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私は本屋が好きでした あふれるヘイト本

2020年02月24日 22時09分11秒 | 社会・文化・政治・経済

私は本屋が好きでした 永江 朗(著) - 太郎次郎社エディタス

永江 朗()

つくって売るまでの舞台裏

内容紹介

反日、卑劣、心がない。平気でウソをつき、そして儒教に支配された人びと。かかわるべきではないけれど、ギャフンと言わせて、黙らせないといけない。なぜなら○○人は世界から尊敬される国・日本の支配をひそかに進めているのだから。ああ〇〇人に生まれなくてよかったなあ……。

だれもが楽しみと知恵を求めて足を運べるはずの本屋にいつしか、だれかを拒絶するメッセージを発するコーナーが堂々とつくられるようになった。そしてそれはいま、当たりまえの風景になった──。

「ヘイト本」隆盛の理由を求めて書き手、出版社、取次、書店へ取材。そこから見えてきた核心は出版産業のしくみにあった。「ああいう本は問題だよね」「あれがダメならこれもダメなのでは」「読者のもとめに応じただけ」と、他人事のような批評に興じるだけで、無為無策のまま放置された「ヘイト本」の15年は書店・出版業界のなにを象徴し、日本社会になにをもたらすのか。

書店・出版業界の大半が見て見ぬふりでつくりあげてきた〝憎悪の棚〟を直視し、熱くもなければ、かっこよくもない、ごく〝普通〟で凡庸な人たちによる、書店と出版の仕事の実像を明らかにする。

内容(「BOOK」データベースより)

仕事だからつくる。つくられたものは流通させる。配本が多いから書店は平積みする。しくみに忠実な労働が「ヘイト本」を生み、そして、本屋の一角で憎悪を煽ることを“普通”のことにした―。

著者について

1958年生まれ。ライター。書籍輸入販売会社のニューアート西武(アールヴィヴァン)を経て、フリーの編集者兼ライターに。90~93年、「宝島」「別冊宝島」編集部に在籍。その後はライター専業。「アサヒ芸能」「週刊朝日」「週刊エコノミスト」などで連載をもつ。ラジオ「ナルミッツ!!! 永江朗ニューブックワールド」(HBC)、「ラジオ深夜便 やっぱり本が好き」(NHK第一)に出演。
おもな著書に『インタビュー術!』(講談社現代新書)、『本を読むということ』(河出文庫)、『筑摩書房 それからの40年』(筑摩選書)、『「本が売れない」というけれど』(ポプラ新書)、『小さな出版社のつくり方』(猿江商会)など。

 

"ヘイト本についてすらなにも考えないということは、ほかの本についてもなにも考えないということです。魅力のない本屋です。売れている本は並んでいるけれども、つまらない本屋です。つまらない本屋は滅びます。"2019年発刊の本書は、ヘイト本を巡る出版や本屋の舞台裏を明らかにした【これからを考える】為の一冊。

個人的には、本好きの間では著名なベテラン"本屋好き"ライターである著者が【どういった想いでタイトル及び本書を書いたのか?】に関心があって本書を手にとったのですが。愛情の裏返しとはわかっているものの『出版業界はアイヒマンなのか』など、なかなか手厳しくて驚かされました。

そんな本書は、ヴィレッジヴァンガード創業者の"本屋という仕事は、ただそこにあるだけで、まわりの社会に影響を与えることができるものだ"を胸に本屋の取材を30年余り続けてきた著者が、2015年から丸4年かけて【不愉快な気持ちを抑えながら】町の本屋、チェーン書店、出版取次、出版社、編集者、ライターとインタビューを重ねて【ヘイト本が本屋に並ぶ事情】を明らかにしながら、それぞれについて著者なりの提言を行っているのですが。自身【ちょっと特殊な形で本を扱う1人】として、やっぱりか。と【目新しさこそなかったものの『再確認』させられる】読後感でした。

また、そういった出版裏事情とは別に『ヘイト本の読者はネット右翼ではない』『本屋大賞は(良書ではなく)すでに売れている本を、もっと売るための賞』および、そもそも本屋大賞自体『2〜4%の店舗、書店員が選んでいて"すべての書店員"が選んだわけではない』など。2重3重の【一般の人が誤解する本や本屋に対するカラクリや幻想】について、あらためて容赦なく指摘していて、著者の抱く危機感の深さを感じさせられました。

出版や本屋の現状や裏事情を知りたい誰かへ。また、最近【街の本屋がつまらない】と内心ため息をついている本好き、本屋好きな人にもオススメ。

 

世にはびこる嫌韓・嫌中といったヘイト本について、その存在に加担する出版社、取次、書店を取材した本。
書店員、編集者、ライターとして長年出版業界の動向を追い続けてきた著者の永江さんはまえがきで、ヘイト本について調べたり考えたりするのが不愉快で執筆に4年もかかってしまったと書いているが、読者にとっても決して愉快な読書ではない。だからと言って積ん読してはダメな、読むのを面倒くさがってはいけないタイプの本だと思う。永江さんの文章は相変わらず端正で、ヘイト本の取り扱いに苦悶しながらも主張は明確。その姿勢が心強く、読者として襟を正される思いだった。
会社の近くにある書店にはヘイト本が大量に置かれている。歩いて行ける距離に他の書店がないので仕方なく利用しているが、内心ではできればこういう店では買い物をしたくないと感じていた。ヘイト本に手を出さないのは当然として、読者だって他にできることはあるはずだ。

 

自慢するわけではなく、事実として私は「読書家」であり、読書が大好きな人間だ。当然、新刊書店も古本屋も大好きなのだが、しかし、いわゆる「本屋もの」「古本屋もの」の本は、フィクション、ノンフィクションを問わず、ほとんど読まない。昔はいくらか読んでもみたが、なにやら「読書家のマスターベーション」的な気配があって、だんだん敬遠するようになっていった。

要は「読書家の読書家自慢ほど、(非知的で)みっともないものはない」という気持ちが、私には強い。
と言うのも、読書家というのは、本を読んでいるのだから、知性に自負を持っているのは当然のこととして、だからこそ、それをことさらに自己確認するような行ないは「みっともない」と感じられるのだが、しかし「本屋もの」「古本屋もの」の本を読みたがる読書家には、その気配が感じられるし、しかもそのことへの無自覚に発する一種の「鈍感さ」をも感じるのである。

無論、考えすぎかも知れないし、邪推に過ぎるかも知れないのだが、しかし、そのくらいの想像力も働かないような読書家の読書とは、いかがなものかとも思う。
だから私は、普通「本屋もの」や「古本屋もの」を読まない。「同じ本好き(本読み)として、よくわかるよ」といったような「共感」を殊更に示すことで、自分の読書家ぶりをアピールするような態度は、あまりにも馬鹿っぽくて、およそ読書家の名に値しない者のすることとしか思えないのである。

しかし、本書は違った。
そういう「仲間内で頷き合い、ほめ合う」ような本ではないと、すぐにわかった。

『私は本屋が好きでした』もいう「過去形」のタイトルからは「あんなに好きだったのに、今ではそうではなくなってしまっとことが、たまらなく悲しい」という気持ちが、ひしひしと伝わってきた。
そして、サブタイトルには「ヘイト本に関する本屋(書籍業界)の加担の現実」という、その悲しみの理由が示されていた。

著書は、ヘイト本が書店で、目立つほどに並んでいる現実を「やむを得ないこと」として「容認」してはおらず、それを批判している。要は、「本屋の味方」として「本屋をかばう」のではなく、「本屋を批判している」のである。「本好き・本屋好き仲間との、馴れ合い的な相互容認」を拒絶しているのだ。
出版関係者を含めて、本屋関係者から嫌われ疎まれるのも覚悟の上で、それでも「本屋のために」言わなければならないことは言おう、というそんな覚悟が、その悲しみと共に、タイトルからひしひしと伝わってきた。
だから私は、この本を買わなくてはいけないと思い、即座に購ったのである。

 ○ ○ ○

本書には、ヘイト本が作られ本屋に並ぶまでの過程に関わる、出版・流通を含む業界関係者へのインタビューが挿入されており、著者の考察の裏づけとなっているのだが、実際、喜んでヘイト本の存在にかかわっているという者は、一人もいない。だが、結論としては「それも仕方がない」という人が大半だ。
仕事として「書籍の出版・流通・販売」にかかわっている人たちは、「背に腹は代えられない」ので、ヘイト本の流通を断固拒絶阻止するといった、積極的な行動に出ることはない。そして、その多くは、やがて「ヘイト本にも存在価値はある」とか「本屋は、選択肢を制限してはならない」などといった、もっともらしい「自己正当化による観念的自己回復」によって、自身の「不作為による現状追認」から目を背け、「自身の実像」からも目を背ける。一一著者が『出版界はアイヒマンだらけ』(P170)と評する所以である。

(※ 削除)

したがって、あなたが「本物の本好き」だと言うのなら、本書の問題提起と真摯に向き合い、自分に何ができるかを、本気で考えるべきである。
例えば、本書を書店の目立つところに移動させるくらいのレジスタンスなら、命まではとられないからやってみるといい。
これはジョークではない。そんなことすらも出来ないで、

『ただ腕組みをして眉間にしわを寄せ「難しい問題ですね」などとつぶやくだけでいいのか。』(P126)

ということだ。
これなど、まったく反吐が出そうなほどの「知識人ごっこ」「評論家ごっこ」的なセリフなのだが、しかし、これを地で行くしかない能のない人も多かろう。だが、それではいけないのだ。
私たちに出来ることはかぎられている。しかし、それをやろう。考え抜いて、やれることをやろう。著者にエールを送ろう。「抵抗の火を消してはならない」ではなく、私たちそれぞれが、本物の「本読み」の誇りにかけて、ひとつの「火」となって戦うべきだ。やれることは必ずある。

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(※ 「削除」部分は、政治的な立場から、当該書籍を読まないで酷評を投稿する人たちを具体的に批判した部分ですが、Amazon運営より「掲載できない」とのメールが届きましたので、当該部分を「削除」して再投稿します。「完全版」は、私の掲示板「アレクセイの花園」に、本日「2019年12月18日」付けで掲載しておりますので、そちらをご参照下さい。)

 

昔、田舎の小さな本屋さんには都会の大書店にはないような、オ~ッと思わせるような本が片隅に眠っていることがあった。それを見つけるのも一つの楽しみだった。しかし、今の田舎の本屋さんへ行っても、欲しい本などまったくと言っていいほどない。発行されたばかりの興味ある本はほとんど都会の大書店に独占されてしまい、あるのは何カ月か遅れの”ベストセラー”本など、賞味期限の切れた本ばかりである。これじゃあ、注文次の日には届くアマゾンに駆逐されても仕方ない。Kindleなどでも簡単に読めるし、何れ日本のほとんどの中小都市から本屋さんなんてものはなくなり、あるのはパチンコ店ばかりということになってしまうだろう。悲しい限りである。
 去年は田舎のどの小さな本屋さんをめぐっても、某極右作家の”歴史”と称する本が、”よく売れてます”などという手書きPOP付きで何ケ月も山積みになっていた。多分、都会の大書店では売れなくなったので、田舎へ流れてきたんだと思う。”少しは考えろよ””ええ加減にせえよ”と思わず言いそうになったが、オバちゃん店員さんも若者店員ちゃんも、本などあまり読んだことがない方たちばかり(レジでの私語内容を聞けばすぐにわかります)だったのでやめた。本書によれば、「ヘイト本にかかわる人びとはみなそれなりにアイヒマンである」そうだが、今の店員さんだって、「何も考えていない」という意味では、そのほとんどがアイヒマン的だし、もっと言えば日本国民の中でだって、アイヒマン指数?はここ十年ほどの間に飛躍的に高まっている。 
 というわけで、あんまり本の内容に関係ないことばかり書いてきたが、この本を読んで、日本というのがホントに悲しく、大変な国になりつつあるというのがよくわかりました。

 

気に入らないものを語るがあまり、結局自身がヘイトと同じ考え方の構図にはまっている。

出版と取次と書店の関係性に歪みがあるのはヘイト本に限るものではない。
ゆがんでいるのは、社会全体にお金が回らなくなっている中で、
古い構造を維持しようとするがあまりに要否関係なく配本がされるから。

ヘイト本自体への問題視、ならそれだけを論じればいいし、
出版を取り巻く構造を叩きたいのであればそれだけを論じればいい。

ヘイト本がなくなっても要否に関係ない配本が続く限りは、著者の言う「素敵な本屋」は作れないのではないか。
ヘイト本を用いることで著者自身が叩かれないようにしたかったんだろうが、雑な話になってしまっている。

 

 


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