」とする、投げやりな思考放棄を生み出す。「話し合う」よりも「異分子を排除する」ことで、手っ取り早くグループの安定性を保とうとする大人がいる。それを見習う子どもたちがいる。

私の友人のある若者は「投票しても何も変わらないし、時間の無駄だから行かない」と笑顔で言った。
私の友人のある女性は「イケメンでがんばってるから○○さんに投票した!」と言った。

現代日本には、対話への明るい絶望が満ちている。対話の貧困は、身近な小グループへの閉じ籠り、他者の体験世界に対する想像力の鈍磨、視野の狭窄を帰結する。そうした現状に対し、「多様性を尊重せよ」「投票に行け」と口を酸っぱくして主張するリベラル陣営がいる。

しかし、リベラルの一部は、「対話」よりも、「少数者の正義の絶対化」(もちろん権利擁護が必須であることは前提だ)や「単なる誹謗中傷」に熱心になっていないだろうか。著者のいう「対話関係」の土壌が整わないところでは、いくら「投票に行け」「多様性を尊重せよ」といっても、「上から目線のお説教」にしか聞こえない。

日本の民主主義が本当に成熟するためには、「互いの実感を尋ね合い、聴き合う対話関係」という畑を、長い時間をかけて耕していく必要があろう。気の遠くなるような話だ。しかし、希望がないわけではない。希望の条件それ自体は、すでに本書によって解き明かされている。しかし、この原理の実質化という課題ーバトンーは、次の世代に託すしかないのだろうか?

本書の応用可能性は、教育論、政治論、実存論、人間関係論、宗教論など多岐にわたる。特に、14章で展開される正義論および対話論は、伝統的価値観とリベラル的価値(「自由」「人権」、「寛容」など)の関係を考えるにあたって必読である。

本書で展開される思考は、今流行りのコミュニタリアリズムや公共哲学、保守思想などを完全に包括し、掌の上に包み込んでしまっている。(それも単なる否定ではなく、諸政治思想の根本にあるモチーフを掬い上げ、活かすという意味での包括。)今や、日本の民主主義は、「正しさ」の押し付けではどうにもならない。身近な関係やコミュニティ、教育の場などで、「対話」の条件を調えることこそ急務である―読後、そう思わざるを得なくなる一冊であった。

 

フッサールの哲学を学ぶために購入しました。フッサールの哲学は、自然的態度、私たちの通常のものの見方をいったん脇においてエポケー(判断停止)し、現象学的還元をすべしと要約できる。本書の目的である〈共通了解〉を得る方法も、結局は現象学的還元を用いなさいということである。そして現象学的還元の目的は、本質観取にある。(なぜか著者はエポケーという言葉を使わない。使わなくても説明できるからか、それとも他に理由があるのだろうか。)

1.本質観取への疑問
 様々な意見を認める多元主義が正義となっている今日、本質を追究して一致点を見い出すという戦略は無理がある。著者もこのような反論を心得ていて、「合意や共通了解を、習慣や強制によるものでなく、....洞察し納得することによってつくりあげることができるのなら、それは個人の自由を抑圧するものではなくなる。(そうでなければ)社会の環境をよりよきものとして創りあげていく力を失ってしまうことになる。」と反論する(p.201)。それでも無理がある。この論法は、それがなければ社会は成り立たないが、社会が成り立っているからには、それがあるはずだという構造になっている。どうも腑に落ちない。
 この辺の議論は間主観性につながっている。間主観性は、「出発点では感じ考える唯一の存在であった私(自我)もまた、他我たちのなかの一人(自我たちの共同体のなかの一人)という新たな意味を獲得することになる。この意味のことを間主観性という。」と説明される(p.340)。本質観取は、あくまでも自我(主観)の内部で行われるが、いったん他我の存在に気付くと本質観取は変容を受ける。こうして間主観性が働いて共通了解が成立するということだろう。
 しかし、これも腑に落ちない。人の発達過程は他我の存在に気付くのが先で、その後から鏡などを見ることで自我の存在に気付く。そしてデカルトのように全てを疑う現象学的還元があって、自我に信頼を置くのである。フッサールの議論はこの時点から始まる大人の自我論である。間主観性とは、その時点から考え抜いて本質観取するのではなく、他我に合わせて信念を改定する行為に映る。

2.現象学を超える
 フッサールの哲学は、あくまでも意識体験の連続のなかで成り立つものであるが(p.340)、著者はこのフッサールに疑義があるようだ。「そもそも認識とは、特定の関心や言語や社会関係のなかで形づくられるもの(p.185)」とか、「もっぱら自己反省のみにもとづいて本質を取り出すこと」ではなく対話が必要であると訴える(p.186)。さらに最終章では、著者自らが行う正義の本質観取という名の諸学説の検討では、メンバーシップ(p.416)、ルール(p.418)、権利と義務(p.421)、共同体の物語(p.431)など、社会集団を統制する制度論のような議論が展開されている。現象学は様々なテーマを考察する方法論と了解すれば、この展開も不思議ではないが、フッサールの現象学は個人の内部にとどまるものと了解する限り、著者は現象学の枠を超えてしまったといえるのではないか。

3.西田哲学との類似性
 フッサール現象学は、西田幾多郎の哲学に似ている。フッサールを日本で初めて紹介したのは西田だといわれているが、それは西田の『善の研究』の執筆が終わった後であったという。西田がフッサールを読んでいたことは間違いないし、フッサールの影響を受けていた(満原 2015 p.51)。
 西田の純粋経験は、誰でもが経験する直観というか、あるがままの存在を、「思想」、「思慮分別」、「判断」などの要素を排して、直接、直下(じか)に経験すること、不要なものを削りに削った後に到達する純粋な経験のことである。これは現象学的還元のことではないか。
 本書に、「主観とは、単なる心という位置づけではなくなり、世界とあらゆる対象が現れ出てくる場、すなわちあらゆる認識が生じる場」という記述がある(p.317)。これは西田の「場所」の思想に似ている。あらゆるものは、何らかの「場所」においてなければならない。意識は「場所」なのである。
 そもそも「場所」という思想は、フッサールと差別化するために、主観や意識という概念に基づいた哲学を乗り越えようとした西田の試みであった(満原 2015 p.64)。本書の著者も「場」という言葉でフッサールを乗り越えようとしている。それは対話の場であり、社会集団が作り出す均衡したルールが機能する場であると解釈した。
非常に有意義な読書であった。

 

とかく亀裂や分断が話題になる現代社会に、なぜ哲学が必要かを心底から納得させてくれる本。、
「対話する哲学」として、著者は数ある哲学者のなかからプラトン(ソクラテス)とフッサールの思想を取り上げる。一見結びつかないように見える二人だが、共通了解に基づく対話という意味では非常に深い関わりがあることが、読んでみるとなるほどと腑に落ちる。

ソクラテス、プラトンのところも面白いが、フッサール現象学の解読はなかなか類をみない規模と深さに達していると思う。初学者の入門書としても、またかなりの程度勉強した人には先へ進むための手引きとしても役に立つだろう。私自身多少フッサールをかじったが、とにかく常人の理解を受け付けない彼の書き方だから道に迷うことしばしばである。
そこでこれからは、本書から要点の抜き書きメモをつくり、それを片手にまたフッサールに挑戦してみたい。

とりわけ本書では、フッサール哲学の業績(実際にやったこと)と、彼がやらなかったことや(多分やりたかったのだけれど)出来なかったことをはっきり区別して書いているので、現象学が万能の処方箋というような思い込みを避けることができる。後代の私たちがきちんと受け止めてかんがえなければらないことも多いのだ。

そんなことも含めて、最後の「正義」の本質看取は圧巻である。じわじわとあらゆる角度から正義の本質に迫る姿はスリリングであり、失礼ながらマイケル・サンデルの正義の話がshallowであると感じてしまった。

 

初学者の方は西さんの著作から入門されるとよいと思います。
非常に説明がわかりやすく、難しい用語や聞き慣れない用語の意味なども親切に説明してくれている。
例えば登山チームのリーダーが一番経験の浅い者などに合わせて進んでいくときのようなきめ細かい配慮はほんとうに助かる。
哲学書からの引用文の後に、西さんは、「つまり~ということですね」と噛み砕いた説明をしてくれる。これは理解するのに助かります。本当に理解していなくては噛み砕いて説明することなどできません。
西さんの本はおすすめです。


キリンの工場見学へ

2020年02月24日 11時59分22秒 | 日記・断片

取手ひなまつりの日(2月21日)取手のキリンの工場見学へバスに乗って行く。
毎年の見学であるが、今年はオリジナルペーパーメガネなるもが用意されていた。
「これは、何に使うのですか?」と受付の人に聞いて見たら、「あとで、説明があります」と曖昧な返事だった。


実際、見学ツアーの案内係の人からの説明はなかった。
「キャンペーン期間中に見学ツアーに参加した方にキリン商品のおいしさの秘密をもっと見つける(FIND)モードに没入できるオリジナルペーパーメガネ「KIRIN FINDER」をプレゼント!
「KIRIN FINDER」をつけて見学ツアーに参加すれば、見落としてしまいがちな秘密も見つけられるかも!?-とのコンセプトである。


「キリン一番搾り生ビール」のこだわりの製法やおいしさの秘密を発見。
ビールの魅力が存分に味わえるツアーです。
いつもの工場見学よりもさらに深く「キリン一番搾り」の世界を体感いただく、特別ツアーもあるとか。(一番搾り麦汁と二番搾り麦汁の飲み比べや、麦芽の試食、ホップの香りを体験できるツアー)。

ものづくりのこだわりを五感を使って、体感できる参加型ツアー。
見て・ふれて・味わって おいしいワクワク体験が楽しめます。

仕込釜の大きさを体感!
一番搾り麦汁と二番搾り麦汁の飲み比べができた。
まずは、一番搾り麦汁と二番絞り麦汁を試飲。
一番搾りが、どれほど濃くて甘いかを体験。
この甘さ糖分が、発酵して、アルコールに変わるのです。

芽を出した麦を煮て絞ったのが、麦汁。 
麦汁の出来で、麦の味の濃さ ビールのコクが決まります。

後は、ホップのセレクトと投入ノウハウ、酵母と、発酵の調整により
様々ビールとなるのですね。

麦芽を煮込んで麦汁をつくり、ホップを加えてビール独特の香りと苦みを引き出します。


麦芽を煮込んで麦汁をつくり、ホップを加えてビール独特の香りと苦みを引き出します。麦汁に酵母を加えて発酵させ、低温貯蔵します。
この間に調和のとれた風味と香りが生まれます。
などの説明を受ける。
湯を張った糖化槽に細かく砕いたモルトを入れ、“もろみ”を作ります。もろみの中では、麦芽の澱粉が糖に分解され、甘い”麦汁”ができます。もろみを麦汁ろ過機に通して麦汁を取り出し、ホップを加えて煮沸します。
「一番搾り」は、麦汁ろ過の工程で、もろみから自然に流れ出てくる、最初の麦汁(一番搾り麦汁)だけでつくられます。
一番搾り麦汁のみで仕込むと上品ですっきりとした味、その後エキス分を絞り出した二番搾り麦汁も使って仕込むと、豊かで飲みごたえのある味のビールになります。商品ごとに最適なプロセスが、慎重に選ばれます。
煮沸を経て、冷やした麦汁に酵母を加えて低温発酵します。
糖分がアルコールと炭酸ガスに分解され、若ビール(名前の通り、まだ未熟なビールです。)が誕生します。
商品の特徴に応じて、きめ細かな発酵条件の調整を行っています。特に温度管理には、細心の注意を払っています。
若ビールを約0℃でじっくりと貯蔵し、熟成させます。
この間に、調和のとれた風味と香りが生まれ、味が整ってきます。


熟成の判断の決め手は「香り」。
化学分析と、人の五感を駆使した官能評価との合わせ技で、香りのチェックを行います。
熟成の終わったビールから酵母や余分なたんぱく質を取り除くと、雑味のない、美しい琥珀色のビールに仕上がります。
缶やビンに詰め、素早くふたをします。缶の場合はふたをかぶせた後に巻き締めます。1分間に、缶は最大で2,000本、ビンは600本のスピードで完了します。
新鮮さを保つため、この工程ではスピードが命!
空気に触れる時間は極限まで短くします。
説明した係の人の声量と美声に感嘆した。

見学後には、ゲストフスで、一番搾り、一番搾り黒、
ビールなど酒類の試飲は、1日3杯まで。

豊かに実った麦、香り高いホップ、大切に磨きぬいた水。選りすぐりの原料を用意します。麦にはたっぷりと水分を含ませ、発芽させた後乾燥させて成長を止め、麦芽(モルト)にします。
『キリン一番搾り〈黒生〉』は、麦のおいしいところだけを搾る「一番搾り製法」をベースとし、雑味のない調和のとれた味わいに仕上げられた。同社では、「よりおいしく飲みやすい黒ビールとして、ビールの楽しみ方を広げていきます」とコメントしている。

『キリン一番搾り〈黒生〉』に関しては、まず麦汁濾過工程で最初に流れ出る一番搾り麦汁だけを使う「一番搾り製法」をベースに、新たな濃色麦芽を採用することで、雑味と渋味を低減した芳醇なうまみを実現。
新たなビアスタイルとして「ダークラガータイプ」を採用し、麦のうまみと調和のとれた澄んだ後味に仕上げた。
焙煎した濃色麦芽による芳醇なうまみ。
この「ダークラガータイプ」とは、下面発酵酵母を採用し、低温でじっくりと発酵させるタイプのビール。
まろやかな濃色麦芽の味わいとほのかな甘みが感じられながらも、後味は雑味なく締まりのある味わいを実現している。
キリン一押しの「一番搾りプレミアム」
飲み比べると、一番 香り豊かです。
一番搾りとしては、ダントツによい香りだと思います。
味の方は、逆に、まろやかで、すごくフルーティーで、甘ささえあります。
東北産ホップの第一等品をふんだんに使用。
仕込み段階に加え、発酵工程でもホップを漬け込むこだわり製法を採用し、深く豊かな香りを実現。


 

 

 

 


直感力とは何なのだろうか?

2020年02月24日 09時27分09秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

 Vogue Japan

脳科学者 中野信子さんに聞く

そもそも、直感力とは何なのだろうか?──脳科学者の中野信子が、そのメカニズムを解説してくれた。
また、実際に直感力に優れている人や、具体的な鍛え方なども紹介。
正しい理解をした上で直感力を養い、自分自身の本質と今一度、向き合ってみよう。

──脳のメカニズムからとらえた場合、直感力とは何ですか?

中野信子(以下、中野) 脳の中にはものごとを判断する機構(システム)が二つあります。
一つは迅速に判断を下す機構、もう一つは論理や理性に基づいてゆっくりと慎重に判断を下す機構です。
前者をXシステム、後者をCシステムと呼びますが、いわゆる「直感」を決めているのはXシステムだといってよいでしょう。

正しい決断を下すには、Cシステムによって論理的にゆっくりと考えて結論を出したほうがいい、と多くの人は思うかもしれません。
Cシステムは知性と呼ばれるものを働かせるシステムで、受験勉強によって鍛えられるのもこちらです。
だから「頭がいい」ということはCシステムの働きが優れていることであるととらえられがちなのですが、意外と見落とされがちなのがXシステムの力、すなわち、直感の力です。

例えば、目の前に美味しそうなものがあっていつのまにか手にとって口に入れていたという経験や、いわゆる一目惚れなどは、直感=Xシステムの選択です。もちろん、直感の判断が間違うこともしばしば起こります。

判断を下すとき、私たちはどんな情報を集めているのでしょうか。論理で決めている遅い判断機構であるCシステムの場合は、その人の来歴とか、これまでの仕事とか、どういう人と友達なのかといった既存の情報を総合して判断します。
しかし、Xシステムの場合はもっとわかりやすくて、「見た目」がほとんどです。香りとか声などの情報も多少加味していますが、判断の根拠の大半は視覚を通して得た見た目の情報です。

「人は見た目が大事」といわれる理由。
Photo: Pavlo S/shutterstock
──直感は見た目で判断しているのですか?

中野 概ねそうです。見た目が判断に与える影響を調べた実験はたくさんあります。

例えば、見た目の魅力度を写真で判断させて学生に点数をつけさせ、その結果、点数の高かった人の写真と低かった人の写真をそれ ぞれまた別の被験者に見せながらMRIで脳の画像をとる。すると学生が高い点数をつけた写真だけに反応する脳の領域というのがあります。そこが、直感で選ぶときに判断を下している脳の領域です。

ところが、一つ問題があります。「この人は美しい、魅力的だ」と判断しているこの領域は、実は「正しい/正しくない」も判断しています。同じ一つの領域が美しさと正しさを判断しているわけですから、美しさの基準と正しさの基準が混ざるということも起きます。よく「容姿がいい人は得をする」といわれますが、その理由がこれなのです。実際、容姿のいい人は得票率が高いという研究結果もあります。

脳には、民主主義を左右しかねないセキュリティホールがあるといえるかもしれません。直感に従いすぎると怖い結果が出るのはこういうことがあるからなんです。やはり直感は吟味しながら使わなければいけない感覚です。

──見た目で判断するから、よく間違ってしまうんですね。

中野 「人を見た目で判断するな」とよく言われますが、そもそも人は見た目で判断してしまうものだからこそ、そう言われるわけです。では、人を見た目で判断してしまう脳をもつ私たちにできることはあるのか?よりよい生き方をしよう、よりよい社会をつくろうと考えるときに、気をつけなければいけないことは何だろうか?実は、できることはいくつかあります。

先ほど挙げた、見た目で判断してしまう脳の機能を明らかにした実験には続きがあります。見た目の点数があまりよくなかった人も、笑顔になると容姿がよい人が与える結果とそれほど差がなくなるんです。だから、もって生まれた容姿に自信がなくても落胆することはありません。表情によって相手にいい印象を与えることはできるので、容姿に自信がない人ほど魅力的な笑顔を身につける練習をこっそりしてほしいと思います。第一印象をよくするためには、笑顔を鍛えることが大事です。情報を受け取る立場としては、見た目=容姿に騙される可能性があることを知り、一歩引いて「本当はこの人はどんな人なのだろうか?」と冷静に考える必要があります。

──容姿がいいと必ず得をする、ということになるのでしょうか。

中野 容姿が優れている人は第一印象では得をするものの、だからといってそれで万事快調となるわけではありません。第一印象がよすぎるがゆえに過度の期待を集めてしまい、時間がたつにつれて「大したことないかも」と評価が下がってしまって余計に苦労するということもあります。本人も気の毒ですし、期待した人も失望感を味わってしまう。だからこそ、見た目が素晴らしい人に出会ったら、「ちょっと待って。私は今、直感に惑わされているのかも」と立ち止まる癖をつけるとよいと思います。

自分の選択が正しいか否か。それを決めるのは誰?
Photo: fantom_rd/shutterstock
──判断力は迅速な直感によるものと、遅くて理性的に正確な答えを求めるものでできている。でも、多くの人は、できれば「素早く、でも正確に判断したい」と望んだりするのですが、それは不可能なことなんでしょうか?

中野 ちょっとトリッキーな問いですね。その二つの判断力は矛盾するものではないんです。例えば、素早く直感で選ぶ人は間違いやすいかというとそうとも限らない。

今、トリッキーな問いだと言いましたが、ちょっと振り返ってみてください。例えば私たちは子ども時代から高校を卒業するまでに「正解を選びなさい」と何回言われるでしょうか?私もまだ数えていないのですが、1回の期末テストで少なくとも100回は正解を問われるとすれば、毎年少なくとも3回、小中高で年あるなら単純計算で3600回。それに小テストや臨時テスト、模擬試験などを加えればたいへんな回数になる。そうすると、人は「正解を選ばなければならない」と考えるのが習性になってしまうものなのです。正しい相手と恋愛しなければならない、正しい相手と結婚しなければならない、正しい服を着なければならない、正しい道を選んで人生を歩んでいかなければいけない……。そう思って生きるようになってしまう。

でも、社会に出たとき、自分の選択が正しいかどうかを決めるのは誰でしょうか。上司ですか?国家元首ですか?違いますよね。「自分」です。例えば、自分が結婚した相手が正しかったかどうか判断するのは自分ですし、自分は正しいと思っていても相手は正しくないと思う場合もあるし、逆もありうる。このときに必要になるのは、直感で選んだ答えを正解にする力であって、必ずしも正解を選ぶ力ではないんです。

選択したことをブレずに正解にする。
Photo: Jacob_09/shutterstock
──直感で何を選ぶかよりもそれを実行することが重要なんですね。

中野 そうです。直感力があってなおかつそれが正しいという人は、正しい答えを選んでいるのではなくて、選んだ答えを無理やり正解にしているんだと思います。

例えば、織田信長がやったことは正しいと思いますか?評価できないですよね。ココ・シャネルのやったことはどうでしょうか?鼻持ちならない女だという人もいるでしょうが、少なくともブランディングには成功して、商業的にも成功をおさめ、今でも燦然と輝く不朽の名前になっています。直感に従った結果をブレずにやり通す力が直感を裏打ちするものだと教えてくれます。

──直感を裏打ちする力は、Cシステムの、ゆっくりと理性で詰めていく力ですか?

中野 そうですね。例えば、戦のときには武芸に優れた人だけでなく、それを支える補給線を確保する人、兵糧を計算して調達する人などロジスティクスが必要です。前面で戦うシステムと、後方で補給を確保するシステムの両方があって初めてうまくいく。だから、この二つのシステムをうまく協働・統合させて進めたいものです。

でも、人の意識はそううまく働いてはくれません。直感で選んだものを「いやいやそれはダメだから」とブレーキをかけるシステムが働きがちで、なかなか協働的に働いてはくれないものです。

──二つのシステムを協働的に働かせるようにする方法はないものでしょうか?

中野 あれば私も知りたいくらいです(笑)。でも、両方のシステムがあることを知り、「今は素早いシステムのほうが強く働いているからちょっと抑えよう」とか、自分をコントロールするメタ的な視点をもつことが大きな一歩かもしれないですね。

直感と実行力の協働にはマインドフルネスが役立つ。
Photo: Kohey Kanno
──メタ的な視点から自分をコントロールする力は、自分で鍛えていけるものなのでしょうか?

中野 それは比較的楽天的に考えてもよいところで、大人になっても伸ばせる部分です。この点については、いわゆる「マインドフルネス」が役に立ちます。マインドフルネスは少し前にあまりにも流行ったので、今さら、と思われるかもしれませんが、日本で流行った解釈は本来の意味からずれていたようなので説明しますね。

マインドフルネスの本来の意味は非常に単純で、「自分が今やっていることを常に気づくようにしていくこと」。例えば、今ここに座って話をしていますが、話しているうちに話していること以外にも気が回って「あ、気温が低いな」とか「あ、口が乾いたな」と思う。あるいは、昨日の自分と今の自分を比べて「あ、昨日の今ぐらいの時間はこんなことを思っていたな」とか、一人の自分を別の視点から客観的に見ることがある。でも、私たちは普段、そんなふうに自分を外側から見ることをほとんどしていません。だからこそ自分のことを観察する視点を育てましょう、と考えるのが、本来のマインドフルネスなんです。

──日本では、マインドフルネスとは、瞑想すること、あるいは瞑想して無になること、というイメージが広まっていますが……。

中野 瞑想は瞑想でよいことですが、瞑想=マインドフルネスではないですね。マインドフルネスという言葉は、mind(心)ではなく、mindful、つまり「注意とか気をフルに働かせている状態」ということです。海外の概念を日本で流行らせて一儲けしようとした人が「禅」と結びつけたのでしょうが、マインドフルネスとは「自分の中に何があるのか、何が起こっているのか気づきましょう」ということであって、決して無になるとか空っぽになるということではありません。

もしも禅でいう「無になる」に通じることがあるとすれば、「ジャッジしない」ということ。「あの人が消えてしまえばいいのに」と思っているなら、「そんな考えは悪いものだから消そう」とするのではなくて、「自分はこう思っているんだ」と気づき、認めることがマインドフルネスです。つまり、ジャッジする自分をなくそう、ということなら話はわかります。

──一方、メタな視点ばかり意識しすぎて自分をなくしてしまうと、何も判断できなくなりそうです。

中野 だから、直感による判断も必要なんです。それを、専門用語でヒューリスティクスといいます。例えば、官僚の意思決定について、どう思います?

──前例主義で、冴えない感じがします。

中野 でも、官僚はすごく頭のいい人の集団ですよね。超難関の国家公務員試験に合格した人たちです。そんな彼らの意思決定がなぜ微妙になってしまうのか?ヒューリスティクス=直感が欠けているからです。知識と前例だけを手がかりにしていると、判断は常に遅れますし、前例のないデータが出現すると対応できません。

これは、現時点のレベルでのAIが行う意思決定と同じです。「フレーム問題」の例に出される有名な事例ですが、例えばAIに「世界平和はどうやったら実現できるか」と尋ねると、「世界中に核爆弾を落として人類を滅亡させてしまえば平和になる」という答えが出てきてしまう。問題解決にならない答えだけれど、今のAIはそれをおかしいとは思わない。では、人間はなぜこの答えをおかしい、ダメだと思うのか。その人間的な感覚こそがヒューリスティクスです。

直感と論理なら、直感を優先したほうが後悔が少ない。
Photo: VectorKnight/shutterstock
──論理を積み上げ、組み立てて出した答えが必ずしも正解になるわけではないんですね。

中野 というよりも、ほとんど間違ってしまいます。論理的に積み上げて出た答えは、論理的には正しい。一方で、ヒューリスティクスの出す答えは論理的=本質的には間違っている。それでも、こちらのほうが人間の感覚に近い答えになります。例えば、人に関する膨大な量のビッグデータがあるとしましょう。自分のような性格の人の情報がインプットされていて、それをもとに「あなたにぴったりの人はこの人です」という理想の結婚相手を「論理的に」はじき出してきたとします。その相手に会ったあなたはおそらく「ああ確かにこの人は理想の顔、年齢、住んでいる場所、職業だし、話も合う」と思いながらも、それでも「何かが違う」と感じる。その「違う」という感覚を優先するか、AIがはじき出した論理的な答えを優先するか。

その人の好みだとは思いますが、私は感覚(=ヒューリスティクス)を優先するほうが、おそらく後悔は少ないと思います。なぜなら、そちらのほうが進化的に長い歴史をもつ判断機構だからです。進化的に長い歴史をもつ機構とは、それに従った結果、人類が生き延びる確率が上がった実績のある機構なので、そちらを採用するほうがおそらく有利だと思います。

──だとすると、例えばの話ですが、AIがはじき出した「条件の整った相手」と、直感で惹かれたけれど条件的には微妙かもしれない相手がいたとします。直感で後者を選んだ上でその人を「正解」にすればいいということになりますか?

中野 そうです。というか人間はそういうふうにできています。直感で選んだ相手について、第三者がみんな「失敗だったね」って言うケースはよくあると思います。あっというまに燃え尽きる花火のような恋に終わってしまってスピード離婚になるとか。でも、その人には満足感があるはずです。

「あのとき、もっと条件のいい別の人と付き合ったり結婚していたら、もっといい人生だったかも」と、多くの人が一度は思ったことがあるでしょう。でも、直感が促す選択をしないでいられるかというと、実に難しい。それくらい直感の力は強いものです。それに、直感で選択した答えを正当化する機能が人間にはあるんです。これを「認知的不協和」といいます。現実と認知が異なる状態を指す言葉で、例えば、現実は「ダメ男を選んで離婚した自分」がいて、第三者みんなが「なんであんな男を選んだんだ。大失敗だったね」と言うし、客観的にはダメ男だという現実があっても、自分の気持ち=認知はその現実とは乖離している場合です。

直感がもたらした後悔も「認知的不協和」が調整。
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──確かに、直感で選んでダメ男と結婚した場合、相手を消すわけにはいきません。

中野 後悔しつつ、でも結婚してしまったのだから結婚してよかったことにしなくてはという気持ちが働くのが人間です。「私は好きになったんだから、このことを無駄にしないために納得しよう」という気持ちが働く。みんなが「あの人はダメな人だね」と言えば言うほど、「いや実はいいところもあるのよ」と擁護する。この状況が認知的不協和です。

もっと単純な例も挙げましょう。高いお金を払ってプレミアムチケットのオペラを観に行ったら内容がひどかったという場合です。ひどいオペラだけれど、高いチケットを買ってしまったという事実は消せない。消せない事実があるとき、人は認知を変えようとする。「私がこんなにお金を払って予定を無理やり空けて観に行ったオペラがひどいわけがない」「みんながひどいと言うけどここがよかったじゃないか」「あの歌手が観られたからよかったじゃないか」と思い込もうとする。人間の心は現実を正解にしようとするものなのです。

これを「ごまかしているだけ」という人もいます。でもうまく使えばいいんです。正解にする努力は、生きる原動力にもなり得ますし、そうした努力を続けることが、充実した人生をつくるのです。「あのときあのダメ男と結婚したおかげで、今がある」ということも十分に起こりうる。「あの失敗があったから、今がある」と思えればいい。

──直感をめぐる体と心の関係について教えてください。例えば、体調や時間帯によって直感が働きやすくなることはありますか?

中野 お腹が空いているときはXシステムが優位になります。ブドウ糖が足りないので体がセーフモードになってしまうんですね。

──そうすると糖質制限ダイエットは判断を鈍らせますか?

中野 ダイエット中の人のほうが詐欺にひっかかりやすいというデータはあります。悪い男にもひっかかりやすいかもしれません(笑)。実際、ダイエットもやりすぎないようにしないと認知力に負荷がかかります。つまり、体の状態は脳の働きに影響するんですね。「脳は体の一部じゃない」と思い込んでいる人が多いのですが、脳は体の一部です。これは声を大にして言いたいことです。脳以外の部分が痩せたら、脳も痩せます。

──直感力や判断力に男女の差はありますか?

中野 あると思いますよね?ところがそうでもないんです。研究もあって「自分は直感力があると思いますか?」と聞くと、「あると思います」と答えるのは、男性より女性のほうが多い。つまり、男性のほうが直感に自信がない。ところが、嘘を見抜かせる実験をすると、意外なことに少しだけ男性のほうが成績がいい。男性は直感が働いても、言わないんですね。

ひらめきは口に出し人を動かして実行しよう。
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──正しい判断で正しい答えを得られれば万事快調となるわけではないんですね。

中野 そもそも、世の中はそうなっていませんよね。自分だけ正しい答えを得ても、意味がないのではないでしょうか。それよりも周りに「こうでしょ」と説得する力のほうが重要です。みんなと違う答えを堂々と言えて、それを他の人に説得できる力のほうがずっと大事。それこそがみなさんが求める直感力の正体かもしれません。

正解を選べば充実した人生が自動的にもたらされるわけではありませんし、正しい答えを提示すれば周りの人に認められるわけではありません。自分の言葉は、周りの人が耳を傾けてくれるようなしくみをつくって初めて聞いてもらえるんです。周りをインテグレートする力が必要です。それは、コミュニケーション力ともいえるかもしれません。私自身も悩みだったりします。私は精一杯やってこのレベルですから(笑)。生まれつき天才的なコミュニケーション力をもつ人もいますよね。

人のひらめきに個人差は大してありません。「こんな考えは突飛かな」「こんなこと考えるなんて、ちょっとおかしいかな」というレベルの思いつきは多くの人が思いついていることだったりします。

むしろ、思いついたことをプロジェクトにして進めていくことこそ重要ですし、その段階では自分が動き、人を動かすことが必要です。ところがそれを実行していくトレーニングを私たちはあまり受けていません。ひらめきがあっても「みんなに言ったらおかしいかな」「誰かに笑われちゃうかな」という思いが先立ち、自分で潰してしまうこともしばしばです。

直感力が優れているといわれる人は、「こんなこと思いついたけど、すごいと思わない?」とすぐに口に出してしまうのだと思います。誰も思いついていなかったわけではなくて、周りの誰かしらは必ず「それ、私もそう思ったよ」と思っているはず。でも「これ、すごいと思わない?」と言った人の勝ち。「すごいでしょ」と言って回って、動き回って「こういうふうにしようよ」と働きかけていく。そうして実現し始めたら、それはもうその人の手柄なんです。

だから、思っているだけではだめ。ひらめきは誰にでもある。それを形にする力があるかどうか。それが、最終的に「直感力がある」ということなのです。

直感力を養うために大切なこと。

1.正解を選ぶ力ではなく、直感で選んだ答えに取り組み続けて正解にする力をつける。

2.直感に従った結果をブレずにやり通す力は、論理的な力の裏打ちから生まれる。

3.直感力に必要な自分をメタ的に見る力は、マインドフルネスで鍛えられる。


中野信子
なかののぶこ●東日本国際大学特任教授、脳科学者、医学博士。東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了後、フランス原子力庁サクレー研究所で研究員として勤務。
現在はTV番組のコメンテーターとしても活躍中。著書は『あなたの脳のしつけ方』(青春出版社)、『女に生まれてモヤってる!』(ジェーン・スーとの共著、小学館)など多数。

Text: Junko Kawakami Editors: Maki Hashida, Saori Nakadozono, Airi Nakano

 


新型肺炎は「パンデミックの瀬戸際」 米専門家が警告

2020年02月24日 09時20分57秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

(CNN) 米国立アレルギー・感染症研究所のアンソニー・ファウチ所長は23日までに新型肺炎の問題に触れ、「我々は明らかに(世界的な流行の拡大を意味する)パンデミックが起きる瀬戸際にいる」との認識を示した。

写真特集:米CDC、新型コロナ対策室の内部

CNNとの会見で述べた。「我々の運命は渡航に関係しての感染例に遭遇する中国以外の諸国の対処能力に左右される局面にある。人から人への感染が持続し始めている状態となっている」と説いた。

米国の感染症研究の第一人者でもあるファウチ博士は「感染源を特定出来ずに人から人への感染例が発生している日本や韓国の事例を見るならパンデミックが生まれつつあるとも言える」と指摘。

「このような国が多数となったら後の祭り」とも主張。「さらなる感染がわが国へ及ぶのを防ぐのは非常に困難になるだろう」と続けた。

その上で米国へのリスクは「非常に低い」とも説明。ただ、この状況は「即座に変わり得る」とも警告した。

横浜港に停泊中の大型クルーズ船ダイヤモンド・プリンセスから米国人乗客を退避させた措置にも触れ、「難しい判断だった」ともしながら「間違いなく正しい選択だったと信じる」とした。

 




天皇と戸籍 ─「日本」を映す鏡

2020年02月24日 01時16分54秒 | 事件・事故

「日本人」であることを証明するのが戸籍とされる。だが天皇家の人々は戸籍をもたない。その根底には何があるのか。現代日本をも貫く家の原理を浮き彫りにする。

天皇と戸籍 ─「日本」を映す鏡

遠藤/正敬
1972年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。博士(政治学)。専門は政治学、日本政治史。現在、早稲田大学台湾研究所非常勤次席研究員。宇都宮大学、埼玉県立大学、東邦大学等で非常勤講師。著書に、第三九回サントリー学芸賞を受賞した『戸籍と無戸籍―「日本人」の輪郭』(人文書院、2017年)などがある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 
本書が導きだすのは、われわれの日常生活において、ほとんど意識することのない戸籍という制度が、ルイ・アルチュセールのいう「国家のイデオロギー装置」として機能してきたこと、そしてそれは天皇制イデオロギーと不即不離の関係にあったということ、であろう。
ここには奇妙なパラドックスがある。すなわち、戸籍制度の埒外におかれている天皇と皇族という存在が、戸籍制度に絡め取られた国民の範型となっているというパラドックスである。それはいかにして創り上げられたのか。著者は、皇室関連法と戸籍法との成立過程を詳細に分析しながら論証している。
明治初期の憲法体制創設時における議論の過程を本書で見ると、そこに法制官僚としての井上毅の存在の大きさが見えてくる。井上こそが明治の天皇制国家のイデオロギーを体現していたのであろう。
ただ、イデオロギーとは所詮観念的な産物に過ぎない。本書の巻末の以下の一文が、その本質を剔抉している。

『「皇統」なるものは、それがまぎれもない「純血」なものであるという擬制の合意による産物である』

まことに勇気ある指摘であると思う。学者とは、かくあらねばならない。
 
 
選挙権もない。
結婚は当事者で決められない。
「他家に嫁いだ」女性は、離婚しても、「実家の籍」には戻れない。
つまり「日本国民」の権利を多分に制限された「日本国民」が、皇族である。
なぜ、こんなにも特殊な「日本国民」が存在するのか。
戸籍制度とセットで理解して、初めて明確に分かる。
戸籍は、事実上、日本だけにしかない国民登録システムだ。
背景には、古代・中世の歴史から近代日本が作り上げた国家神話がある。
戸籍は天皇が民草に与えるもの。
家単で「先祖代々」の土地に登録された人間の上に、天皇は超然としている。
「日本人」という擬制は、「血」と「家」でできている。
この擬制は、天皇と戸籍のセットであって、初めて機能してきたとさえ言える。